第一章 第三節「仮想現実」

 2037年07月10日(金)


 星野新は昨日と同じメンバーで上部デッキにいた。すっかりこの場所が気に入っていた。四人は今日も甲板のデッキチェアでくつろいでいた。昨日、さんざん遊び回ったので少しのんびりしたい気分だった。星野はリゾートらしいカラフルなカクテルを時々、口にしながら単行本のページをめくっていた。飯塚はハードカバーの難しそうな本を広げていた。飯塚の横でチエが声をかけた。

「カズ。それ、なんの本 ?」

飯塚は本の表紙を彼女に見せて、「宇宙工学」と短く答えた。

チエは眉間にしわを寄せた。

「カズってさ。理系男子なんだ。ナンパな文系男子かと思った」

星野は横でそれを聞いて笑ってしまった。この人はiネットホールディングスの代表取締役会長だよと思わず言いたくなった。飯塚は星野の方を向いて小さく首を振ってそれをいなしてから、バチンと音を立てて本を閉じた。

「チエちゃんはなに系」

チエはガッツポーズで、「もち、体育会系。これでもフルマラソン県大会記録保持者」と答えた。

飯塚おどけながら、「いいね。あっちに着いたら一緒に走ろうか」とガッツポーズで答えた。

チエはツキの手を取った。

「ツキも一緒に走ろうよ」

ツキは少し困った顔をして星野の顔を見た。

「シンも一緒なら」

急にふられて星野は少しうれしくなった。

「四人一緒なら楽しそうだね」

ツキは笑顔で、「やった。決まりね」と言った。

 星野には、こんなやり取りをしていると、ここにくるまでの記憶がどんどんうそのように思えていた。なにか自分とは違う他人の人生のように思えてならなかった。これからどうなっていくのかとぼんやりと考えていた。

 ふと、前を見るとプールの向こう側にかなり酔った男が歩いていた。ボディビルダーを思わせる発達した筋肉が目にとまった。男は辺りを見回しながらゆっくりとプールのまわりを歩いて彼らの方まで歩いてきた。男の威圧的な雰囲気でまわりの人たちは道を譲った。彼らの前を通り過ぎようとした時だった。カズの横ではしゃいでいて、男に気づかずにいたチエが、男の前を横切ってプールに飛び込んだ。大きく水しぶきが上がり、男に降り注いだ。

男はチエに向かって、「おい。なにするんだ!」と怒りで顔を赤くして大声で叫んだ。

まわりの人々が何事かと一斉にこちらを見た。プールから顔をだした、チエは男の体格と怒り顔にあっけに取られてポカンとしていた。それでも気お取り直して明るく笑顔で謝った。

「ごめーん。水、かかっちゃったね」

それを聞いて男はさらに顔を赤くした。

「ばばぁが勘違いするんじゃねえ。マナーくらいわきまえろ。急に若くて美人になったからって心はばばぁのままだ。なんだその謝り方は」

飯塚が割って入った。

「まあまあ、少しくらいは許してやってください」

男は飯塚の姿を見た。

「なんだおまえは。チャラチャラした女みたいな顔して」

飯塚はひるまずに答えた。

「ここはプールですので少しくらい水がかかるのは許してやってください。彼女も悪気があってのことではないので。大人げないですよ」

男は飯塚に向かって怒りでよろけそうになりながら言った。

「私に意見する気か。馬鹿にしやがって。私は、元はiネットホールディングスの人事部長だぞ。おまえらみたいな奴らとは人種が違うんだ。人種が」

男は飯塚に向かって殴り掛かった。


ブチン


コンピューターの電源が切れるような音がして男が目の前から消えた。飯塚も星野もツキもプールの中のチエもまわりの人たちも、みんながそれを目撃した。チエがプールの中で驚きの声をあげた。

「今、消えたよね。ね。ね」

ツキが涼しい顔で説明した。

「『セキュリティコード』が働いたみたいね。契約書に、周囲の人が一定の不快を感じるとトラブル対策として安全確保のため、当事者を隔離すると書いてあったわ。彼がここから消えたと同時に、彼には、まわりの人間が全員消えたようになるんだって。彼はここにいるけど私たちには感じないし、彼には私たちが見えない。ここは仮想現実だからパラレルワールドをつくりだすのは簡単みたい。脳が冷静さを取り戻すまでの四時間、彼は一人で船旅を過ごすみたいよ」

チエがプールからあがってきて言った。

「あー驚いた。いい気味だわ。こんな仕掛けがあったなんて。仮想現実ってなんか神様に守られているみたいで安心だね」

星野は飯塚に耳打ちした。

「あの男、iネットホールディングスの人事部長って言ってたね。キミの部下だった人」

飯塚は答えた。

「そうだとすると、山下誠司(やましたせいじ)だな。僕の知っている山下は、チビで小太りでおよそ筋肉とは無縁なおとなしい男だったけど、あんな筋肉願望を抱えているとは知らなかった。確かに面影があった。今度、会っても知らないふりをしとくよ」

チエはツキに同意を求めるように言った。

「ああいう人を見下すような人は嫌い。きっと友達もできないんじゃない。ねえ、ツキ」

ツキは冷静に答えた。

「そうね。真面目そうな人でも、心の底ではなにを考えているかわからないわね。自分の理想の体になったら気持ちも大きくなったみたい。体に慣れるまで苦労するわね」

星野はサテライトゲートで新しい体を決める時に宮内遥が言ったことを思いだした。

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