43:抱擁とリボン

「これは努力の証です。痛くないですよ。大丈夫です。メイドさんたちが毎日優しく手当してくれましたし、ほとんど治りかけですから」

 ハクアが何か言い出す前に、新菜は両手を叩いてみせた。

 本当にもうほとんど痛くはない。

 最も痛かった時期は既に通り越したからだ。


「努力の甲斐あって、昨日は奇跡的にラオさんから一本取れたんです。ラオさんも褒めてくれたんですよ。でも、有頂天になったのもつかの間で、ラオさんったら『じゃあレベルアップっす』なんて言って、さらに早い攻撃を繰り出してきたんですよ! 本当にあの人、底が見えません! 悔しいです。でも絶対追いついてみせますから!」

 決意とともに拳を握る。


「…………。お前は、本当に……」

 ハクアは悲しそうにも呆れたようにも見える、何とも形容しがたい表情をした。

「そんな顔しなくても大丈夫です。何度も言いますけど、わたしはしたいようにしてるだけなんですから。止めたって無駄ですよ。これはわたしの意志です。ハクア様にどうこう言われる筋合いはありません」

 ハクアの目を見てきっぱりと告げる。


「……わかった。なら、何も言わない」

「はい。それでいいです」

 頷く。本当に新菜はそれで良かった。

 同情も哀れみも要らない。ましてハクアが罪悪感を抱く必要もない。

 これは新菜が好きでやっていることなのだから。


「ハクア様が王都に行っている間も、わたし、頑張ります。待ってますから。だからハクア様。どうか無事に帰ってきてくださいね」

 神秘的な虹色の瞳を見つめ、祈りを込めて言う。と。

 予想外のことが起きた。

 ハクアが両手を伸ばし、新菜をその胸に掻き抱いたのだ。強く。


「――!?」

 新菜はあまりのことに仰天し、硬直した。

 押しつけられた胸からハクアの鼓動が聞こえる。

 肌越しに彼の体温を感じて心臓が跳ね、顔の温度は急上昇。

 指一本動かすこともままならない。


 庭を埋め尽くす花の香りに混じって、彼の衣服からほのかに、新菜の身体を包むドレスと同じ石鹸の香りがする。

 一体何が起きているというのか。頭の中は大混乱だ。


「……きっとエルが言っていたのはお前のことだったんだな」


 耳元でハクアが囁くように言った。

「え?」

 エル、というのはエルマリアの愛称だろうと予想はつくが、意味がさっぱりわからない。


 ひたすら戸惑っていると、ハクアは抱擁を解いた。

 そこでようやく、衝撃のあまり止まっていた時間が動き出す。

「すまない。急に抱きしめたくなった」

 律儀にハクアは頭を下げてきた。

「え、いいえ、謝られることではない……ような? はい。嫌ではなかったですし……」

 完全には衝撃から抜け出せないまま、新菜はどうにかそれだけ言った。

 口に出した言葉をもう一度胸のうちで反芻する。

 嫌ではなかった。それは本音だ。


(――うん。嫌じゃなかった。びっくりしたけど……)

 胸に手を当てると、まだドキドキ言っていた。

 頬も変わらず熱を帯びたままだ。


「ダンスのレッスンはどうだ? ステップは覚えたか?」

「え? ええ。だいぶ覚えてきましたよ。当日は問題なく踊れると思います。いえ、完璧に踊ってみせます」

 でなければダンスを教えてくれている教師やアマーリエに申し訳ない。


「そうか。楽しみにしてる」

 ハクアは微笑んだ。

 その笑みにまた、心臓が余計な一拍を刻む。


(どうしたんだろ、ハクアさん。なんかいつもと雰囲気が違うんだけど……)

 照れるような焦るような。

 新菜の動揺に気づいているのかいないのか、ハクアは笑んだまま言った。


「舞踏会が終わったら、家に帰ろう。この家の料理はどれもおいしいが、そろそろお前が淹れてくれた紅茶が飲みたい」

 その台詞を受けて、波のように心をざわめかせていた動揺が消えた。


「……はい」

 新菜も全く同意見だった。

 侯爵邸では皆が優しくて、温かくて、文句など一つもないが――それでもやっぱりここは新菜の居場所ではない。

 帰るべきは森の小さなあの家で、新菜に相応しいのはこんな華美なドレスではなく、シンプルなメイド服なのだ。


「任せてください。この前ハクア様が美味しいと言っていたパウンドケーキのレシピも教えてもらいましたよ。家に帰ったら再現してみせます」

 新菜は笑いながらそう言って、立ち上がった。

「それじゃ、ハクア様。わたしはこれで失礼しますね。そろそろレッスンの時間なので」

「ああ。頑張れ」

「はい。頑張ります!」

 大きく頷き、新菜は来た時よりも弾んだ気分で歩き去った。

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