24:遥かに遠い、祈りの言葉

「まあ凄い。毒が回っても胸を刺されても動けるなんて、さすが竜ねえ」

 ミレーヌが扇子を顎に当てて笑む。

 まるで躾の行き届いた犬を褒めるような態度だ。

 フィーネを一瞥もしない。

 いちいち癇に障る彼女のことは放って、ハクアはフィーネの肩を掴んだ。

 強制的に振り向かせ、顔をしかめる。

 フィーネはぼんやりと虚空を見るばかり。焦点が合っていない。


「ふざけるな。ここで死ぬなんて許さない。こんな終わりは認めない」

 これは死ぬ間際のエルマリアの台詞だ。

 あのときは胸ぐらを掴まれたが、まさか子ども相手にそんなことができるわけもなく、ハクアはフィーネの肩を掴む手に力を込めた。


「人間が皆、こんなくだらない奴らばかりだと思うな」

 声を発するだけでも辛い。貧血で頭がくらくらする。

 それでもハクアは気力で言葉を紡いだ。


「おれはイグニスに出会うまで何十年もさまよったが、お前は違うだろう。誰にも愛されていないと思っているようだか、そんなのとんだ勘違いだ。お前はトウカやニナに愛されてる。イグニスやアマーリエ、侯爵家のメイドや使用人たちだって、お前を大切にしていたじゃないか。性根の腐った女一人に見捨てられたからといって絶望する理由がどこにあるんだ」

 ちょっとそれって私のこと、などとミレーヌが喚いているが雑音として処理した。


「居場所がないならおれの家に来い。わだかまりが溶けるまで多少時間はかかるだろうが、きっとニナもトウカもお前を受け入れる。あいつらはいい奴だから……」

 ふっと、視界が傾く。

 唇を噛みきって飛びかかった意識を繋ぎ止める。


「……そんなに簡単に生きることを放棄するな。死ぬにはまだ早すぎる。お前は生きて、世界の広さや、信じられないほど深い人間の愛情を知るべきだ」

 ハクアがエルマリアやイグニスに教えてもらったように――救ってもらったように。


「……間違ったなら、ここからやり直せばいい。大丈夫だ。まだ……何も終わってない」

 痛みをやり過ごすために顔を伏せ、息を吐く。

「……怒ってない、ですか」

 小さな声が聞こえた。

 顔を上げると、フィーネがこちらを見ていた。

 青い目は虚空ではなく、きちんとハクアを捉えている。

「フィーネのこと、許してくださる、ですか」

「……ああ。怒ってない。もう泣くな」

 震える手を苦労して持ち上げ、濡れた頬を撫でる。


 ハクアはフィーネを恨む気にはなれなかった。

 フィーネは最後の最後でハクアを逃がそうとした。

 幼くても考える頭があり、その性根は善良だ。

 彼女は仕えるべき主人を間違えた。

 同じ貴族でも、ミレーヌではなくイグニスに出会っていたら、こんなふうに泣かされることもなかっただろう。

 巡り合わせが悪かった、それだけの話だ。


「……どうして……どうして、そんなことを言うんですか。優しくしてくれるですか。フィーネは……ハクア様に、酷いことを……」

 血を流しすぎたせいか、体内に回る毒のせいか、フィーネの顔が二重に見えるが、それでも彼女が泣いているのはわかった。

 小さな顔をくしゃくしゃにして、ぼろぼろ涙を零している。

 泣くなと言ったばかりなのに。

 頭の上で震える耳がトウカのそれと重なり、ハクアは微苦笑した。


「……気にするな。この程度なんでもない」

 心臓を撃ち抜かれたことだってあるからな、と言いかけて止めた。

 余計なことは言わなくていい。

 別に不幸自慢をしたいわけではない。

 もしいま誰かにそんなことをされたら自分よりも怒り狂ってくれる人間がいる、それだけでいい。

 イグニスに出会って、新菜に出会って――そう思えるようになったから。


「ねえ。そろそろそいつ殺していいかしら?」


 ずっと無視されて怒ったらしく、ミレーヌが強引に割り込んできた。

 彼女は殺気立った目でこちらを睨んでいるし、護衛たちは既に武器を構えている。

 せっかく収まったのに、またフィーネが震え始めた。顔色が紙のように白い。

 このまま留まっていてはフィーネは宣言通りに殺されるだろう。

 ハクアもどんな目に遭わされるかわかったものではない。

 でも、意識を保つだけで精いっぱいのハクアに彼女を連れて逃げ出す余力は残っていなかった。


(……せめてフィーネだけでも逃がす)

