第一章 第一節「目覚め」
2037年07月07日(水)
星野新はキングサイズのベッドの上で、窓から差し込む夏の朝日を受けながらゆっくりと目覚めた。長い夢を見ていた気がするが思い出せない。星野は目を閉じたまま記憶の糸を手繰った。微かな波の音と共に潮の香りが鼻孔をくすぐっていた。
オーシャンパラダイス号は太平洋の波を割りながら、巨大な船体を東京湾に向けて進んでいた。数羽のカモメが船のまわりを飛び交い、陸が近くなっていることを告げていた。ゆっくりと揺れる船体と機関室が奏でる低い振動音は、乗客が母親の胎内を連想することでの心の安定を狙って設計されていた。
星野は枕の横を手探りでメガネを探した。いつも必ず置いている場所にそれはなかった。面倒なことになったなと思いながら目を開いて辺りを見回した。窓の外のバルコニーの手すりに、カモメが一羽とまった。星野の目はメガネをかけずに、そのカモメをクッキリととらえることができた。星野は視力が戻っているのに気づいた。布団から両手を出してみつめた。ゴツゴツとした太い指はスラリとした細い指に変わっていた。手の甲の浮き出た血管や関節のゆるんだしわも消えていた。星野は指を顔に近づけて、五十歳を過ぎたあたりから、こんなところまで年をとるのかと、気になっていた爪の縦すじがなくなっていることを確認して、自分が若返ったことを実感した。
ベッドから起きあがると、自分が裸だと気づいて慌てて側にかかっていたバスローブをまとった。やわらかで心地よい綿の肌触りが高級品であることを告げていた。ホテルでも泊まったことのない広い室内。ストレスなく体を受け止めてくれるベッド、品の良い家具や調度品。確かにぜいたくな体験だと星野は思った。
若返った自分を確認したくて、洗面台の鏡に向かって歩き出そうとしてつまずきそうになった。目線がいつもより少し高くなっているのを感じた。身長を少し伸ばしたことを思い出し、星野は若くて新しい体に慣れるために屈伸と背伸びをしてみた。若い時はこんなにも体が軽かったのかと驚かされた。膝の痛みも、腰の重さも感じなかった。これなら道玄坂をのろのろと歩かずにすむだろう。
星野は鏡に映った自分の姿を確認した。サテライトゲートで宮内遥に調整してもらった二十歳の肉体がそこにあった。あらかじめ知っていたとはいえ、実際に自分の自由にできる体にしてみると喜びが込みあげてきた。整った顔立ち、キメの細かい肌、そしてフサフサの髪。時間を掛けてゆっくりと失ってきたものと引き換えにつのったコンプレックスの原因が消え失せていた。室内をはしゃぎ回りたくなる衝動が沸きあがったが、六十半ばを過ぎた理性がそれを許さなかった。
水道の蛇口をひねると勢いよく水が流れでた。手を差し込むと冷たさが伝わった。水をすくって顔を洗ってみた。眠気が遠のき、頭の中がすんでいく。顔に触れる手の感覚。少し伸びかけたひげの感触。星野は洗面台にセットされていたシェービングジェルを手に取って頬につけた。スッーとする感触が心地よかった。彼は備えつけのカミソリを手にしてひげをそってみた。ジョリ、ジョリと小気味いい音がした。すべてが現実となにひとつ変わらなかった。
これが本当に仮想現実なのだろうか。毎日、ひげをそらなきゃいけない面倒を、誰がわざわざプログラムするのだろうか。二十歳以降の四十五年間生きた現実が夢で、今ここにいる自分こそが現実のように思えてきた。彼はカミソリを手首の血管に当ててみた。緊張で心臓が高鳴る感覚は、現実以外のなにものでもなかった。このカミソリを一気に引いたらどうなるのだろうか。血しぶきがあがり、出血多量で死んでしまうのだろうか。仮想現実だから大丈夫だと自分に言い聞かせても、手が震えてそれを試すことはできなかった。
星野が部屋に戻るとベッドの脇に置かれた携帯端末が彼に話しかけてきた。
「おはようございます。星野さん。お目覚めはいかがですか」
星野は聞き覚えのある声だと感じながら端末を手に取った。端末のディスプレーにサテライトゲートで彼の担当をした宮内遥が映っていた。彼は宮内に答えた。
「おはようございます。こちらの世界で宮内さんとお話しできるとは思いませんでした」
宮内はほほえみをたたえながら説明した。
