第三章 第一節「香月瑞菜」
2037年09月08日(火)
星野新は東京シティ大学のキャンパスにいた。東京シティ大学はスピリッツ社が設立した私立大学で、サテライトシティ 東京の中心部に位置し、総敷地面積100万平方メートル、生徒数約4万人、研究者約1万人の巨大な研究施設だった。中でも中央研究棟は地上634m、地下20階、地上250階だてでサテライトシティ 東京のランドマークとなっていた。
こちらに移住してきた人の多くがなんらかのモノ作りや研究、スポーツなどの趣味に没頭していた。星野がこちらにきていなければ65歳の自由を失った体と、生活することすらままならないささやかな年金で、残りの人生を若かりし頃の思い出と共に惰性で生きていたことだろう。しかし、こちらの世界は違っていた。高水準の生活が無料で保障され、生活のために仕事をする必要がなくなった。週五日働いていた頃に比べて毎日がお休みなので自由にできる時間が三倍以上になった。なにもせずに家に閉じこもってダラダラと過ごす人もわずかばかりいるらしいが、多くは若返った体で人生を楽しんでいた。
星野は噴水前の芝生に据えられたベンチに座り、タブレットに映しだされた分子生物学の教科書を読んでいた。こんなに難しい本を自分が読むことになるとは、こちらにくるまで夢にも思っていなかったが、不思議と内容が理解できた。教科書といっても昔とは違い、動画や図などを用いてわかりやすく説明してくれるし、なによりパターン化された娯楽映画やテレビ番組よりも、よほど刺激にみちていて面白かった。
大学入試試験は久しぶりに緊張したが、猛勉強の成果もありなんとか合格できた。合格発表日の夜に飯塚達が開いてくれたパーティは忘れられない思い出の一つになった。こちらにきてまだ二カ月もたっていなかったが、すっかり若者としての生活になじんでいた。星野は良い友達ができたおかげだと感謝した。
ふと空を見上げると太陽の光が星野の目をいた。まぶしさで一瞬、目がくらんでなにも見えなくなった。まぶたを閉じて回復を待ってからゆっくりと目を開くと、噴水の石垣に腰かけている女の子と目が合った。星野は軽く会釈をしてから、彼女が同じクラスの子であることに気づいた。大学では勉強に集中したかったのと、教室にいる女の子は全員が美人だったので取り立てて彼女に興味がわかなかった。
彼女はあいさつを返すことなく無表情で、ただ目の前を通る人をボーっと観察するかのように座っていた。星野はこちらに気づいていないのだろうと思い、再びタブレットに向かった。2、3時間ほど勉強し、さすがに集中力も切れてきたのと日が陰ってきたので、帰ろうかと目をあげると彼女が前と同じ場所に姿勢を変えずに座っていた。こんなに長い時間、なにをしているのだろう。星野は不思議に思ってしばらく観察してみたが、彼女は表情一つ変えずにブロンズ像のようにただ座り続けるだけだった。星野はタブレットをかばんにしまうと立ちあがって彼女の所まで歩き、声をかけてみた。
「こんにちは。同じクラスだよね。なにをしているの?」
彼女は相変わらず無表情なまま、顔をあげることもなく抑揚のない声で答えた。
「前を通る人を見ています」
星野はまるで存在感を感じさせないというか生命感を感じさせないというか、とにかく変わった人だなとと思った。相手にされていないみたいなので、このまま立ち去ろうかとも思ったが、少し気になって名のってみた。
「星野新です。みんなはシンって呼ぶけど」
彼女は初めて顔をあげて星野を見たが、やはり無表情のまま答えた。
「香月瑞菜(こうずきみずな)です。なにか御用ですか」
瑞菜と名乗った彼女のすんだ瞳を見て、星野は吸い込まれそうな不思議な感覚に襲われた。
「特に用はないんだけど。人を見てて楽しいの?」
瑞菜は星野を観察するように頭から足元まで眺めてから再び顔をあげた。
「はい。とても」
星野は彼女に少し興味をいだきつつあった。
「そこに座ってもいいかな」
瑞菜は興味がなさそうに素っ気なく「どうぞ」と答えた。
星野は彼女の横に座った。
「いつもここにいるの?」
瑞菜は相変わらず前を向いたまま、さっきまで星野が座っていたベンチを指さした。
「ええ。星野さんもいつもあそこにいますね」
星野は、晴れていて講義がない時間はいつもそのベンチに座って自習をしていた。ちょうど、木陰になっていて時折、風が抜ける感じが好きだった。
星野はこの数日、ほぼ毎日、彼女と向かい合って座っていたことになる。なんで今まで彼女を気にとめなかったのだろうと不思議に思った。道端に咲いた名も知らない小さな花を誰も気にしないように、ひっそりと自然の中に溶け込んでいる彼女の姿を思い出した。瑞菜が横を向いて彼の顔を見た。
