35:約束をしよう(2)
「ただいまー!」
トウカの声がして、居間の扉が豪快に開いた。
新菜は大きく後ずさり、ハクアも椅子ごと思い切り身体を引いて壁にぶつかった。多分、痛かったはず。
「あれ、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ? それより、なにその猫?」
「うん、外でね、見つけたの!」
ご機嫌顔で寄って来たトウカの腕の中には一匹の猫がいた。
青い目をした、全身真っ黒な猫である。
何故か猫の毛は全体的に湿っていた。
「凄くいい子なんだよ。ラオと一緒に川の洗濯場に連れて行って洗ってあげたときもおとなしくてねー、嫌がらないし、噛まないし! ねえ、飼ってもいい? ちゃんと世話するから! お願い!」
トウカは猫を抱いてハクアの前に立ち、懇願した。
「……明日からイグニスのところに行くとわかってるのか?」
ラオはイグニスから伝言を預かっていた。
イグニスは冒険者たちにハクアの居場所が割れたことを懸念して、ほとぼりが冷めるまでしばらく侯爵家に避難するように言ってきた。
明日の昼に迎えの馬車が来るらしいので、午前中に荷造りを済ませる予定だ。
「うん。イグニスが駄目って言ったら諦める……。でも、それまでは一緒にいてもいいでしょう?」
トウカはうるうると目を潤ませた。狐の耳が垂れている。
「ハクア様」
新菜も胸の前で手を組み、トウカに加勢した。
新菜は基本的にもふもふしているものに弱い。
犬も猫もどっちも好き。
もちろん、トウカのような狐っ子も大歓迎である。
「……お前もか……わかった。好きにしろ」
「やったー!!」
トウカが猫に頬ずりする。
「わたしも触らせて!」
「はい」
トウカに猫を譲ってもらい、抱き上げて頭を撫でると、猫は「にゃあ」と一声鳴いて新菜の手に頭を擦り寄せた。
「可愛いぃ!」
新菜はたちまち猫の虜になった。
それから数時間後。
新菜は普段ハクアに文字の読み書きを習っている時間を剣の訓練に当て、庭でラオと剣を打ち合わせていた。
ラオは強かった。
新菜の身体能力は常人離れしているはずなのに、ラオもまた魔法で強化しているらしく、余裕で新菜の剣を弾き、あるいはかわし、合間合間でアドバイスをしてくる。
「踏み込みが甘いっす。一度剣を振ったなら最後まで振り切るっす。脇ががら空きっすよ?」
「はい!」
新菜はラオの剣を弾くことに必死で、返事をするのもやっとだった。
「うむ。まあこんなもんっすかね。ニナちゃん筋が良いっすよ。ちゃんと訓練すればかなり良いとこまで行けそうっす。銀は取れそうっすね」
数分に渡る激しい剣戟の末、ラオは剣を下ろした。
「本当、ですか?」
新菜は肩で息をしながら言った。
「本当っす。てか、冒険者にならないっすか? 宝の持ち腐れっすよ?」
疲弊しきっている新菜に対し、ラオの呼吸は全く乱れていなかった。
彼は『銀の双剣持ち』とはいえ、金ではない。それなのにこの強さ。
(金の徽章持ちってとんだ化け物集団なのね……世の中広いわ)
どんな分野でも、上には上がいるものらしい。
「はい。わたしは、家事も、戦闘も……できる、万能メイドを、目指す、つもりなので」
荒い呼吸の狭間で言う。
「あはは。トウカが言ってたバトルメイドってやつっすか。斬新っすね。その発想、面白いっす。確かに、ただのメイドじゃハクアさんは守れないっすもんね。わかったっす、俺もできる限り応援するっすよ」
「ありがとうございます」
朗らかなラオの笑顔に、新菜も笑みを返した。
「ところでニナちゃんってハクアさんのこと好きなんすか?」
「っ!?」
良い気分で剣を鞘に納めようとしていた新菜は、手元を狂わせ、危うく左手を切るところだった。
「ち、違いますよ! 敬愛してはいますが、それはあくまで、主としてです! 大体、彼は竜ですよ!?」
「愛に種族なんて関係ないっすよ? ニナちゃんがいた世界じゃどうか知らないっすが、こっちの世界じゃ異種族同士の結婚なんてよくあることっす」
「そうだとしても、違いますから!」
「そうなんすか? ニナちゃん、ハクアさんのために一生懸命じゃないっすか。冒険者たちに襲われたときだって、身体張ってハクアさんのこと守ってたっす。俺に剣の稽古をつけてくれって頼んできたのも、ハクアさんのために強くなりたいからっすよね? こりゃー愛だと思ったんすけどねー?」
「ちが……!」
「あーうんうん、わかったっす。ニナちゃん、夜でもわかるくらいに顔真っ赤っすよ」
酸欠の魚のように口をパクパクさせていると、ラオは笑った。
「~~もう! 違いますからね! わたしはもう休みます、お相手ありがとうございました! 引き続き警護よろしくお願いします!」
「任せるっす! 誰が来てもボッコボコにしてやるっすよ!」
新菜は膨れっ面のまま、それでも礼儀は忘れることなくお辞儀をし、笑顔のラオに手を振られながら母屋へ向かった。
(……ラオさんったら、急に変なこと言い出すんだから。別に、好きとかじゃないし。ハクアさんに対する気持ちは恋愛感情なんかじゃないわ。好きか嫌いかで言うともちろん好きよ。でも恋じゃない。危なっかしくて放っておけないから守ってあげたいと思うだけで……いわば母性本能ってやつ? うん、きっとそう)
ぶつぶつ言いながら母屋に入り、廊下を進む。
目的地は二階の私室。
汗を掻いたので風呂に入りたい。その前に着替えを取りに行くつもりだった。
階段の踊り場を通り過ぎたとき、背筋を悪寒が突き抜けた。
跳ね上げた視線の先――二階の廊下の暗がりに、何かいる。
白い、ぼんやりとした人型の、霧のような何か。
(……幽霊……?)
ぞくりと鳥肌が立った。
新菜に霊感はなく、生まれてこの方幽霊を見たこともない。
けれど、絶対、何かがいる。
固まっていると、白い人型は陽炎のように揺らめいて、すーっと滑るようにこちらへ移動してきた。
(ぎゃー!?)
反射的に逃げようとしたが、新菜は階段の途中にいたため、上体を引くことしかできない。
ぎゅっと目を瞑ると、ひんやりとした空気に包まれて。
耳元で声がした。
《――ハクアを守って。お願い》
高く儚い、少女の声だった。
切実な、乞うような声。
新菜は目を開けたが、そのときにはもう白い影は消えていた。
何事もなかったように廊下は静まり返り、壁の蝋燭が丸い光を灯すばかり。
「……ハクアを守って?」
新菜は当惑し、すぐにある可能性に思い当たって愕然とした。
「……あなた、ひょっとして、エルマリアさん?」
暗闇に問いかけても、返事はなかった。
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