「現実世界では星野さんの脳は軌道エレベーターで運ばれているところですので、まだ地球にあります。シャトルで地球から離れてしまうと時間差が生じてしまいますが、今ならそう遠くまでいってませんので地上で電話するのと同じです。月面に到着してしまうと往復約2.6秒の時間差ができてしまいますので会話のリズムがつかみにくくなります。ところでこちらでモニターしている心拍計が急に上昇して、警報が鳴りましたがどうかしましたか」
星野は少し恥ずかしそうに告げた。
「宮内さんとお話しできてホッとしております。正直こちらの世界が余りにリアルなので、ひげそりの時にカミソリで手首を切ったらどうなるかと物騒なことを考えてしまいました」
宮内は少し困り顔になった。
「好奇心旺盛なのは良いことですが、まだ安定しない脳に急に強い心的負担をかけることは望ましくありません。そちらの世界でも手首を切れば血もでますし、それ相応の痛みも感じます。そうしておかないと脳の機能を正常に保てないからです。ただ、傷は数分で癒えます。けがや病気で死ぬことはまずありません。そちらの世界では誰もが超人になったようなものです。でも心はそうはいきません。心が病んだらこれからの人生が台無しですよ」
星野は反省した。
「心配をおかけしてすみません。向こうに着くまで、私はなにをして過ごせば良いのでしょうか」
宮内は笑顔をつくって答えた。
「オーシャンパラダイス号には多くのレジャー設備が整っています。サテライトシティ東京につくまで、今まで見れなかった連続ドラマや映画を見ながらのんびり過ごす人もいますが、体に慣れるためにはスポーツをされるのが一番です。ジムはもちろんスイミングプールにアイススケートリンク、アリーナまですべて無料です。代謝を上げて汗をかくことは良い刺激ですよ」
星野も彼女につられて笑顔で答えた。
「運動なんてもうなん年もご無沙汰ですが、この体ならやれる気がしてきました」
宮内はうれしそうに続けた。
「そうです。その勢いです。その前に朝食を取られたらいかがですか。昨日のお昼からなにも口にしていませんよ。オーシャンパラダイス号の食事はすべて天然素材を忠実に再現しています。料理人も一流ですよ。しかもすべて無料です」
星野は自分のおなかに手を当てた。
「それは良い。ちょうどおなかが空いたところでした。楽しみです」
宮内は続けた。
「ええ、レストランにいけば、気の合う人も見つかるかもしれません。仲間と刺激を受けあうことは人生を楽しくする最良の方法の一つです。良い出会いがあると良いですね」
星野は出発の前に知りあった飯塚和也のことを思い出した。
「とても良いアドバイスをありがとう。一人、会いたい人がいます。サテライトゲートに着く前に出会った男性です」
宮内は安心して言った。
「一緒に旅する仲間がいらっしゃったのですね」
星野は少し困った顔で告げた。
「会ったばかりで仲間と言うほど親しくはありませんが。これからですかね。ところで宮内さんと連絡を取るにはどうすれば良いのですか」
宮内は少し困惑した表情を浮かべた。
「もうナンパですか。でもその前向きな気持ちは脳には良い刺激です。月に着くまではしばらく連絡はとれません。そちらの携帯端末に登録しておきます。規則では教えてはいけないのですが特別ですよ」
特別と言う言葉で星野は少しうれしくなった。
「ありがとうございます。安心できました。月に着いたら必ず連絡を入れます」
宮内は笑顔で答えた。
「時間差が生じるし、私も仕事がありますのでメールの方がおすすめです。ではゆっくり船旅を楽しんでください」
星野は宮内にわかれを言うと携帯端末の通話を切ってクローゼットに向かった。扉を開けるとフォーマルからカジュアルな服装、水着やスポーツウエアまでひととおりそろっていた。最新のオートクリーニング機能付きか。本当に至れり尽くせりだな。女性だったら飛びあがって喜んでいることだろう。
星野はリゾート船らしく、白のポロシャツとショートパンツを選んで身に着けた。メガネがいらなくなった上に肩が上まであがるので首を通す服がたやすく着られた。随分不便な生活を強いられてたものだと気づいて星野は若さに感謝した。ぴったりのサイズとやわらかくサラリとした肌触りは天然の綿をぜいたくに使ったオーダーメイド品であることを示していた。子供の頃は綿なんてありふれた安物の素材だと思っていたが、人口爆発と共に資源の不足が叫ばれ、庶民には手に入らない素材になっていた。
