19:猫を探して

「あの、ええと、イグニス様。それではダンスの練習相手はそちらで用意してくださるということでよろしいでしょうか?」

「ああ」

 イグニスはいま初めてこちらに気づいたかのような顔で――愛妻以外の存在を本気で忘却していたらしい――新菜に向き直った。

「もし君に学ぶ意欲があるのなら、ダンスだけではなく、基礎教育に加えて乗馬の家庭教師もつけようと思うんだが。どうだろう?」

「え」

 思いがけない提案に、新菜は目を見張ったが、イグニスはこともなげに続けた。


「知識と教養はあればあるほど役に立つものだ。ニナは異世界人、この世界の歴史や文化などほとんど知らないだろう? 礼儀作法や刺繍はアマーリエに習うといい」

「刺繍以外のことも力になれると思いますわ。乗馬の訓練にも付き合えますし」

 アマーリエは胸に手を当てた。

「乗馬もできるんですか? 王女様だったのに?」

「王女だからこそ、ですよ。乗馬は王侯貴族の素養です。いまでも馬を駆ってイグニスと領地を見回ったりしていますし、二人で遠乗りに出かけることもありますわ。ニナも上手になったら一緒に行きましょう。ああ、もちろん、トウカやハクアも一緒に」

 アマーリエは物言いたげなトウカの視線に気づいて頭を撫でた。


「いつか晴れた日に、野外で私たちと食事をしましょう。約束ですよ」

 屈託なくアマーリエが笑う。

「……はい……」

 新菜は魅入られたようにその笑顔を見つめ――きゅっと唇を結んだ。

 姿勢を正し、侯爵夫妻に向かって深々と頭を垂れる。


「ありがとうございます、イグニス様、アマーリエ様。わたしに教育の機会を与えてくださって」

 ハクアはイグニスの友人かもしれないが、新菜はただハクアの下で働くメイドで、教育を受けさせる義理などない。

 それなのに、彼らは善意で力になろうとしてくれている。

 新菜が将来苦労することのないように。

 ただ、新菜のことを想って。

 その温かい思いやりに、目頭が熱くなった。


「このご恩は忘れません。わたし、一生懸命学びます。どうかよろしくお願いいたします」

「ああ。ちなみにレッスンは明日から始める。午後には家庭教師が来るぞ」

「明日から!? わたしが断ったらどうするつもりだったんですか!?」

 びっくりして言うと、イグニスは笑った。


「断るわけがないと思っていたからな。ニナは向上心が強く、好奇心旺盛で賢い。ハクアからそう聞いていたし、俺もそう思っている。励むように」

「…………はい!!」

 優しい笑みに、新菜は目を潤ませて大きく頷いた。

(イグニス様も、アマーリエ様も、本当に素晴らしい方だわ……皆が慕うわけだ……)

 この度量の深さ、素晴らしい人間性。愛されないわけがない。

 目尻に浮かんだ滴を指で拭い、新菜は身を乗り出した。

「あっ、あの、イグニス様。もう一つお願いしても良いでしょうか?」

 教育というのならば、いま一番学びたいことがある。


「なんだ?」

「戦闘訓練がしたいんです。図々しいとは思うんですが、できればラオさんに師匠になっていただけないかなと思ってまして……もちろん無理でしたらラオさん以外の方でも構いません。とにかく剣や魔法に優れた方に稽古をつけていただきたいんです。わたしは昨日の一件で自分の無力を痛感しました。もっと強くなりたいんです、お願いします!」

