第一章 第四節「夢」
2037年07月13日(月)
こちらの世界にきて、既に五日が経過していた。今日は下船の日だった。現実の世界では、シャトルが月面のサテライトシティ東京に到着する日だ。こちらの世界の船旅が順調な所を見ると現実世界でも問題はおきていないようだ。
星野新は自室のベッドの上で目覚めると、自分の爪を確認した。すじのない滑らかな爪がそこにあって安心した。爪を見るのがこちらの世界にきてからの朝の習慣になってしまった。仮想現実の夢から覚めてしまわないかと、この数日間は眠る前に不安を感じていた。
新しい体にもすっかりなじんだ。もう起きあがる時にふらつくこともなくなった。驚いたことに体に合わせて心まですっかり二十歳になっていた。まわりにつられて若者言葉が自然とでることに驚いた。友達もできたし、新しい人生を始めるスタートとしては順調な滑りだしといえた。
星野はベッドに横になりながら考えを巡らせた。ほんの六日前まで六十五歳だったのがまるでうそのようだった。定年まで毎朝目覚めては満員電車に揺られて会社に通った。大学を出てからだから四十三年間ただ、ひたすらその繰り返し。ぜいたくはできなかったが、途中で結婚もしたし、子供も生まれ、今では3歳になる孫までいた。それなりに幸せを感じていた。しかし平凡でささやかな生活にどっぷりとつかっている内に人生を振り返るということをしなくなっていた。いや、むしろ振り返ることを拒否していたともいえた。定年を迎えた翌朝、なにもすることがないことにあ然とした。なにかを始めるには、体も心もくたびれ果てていたのだった。会社を去る日に後輩たちが声をそろえて、「これからですね。自分の自由に時間を過ごせるなんてうらやましい」と言った言葉が恨めしかった。
一体自分はなにになりたかったのだろうか。星野は記憶の奥底をたどった。小学校の卒業アルバムの『将来の夢』と題した寄せ書きにサラリーマンと書いて笑われたことを思い出した。野球選手、医者、弁護士、パイロット、宇宙飛行士、映画監督、バンドマン、etc。華やかな職業がページを埋め尽くしていた。彼らは今頃、なにをしているのだろうか。そのどれかになれたのだろうか。同窓会でも一度もそんなうわさすら聞いたことがなかった。おそらく、みなサラリーマンかせいぜい親の後を継いだささやかな自営業程度だろう。
みんななにをしているのだろうか。同い年なのだからなん人かはこちらの世界にきているはずだ。若返った体を手に入れた彼らはかつての夢を追い求めるのだろうか。昔の知り合いを訪ねてみるのも悪くないなと思ったが、連絡が途絶えてもう二十年以上はたっているので探し出すことは難しいだろう。新しい世界でこれからなにをしよう。星野は真剣に悩んでいた。
なにもしなくても現実世界から見ればかなりぜいたくな暮らしが保証されていたが、こちらの世界でも職業はあった。オーシャンパラダイス号の『やまむら』で出会ったシェフや奥さんの生き方は一つの参考になるだろうと思ったが、なにかを追求するにもそれなりの才能が必要だろうとも思えた。「プロのサラリーマン」という言葉が思い浮かんで星野は一人で苦笑いしてしまった。その職業が存在しないのは明らかだった。そう思った瞬間、彼のやってきた人生がとてもむなしいものに思えた。
星野がこんなことを考えているのは単に新しい世界への不安もあったが、もう一つ理由があった。昨日の晩、いつもの四人でばか騒ぎした後、北条月に誘われて甲板で二人っきりになった時に告白されたのだった。彼女は彼好みの美人だったし、前職が図書館司書だったこともあって頭も切れる。なにより星野自身も彼女に好意を寄せていた。彼女が告白してこなかったら、自分が告白しようと思っていたくらいだった。女の子から告白されたのは、生まれて初めてで飛び跳ねたいくらいうれしかった。部屋に戻っても興奮でなかなか寝つけなかった。昨日は彼の人生で一番の最高の日の一つであることは間違いなかった。
星空と遠くに見えてきた横浜港の明かりに彩られて、ツキはここにくるまでの彼女、「北条月」の人生を正直に語ってくれた。彼女の旦那との出会いから結婚、子供の話。子育てや家事、仕事に明け暮れた日々。星野もここにくるまでの「星野新」の人生を素直に話した。そして話が尽きる頃、お互いの孫の自慢話しをし終えると最後は二人で「普通だね」と笑いあった。星野はツキの笑い顔をとてもすてきだなと感じた。
ツキは新しい世界で趣味のピアノをやり直したいと語ってくれた。星野はツキのピアノが聞きたいとねだり、二人はロビーに戻って、そこにあったグランドピアノを借りた。彼女の流れるように動く指先、響いてくる音楽。クラッシックなどまったく興味のなかった星野はなんの曲かさっぱりわからなかったが、生まれて初めて心が震えた。彼女の曲に合わせて、昼間のショーに出ていたダンサーの人たちが、華麗なダンスを添えてくれた。
一夜明けて酔いも醒め、星野はここにくることを選んだ人たちは、新しい世界での目的を持っていると感じて焦っていた。飯塚は内容はわからないが冒険、チエはマラソン、ツキはピアノ。それぞれにかなえたい夢があった。「僕の夢」、星野は口に出してみたがなに一つイメージができなかった。新しい世界でツキと二人で暮らしていくことを考えてみた。生きることに不安のない快適な世界。年老いることのない体。甘い生活がどれだけ続くのだろうか。五年、それとも三年。人生を一度経験している彼にとっては、いつかマンネリになってわかれが訪れるように思えてならなかった。
星野はおきあがって洗面台に向かった。若返った体と細面の役者顔が鏡に映った。蛇口をひねって弾け出す水を両手ですくって顔を洗った。冷たい水が脳を刺激し、沈んだ気持ちを洗い流していく。夢がないならこれから見つければいい。時間はいくらでもあった。これから百歳まで生きたとして残り三十五年。生きるために仕事をする必要がないなら週七日、丸々お休みみたいなものだ。休みの日数だけでいえば三倍以上あることになる。土日しか休めなかった今までの暮らしを考えれば、百年以上の時間ができたようなものだ。これなら人生をもう二回くらいやり直せる。星野は鏡の中の自分に言い聞かせた。
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