第三章 第三節「ウインターリゾート」
2037年10月01日(木)
星野新は瑞菜と飯塚、チエの四人で『フォーシーズンリゾート』が運営するスキー場にきていた。サテライトシティ東京の地下には地上と同じくらい巨大なドーム状の空間があり、北側が北海道の冬を再現したウインターリゾート、東側が長野の春を再現したスプリングリゾート、南側が沖縄の夏を再現したサマーリゾート、西側が京都の秋を再現したオータムリゾートとなっていた。一年中、四季のスポーツや観光、娯楽などが楽しめた。もちろん施設は地上と同じく、すべて無料でボランティアの人々で運営されていた。ボランティアといっても、そのサービスの質の高さは地球上のどのリゾート施設より一流だった。各種スポーツのインストラクターは、かつてプロとして活躍した人が多かった。レストランや料亭も、ホテルマンでさえ、その道を極めたいと思っている人たちばかりだった。
まだ環境の破壊が進む前に生まれ、四季の楽しみを知っている彼らには、20世紀の自然を再現したこのリゾート地は、地球に暮らしていては手に入らないとてもぜいたくな場所だった。地球温暖化で失われたパウダースノーのゲレンデ。環境汚染で絶滅したサンゴや熱帯魚が泳ぐダイビングスポット。食糧危機で口にできなくなったとれたての四季の味覚。この失われた世界に生活の拠点をおき、ボランティアで暮らしている人たちも数多くいた。
チエはここでマラソンのインストラクターとしての生活を始めようとしていた。飯塚はモノ作りにのめり込んでいたし、ツキはピアノの世界で既に一流の仲間入りを果たしていた。それぞれが自分の居場所を見つけて新しい生活を歩みだしていた。星野は少しあせりを感じていたが、大学に通い瑞菜と出会ってからは研究者の道に進むのも悪くないと思い始めていた。星野は自分の性格を「現実主義で臆病。慎重すぎて出遅れてチャンスを逃す駄目な性格」と思っていたが、瑞菜は彼のそんなところがむしろ、じっくりと考える研究者にうってつけだと褒めてくれた。
スキー場について電車の窓から雪が見えた途端、瑞菜は雪を見るのが初めてだと語って子供みたいに無邪気にはしゃいだ。ドアが開くと真っ先に飛び降りて、雪を手に取った。
「冷たいし、寒い。どうしてこんなに寒いの」
彼女は雪を放り投げるとホテルに逃げ込んだ。星野は彼女のバッグを抱えて追いかけた。久しぶりの雪で足元が滑って思うように歩けない。なんとか追いつくと、瑞菜はロビーに設置された暖炉の前から動こうとしなかった。
「変ですやっぱり。わざわざ寒い思いをして、坂道をくだるだけのスポーツなんて、単なる労働です。人間ってやっぱり矛盾しています」
「だよね。僕も昔、学生のころだったと思うけど初めてスキーに誘われた時は、瑞菜さんと同じことを考えて本当にゆううつだった。でも、ゲレンデに出てみて、みんなが大金を惜しまず、またスキーにいきたがる気持ちがよくわかったよ。とても楽しかったから。せっかくきたのだから一度も経験せずに帰るのは人生、損するよ。一度試してつまらなかったら、早めに切り上げて一緒においしい物でも食べよう」
あとから飯塚とチエが追ってきた。飯塚は瑞菜の様子を見て言った。
「随分と変わったね。初めて会った時は、ある意味、物静かで大人の女性って感じがしたけど。あれじゃあ、チエちゃんの出番がないね」
チエはそれを聞いてむくれて見せた。三人は嫌がる瑞菜を引き連れてなんとかゴンドラに乗って山頂に到着した。太陽の日差しを受けてきらめく山々の光景は神々しささえ感じられた。星野はもう何十年もスキーから離れていたので、昔の様に滑れるか自信がなかった。彼は瑞菜が初心者で良かったと思った。スポーツ万能の飯塚と日頃からマラソンで鍛えているチエは、あっという間に曲がりくねった林間コースを滑り降りていった。取り残された星野はスキー板を八の字にして、瑞菜にボーゲンを教えながらゆっくりと雪の坂をくだった。