「なるほど。そういうことなら協力は惜しまない。望み通りラオを呼ぼう」

「ありがとうございます!!」

 新菜は歓喜し、胸の前で両手を組み合わせた。


「しかしラオを師として仰ぎたいとはな。うるさいだろう、あいつは」

「ええ、まあ、賑やかな方ですね」

 ハクアとトウカが迷いなく頷くのを見ながら苦笑する。


「でも腕は確かだ。恐らくあいつは俺が雇っている傭兵のうちで最強だぞ。ニナは見る目があるな」

 にやりと笑って褒めてくれたイグニスに、新菜は曖昧な笑みを返した。

 いえ、単純に彼以外の傭兵を知らなかっただけなんです、などと野暮なことは言わずにおく。

 底知れないラオの強さは実際に刃を合わせて実感した。

 だからこそ、新菜は彼に教えを乞い、その強さに近づきたいと思ったのだ。





 白い上等な布地に針を刺し、糸を縫い付け、針を引っ張り出す。

 また一針縫っては針を刺し、抜いて、また針を刺す……

「……飽きた」

 新菜はオレンジ色のドレスに身を包み、私室の椅子に座って刺繍をしていた。

 製作途中の刺繍を傍らの小卓に置いて眉間を揉む。

 細かい作業をしていて目が疲れた。

 肩を叩きながら視線を横にスライドさせれば、豪華な天蓋付きのベッドが目に映る。


 天蓋のレースカーテンは金と銀の糸で星の刺繍がなされている。

 初めてこのベッドで眠るときは、魔法のランプの灯を受けて煌く星をうっとりと眺めたものだ。


 魔法のランプ、というのは魔導具だ。

 魔導具は定期的に内蔵された光石を交換しなければならないため維持費用がかかる。

 魔導具本体が破損したり、不具合が起きた場合は重ねて修理費用も必要だ。

 総じて庶民がおいそれと手出しできる代物ではないのだが、侯爵邸は魔導具の宝庫で、多種多様なそれがフル活用されていた。

 単純な光を生むもの、光に熱を伴うもの、水を生み出すもの、風を起こすもの。その他にもたくさん。


 侯爵邸の周囲には魔物の侵入を防ぐ結界維持装置が等間隔で置かれているし、要所要所には防犯用の映像記録装置まで設置されている。


 この部屋の照明も建物の内部に組み込まれた魔導具が担っていた。

 部屋の入り口と、枕もとの二カ所にある紋様に触れれば天井の紋様が光り輝く。消したい場合も同様にすればいい。


「ニナ様。肩をお揉み致しますわ」

 壁際に控えていたメイドたちが寄って来た。

 黒と白のツートンカラーのお仕着せを着たこの二人は、新菜付きのメイドである。


「ああ、いえいえ、大丈夫ですよ! お気遣いなく!」

 新菜は肩から手を離して手を振った。

 この屋敷で暮らし始めて一週間が経つが、いまだにこの待遇には慣れない。

 何せこれまではお仕着せを着て奉仕するのは自分の役割だったからだ。


「そうですか……刺繍に飽きられたのでしたら気分転換に庭を散歩されてはいかがでしょう? ちょうど八重咲の薔薇が見頃ですわ。その刺繍の提出期限は三日後ですし、そんなに頑張らずとも、まだ余裕がありますよ」

 メイドはにこっと笑った。


 彼女たちは新菜に出された課題や日々のスケジュール、飲食物の好みまで完全に把握している。

 マネージャー業もこなせばドレスの着付けや採寸だって行う。

 夜は戦闘訓練で疲れ切った身体に精油を塗り込んでマッサージしてくれるし、朝は目覚めのチョコレートと洗顔用の水を張ったたらいを用意してくれる。


 メイドだけではなく、男性の使用人、馬丁、庭師、料理人、その他諸々――この広大な屋敷で働く者は全員、素晴らしい仕事ぶりだった。


 すっかり感心した新菜は、勉強やダンスレッスンに励む合間に、暇さえあれば彼女たちについて回り、効率の良い掃除や洗濯の仕方などを学んできた。

 ときには厨房にもお邪魔し、親しくなった料理人から特に美味しいと思った料理のレシピを教えてもらっている。

 屋敷内で新菜が自由に動き回れるのも、全ては家主のイグニスが寛容だからこそだ。いつか必ず侯爵夫妻にはお礼をしたい。

 

