23:泣き出しそうな空の下

 上がった新菜の悲鳴はか細く、おまけに両手で口元を覆っていたため、公園全体に響き渡るには到底声量が足りなかった。

 入り口で待っているであろう護衛二人の耳に届くはずもなく、救援は望めない。


 迫り来る地面に手をつき、どうにか倒れることだけは防いだ。

 激痛が身体と脳を侵食する。悪寒が背筋を這い回り、額に嫌な汗が滲んだ。

(……平和ボケしたな)

 無様を笑いたくなった。

 ここまでの深手を負わせられたのは十年ぶりか。

 イグニスに出会う前までこんなことは日常茶飯事だった。人間に心を開くと必ず裏切られた。後ろから首を絞められたり刺されたり。誰もがこの目を欲して狂ったように襲い掛かってきた。


「ハクア様、大丈夫ですか!?」

 新菜が真っ青な顔で跪き、手を伸ばしてきたが、ハクアはその手を払いのけた。

 ぱん、と音が弾け、新菜が驚いた顔で固まる。


「……言いたいことは色々あるが……まずはニナの物真似を止めろ。不愉快だ」

 ハクアは目の前の少女が新菜ではないことを確信していた。

 新菜は言ったのだ。わたしはハクア様を傷つけたりしません、と。

 ハクアは新菜を信じている。

 自分のために毎日掃除をし、手の込んだ料理を作り、手の皮がボロボロになるほど剣を振り、無事を祈ってくれたあの少女を信じている。


 どんなことがあっても新菜が自分を裏切るはずがない。

 自分を窮地に陥れるような真似を、新菜がするものか。


 睨みつけると、新菜は――いや、新菜の偽者は、親に酷く叱られた子どものような顔をした。

 その身体が光に包まれて変化していく。小さくなっていく。


 やがて、光が消えて現れたのは、新菜とは似ても似つかない少女だった。

 トウカと同じか少し上程度の、小さな子どもである。

 両耳の上で縛った黒髪に青い瞳。

 頭からは猫のような黒い耳が、スカートからは細い尻尾が生えていた。

 黒猫。ミミ――連想して、ハクアは目を剥いた。


「……お前……ミミ、か?」

 まさかとは思うが、しかし、それならば全てに納得がいく。

 猫ならば誰もその行動を怪しんだりはしない。

 勝手気ままに姿を眩ませ、敵に逐一情報を流すことも容易だ。


「……はい」

 少女は悄然と項垂れた。

「ほんとうは、フィーネっていいます。フィーネはトウカと同じ幻獣ですが、角がなくて、人間と契約できないんです。でも、ひとつだけ特別な魔法が使えます。姿を自由に変えられるんです」

 新菜には言っていないが――『やってみせてくれ』と乞われるのが目に見えているからだ――ハクアは外見年齢をある程度変えることができる。

 具体的には五歳から二十歳程度。その中で最も高い外見年齢を保っているのは、人間に侮られないためだ。子どもの姿をしていれば格段に危険度が増す。


 だが、外見年齢は変えられても自分と全く違う別人にはなれないし、姿形を自由に変える魔法など聞いたこともない。

 恐らくフィーネ固有の特殊魔法。

 角がないことといい、フィーネは非常に珍しい幻獣だ。


「ごめんなさいハクア様。まさかこんなことになるなんて」

 フィーネが大きな目に涙を溜めて言ったとき、耳が足音を捉えた。

 一人ではない、恐らく四、五人ほど。

 息を詰めて痛みに抗い、振り返る。

 部下らしき者たちを引き連れ、歩いてくるのは女だった。

 もったいぶるようにゆっくりとした足取りからして、いますぐどうこうしようという気はないらしい。


「謝る気があるなら、ナイフを抜け」

 敵が仕掛けてくる前にと、ハクアは口早に言った。

 ナイフが刺さったままでは自然治癒力も働かない。


「は、はい。じゃああの、ぬ、抜きますよ!」

 フィーネは背後に回り、掛け声とともに一息でナイフを抜いた。

「……っ!」

 あまりの激痛に身体が大きく痙攣した。

 反射で上げそうになった悲鳴を噛み殺し、俯いて荒い呼吸を繰り返す。

 生温い液体が服を汚し、広がっていく感覚に寒気が走った。


「だだだ大丈夫ですかごめんなさい、ほんとにごめんなさい」

「何を謝ってるのよフィーネ」

 接近していた足音が止まり、女の声がした。


 五人の男を従え、扇子片手に悠然と立つのは、ドレスを纏った美しい女だった。

 外灯に照らされた金の巻き毛。深い青の瞳。

 耳元や胸元で宝石がキラキラ輝いている。

 庶民の出で立ちではない。貴族か。

(こいつ、どこかで……?)

 どこかで見たような気がするのだが思い出せない。


 ハクアは人間に対して非常に関心が薄く、記憶しているのは侯爵家関連の人間と、ごく一部の例外だけだ。


 女が貴族となれば、必然、後ろの男五人は部下ではなく護衛だろう。

 左端に立つ男は指の間にナイフを挟んでいる。

 そのナイフは地面に転がるハクアの血で汚れたものと同じだった。


「ミレーヌ様、こんなのあんまりです! 酷いことしないって約束したじゃないですか!」

 フィーネが涙目で立ち上がり、糾弾するように叫んだ。

 ミレーヌ。護衛二人が話していたエレシュ伯爵夫人の名。

(……ああ……アマーリエが主催していた茶会の招待客の一人か)

