第二章 第三節「受験勉強」

 2037年08月17日(月)


 星野新は五十階建ての高層マンションの部屋で、宮内遥がタブレットに送ってくれた大学受験のアプリと格闘していた。勉強なんてここ何十年もしたことがなかった。それでも社会人として暮らしてこれたのだから多少の自信はあったが、いざ始めてみると当てが外れた。自分がなにも知らない無知人間だと思い知らされた。大学出の新入社員に向かって「こんなことも知らないのか」と不満に思ったことが恥ずかしくなった。

 星野は理系の大学を狙っていたので高校の生物を学び直していた。四十年以上前に彼が大学で専攻したのは文系の経済学部だったので方向性がまるで違っていた。当時は生物なんて大学受験になんの役にも立たないと思っていたので、まったく興味が持てなかった。その上、サラリーマンとして過ごした彼の人生において高校で習うような生物も物理も数学もほとんど必要としなかった。あんなことを学ぶことに無駄な時間を使ったと高校の教師を呪ったくらいだった。しかし、語学についてはもっと学んで置くべきだったと反省した。今では携帯端末のAIが同時通訳してくれるのでなんの問題もなくなったが、星野が大学を出たころは携帯電話すら普及していなかった。

 現代の受験勉強の仕方は星野が学生だった時代から大きく進歩していた。タブレットのアプリを起動するとAIが彼の学習能力を分析し、最適なカリキュラムをつくりだして彼を指導した。必要があれば3Dゴーグルをつけて立体で学習することができた。居眠りをしてチョークが飛んでくるなんてマンガのようなこともないし、そもそも退屈しないようにゲーム感覚で遊んで学べるようになっていた。

 星野が高校生だった頃は、高校は受験のための予備校のようなもので、クラスメイトは友達というよりライバルだった。彼は少しでもうえのクラスに進級できるように必死に受験勉強をした。なんとか少しは名の知れた大学に籍を置くことができたが、それとて就職のための準備期間でしかなく、就職試験に向けたうわべだけの知識をつめ込むだけだった。

 現在の学校の役割はコミュニケーションを通して社会性を学ぶ場となっており、教師は授業をするというよりカウンセラーのような存在だった。大学は研究機関の色合いが増し、発想力が求められた。彼がやった勉強は単なる暗記で、タブレット一つあればすむ無意味な知識でしかなかった。

 星野はこちらにきてから自分の人生とは無縁だと思っていたことばかり手をだしているような気がした。脳だけになって自分でも気づかなかった一面が目覚めたのか、若い肉体の感覚がそうさせるのかわからなかったが、彼は少しずつ変わっていく自分を意識していた。未知の世界に触れて世界が広がる楽しみを知りはじめていた。「これもある意味、冒険だな」と彼は感じていた。

 星野が、少し疲れてきたことを感じ取ったAIが休憩を宣告した時に、タイミングが良く玄関のチャイムが鳴った。

ピンポン

 星野はタブレットの画像を玄関前に切り替えて訪問者を確認した。飯塚とチエが玄関のカメラをのぞき込むように立っていた。星野は慌てて机のまわりのゴミを片づけ、パジャマを脱いでクローゼットに取りつけられたオートクリーニング機に投げ込んだ。外着に着替えて、タブレットの画面を鏡モードに切り替えて髪を整えた。

 星野の部屋には最新の設備がそろっていたが、片づけや掃除をなぜ自分でしなければいけないのか疑問だった。仮想現実なのだからかけ声一つでゴミが目の前から消えて、着替えが完了しても良いではないかと不満に感じていた。あごに手をあてるとひげが随分と伸びているのも不満だった。しかし、時間がないので玄関に向かい、ロックを外した。自動ドアが音もなく左右に開いた。

「こんにちは」

 飯塚とチエの二人だと思っていたら後ろからツキが現れたのでひげをそっておくべきだったと反省した。星野のひげを見てチエが意地悪そうに言った。

「シン。最近、付き合いが悪くない。私たちに内緒で、家にこもって一人でコソコソなにしてるのかなー」

事情を知っている飯塚が代わりに答えた。

「シンは受験勉強してるんだよな。大学に入り直すんだって」

チエはフーンという顔をして、後ろにいたツキの手を引いて前に引き出した。

「それでツキにも冷たいんだ」

ツキはバツの悪そうな顔でしたを向いていた。星野はここ一週間ほど勉強に明け暮れたので彼らと連絡を取っていなかった。飯塚が手に持ったワインを星野に差し出してからチエに言った。

「まあまあ。ツキはすっかり売れっ子のピアニストなんだし、たまたま休みが取れたのでサプライズだと言いだしたのはおまえだろ」

チエは舌を出して見せた。

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