「そろそろ日が暮れますね」
サテライトシティ東京の気候は現実世界の東京にあわせてあった。九月に入ると夕暮時は少し肌寒くなってくる。星野は、この後、特にやることがなかったのでダメもとで彼女を夕食に誘ってみることにした。
「もし良かったらだけど、ご飯でもいかない」
瑞菜は星野を見つめて不思議そうな顔をしてから、少しほほ笑んだ。
「いいですよ。誘っていただいてありがとうございます」
星野は初めて見る彼女の笑みがとてもすてきだなと素直に思った。
星野と瑞菜は大学を出て、そばにあった『大衆居酒屋 のんき』と書かれた小さな居酒屋ののれんをくぐった。すりガラスをはめこんだ木枠の窓、黄色い光を放つ裸電球。油性のフェルトペンで書いた手書きのメニュー表と、すすけたビール会社のポスターが壁に貼られていた。天井付近に渡された木製の長押には観光地の名前が記されたミニちょうちんがずらりと並んでいた。星野はミニちょうちんを見て、昔、彼の父が集めていたのを思い出して懐かしく思った。
店内は新入生の歓迎会があちらこちらでもよおされており、学生たちでにぎわっていた。二人は騒がしさをさけるため、奥の空いているテーブル席に向かった。木製の座面に小さな座布団がくくりつけてある椅子を引いて座った。割ぽう着を着た女の子が注文を取りにきた。
「ご注文は」
星野は瑞菜に尋ねた。
「取りあえずビールでいい」
星野は瑞菜が小さくうなづくのを確認して、割ぽう着の女の子に言った。
「取りあえず生ビール二つ」
割ぽう着の女の子はにぎやかな学生たちに負けない様に威勢のいい声をあげて、厨房に向かって注文を通した。
「生二つ」
程なくして、クリーム状のキメ細かい泡を乗せたビールジョッキが二つ、運ばれてきた。傷や曇りのない透明なジョッキの中では、注がれたビールが氷の結晶になって舞っていた。キンキンに冷えた日本人好みのビール。それだけ見ても店主やお店のスタッフのこだわりが感じられた。むこうの世界で星野が学生だった頃の近所の居酒屋とは質の違いを感じずにはいられなかった。これなら料理も期待できると星野は安心した。二人はジョッキを持って乾杯した。
喉がなる感覚が心地よかった。星野はビールを半分くらい一気に飲んだ。
「ふー。やっぱり一口目のビールは格別だね」
瑞菜の顔を見ると眉間にしわを寄せていた。星野は心配になって尋ねた。
「ごめん。ビールは苦手だった」
瑞菜は口に含んだビールをごくりと飲み干した。
「ごめんなさい。ビールを飲むのは初めてだったから。こんなに苦いとは思わなかったです」
星野はビールを飲んだことないなんて本当に変わった人だなと思った。
「本当に初めてなの?」
瑞菜は星野の顔を見た。
「はい。生まれて初めてです。飲み方を教えてください」
星野はビールの飲み方なんて問われるのは初めてだったし、飲み方を教えた経験もなかったので戸惑いながら説明した。
「えーっと。口に含んだら苦く感じるので、グラスに口をつけたら一気に喉から胃に流し込む感じかなー。こうやって」
星野は残ったビールを飲み干して見せた。瑞菜は目を大きくして見つめた。
「こう?」
瑞菜は今度は星野を真似て迷うことなくジョッキのビールを喉に流し込んで、半分ほど飲んだ。
「ふー」
上唇の上の産毛に泡がついてお決まりの「ひげ」ができていた。星野は思わず笑った。瑞菜は星野の笑いを見て、不安そうにたずねた。
「どこか間違っていますか」
星野はかばんからタブレットを取り出して、写真を撮って彼女に見せた。星野は瑞菜がそれを見て笑うことを期待したが、彼女は真剣そうな顔をして言った。
「ビールの泡が顔についてます」
星野は本当に変わった人だなと思った。
「女の子はビールの泡が口についたら恥ずかしいと思うのが普通だし、飲み終わった後に「ふー」とか言わないものだよ」
瑞菜は真面目に答えた。
「男の子と女の子はビールを飲み終わった後のマナーが違うんですね。勉強になります」
星野は堅苦しい彼女の表現に戸惑った。
「マナーというか恥じらいというか」
星野は説明しようと思ったが、ビールの酔いもあり、だんだんと可笑しくなってきて思わず笑ってしまった。
「瑞菜さんて本当に面白い人ですね」
瑞菜は言葉の意味がのみ込めずに言った。
「私、そんなに可笑しいですか。そうなんですか。私、変ですかね」
星野はメニューを彼女に示した。
「ごめん。そんなに真剣に受け取らなくても。無理して飲まなくても良いよ。なにか食べたいものはある?」
瑞菜はメニューを見たが、困った表情を浮かべた。
「良く分からないから星野さんの好みで頼んでください。あ、もう少しビールを試してみたいのでお代わりをお願いします」