星野は凝った細工の施された金属製のドアノブを回して廊下にでた。ドアにほどこされた彫刻、足音をかき消すふかふかのじゅうたんと細部にいたるまで豪華客船の名に相応しい代物ばかりだった。客室の区画をでて、商業区画までくると、船の大きさに驚嘆した。巨大なショッピングモールがそのまま海に浮かんでいるという感じだった。吹き抜けのフロアの天井につるされた豪華なシャンデリア、左右に立ちならぶきらびやかなブランドショップ。休憩用のソファーや柱の細工などすべてが芸術品と呼べる域に達していた。彼は現実世界で客船に乗ったことがなかったので、まだまだ知らない世界があるのだと胸が高鳴った。
レストランの前までくると後ろからポンと肩をたたかれた。星野が振り向くと一人の若者が立っていた。
「新さんですよね。驚きました。随分と男前になられましたね」
若く見えるが人懐っこそうな笑みは、まさしく飯塚和也のものだった。胸元まで開けた麻の白いシャツにピッタリめの洗いざらしのデニム。着こなしがなじんでいると思った。星野は飯塚の全身を眺めて「自分とは格が違うな」と感じた。
「和也さんこそ。まるで映画俳優のようです」
飯塚はふさふさの髪をなでた。
「いやいやお恥ずかしい限りです。やっぱり若いって良いですな。力がみなぎります。これなら冒険も問題なしと言う気分になってきます」
星野はうなづいた。
「本当ですね。こんなにワクワクしたのは何十年振りでしょうか。なんでもできる気がします」
飯塚もうなづいて見せた。
「同感です。まあ、お話は後にしてまずは腹ごしらえです。仮想現実の実力を味わって見ましょう」
二人は連れだってレストラン街に向かった。飯塚は立ち並ぶレストランの看板を眺めて少し興奮気味に言った。
「明治から続く和食の老舗『やまむら』、中国四川の名店『桃花』、フレンチの最高峰とうたわれた『グリモワール』まで。本当にあるんですね。食の研究を続けるためにオーナーシェフがこっそりと移住したとうわさでは聞いてましたが。これは楽しみです」
星野はテレビで見聞きしたことがあるような気もするがどの店もなじみがなかった。星野は正直に言った。
「お恥ずかしい話ですが、私には敷居の高いお店ばかりで。和也さんがいて心強い限りです。お店をえらんでいただけませんか」
飯塚は星野の顔を見て、冷静さを取り戻した。
「いゃー、お恥ずかしい所を見られてしまいました。つい興奮してしまいました。正直に申しますと接待ばかりで心からゆっくりと味わったことなどほとんどないのです。シェフには大変に失礼したと思っています。今度こそじっくりと味わってみようと思います」
星野は気を使わせてしまったことに反省した。
「私にはこれも一つの冒険みたいなものです。楽しみましょう」
飯塚は気を取り直して言った。
「そうですね。生まれ変わって最初の食事です。昔のことはなしですね」
星野は笑顔で答えた。
「日本人ですから朝は和食はどうですか。元気がでます」
飯塚はうなづいた。
「そうですね。それに和食は素材の繊細な味が命ですので、こちらの世界の実力がわかるかと」
二人は並んで『やまむら』ののれんをくぐった。すぐに和装に身をつつんだ若い女性が出迎えた。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか」
飯塚は答えた。
「はい。カウンター席でお願いします」
「こちらへどうぞ」
二人は彼女に導かれてお店の奥へと進んだ。星野は彼女の後姿に見とれた。後ろで結わえた艶のある黒髪。背中からすっと真っすぐ伸びた細い首。流れるような無駄のない動きと品の良い歩き方。さすがに高級店。若いのに礼儀をわきまえた立ち振る舞いに感心すると共に自分の歩き方が気になった。
席に通されるとカウンターの向こうに四十前後のシェフが立っていた。短く切りそろえた髪。シミや汚れがない清潔な白い和帽子と白衣がとても似合っていた。飯塚は星野に向かって言った。
「新さんは苦手なものはありますか」
