第二章 第一節「新しい世界」

 2037年08月03日(月)


 星野新はロードバイクでサテライトシティ東京を走り回っていた。シティ内の大きさは山手線の内側くらいの面積だったので、街中を探検するには自転車がほど良かった。自動車だと通り過ぎてしまったり、地下鉄では全体が把握しにくかった。そしてなにより自転車の良いところは、街の人と気軽にコミュニケーションが取れるところだった。サテライトシティ東京の人口の七割以上が二十歳前後に見えた。街をゆきかう人々は活気があり、さながら学園都市で暮らしているようなものだった。

 ペダルをこいで自分の足で風を切って走る感覚はそうかいだった。子供の時にはじめて自転車を手にした時、世界が広がる感覚にドキドキした。もうなん十年も忘れていた感覚だった。裏通りを走るとカフェやお店だけでなく小さな町工場がいくつもあった。星野は工場を見つけるとロードバイクを止めて、仕事ぶりを見せてもらった。このロードバイクもそうした町工場から手に入れたものだった。

 星野は裏通りの細い路地を走った。この街には電柱がないので走りやすかった。少し走るとイタリア語で『ノーヴァ』と書かれた看板の小さな工場があった。町工場といっても、とてもきれいなたたずまいで、まるで芸術家の工房といった感じだ。中にはつくりかけの自転車のパーツや工具が整理されて置いてあった。星野はロードバイクを止めて、工場の中に声を掛けた。

「こんにちは。三国(みくに)さん」

中で金属パイプの溶接をしていた青年が手を止めて、溶接用のゴーグルを跳ねあげて言った。

「おう。シンじゃないか。バイクの調子はどう」

星野は笑顔で答えた。

「とっても快適だよ。近くを通りかかったから寄ってみた」

三国は自転車のフレームを示して楽しそうに言った。

「今、新作に取り掛かっているので、ちょっと忙しいんだ。完成したら試し乗りにきな。連絡するよ」

「楽しみだね。じゃあまたくるよ」

星野はロードバイクにまたがるとペダルを蹴って工場をあとにした。

 オーシャンパラダイス号の『やまむら』で出会った山村泉一シェフもそうだったが、こちらの世界ではなにかを作り出したり、研究するには最適な場所だった。仮想現実なので、高級な材料や希少価値の高い原料が無尽蔵に手に入ったし、老いることのない若い肉体は創造力を後押しした。人気のある品物やレストラン、劇場などは予約や順番待ちが必要だったが基本的にお金はいらなかった。

 こちらにきた当初は、どこにいってもお金を払う必要のない世界に、星野は戸惑いを感じた。もちろん事前の知識としては知っていたが、彼が暮らしていた元の世界では、日常を暮らしていくうえでお金は欠かせないものだった。暮らし始めてしばらくは、お店で物を手にして、代金を支払わずにでていくのに後ろめたさを感じた。こちらの世界では「これ、いただいていくね。ありがとう」でなんでも手に入ったし、感謝の気持ちが代金だった。

 この街には銀行もATMもレジもなかった。それだけでなく、警察も裁判所も刑務所も消防署も病院もなかった。事故や犯罪、病気やけがが存在しないからだ。平和でなんでも手に入る世界。ここは人類がつくりだしたまさに天国といえた。

 それでも道の譲り合いや順番待ちなど、ささいなことでトラブルが起きることはあった。そんな時は、まわりの人が不快に感じるとペナルティとして『セキュリティコード』が働き、当事者が冷静になるまでの四時間、本人を消し去るだけだった。

 星野は裏通りを抜けて、海沿いの表通りにでた。お気に入りのカフェの前で止まって、入り口の看板横に無造作にロードバイクを止めた。もちろん鍵なんてかけないし、星野のロードバイクにはロック機構そのものがなかった。

 カフェのテラスで待っていた飯塚とチエが手を振っていた。飯塚が星野の新しいロードバイクを指さした。

「シン。それ、ノーヴァ社のだよね」

星野は自慢そうに、「正解。山本三国(やまもとみくに)さんって人に作ってもらったんだ」と答えた。飯塚がロードバイクの側までやってきた。

「すごい。注文しても三年待ちって聞いたけど」

「マンションの近くを探索してたら、近所の路地裏に工房があって、いろいろ見せてもらっていたら、仲良くなってつってくれた。名前が気に入っているんだ。『ノーヴァ』が新星って意味だって教えてもらって。ほら、俺、星野新だし」

飯塚は驚いた顔でうらやましそうに言った。

「良いなー。あの伝説の山本三国さんに会えるなんて。こんど紹介してよ」

星野は自慢そうに答えた。

「いいよ。商売にしないなら」

飯塚はおどけて自分のひたいをチョンとたたいた。

「僕が手助けしなくても、ノーヴァ社は十分に有名だよ。創業者の三国さんは『サテライトシティ パリ』のイタリア行政区に移住までして、イタリアの職人から自転車作りを学んで東京に戻ってノーヴァ社を設立したんだって。彼の設計図を基にリアル世界でも量産されていて、去年あたりから日本でもブレイクしているよ。リアル世界では材料費が高いから一台三百万円以上で取引されているけど」

