18:侯爵邸へようこそ
オルハーレン侯爵邸は新菜の想像を遥かに超えた大豪邸だった。
贅を尽くした広大なエントランスホール、巨大な水晶をそのまま削り出したという煌びやかなシャンデリア、職人技が光る美しい階段。
目に映る全てに感嘆しながらメイドに通された客間もまた、客をもてなすのに相応しい豪奢な部屋だった。
天井や壁には金で紋様が描かれ、磨き抜かれたガラス窓の外、中庭では色とりどりの花が咲き乱れていた。
噴水が涼しげに噴き上がり、小川まで流れているのだから驚いた。
ソファは座り心地が良く、ふかふかである。
優しく鼻をくすぐる香りは香か、窓辺の花か。
足元の絨毯はいくつもの紋章が組み合わさったような見事なデザインだが、本当に踏んで良いのか不安になる。
この絨毯だけではなく、飾ってある壺や絵画一つ取っても、庶民の年収を軽く上回るのは想像に難くない。
新菜と猫を抱いたトウカは雰囲気に圧倒されっぱなしだったが、二年前までこの家で暮らしていたというハクアだけは気後れする様子もなく、イグニスたちに淡々と昨日の出来事を報告した。
「大変だったな。特にニナ」
丸い小卓を挟んだ向かいのソファに座る侯爵夫妻は同情を示した。
乱暴に突き飛ばされたことを思い出したらしく、トウカは俯いて黒猫の背中を撫でた。トウカによりミミと名付けられた黒猫は、ついさきほどこの屋敷で飼う許可を得たばかりだ。
「トウカ。おいでなさい」
呼ばれて、トウカがミミを抱いたままアマーリエの隣に移動した。
アマーリエはトウカの頭を撫でながら、新菜に問いかけた。
「背中は大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。殴られたときは痛かったんですけど、ハクア様が作ってくださった湿布薬がよく効いて、もうすっかり治りました。それに、こうなったのも、元はと言えばわたしのせいですし……」
唇を噛む。
新菜が空を飛んでも大丈夫か確認したとき、ハクアは領民や国軍は動かないと言っていたが、冒険者については言及しなかった。
こうなる危険性に気づいていたから、新菜の言葉に対して返答が一拍遅れたのだ。
それでも新菜の楽しみを優先してくれた。ハクアは優しいから。
「こんなことになるなら、空を飛んでみたいなんて言わなければ良かったです……」
「お前のせいじゃない」
落ち込んでいると、ハクアが静かに言った。
「一ヵ月前、トウカを乗せて飛んだときは何事もなかったんだ。今回冒険者に目撃されたことは不運だった、それだけの話だ。何より乞われたとはいえ、選んだのはおれだ。最終的な責任はおれにある。お前が気に病むことはない」
「そうだよニナ、いちばん大変だったのはニナでしょう?」
トウカもそう言ってくれたが。
「でも……」
「ニナ。起きてしまったことを嘆くより、これからのことを考えたほうが建設的だぞ?」
なおも反駁しかけた新菜に、イグニスが苦笑した。
「ニナは明るく前向きであることが魅力だとハクアに聞いていたんだがな。君はいま自らその魅力を捨ててしまっている。経験者として言うんだが、ハクアの背中に乗って空を飛ぶのは楽しかっただろう?」
「……はい」
頷くと、イグニスも頷いた。
「ニナもハクアも、何も間違ったことはしていない。悪いのは強欲な冒険者たちだ。いや、悪いというのは違うか。この国には竜を保護する法律などないからな。彼らはしたいようにしているだけだ」
「…………」
「でも、俺にとってハクアは大事な友人だからな。危害を加えられるのを黙って見過ごせるわけもない。ニナもそうだろう?」
「はい」
目に強い光が宿し、新菜は己の胸に手を当てた。
「竜に人権がなく、法が守らないというならばわたしが守ります。トウカはそのためにわたしと契約してくれたんですから、次はありません。バトルメイドを志す者として」
「バトルメイド?」
イグニスが首を捻った。アマーリエも同じような顔をしている。
「戦闘も家事もこなす万能メイドです。わたしのいた世界ではそんなメイドがいたんです」
ただし二次元だが。
「まあ……そんな頼もしいメイドがいるんですね」
アマーリエが感心したように言う。
「なんかね、台詞とポーズもあるんだよー」
「台詞とポーズ?」
「気にしないでください! さすがに人前でやるのは恥ずかしいので!」
トウカの余計な一言に、新菜は顔を赤くして手を振った。
「ふーん? ならまた別の機会にやってもらおう」
「興味を持たないでくださいお願いします……」
からかうようなイグニスの言葉に、新菜は身を縮めた。
アマーリエがくすくす笑い、その細い指で磁器を持ち上げ、紅茶を一口飲む。
高級な磁器は、受け皿に置くと高く澄んだ音を立てた。
「でも、ニナがたとえ有能なバトルメイドであったとしても、残念ながらこの件に関しては個人ではどうにもできません。私たちを信頼してもらうほかありませんわ。ねえ、あなた」
「ああ。冒険者ギルドとの交渉や手回しは俺がやる」
「私もお父様に頼んでみますわ。言葉だけではなく証書という形にして、ハクアが侯爵家の大事な友人であり――言葉は悪いのですが――所有権は侯爵家にあると証していただきます」
所有権という言葉が気に障ったか心配になったらしく、アマーリエは窺うようにハクアを見た。
ハクアが首を振ると、アマーリエは安堵の笑みを浮かべた。
