第二章 第二節「フリークライミング」
2037年08月10日(月)
星野新は高さ五十四メートルの切り立った断崖にはりついていた。オフィスビルだとちょうど十二階だてに相当する高さだ。岩肌の微かな起伏に左手と両足の三点を固定し、空いた右手を上に伸ばしてつかめるところを探した。右手が固定できたら左手、その次は右足、続いて左足。星野はひたすらそれを繰り返して三十メートルほど岩場を登った。もう引き返すより登り切った方が安全だ。下を見ると目がくらみ、手足が震えて一歩も動けなくなった。仮想現実世界だから落ちても死なないことはわかっていたが、それでも恐怖に打ち勝つのは容易ではなかった。
この世界にくるまでの星野なら絶対に考えられない馬鹿げた行為だった。フリークライミングなんて危険なスポーツがなぜ存在するか疑問でならなかった。岩場を登ることになんの生産性もなかったし、登りきったとしても登山ほど雄大な景色が待っているとは思えなかった。エレベーターがあればほんの数分でたどりつける高さを命がけで登るなんてナンセンスだった。
「どうしてこんな所にいるのだろう。度胸試し。それとも自殺願望」
そんな事を考えた一瞬、彼の右足を支えていた岩が崩れ落ちた。
「やばい」
星野は左指に全身の力を集中して辛うじてバランスをたもった。シャツの右肘がやぶれ、肌が露出して出血したのがわかった。彼は座って休憩できそうな岩場を探した。五メートルほど横に三十センチほどの手ごろな出っ張りを見つけてホッとした。意識を集中してゆっくりとそこに向かった。
岩に座り込み右肘を確認した。血痕は気になったが傷口はすっかり元通りになっていた。仮想現実世界ではみな超人だった。どんなに深い傷を負っても数分で傷が消えた。星野はポケットティッシュくらいの大きさの携帯用万能テープを取りだして、ちぎってやぶれたシャツに貼りつけた。多少動きにくくなったが、これで岩に触れて痛い思いをせずに済む。
星野は万能テープをしげしげと眺めた。透明な布テープを薄い紙に巻きつけただけの品物みたいだが旅行やスポーツには打ってつけだった。スーツケースの鍵が壊れた時や靴がやぶれた時、荷物が多い時などは巻きつけて持ち手も作れた。防水性で耐久性もあるのでいざとなったらロープ代わりにもなると説明書に記してあった。
「だれがこんなものを考えたのだろう」
世の中、いろいろな道具がつられてどんどん便利になっていく。こちらにきて知ったのだが、今では発明品の多くがこちらの世界で考案され、アイデアは現実世界に輸出されていた。『サテライトシティ』の収入源の一つが発明にあるといわれていた。こちらの世界ではすべてが無料だが、月面に建設された施設は現実なので、運営には莫大なお金が必要となっていた。それだけ考えても、こちらの世界からの知的財産の輸出が大規模であることがうかがいしれた。星野は戻ったらこれを発明した人にお礼のメールを打とうと思った。
若返った二十歳の体は、少し休んだだけで体力を取り戻した。星野は再び岩場に取りついて、今度は無心で登った。集中すると五感が研ぎ澄まされていくのがわかった。岩肌の色や湿り気、指先の感覚、音の違い一つで岩の固さがわかった。風の匂いや空気の味まで感じ取れた。自分の鼓動や汗の匂いでペースをたもった。チョークを手足につけながら滑りをおさえて、少しずつ、少しずつ確実にうえに向かって登っていった。
ようやく最上部の岩に手が届いた。星野は両手で岩をとらえると一気に体を持ち上げた。熱狂的な興奮が襲ってくるかと思ったが不思議と静かな達成感が全身をめぐるだけだった。
星野は一人、誰もいないわずか1メートル四方もない岩場に腰を掛けて眼下を見下ろしていた。海のように広がる木々の緑をわけるように流れる沢が日の光に照らされて輝いて見えた。上空を飛ぶトビが一声鳴いた。研ぎ澄まされた意識の中で、今までの彼の人生の出来事がパノラマ映画のように脳裏をめぐった。彼は思った。
「なんだ。そんなことか。人生の意味なんて最初からなかったんだ。むこうの世界にもこちらの世界にも。ただ岩を登ることと同じだ。どんなに有名になっても、どんなに金持ちになっても人は満たされない。新しい岩が無限にあるのと同じなんだ」
星野は岩のうえに立ちあがってみた。高さで目がくらんだ。人生が無意味とわかっても足が震えた。心臓の鼓動が高鳴り、脇の下を冷や汗がつたった。彼が生きている証拠といいたかったが、ここは仮想現実世界で、本当の彼の姿はチューブにつながれて『スカル』の中で夢を見続ける脳だけの存在だった。星野は山に向かって叫んだ。
「それでも僕は生きている」
彼の叫びが山々を木霊していった。意味なんて求めても仕方ない。戻ったらやりたいことを探そう。それが生きているということだから。まずは大学にでもいこう。まだまだ知らないことが多すぎる。星野はポケットから携帯端末を取り出すとサテライトゲートでカウンセリングをしてくれた宮内遥にメールを打った。
「宮内さん、こんにちは。星野新です。こちらにきて色々考えましたが、まだまだ勉強不足で、いまだにやるべきことが見つかっていません。大学で学び直そうと思います。どこかおすすめの大学はありませんか」
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