10:初めてあなたが笑った日
「たのもー!!」
蝶番を吹っ飛ばす勢いで、ばーんっとハクアの部屋の扉を開け放つ。
仁王立ちしている新菜の姿を見て、ハクアは面食らった様子を見せた。
ハクアは部屋の端にある机に座っていた。
右手には羽根ペン。何か書き物をしていたらしい。
「どうしたんだ、いきなり」
ハクアはペンを置き、インク壺に蓋をして立った。
「お話があるんですけど!」
了解も得ずに部屋の中央まで進み、向かい合って立つ。
「話か。殴り込みかと思った」
「心情的にはそんな感じです!」
「……何をそんなに怒ってるんだ?」
ハクアは困惑顔だ。
「トウカに聞きました。わたしは人間だから人間と一緒に暮らすのが幸せだと言われたそうですね」
「ああ」
「余計なお世話です。勝手にわたしの幸せを決めないでください。昨日、イグニス様にどうしたいか聞かれてから、私は頭が痛くなるくらい考えました。そりゃもう、知恵熱が出るんじゃないかってくらい考えに考えたんです。結論は一つでした。この家のメイドとして暮らすことがわたしの望みであり幸せです。他の誰でもなく、ハクア様とトウカの世話役でいたいんです。嫌だって言っても無駄ですよ」
息が続かなくなり、新菜は大きく空気を吸い込んだ。
酸素補給を終えて、再びまくしたてる。
「追い出されてもわたしは何度でも戻ってきますから。メイドを舐めないでくださいね。毎日天井から床までピッカピカに磨き上げてきたおかげでこの家の構造は理解しました。不法侵入は簡単です」
「犯罪予告をしている自覚はあるか」
「はい。なので是非、わたしを犯罪者にするようなことはしないでください」
小首を傾げ、百点満点の笑顔を作る。
ハクアは何も言わない。
少し俯き、考え込んでいる。
新菜は笑顔を消し、真顔で問うた。
「……なんでハクア様はわたしを追い出そうとするんですか? メイドとして至らないんでしたら納得もできますが、働き者だと評価してくれましたよね?」
食事は美味しいと言ってくれた。
炊事だけではなく、掃除も洗濯も頑張ってきたつもりだ。
それでも、もし何か問題があるなら遠慮なく言ってほしい。
そう言ったときも、ハクアは何もないと言った。
お前の働きには満足していると。
だとすれば――
「……単純に」
胸に痛みを覚えながら、聞く。
「わたしが嫌いなんですか。この家に置いておきたくないほどに」
「……違う」
ハクアは否定したものの、それきりだった。
先を促すこともなく、ただ、じっと待つ。
やがて、ハクアは観念したように嘆息した。
「……座って話そう」
「座って、って」
この部屋には椅子が一つだけだ。
困っていると、ハクアはベッドの端に座り、隣を叩いた。
新菜は「さっき地面に座っちゃったので」とハンカチを敷いた。
竜とはいえ、家族でもない異性のベッドに座るなど初めてだ。
多少緊張しながら、隣に座る。人一人が座れるほどのスペースを置いて。
「……前にも言った通り、お前の働きには満足してる。たった一週間足らずでトウカがあれだけ人に懐いたのは初めてだ。おれがお前を嫌ったことなど一度もない」
「じゃあ、どうしてですか」
「原因はお前じゃなくておれにある。――怖いんだ」
「怖い?」
ハクアは床に落としていた視線を新菜に向けた。
「突然異世界に来て、不安で堪らないはずなのに、お前はいつも活力に溢れていた。出会った翌日、調子外れな歌を歌いながら元気に廊下を掃除する姿を見て笑ったものだ」
「み、見てたんですか」
何より、笑っていたのか。新菜の前では笑ったことなどないのに。
「見てたさ。お前のことはいつも気にかけていた。元の世界を恋しがってこっそり泣くんじゃないかと」
新菜はその優しさに胸が温まるのを感じながら言った。
「杞憂だったでしょう」
「ああ。おれが考えるよりお前はずっと強かった。強くて優しい、善良な人間だった。だから怖くなったんだ。お前はいつだって当たり前のように笑いかけてくるから、お前がずっとここにいるものだと錯覚してしまいそうで――別れが惜しいと感じそうで」
