第2話

 加奈子が通う私立精華女子高等学校は、県内では比較的偏差値の高い高校である。昔から伝統のある高校で、いわゆる「お嬢様高校」としてその名を馳せている。

 生徒は皆勤勉で活動的で上品。加奈子にとっては非常に苦痛を強いられる学校生活だが、父親曰く、これは「訓練」らしい。

 一般社会に溶け込むために、より規律の厳しい場所で自身を律する。この程度ができなくては、殺しを隠匿することはできない。加奈子はその教えを愚直に守り、学校では快活で品の良い生徒を演じていた。

「……初心の人、二つの矢を持つことなかれ。後の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度、ただ、得矢なく、この一矢に定むべしと思へ。と言ふ……」

 同級生の、流れるような声が教室の中に響く。徒然草「ある人、弓射ることを習ふに」である。女生徒がそこまで詠むと、教師は「はい、よろしい」と言葉を止めてその一節の解説を始めた。

「初心者は二本の矢を持って的に向かってはいけません。後の矢、つまり二本目の矢をあてにしてしまうため、初めの矢をいい加減に思ってしまうからです。矢を射る時は当たるか当たらないかということを考えるのではなく、この一本の矢で必ず的を射抜こうと考えなさい。という意味です。これには……」

 その教師の解説に「なるほど」と感心してしまった。殺しの世界にも通じる教訓であると考えた。たまには学校の授業も役に立つ。

 そんなことを加奈子が考えていると、不意に背後から背中の中央あたりを叩かれた。その直後加奈子の机に紙片が滑り込んできた。後ろの席、高畑桜子からの手紙だろう。厳格なお嬢様校と言えども、この程度の遊びはそこかしこで行われている。

「今日は部活ないし、キリノのパフェ食べに行かない?」

 紙片にはそう書かれていた。休み時間にでも口頭で伝えれば良いと考えるが、加奈子はそんな不粋なことは言わない。このように授業中にスリルを味わうことが重要であり、中身に意味がないことを加奈子も承知している。

 加奈子は教師が黒板に視線を向けている瞬間を狙い、手早く返事を書いた。

「いいよ。沙知も来るかな」

 紙片はすぐに返ってきた。

「あとで誘おうね」

 これで今日の予定が決まってしまった。学校帰りに沙知と桜子と三人でキリノでパフェを食べる。あまり乗り気にはなれないが、一般的な女子高校生としては大いに楽しまなければならない。

「……佐藤さん?」

 教師に呼ばれ、加奈子は急に現実に戻った。

「次の一節を詠んでください」

「はい」

 加奈子は立ち上がり、次の一節を詠み始めた。

「わづかに二つの矢、師の前にて……」

 他のことを考えていても、授業の内容は頭の片隅で把握している。そのため、加奈子は淀みなく言葉を紡いでいくことができた。

 背後から桜子が「ごめん」と呟いていた。


 私立精華学園の生徒は、完全に二分されている。家が資産家の、いわゆる本物のお嬢様と、中流階級以上ではあるが普通の家柄の娘。彼女らは特段意識はしていないが、それでも家庭環境が合った方が会話も弾むため、なんとなく家柄がマッチする組み合わせでグループが作られるようになる。

 加奈子がよく一緒にいる高畑桜子と西野沙知は、加奈子と同じく中流階級の家の娘であった。彼女たちとは席が近いことと帰り道が途中まで一緒ということでなんとなく仲良くなった。

 彼女らとの会話は、とりとめのない内容がほとんどである。昨日のテレビ番組やティーン向け雑誌の特集について、その日の授業での教師の変な言動についてなど。どうでも良い事をさもこの世の一大事のように大盛り上がりで語り合う。

 そんな話題の中で、今朝報道された坂崎家一家殺人事件についても軽く触れられた。

「被害者の一人がうちらと同じ高校生だったんでしょ? 怖いよねー」

 桜子がパフェを頬張りながら、どうでもいいことのようにそう言った。所詮他県での出来事である。他人事、退屈な日常のちょっとしたスパイス程度にしか考えていないのだろう。

「ウチの父親なんて、そのニュース見て『今日は早く帰ってきなさい』って言うのよ。全然関係ないのに」

「あ、ウチはお母さんが言ってた。どこも一緒なんだね」

 加奈子はそう言って小さく笑った。まさかその犯人が向かいで一緒にパフェを食べているなど、夢にも思わないだろう。

 娘に心配する父親を笑いながら話題にしていた沙知だったが、根は素直な少女である。両親が心配しないように六時半にはお開きとなった。

「じゃーねー加奈子。また明日ー」

 いつも別れる路地で三人は別れた。加奈子の家は高台の先にある。高台へと続く階段の前で、他の二人とは一足先に別れることになるのだ。

「また明日ー」

 加奈子も笑顔で手を振り、階段を登っていった。

 中腹辺りで二人の姿が見えなくなったところで深く息をついた。一日の中で一番大変な時間が終了した。あとは家で母親相手にいい顔をすれば良いだけである。

 しばらく階段を登っていくと、ぽっかりと開けた空間に出た。高台までの途中にある小さな公園である。申し訳程度のベンチしかないその公園には人の気配が感じられない。加奈子はそこで足を止めた。

 公園の中をしばらく歩くと、公園の外側を向いたベンチがある。いつものように誰も座っていない。加奈子はそのベンチに腰を下ろした。

 そこからは街が一望できる。夕日に染まった街はキラキラと輝いて見えた。彼女はその風景を見ながら、無表情のまま再び息をついた。

 この風景を見るのが加奈子の毎日の日課であった。加奈子が帰るこの時間帯は、家路を急ぐ人ばかりでこの公園に立ち止まる人などいない。ここでは偽りの仮面を被る必要がないのだ。

 今日もきちんと「いまどきの女子高校生」を演じられただろうか。加奈子はゆっくりと今日起こった出来事を思い出し、不自然な部分がなかったのかを考えていった。

 カシャ……。

 不意に聞こえたシャッター音に、加奈子は身構えながら左を向いた。私としたことが。加奈子は完全に油断していた自分に眉をひそめた。

 そこには一眼レフのカメラを構えた青年が立っていた。髪を短く揃えたその青年は、加奈子よりも少し年上といった感じだろうか。白いシャツとグレーのチノパンを着ており、優しそうな顔をしていた。

 特に害のあるような人ではなさそうだが、加奈子はまだ警戒を解かずに見つめた。

「あ……ごめん」

 敵意をむき出しにしている加奈子に、青年はカメラから目を離して頭を下げていた。

「何をしているのですか?」

「いや、夕日と君があまりに綺麗だったから、思わずシャッターを押してしまった」

「断りを入れずに撮影するなんて、マナー違反ではないですか?」

「確かにそうだね。ごめん」

 青年は再び頭を下げ、カメラからフィルムを取りだした。

「これは君に渡すよ。何枚か撮ってあるけど、気にせず好きにしていいから」

 そのフィルムを加奈子に渡すと、もう一度頭を下げて走り去っていった。

「…………」

 加奈子は嵐のように去って行ったその青年の後ろ姿を、呆然と見ていた。青年は階段の所まで行くと、最期にもう一度加奈子に頭を下げ、階段を下っていった。

 完全に青年の姿が見えなくなって、ようやく加奈子は正気に戻った。とりあえずケースに入ったフィルムを鞄に収め、家へと戻ることにした。

 そういえば先ほど、自分は「いまどきの女子高校生」の仮面を被れていただろうか。加奈子はやりとりを思い出そうとしたが、うまく思い出すことは出来なかった。

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茜色の月 福王寺 @o-zi

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