 トウカとほとんど年の変わらない、こんな幼い子どもの前途が人間の身勝手で絶たれるなど我慢ならない。

 フィーネはミレーヌの悪行を知る重要な証人だ。この場を切り抜けられればイグニスにハクアの窮地を伝えてくれるだろう。

 きっと新菜も助けに来てくれる。

 また会える、その可能性に賭けた。


 にわかに頬を水滴が打った。雨が降り出したようだ。

 視線はミレーヌから逸らすことなく、ハクアは小声でフィーネに言った。

「猫になれ」

「えっ」

「いいから早く」

 語尾を強めると、フィーネの身体が光に包まれ、見慣れた黒猫の姿になった。

 フィーネを抱えて立ち上がる。

 ぐらりと視界が揺れた。

 ふらついた姿勢を一歩引くことでどうにか御し、右手の肘から下を竜の形態に変化させる。


 呼吸が荒れる。

 頭の中で巨大な鐘が打ち鳴らされているようで、頭蓋が割れそうだ。

 背中の傷は火をつけたように熱く、そのくせ身体の芯は凍えるように寒い。

 関節が軋み、筋肉が痙攣し、足が震える。

 ぽたりと滴が地面に落ちる。雨ではなく汗が顎を滴り落ちた。


「まあ、あなたそんな状態で戦う気なの?」

 ミレーヌの嘲笑。警戒する護衛たち。

 全てを無視して、ハクアは囁いた。

「丸くなれ」

「はい」

 素直にフィーネは手の上で丸まった。

「非常事態だ。許せ」

「何です? 何をする気なのです?」

 フィーネの困惑も無視し、ハクアは黒猫をまるで球でも持つように右手で抱え、半回転した。


 できれば公園の入り口、侯爵家の護衛たちが待っているであろう場所に立つ木まで一気に飛ばしたかったが、さすがに万全とは程遠い体調でそこまでの飛距離は出せそうにない。

 次善策としてハクアはその手前の木に狙いを定め――黒猫を全力でぶん投げた。


「みぎゃああああああぁぁ……」

 放物線を描いて飛んでいくフィーネの悲鳴は長く尾を引いた。


「…………は?」

 右手の変化を解いて見れば、ミレーヌが口を半開きにしている。

 ハクアの行動は予想の斜め上を行ったのだろう、護衛たちも唖然と突っ立っていた。


 時間が止まる。

「……って、あんたたちなにを呆けてるの!? 早くフィーネを探しに行きなさい! 侯爵に証言されれば厄介なことになる、なんとしてでも始末しなさい!」

 誰よりも先に我に返ったミレーヌが扇子を振り、三人の男たちが慌てて走り出す。


「このクソ竜がっ、手間を取らせやがって――」

 ミレーヌが貴族らしからぬ下品な言葉遣いで罵ってきたが、台詞の途中からその声が遠くなり、聞こえなくなった。

 聴覚が機能を止めたようだ。

 彼女の姿もぼやけて見えず、目に映る全てが歪曲する。


 限界を超えて酷使した身体から力が抜け、ハクアは前のめりに倒れ込んだ。

 胸に何か硬く鋭い感触があった。

 地面と身体に挟まれて眼鏡が割れたのだろう。もう痛みも感じない。


 乱暴に腕を掴まれた。護衛たちが自分を抱え起こそうとしている、らしい。よくわからない。感覚が遠い。


 死ぬのかな、と思った。この女は最もハクアの目が強く光り輝く満月を待つことなく、激昂のまま目を奪い取り、それでハクアの生は終わるのだろうか。


 嫌だな、次にそう思った。国王とは身の安全を保障してもらう代わりに自分が死んだら片目をやると約束したが、本当はイグニスと新菜にあげたかった。

 この目が大金になるなら、少しでも彼らの利益になるなら、目でもなんでもあげたのに。


(でも、二人とも要らないって言ったんだよな……イグニスには殴られた)

 混濁する意識の中で過去を思う。

 イグニスに保護されて一ヶ月が過ぎた頃のことだ。

 あの頃の自分は酷い人間不信で、人間は全て敵だと思っていて、恨みと憎悪に凝り固まっていた。


 だから何故イグニスがこんなに良くしてくれるのかわからなくて、何の見返りも求めないなんて信じられなくて――どうせお前もこの目が欲しいんだろうと睥睨して吐き捨てた。

 そしたらイグニスにぶん殴られた。滅茶苦茶怒られたし泣かれた。


 懐かしい。同時に申し訳ないとも思う。

 イグニスはいつだって出来る限りを尽くしてくれたのに、結局こんなことになってしまった。

 また苦労をかけることを謝りたいし、これまでの礼も言いたかったが、その機会は永久に訪れないかもしれない。

 

 ――待ってますから。だからハクア様。どうか無事に帰ってきてくださいね。


 ひとつ失敗を悟った。

 左手首に巻いたリボンをフィーネに渡しておけば良かった。

 涙のような雨が降る。

 瞼が下り、後悔も何もかも、全てが闇へ沈む。

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