僕の不安
「それでは、最近あまり眠れていないと?」
「そうですね、眠りが浅くなっている気がします。仕事の勘も鈍って、こんなの普通気付くだろ、っていう間違いも、見落としてます」
僕よりも一回り、歳が上なくらいだろうか。その男の医師は、質問をはじめる際に、きちりと視線を合わせ、また話し始めると手元のカルテに戻り、という縦の首振り運動を繰り返す。感情移入して聞かれるよりは、マシかもしれない。だが、10分ほどの面談の最後に言われた言葉には、戸惑いを覚えた。
「じゃあ、少し不安を抑えるためのお薬、出しときますか?」
「はい?」
問題は、僕に在るのか? 僕が感じなければ、済む話だと?
「あの、僕は妻のことで悩んでいて、ここに来れば、同じような患者さんもいるだろうし、先生だって、お詳しいんじゃないかと思ったんですが」
妻のことを”患者”と呼ぶのは、苦い感情を伴った。それでも欲しいのは、抗不安薬なんかじゃない。的確なアドバイスだ。
「あぁ、そう言うことですか…ですが私は、あなたの担当医師で、奥様の相談医師ではありません。仮にですが、奥様をこちらへお連れ戴いても、わたくしは診れません。あくまで、進藤さん、あなたの側に立って、治療を行います」
「では、ばらばら、ということですか? 僕は僕。妻は妻で、それぞれ医師にかかって、薬をもらうと?」
僕は、医師が口にする道理を、呑み込むことが出来ない。そんなこと、おかしくないか? 不安を抑えても、その元を解決しなくては、一生薬を飲めと言ってるようなものだ。
医師は、ずれた眼鏡をぐっと指で押し上げると、僕を刺すような眼差しで、こう言った。
「ですから、奥様の件に関しては、奥様の担当医師が、お話を伺って、決めるでしょうから、わたくしの方からは、何も申せません。ご夫婦ですから、何かとご主人が先導して、物事をお決めになることが多いのかもしれませんが、こうした場合、きちんと距離を置いて、それぞれの傷を癒すことに集中された方がいい」
「それは、別居しろっていうことですか?」
思わず、声が上ずる。
「いいえ、そうは申していません。奥様の件は、伺う限り、たしかに心配です。宜しければ、こうした場合に詳しい医師を、紹介しますが、どうされますか?」
「…お願いします。妻の為に」
診療室を出て、処方された薬を待つまでの間、僕は、釈然としない思いを抱えて、イライラと靴底で、床のタイルを叩いていた。医者の物言いは淡々としていたが、自分の言ったことに反論した僕を、ひどく、厄介なものを見る目で見てはいなかったか。
医師に言い負かされるために僕は、こんなところまで来たのだろうか。
薬を飲み、こうした不愉快な感情を、ぼんやりとしたものに変え、そうして頭全体がぼんやりとしてきたところで、妻のことを許そうという気になる。それが僕にとって、そして妻にとっての"最善"なのだろうか。
僕はとにかく、薬を飲むことにした。
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