(そんなことを思ってくれたんだ)
胸に歓喜の波が広がっていく。
この六日間の努力は決して無駄ではなかった。
新菜の努力は、想いは、きちんとハクアの胸に届いていたのだ。
「おれはお前を縛り付けたくない。お前はもっと広い場所に出て、世界を知るべきだ。生きる手段としてしばらくメイドになるのも良いだろう。でも、それはここであるべきじゃない。こんな小さな家に囚われる必要はない。お前にはもっと他に、相応しい場所があるはずだ」
「ないですよそんなの」
ハクアの想いが籠った、真摯なその言葉を、しかし新菜はけろりとした顔で一蹴した。
ハクアの瞬きの回数が増えた。
まさか否を突き付けられるとは思わなかったらしい。
してやったりだ。新菜はニヤリと笑った。
「アマーリエ様だってイグニス様を選んだでしょう? 他国の王妃になれば贅沢三昧。地位も名誉も約束されているのに、ご自身の心に従われたんです。それと同じですよ。わたしはここにいたいんです。生きる場所はここに決めました。わたしは世界を股にかけるような冒険者なんて柄じゃないですし、元の世界でもインドア派だったんですよね」
「インドア?」
「おうち大好きってことです。もし日常に飽きて、冒険者気分を味わいたいと思ったら森に入ります。あそこには不思議な動物や妖精、ついでに魔物もいますからね。刺激には事欠かないでしょう。この家の住人以外の、他の誰かに会いたいなら村や街に行けばいい。それでも、たとえ一時離れることがあっても、どこへ行っても、わたしは必ずここに帰ってきます」
新菜は柔らかな笑みを浮かべた。
「だってわたし、ハクア様とトウカが好きですから」
その告白に、ハクアは軽く目を見張った。
「だから、わたしをここにいさせてください」
「…………」
ハクアは何故か顔を歪めた。
「どうしたんですか?」
驚いて問うと、ハクアは「いや」と言って、また黙った。
蜂の巣をつついたように、胸の中がざわざわして落ち着かない。
気になる。
新菜の目には、ハクアが泣き出す寸前の子どものように見えたのだ。
瞬きするとその表情は幻のように消えてしまったけれど。
でも。
「あの。差し支えなければ、話してもらえませんか? 何かあるんでしょう?」
新菜は姿勢を低くし、下から覗き込むようにしてハクアの端正な顔を見つめた。
ややあって、ハクアは重い唇を開いた。
「……昔……同じようなことをおれに言った人がいた。おれが好きだから、傍にいさせてくれと。おれはそいつにならこの目をあげても良いと思っていた」
ハクアは片手を頭の後ろに回し、組み紐に触れた。
いつも後ろ髪をまとめている組み紐は、その人との思い出の品だったらしい。
「でも、そいつは死んだ。おれの目を狙って襲撃してきたアヴァン帝国軍から、おれを庇って」
「…………え」
言葉が出ない。
アヴァン帝国。アマーリエの嫁ぎ先候補だった、レノン王国とは北で国境を接する大きな帝国だ。
まさか他国で帝国が軍を動かすとも思えないから、ハクアはそのとき帝国で暮らしていたのだろう。とすると、その人も帝国の住民か。
「おれが殺したようなものだ」
ハクアは苦しそうに言って、俯いた。
「だから、おれは、大事な人を作るのが怖い。大事に想って、失うのが怖いんだ」
ベッドの端にかけられていたハクアの指が、布地に爪を立てた。
「…………」
ようやくわかったような気がした。
優しいけれど、どこか一線を引いて心の内側には踏み込ませないようなハクアの態度。
「人間にも良い奴はいるって知ってる」――あれは、いまはいないその人や、イグニスたちのことだったのだろう。
ハクアが人間を嫌いながらも人間という種全てを憎まないのは、憎めないのは、大事に想っていた人がいたから。
その人はハクアを愛し、慈しんだ。
きっとハクアも同じ気持ちを返した。
けれど、その人は同じ人間に殺された。