金額を聞いてチエがビックリして言った。

「三百万円。そこそこの車が買えるわね。たかが自転車なのに」

飯塚はチエの方に向き直った。

「おまえが履いているカスタムメイドのシューズだってサテライトシティ 東京発の超有名ブランドで、リアル世界で買ったら五十万円じゃ足りないよ」

チエは足元を見て驚いた。

「どおりでなんか足にピッタリするっていうか、素足で走っているみたいだと思った。すごいんだね」

「あまり知られてないけど、今じゃリアル世界で研究してモノ作りするより、仮想世界で研究して、リアル世界で量産するのがヒットの定石になりつつあるんだ。家電や自動車、ロボットなどの物だけじゃない。料理のレシピや映画、絵画や音楽などの美術品から、アイドルやアニメなどのサブカルチャーまでサテライトシティ東京から発信されているんだ。サテライトシティの運営母体であるスピリッツ社が最初の都市としてニューヨーク、東京、パリの三都市を選んだのは単に人口の過密が著しい場所という理由だけじゃないんだ。移住者が生み出す特許や著作権はサテライトシティを維持拡大するために必要な資源そのものなんだ」

 チエは飯塚のうん蓄話がまた始まったというあきれ顔で星野を見た。星野は腕時計を見て飯塚に言った。

「カズ。急がないとツキのコンサートに送れるよ」

飯塚は慌ててテラスに戻ると、テーブルに乗ったコーヒーの残りを一気に飲み干すと奥に居た女主人に手をあげて言った。

「今日のブルーマウンテンも最高だよ。ごちそうさま。じゃあまた」

チエも皿に残ったパンケーキを頬張ってから、紅茶で流し込んだ。

「パンケーキの蜂蜜とってもおいしかった。今度、なんの花から取ったか教えて」

星野は二人の仕草にほほ笑んでいる彼女に向かって言った。

「今日はごめん。明日、ゆっくりいただくよ」

店主が見送る中、三人は地下鉄の駅に向かって駆け出した。

 三人はコンサート会場にたどりついた。星野は初めてきたコンサート会場をひとめ見て随分と立派な建物だと思った。サテライトシティ東京内の建造物の多くが名の知れた建築家が設計を手掛けたものだったが、ここは特に彼の興味を引いた。星野は、いつか建築のことも勉強してみたいなと思った。

 入り口に『北条月 ピアノリサイタル』の巨大なポスターが貼ってあった。星野はピアノに向かう真剣なまなざしの彼女の写真を見て、本当にきれいな人だと思った。飯塚が星野に言った。

「ツキも人気者になったね。こんな才能を隠してたなんてシンは知ってたの」

 星野はオーシャンパラダイス号でのことを思い出していた。ツキがピアノを披露した翌日、下船の時に船内のショーを担当しているというプロデューサーが彼女に声を掛けてきた。話はとんとん拍子にまとまり、彼女は夢をつかむ階段の前に立った。こちらの世界にきてからなん度かツキと二人っきりで会ったが、彼女はピアノの夢を語り、最後に星野に向かって言った。

「ごめんなさい。今はピアノに集中したいの」

星野は「ふられたな」と思ったが不思議と平常心でいられた。ツキのことが嫌いになった訳ではなかったが、彼女の夢がかなう瞬間が見てみたいと心から思ったからだ。

 星野の思考をさえぎるように、チエが彼と飯塚の肩をたたいた。彼女は数人前を歩く四人組の男の子達を指さした。

「ねえねえ。あれ、アイドルユニットの『バレル』だよね。こっちの世界にいたんだ。どおりでむこうの世界では歌番組にもでないし、コンサートも3Dホログラムな訳ね。謎が解けたけど、ファンとしては微妙な気分。てことは、デビューしたのが三年前だから本当の年齢は・・・」

彼女は指を折って年を数えはじめた。飯塚はその手を取った。

「野暮なことはしない」

 三人が席に着くと定員三百人の会場は既に満員だった。こちらの世界ではすべてが無料で、暇を持て余している人が多いとはいえ、オーシャンパラダイス号を下船してからわずか二十日しかたっていないのに、これだけの人が集まってくるのは彼女の才能が確かな証拠であった。三人はツキのことを誇らしく思った。

 幕が開き、白いドレスをまとった彼女が壇上に現れた。照明に照らしだされて浮かびあがるツキのりんとした姿は息を飲むものがあった。彼女が観客席に向かって頭を大きく下げてあいさつすると、ざわついた会場が一気に静まった。

 ツキがピアノの鍵盤をたたいてつくり出す曲は、彼女が母親として平凡でも一生懸命生きてきた歳月が凝縮され、優しさと気高さに満ちていた。星野は自分の生きてきた人生を曲に重ねていた。演奏が終わりに近づく頃、星野の目から涙が零れ落ちていた。星野は星空の下でツキと「普通だね」と笑いあったことを思い出していた。

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