「同時に冒険者ギルドの長や幹部と連絡を取り、ハクアから手を引くようお願いしておきます。王家から圧力がかかれば冒険者ギルドも慎重になることでしょう」
「……お願いします」
新菜は深々と頭を下げた。
認めるのは悔しいが、アマーリエの言葉通り、新菜にできることは何もない。
相手は個人ではなく組織だ。
侯爵夫妻の持つ権力や伝手、交渉術に縋るしかなかった。
「ふふ。ニナは本当にハクアのことが好きなんですね。そんなに一生懸命になって、いじらしいこと」
アマーリエが唇に手を当て、上品に笑った。
「いっ!? いえ、だって、ハクア様はわたしの主ですし!」
新菜は顔を跳ね上げ、大慌てで両手を振った。
昨日ラオに言われた言葉が蘇り、頬が熱くなってしまう。
「ハクアは幸せ者だな。こんなに愛されて」
あろうことか、イグニスまで混ぜっ返してきた。
「だだだから……!」
「ハクアもニナのことは好きだろう」
「ああ」
「えっ」
新菜は思わずハクアを見た。
「す、好きって……」
動揺しながら言う。
「? 嫌いな奴を傍に置くわけがないだろう」
ハクアの回答は至ってシンプルで、ずっこけそうになった。
「ねえハクア、ぼくのことは?」
「もちろん好きだが」
「わーい!」
「ああ、そういう『好き』ですね……」
無邪気に喜ぶトウカを見ながら、ぽりぽりと頬を掻く。
(勘違いして馬鹿みたいだわ)
堪えきれなくなったようにイグニスが笑った。
「大丈夫だニナ、可能性は十分ある。何せニナはハクアが初めて自分から傍に置こうとした人間だからな」
「何の慰めですか……もう。いいから話を進めましょう。国王陛下の証書さえあれば大丈夫なんですよね?」
新菜は顔を赤くしたまま、話題の軌道修正にかかった。
「ああ、たとえこの先冒険者ギルドが何をしてこようと正当防衛が成り立つ」
「だが、仮にも国王が竜のためにわざわざ一筆書いてくれるものか? 見返りになにか要求されるんじゃないのか。納税額を上げろとか、領地を一部返還しろとか、お前たちに不利になるようなことを」
ハクアは不安そうだ。
「そうですね。その心配はないと思いますが……」
と、アマーリエは頬に手を当てた。
「以前からお父様はあなたに興味があるようでした。もしかしたらこの目で見たいと言い出されるかもしれません。王宮に参じろと言われたら、どうします?」
「それで身の安全が保障されるなら構わない。とにかくお前たちに不利益が生じないなら、おれにできることはなんでもする」
ハクアはそう言って、頭を下げた。
「迷惑をかけてすまない。どうか、よろしく頼む」
「任せておけ」
イグニスは頼もしく断言し、微笑んだ。
「頼ってくれて嬉しいよ。最善を尽くすと約束しよう」
「大丈夫ですわハクア、何も心配することはありません」
安心させるようにアマーリエが笑う。
「……ありがとう」
「ああ」
イグニスは頷いてから、こちらを向いた。
「ところでニナ、あと三週間で仮面舞踏会だ。この前は興味を示していたが、どうするんだ? 招待客の一人として参加するならドレスや靴を用意してやるぞ?」
「……あー……」
新菜は返答に困って、ハクアの横顔を見つめた。
ハクアはふっと息を吐いてわずかに肩を落とし、イグニスを見た。
「おれも参加していいか?」
「えっ!? 嫌なんじゃないんですか!?」
新菜は仰天した。ハクアは以前「行かない」と即答したはずだが。
「おれが参加しないと気が引けるんだろう」
「……本当にいいんですか?」
新菜は念を押した。
トウカの膝の上で、ミミもじっとハクアを見ている。
「ああ。昨日は迷惑をかけてしまったし、日頃お前はよく働いてくれている。おれが参加することで、お前が喜ぶなら――」
「喜びます喜びます! すっごく嬉しいですよ!!」
新菜は興奮して何度も首を縦に振った。
「あのあの、もしかして踊ってくれたりもするんですか!? 一緒に練習しませんか!?」
何故かイグニスが笑った。
「その必要はないぞニナ。ハクアは踊れる」
「えええ!?」
「人に混じって生きるなら最低限の知識と教養は必要だと思ってな。うちにいる間に一通りの教育は受けさせたんだ。そのときにダンスも――」
「待て、もう何年も前の話だろう。ステップもうろ覚えだぞ」
ハクアが困ったようにイグニスを制した。
「復習する必要があるか。それならニナと一緒に練習を――」
「いいえ、それはいけませんわ、あなた。本命の相手と踊る楽しみは取っておくべきです。それでこそ当日を指折り数えて待つ甲斐があるというもの」
横からアマーリエが口を挟み、悪戯っぽく笑んだ。
「それもそうだな。――懐かしいな」
「あら、何がです?」
「俺も王城で催される舞踏会だけは楽しみだった」
イグニスがアマーリエの頬に触れた。
「君と触れ合える数少ない機会だったからな。踊っている間は国一番の美姫を独占できる。その栄誉に胸を震わせ、この時が永遠に続けばいいと思ったものだ」
アマーリエが頬を朱に染めた。
「私は楽しみ過ぎていつも寝不足でしたわ。どんなドレスを着ればあなたが気に入ってくださるか、悩んで頭を痛めたものです」
熱っぽく見つめ合う二人。
(あ、やばい、これ放っといたらまた二人だけの世界になっちゃうわ)
既にもうなっているような気もするが、早急に帰ってきてもらおう。
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