なんて残酷で、悲しいことだろう。かける言葉が見つからない。
中途半端な同情は、かえって傷つけるだけだ。
だから、せめて。
新菜がいま言えることは。
「……大丈夫ですよ」
新菜はハクアの手を取り、両手で包んだ。
驚いたようにハクアが視線を上げる。
新菜は微笑み、両手に力を込め、指を絡ませた。
「わたしはいなくなったりしません。だから、恐れないでください。わたしはずっとこの家でメイドとして働きますから。いえ、ただのメイドじゃ駄目ですね」
新菜は手を重ねたまま思案した。
「ハクア様もトウカも人間に狙われる身なんですから、ただのメイドじゃいざというとき二人を守れません。昼は普通のメイド、夜はバトルメイド、そんな二つの顔を作って使い分ける必要がありますね」
バトルメイドニナ。完全にお遊びのつもりでなり切ったが、この家で働くからには、本当に戦闘もできるメイドを目指さなければならないようだ。
それも、一国の軍隊を蹴散らせるほどの圧倒的な力を持つメイドを。
そんなことは不可能だと誰もが言うだろう。馬鹿げていると。
でも、新菜は本気だった。
「バトルメイドって……鏡の前でやってたやつか?」
「はい。あの人は凄いんですよ、家事の一切を完璧にこなしつつ、凶悪な敵から主人を守るんです。わたしはあの人を目標にしたいと思います!」
決意し、手を離して立ち上がる。
ここには箒がないため、代わりに机の羽根ペンを拝借した。
ハクアの前に立ち、ポーズを取る。
恥は無用だ。
なので、新菜は成り切った。
「ハクア様の敵はわたしの敵! みーんなまとめてお掃除します! 悪党どもめ、覚悟なさい! バトルメイドニナ、華麗に参上!」
ポーズを決めて、ハクアに向かってウィンク。
すると、予想外なことが起きた。
ハクアが噴き出して口を覆い、肩を震わせたのだ。
「!!!!」
新菜は仰天した。
(ハクアさんが笑った!! 噴いた!! あの鉄壁の無表情が崩れた!!)
初めて聞いた笑い声に、見た笑顔に、甘く痺れるような衝撃が全身を包んだ。
もっともっと、この竜を笑わせたい。
道化上等だ。
いまなお深い悲しみを抱えたこの優しい竜に、一度でも多く笑ってほしい――そんな思いが胸を突き上げる。
それは痛いほどに強い、衝動にも似た気持ち。
「楽しんでいただけたようで何よりですわ、ご主人様」
隣に座り直し、気取って言う。
「ああ。でも、もういい。多分またやられたら笑うからこれきりにしてくれ」
「あら、じゃあ不意打ちで何度もやりますわ」
ピースした右手を額につけ、ウィンクしながらくいっと顎を持ち上げてみせる。
またハクアが笑った。
さっきのように噴き出したりはしなかったが、口の端を上げたそれは間違いなく笑顔だ。
手を下ろし、新菜も笑った。
昨日から思い悩んでいたことが嘘のように、心が羽根のように軽い。
「そういえば昨日、イグニス様に呼ばれてたじゃないですか。あのとき何を言われてたんですか?」
「廊下に出るなりいきなり手刀を額に受けた」
「まー」
イグニスは武闘派らしい。
さすが凶悪なワイバーンを討伐しただけのことはある。
「ちゃんとニナと向き合えと叱られた。本当に、おれは勝手だった。侯爵家に行くことがニナの幸せに繋がると信じ込んでいた。悪かった」
「いえ、わかってくださったなら良いんです。じゃあ、今度イグニス様たちが来られたらちゃんと断ってくださるんですよね?」
「ああ。お前の気が済むまでここにいろ……いや」
ハクアはいったん目を伏せて、まっすぐに新菜の目を見つめて言った。
「いてくれ」
「……はい!!」
どうしよう。
嬉しい。大声を上げて飛び跳ねたいくらいに。
(――なら、目指すはレニーナね!)
たとえこの先何があろうとも、メイドとしてこの家の平穏は自分が守る。
誰が敵だろうと自分が蹴散らす。
その力を手に入れてみせる。
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