瑞菜は残ったビールを喉に流し込んだ。
「ふー」
星野はそれを聞いてとても純粋な人なんだなと思った。瑞菜は頬を少し赤くして恥ずかしそうだった。
「なんか、どうしても「ふー」って言っちゃいますね」
星野は割ぽう着の女の子が近くを通ったのでビールを追加で注文し、お店のおすすめ料理をいくつかたのんだ。料理が運ばれてくると瑞菜はどれもおいしそうに食べた。星野はこの店の店主も名の知れた料理人なんだろうと思った。焼き鳥もおでんも手間をかけて丁寧に作られていたし、お造りに至っては新鮮な味もさながら、芸術と呼べる域の美しい盛りつけに目を奪われた。料理のできばえにも感心したが、なによりそれを心からおいしそうに口に運ぶ、彼女の姿を見ているのが心地よかった。
彼女は料理を食べる前に必ず星野に「どうやって食べたらおいしいのか」と説明を求めた。星野は焼き鳥はタレが口のまわりにつくのは気にせずに、串にかぶりつく方がおいしいとか、おでんは箸で割って辛子をのせて食べるとか教えた。彼女は楽しそうに星野の話を聞き、それを試した。でてきた料理のおいしい食べ方をひととおり説明し終わると二人ともほろ酔い加減で打ち解けていた。
星野は、「おいしいものは人を幸せにするね」と言った。
彼女は微笑みながら、「はい。幸せな気分がどんなものか少しわかりました」と答えた。その後も二人は小一時間ほど話で会話をつまみにビールを飲んだ。
瑞菜は、
「男の人はなんでネクタイをするの?」
「女の人はアレルギーのリスクがあるのになんでピアスをするの?」
「なぜ怖いといいながらジェットコースターに乗るの?」
「確立を考えれば絶対に損をする宝くじを買うの?」
「偶然の一致でしか当たらない占いを信じるの?」
「道路はなんで最短距離で真っすぐつくらずに曲がったままなの?」
「ベジタリアンは動物がかわいそうといって野菜を食べるの?野菜だって生き物なのに」
など、星野が今まで考えてもみなかった事ばかりたずねてきた。
星野は面白い子だなと思いながらも、彼なりに一緒に真剣に考えた。二人が最後にいきついた答えは、「人間は知恵があるのに全然、合理的じゃない不思議な生き物」だということだった。
瑞菜はゆで立ての枝豆をつまみながらたずねた。
「じゃあ、人類はどうしてこのままなら住めなくなるのがわかっていて、地球を汚すの?」
星野はしばらく考えた。
「一人一人は人類が滅んでも良いなんて思ってないと思うけど、生活の便利さは捨てられないし、自分じゃなにもできないから、だれかもっと偉い人が考えてくれていると思い込みたいんじゃないかな」
瑞菜は星野の言葉で結論づけた。
「人間は不合理にプラスして、自己中心的な知的生物ってことですね」
星野は言った。
「うーん。そうだね。矛盾した生き物かもしれない。むこうの世界にいた時は暮らしていくことで精いっぱいで、毎日の忙しさを言い訳に難しいことは棚上げにしてたけど、こちらにきて感じたことがあるんだ。人のためになにかができることは幸せだと思う。タダでお店をやったり、モノをつくってあげたり、こちらの世界で目的を見つけた人は本当に楽しそう。僕にはそれがないから、今、大学にかよっているんだ。今日は瑞菜さんとお話できてとても楽しかったです。また、会ってくれませんか」
瑞菜は星野の言葉で、なにかを思い出したのか急に悲しそうな顔をした。
「星野さん。私にはむこうの世界での記憶がありません。自分がどこで生まれて、どんな暮らしをして、こちらの世界にきたのかどうしても思い出せません。カウンセラーの人は急に環境が大きく変わると、まれにおこる現象だからあせらずに気楽に過ごしていれば、いずれ思い出すと言うけどとても不安です。だから授業のない時間はああして、噴水の石垣に腰かけて目の前を通る人を見ています。この人はどんな暮らしをしてきたのだろうか。もしかしたら昔の私を知っているかもって。ばかですよね。例え昔の知り合いでも、私の顔も変わってしまっているので誰も気づかないですよね。星野さんに誘っていただいて本当に楽しかったです。こちらこそよろしくお願いします」
星野は大学での彼女が無表情だったのを理解した。彼自身こちらの世界で暮らせば暮らすほど、あちらの世界での出来事が現実だったのか曖昧になった。ほとんど良い思い出なんかなかったが、一人で眠る夜は急に寂しさを感じることがあった。そんな時に昔の楽しかった思い出は彼の支えになった。つらいことを忘れられるのは良いが、楽しかった記憶が一つもない彼女の寂しさを思い浮かべた。
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