「そうですね。ちょっと外を歩いてきます」

「かしこまりました。まだ茶会が終わっておりませんので、中庭には近づかれませんよう」

「はい。行ってきます」

「行ってらっしゃいませ」

 メイド二人のお辞儀に見送られて、新菜は部屋を出た。




 今日の夕方から侯爵夫妻とハクアは王都へ向かう手筈になっている。

 侯爵夫妻が王宮まで足を運んで重ねた交渉の末、ようやく国王が証書を書くことを検討してくれそうな雰囲気になったため、直接ハクアと引き合わせることになったのだ。

 出立前に会っておこうと思ったのだが、ハクアは部屋にいなかった。


 邸内を散歩中か。それともどこかで昼寝しているのか。

 探そうにも侯爵邸は広すぎる。部屋の一つ一つを確認していたらそれだけでタイムオーバーだ。午後のレッスンが始まってしまう。

(庭に行ってみよう。もしかしたらそこにハクアさんもいるかもしれないし)

 新菜は玄関を目指して、東翼の二階の廊下を進んだ。

 ふと外に目を向ける。

 今日の天気は快晴。初夏の青空が広がっていた。

 視線を下ろせば中庭が見渡せる。

 複数の庭師により丁寧に手入れされた庭では小川が流れ、石造りの橋が架かっている。

 小川に隣接して異国風の東屋がある。

 アマーリエは今日、五人の貴婦人を招き、そこでお茶会を開いていた。


 事前に新菜も参加するかと誘われたが丁重に断った。

 一挙手一投足に気を遣い、愛想笑いを浮かべて見え透いたお世辞の応酬をするくらいなら、部屋で引きこもっていたほうが遥かにましである。


(何より、客人として招かれた席で、何か失敗して侯爵家の名にわずかにでも傷をつけるわけにはいかないわ)

 アマーリエやイグニスは笑って許してくれるかもしれないが、彼らに迷惑をかけることは、新菜自身のプライドが許さなかった。


 ここからだと角度的に東屋の内部全体を見渡すことはできないが、最も近くで背を向けている女性の身体が軽くのけぞるように動いた。

 誰かが面白いことでも言って笑っているようだ。楽しそうで何よりである。


「あ、ニナ。ミミを見てない?」

 東屋から視線を転じれば、廊下の向こうからトウカが歩いてきた。

 トウカは大体いつも彼女――ミミはメス猫だ――と一緒に行動している。

 人懐っこく、行儀の良いミミは侯爵夫妻や使用人たちからおおむね好意的に迎えられていた。メイドがこっそりおやつをやっている現場を目撃したこともある。


「いなくなったの?」

「うん。書庫で一緒に絵本を読んでたのに、気づいたらいなくなってて。どこ行ったんだろ?」

「トウカに随分懐いてるみたいだし、すぐ戻ってくると思うけど。猫は気まぐれだから、心配しなくていいんじゃない?」

「うん……」

 頷いたものの、トウカの表情は曇ったまま。

 狐の耳も元気を失い、しょんぼり垂れている。

 人間嫌いのトウカは、この屋敷に暮らす大勢の人間に怯えていた。

 それでも新菜と出会ったときのように逃げ出さずに済んだのは、腕の中のミミが精神的な支柱になっていたからだろう。


 トウカは不安になるとミミを撫でることで落ち着いていた。

 そのことを知っている新菜は、屈んで手を差し出した。


「ちょうどいま休憩時間なの。一緒に探すよ」

「ほんと? ありがとう!」

 トウカは嬉しそうに笑い、尻尾を振りつつ、小さな手でぎゅっと新菜の手を掴んだ。

 同時に心臓が鷲掴みにされた。


(可愛いなぁーほんとにもう……!)

 この天使のような笑顔には勝てない。恐らく一生。

 新菜はトウカと手を繋ぎ、猫を探しに歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る