「特に好き嫌いはありません」
飯塚は彼とシェフの両方に聞こえるように言った。
「そうですが。それではシェフには朝食のおすすめをお願いしましょう」
シェフはそれを聞いて、「かしこまりました」と告げると手際よく作業を開始した。円を描くようなスムースな動きは、まるで武道の「型」を見ているようだったし、発する音と香りは音楽にも似たハーモニーを奏でた。二人はしばらくシェフの動きを目で追って楽しんだ。
ほどなくして二人の目の前にお盆にのった和朝食が差しだされた。銀だらの西京焼き、だし巻卵、茶わん蒸し、辛子めんたいこ、のり、納豆、豆腐とほうれん草のみそ汁、白ご飯、白菜の一夜漬け。どれも一昔前なら家庭で当たり前のようにだされていた朝の定番メニューだったが、十年ほど前から徐々に手に入らなくなり、今では高級品だった。星野はだされたお盆を見渡した。
「懐かしいですね。昔を思いだします」
飯塚は器の一つ一つが名工が手掛けたものだと気づいたが黙っていた。彼はシェフの器を選ぶセンスと美しく調和の取れた盛り付けに感心した。
「やはり日本料理を選んで正解でしたね。新さんいただきましょう」
二人は料理を口へと運んだ。星野は飯塚に告げた。
「本当においしいです。これが仮想現実だなんてとても信じられません」
飯塚は箸を休めて答えた。
「本当ですね。これなら名だたる料理人がこちらの世界に移住したといううわさも納得できます」
飯塚がカウンターの向こうにいるシェフに尋ねた。
「シェフは銀座の『やまむら』となにかご関係があるのですか」
シェフは飯塚に向き直って答えた。
「はい。そこでオーナーシェフをしておりました」
飯塚はうれしそうに名乗った。
「やはり山村泉一(やまむらせんいち)さんでしたか。ご無沙汰しております。飯塚です。飯塚和也です」
山村は片付けの手を止めた。
「和也君でしたか。和也君ももうそんな年になられましたか」
飯塚は箸を置いた。
「はい。25日で六十五歳です」
山村は飯塚の顔を眺めた。
「私は七十一になりました。和也君は随分と若返りましたね」
飯塚は不思議そうに尋ねた。
「皆さん二十歳を選ばれると思ってましたが、失礼ですが泉一さんは四十歳くらいに見えますが。」
「ええ、ここではずっと四十歳です。料理人としてはちょうどいい年齢です。接客の仕事は見た目もおもてなしですので。それに若すぎると味を追求するより、体が食事の量を望んでしまい深みがなくなります。仮想現実とはいえ、脳が受ける刺激は年齢に合わせたそのものです。本当に良くできたシステムです。二十歳の体ではいつもの量では物足りないでしょう」
飯塚は納得して言った。
「そんなものですか。確かに少し物足りない気がします。追加をいただけますか。新さんもいかがですか」
星野もまだおなかがすいていたので二人に聞こえるように言った。
「さらっといけるお茶漬けをいただけませんか」
山村はカウンターの下から大ぶりの真鯛を取り出した。
「では鯛茶漬けなどいかがでしょう。真鯛は本来、冬が季節ですが仮想現実世界では明石産の旬の真鯛がいつでも手に入ります」
山村は手早く鯛をさばくと二人に鯛茶漬けを振る舞った。
二人はそれを味わいながら食べた。
星野は、「本当においしいです。味も触感も香りも現実としか思えません」と言った。山村はうれしそうに告げた。
「できあがった料理だけではありません。食材の産地、季節、調味料に、調理法、包丁のさばき加減まで再現されています。天然ものが手に入りにくくなった時代、料理人にとってはこちらの世界の方が天国といえます」
二人は素直にうなづいて鯛茶漬けを堪能した。
一段落したところで山村が、「ところで家内は同い年ですが二十歳を選びました」と言った。
飯塚が、「こちらにご案内していただいたかたですか」と尋ねた。
「ええ、二人ともこの『やまむら』がすべてです。この船なら最高のおもてなしができます」
その時、調理場の奥から二人を出迎えた女性がお茶を持って現れた。星野はこの人も七十歳を過ぎているのかと驚いたとともに先ほどの立ち振る舞いに納得した。
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