 いまのいままで忘れていたが、茶会の当日、ハクアは侯爵邸の正門前で止まった馬車から彼女が手を引かれて下りる姿を目撃した。だから見覚えがあるのだ。


「心外ね。酷いことなんてしてないじゃない。私はただ毒を塗ったナイフで動けなくしただけよ」

「十分酷いですよ!!」


 フィーネの大声はがんがん痛む頭に響き、ハクアはこめかみを押さえた。

 刺し貫かれた背中の傷口は熱く、嫌な汗が噴き出て止まらない。

 手のひらに爪を立て、意識を失わないよう努力している間も、会話は進んでいく。


「いまの見てなかったんですか、ナイフ抜いたとき、ハクア様すごく痛そうでしたよ、身体が痙攣してましたよ!?」

「うるさいわねえ。毒って言っても命に関わるものじゃないし、痛いから何だって言うのよ。あんたも共犯者でしょう? そいつをここまでおびきだしたのは他ならぬあんただっていうのに、いまさら善人ぶって偉そうに説教する権利があると思ってるの?」

 俯いた視界の端で、フィーネの足がびくっと震えた。


「そ、それは……だって……っ」

「何を情に流されようとしてんのよ。オルハーレン侯爵と過ごすうちにあんたまで竜は友達、なんてお花畑の思考に染まっちゃったの? あのねえ、人間が竜を使役することはあっても、友達になるなんてあり得ないから。生殺与奪の権利は私たち人間にあるのよ。私がその目をほしいと思ったら、こいつはそれを光栄に思いながら喜んで差し出すべきなのよ」

「……は」

 扇子の先端を向けられ、思わず失笑が漏れた。

 なるほどミレーヌは欲深い人間らしい、酷く身勝手な思考の持ち主だ。

 自分こそが世界の中心で、竜は種として格下、服従してしかるべき奴隷とでも思っているのか。

 悪女もここまで付き抜けられるといっそ清々しい。


「あら、何を笑うの? 納得してくれたのかしら? だったらおとなしく私についてきてくれる?」

「待ってください!」

 ハクアが返答するより先に、フィーネが叫んだ。

 耳と尻尾を小刻みに震わせ、おどおどと怯えながら、許しを請うように胸の前で両手を組む。

「お、お願いですミレーヌ様。ハクア様も、トウカも、侯爵家の人たちはみんな、フィーネにとっても優しくしてくれたんです。だから、どうか考え直してください、です。ハクア様の目は、本当に綺麗ですけど、ハクア様がいなくなったら、きっとみんな悲しみます……」


「知ったことじゃないわよそんなの。私が欲しいのは《月光宝珠》だけであって、性格が優しかろうがどうしようもないクズだろうが興味ないわ。目を抉ればどうせ死ぬし」

「目を……え? さ、さっきも差し出すとか言ってましたけど……嘘でしょう? そんなのフィーネ、聞いてませんよ? ミレーヌ様はハクア様を飼いたいんでしょう? ずっと傍で見ていたいって……」

 フィーネは混乱したように瞳を揺らした。


「目を抉るなんて言ったらためらうでしょう? だから嘘をついたの。それだけのことよ」

 ミレーヌは悪びれもせず、平然と言った。

 フィーネの顔がさっと青くなる。

「で、でも、それじゃあフィーネは……騙されたってことに……」

「そうね。でも、それもどうでもいいことよ。あんたはここで死ぬんだから」

「え?」

 今度こそ固まったフィーネにミレーヌは厭らしく笑い、屈んで頬を撫でた。


「アルベルトがあんたを連れて帰ったとき、私は本当に嬉しかったのよ。何せ幻獣をこの目で見るのは初めてだったもの。契約したら大魔法使いになれるんじゃないかと楽しみにしていたのに、蓋を開けて見ればあんた、角無しの出来損ないじゃないの。そのときの落胆があんたにわかる?」

「ええ……っと……それは、みんなから言われました……けど……」

 フィーネは身を縮め、俯いた。


「でも……それでもミレーヌ様は良いと言ってくれました、です、よね。優しくしてくれて……大好きって言ってくれて……何度も抱きしめてくれました、です。すごく、すごく嬉しかったですよ?」

 フィーネは頬を撫でるミレーヌの手を掴み、縋った。

 恐らく必死で浮かべているのであろう笑みは強張り、身体が震えている。


「ミレーヌ様は、約束してくれた、です。言うことを聞けば、愛してくれると――ずっとずっと、愛してくれると……だから、フィーネは」

「馬鹿じゃないの?」

 ミレーヌは笑顔でフィーネの台詞を遮り、辛辣に言い放った。

 フィーネの表情が凍る。

「私はあんたを愛したことなんて一度もないし、愛する気もないわよ。誰があんたみたいな出来損ないを愛するものですか」

 フィーネはその場にへたりこんだ。

 瞳から一切の光が消える。

 ミレーヌの手を掴んでいた小さな手が、だらりと垂れた。


 ミレーヌは心配するでもなく、まるでゴミクズでも見るような目でフィーネを見下ろし、腰に手を当てた。

「やって」

 と、右手の護衛に向かって傲慢に顎をしゃくる。


 護衛が剣を抜き放ち、俯くフィーネの頭上に振り上げた。

 すぐそこに死が迫っているというのに、フィーネは反応しない。

 抗う気力もないのだ。絶望しているから。


 まるで過去の自分を見ているようだ。


 エルマリアが自分を庇って致命傷を負ったとき、ハクアは彼女を抱きしめて死の訪れを待った。

 ただ彼女と一緒に逝くことを望んだ。

 でもその望みは叶わなかった。エルマリアが許さなかった。

 護衛が剣を振り下ろす。

 その直前、ハクアは動いた。

 フィーネの身体を後ろから羽交い締めにして引き、死から遠ざける。

 結果として、白刃はただ何もない空間を薙いだだけだった。

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