なんどか転んで雪まみれになっている瑞菜をみて、早々に引きあげることになるかと思った。しかし、彼女は思いの外のみ込みが早く、すぐに転ばなくなった。そればかりかほんの10分も滑ると、見よう見まねでパラレルターンを習得していた。星野は理系女子だと思っていた瑞菜の意外な側面を発見してスキーに誘ってよかったと思った。彼自身も昔の感覚が思いのほか戻るのが早かったので瑞菜の後ろについて少しスピードを上げた。
ウインターリゾートのスキー場は地下とは思えないくらい広大で、コースも良く整備された本格的なものだった。地球上であればオリンピックも十分に開催できる立派な施設だった。あちらこちらで大会が開かれていた。パウダースノーの雪質はスキー板にまとわりつくことなく快適だった。瑞菜がスピードをあげた。星野も負けないようにスピードをあげて彼女の前にでた。少し離れ過ぎかなと思ってスピードを緩めて、後ろを振り返ると、後にぴったりとついてきていた瑞菜が星野を追い越していった。前をいく瑞菜はギャップを器用に乗り越えるまでになっていた。
なんとか追い着くと、瑞菜は上級者コースを通って近道し、林間コースを回っている飯塚とチエを追い越したいと言いだした。二人は上級者コースの手前で止まった。上から見下ろすと崖のように感じられた。彼女は一瞬、ちゅうちょしたが、初めて木の上の巣から飛び立つひな鳥のように果敢に崖をくだっていった。星野は「まいったな」とつぶやいて、彼女の後を追った。舞い上がる雪が二人を包み込む。風が火照った頬を鎮める。45年の歳月をさかのぼり、六十五歳の星野は身も心も二十歳の星野に戻っていた。
瑞菜は、途中、何度か転んだもののずぐに立ちあがって滑り出した。星野もそれに続く。瑞菜を追い越し、膝をバネにしてギャップを抑え込むようにして、さらに加速する。調子に乗ってきたと気を緩めた瞬間、踏み損ねたギャップがジャンプ台となって星野の体は宙を舞い、そのまま20メートルほどコースの下まで転がった。雪のクッションの中に突っ込んでようやく回転が止まった。雪に寝そべって空を見上げた。理由もなく笑いが込みあげてきた。星野は声をあげて笑った。スキー服の中やブーツの中にまで雪が入り込んできていたが、興奮した体にはむしろ心地よかった。
瑞菜が星野のもとまで降りてきて、彼の顔をのぞき込むようにして「大丈夫」と笑いながらたずねた。こちらの世界ではどんな無茶をしてもけがをすることはなかった。彼はフリークライミングでそれを知っていたし、彼女も理解していた。星野は瑞菜の顔を見返して、「飛んだね」と言った。瑞菜も「ええ。飛びました」と返した。二人は腹の底から笑った。
その後も二人は競い合いながらコースをくだった。ゴンドラ乗り場まで戻ってくると板を外して雪に突き刺し、飯塚とチエを待った。しばらくすると二人の姿が見えてきた。星野と瑞菜は彼らに手を振った。遠くでも飯塚とチエの驚く様子がわかった。飯塚は星野と瑞菜の目の前まで減速せず、直前でスキー板を横にして急停止した。板に弾かれた大量の雪が勢いよく舞いあがり、休んでいる星野と瑞菜に降りかかった。それを見たチエは飯塚の手前で急停止して、三人に雪の津波を浴びせた。四人の笑い声がゲレンデに響き渡った。雪まみれになった飯塚が、「で、どんな魔法を使ったの」と星野と瑞菜に尋ねた。二人は顔を見合わせてから声をそろえて「飛んできた」と答えた。
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