09:らしくない
物干し竿に干したリネン類が風に揺れている。
洗い立てのシーツは石鹸の良い香りがする。
自分の腕に鼻を近づけてみると、ほのかに同じ香りがした。
川の水で丁寧に洗い流したはずなのに、香りが移っている。
洗濯を手伝ってくれたトウカの手もそうなのだろうか。
母屋の壁に背を預けて座り、ぼんやりと午前の青空を見上げる、
緩やかに雲が流れていく。
天気とは対照的に、新菜の心には重く曇天が立ち込めていた。
昨日ハクアに言われたことが頭の中をぐるぐる回り、離れない。
俯いて、ため息をつく。
剥き出しの土の上を一匹の黒い虫が這っている。
虫は新菜から離れていき、やがて下草に呑まれて見えなくなった。
洗濯が終わればすぐに掃除に取り掛かる。それが新菜の日課だったが、どうもやる気が起きない。メイド失格だ。
(こんなふうにさぼってたら、本当に追い出されるわね)
乾いた笑みが浮かぶ。
でも別に良いか、と思う。
この家の主はそもそも新菜を必要としていないのだから。
追い出されたら行く当てはある。働き口はある。
温かく侯爵夫妻は迎えてくれるだろう。
そしてハクアとトウカは二人きりの生活に戻る。
何も問題はない。
ここから新菜がいなくなったって、困らない。誰も。
(……頑張ったのになぁ)
頼るあてもなく、身一つでこの世界に放り出されたから、新菜は初めて出会ったハクアに縋った。雨風が凌げて、魔物の脅威に怯えずに済むのなら、メイドとして働く場所はどこでも良かった。
でも、この家で暮らすうちに、その考えは変わっていった。
他のどこでもなく、この家にいたい。
ハクアとトウカの役に立ちたい。家や衣服を綺麗に保ち、彼らが快適な生活を送れるように努力したい、美味しい料理を作って喜ばせたい、彼らの笑顔が見たい――そう考えるようになった。
トウカは最初こそ新菜に怯えていたが、徐々に心を開いてくれた。買い出しに行ったときには頼りにしてくれて嬉しかった。
昨日の夜、新菜は眠る前の恒例になっていた文字の読み書きの授業を断り、早々に私室へ引っ込んだ。
すると、トウカが珍しく部屋にやってきた。それも、紅茶持参で。
トウカは飲食物を激烈にまずくする天才だ。
出された紅茶はやはりとんでもなくまずかったけれど、心に浸みた。
紅茶を飲んだ後、トウカは新菜を慰め、一緒に寝てくれた。
起きたら今朝の食事の準備や洗濯を手伝ってくれた。
小さな足音が聞こえた。
座ったままそちらを向くと、玄関のほうからトウカが歩いてきた。
「……泣いてるの?」
隣に立ち、不安げにトウカが見下ろしてくる。
新菜は日光を避け、シーツの影に座っていた。傍から見れば隠れて泣いているように見えたのだろう。
「泣いてないよ」
強がって笑うと、トウカはすとんと新菜の横に座った。
二人して春の風に吹かれながら、言う。
「ごめんね、心配かけて。昨日からずっと心配かけっぱなしだよね。昨日の夕食も、今朝の朝食も、私があんまり喋らなかったせいでお通夜みたいだったもんね」
ハクアは無口なので、新菜とトウカが喋らなければ食事の場は静かになる。
トウカは頑張って一人で盛り上げようとしてくれたが、最終的には虚しさを覚えたらしく、黙り込んだ。
「空気悪くしちゃってごめんね」
「……ニナのせいじゃないよ。悪いのはハクアだもん」
トウカは口をへの字に曲げて、膝を抱え込んだ。
しばらくの沈黙。
強い風が吹き、目の前でシーツが大きくはためく。
トウカが数秒だけシーツの影の範囲から外れ、日光を浴びた髪や耳が輝いた。
「……あのね。四日前、一緒に買い物に行ったでしょう」
「うん」
「ニナはぼくと手を繋いで、大丈夫って励ましてくれたよね。大丈夫、この村の人たちはぼくを傷つけたりしない。もし何かあっても、絶対にわたしが守ってあげる。だから胸を張って、前を見て歩きなさいって笑ってくれた。あのときのお礼、まだ言ってなかったから。――ありがとう」
「なんだ、そんなこと。お礼を言われるようなことじゃないよ」
「ううん」
照れ隠しに笑うと、トウカはかぶりを振った。
「すごく嬉しかったの。身体が震えなくなったのは、ニナのおかげ。それとね、好きに使えって言われたお金でハクアのためにハンモックを買ったでしょう? 初めて会った日も、ぼくが作ったカレーを残さず食べてくれた。いい人なんだなぁって思った」
トウカは微笑んだ。
「ハクアにも言ったんだ。ニナと仲良くなりたいなって。なれるといいなって。でもハクアはあんまり仲良くなるのはダメだって言った。別れるときに辛くなるからって」
「そっか……。ハクア様は本当に、最初っからわたしを追い出す気満々だったのね」
落ち込む新菜に、トウカはまたもかぶりを振った。さっきよりも強く。
「嫌いだから追い出すわけじゃないんだよ。ニナのことが好きだからそうするんだと思う」
「どうして」
「ニナが人間だから。人間は人間と一緒に暮らすのが一番幸せで、ぼくたちといちゃダメだって言ってた」
「そんなの勝手だわ。わたしの幸せはわたしが決める」
なんだか急に腹が立ってきた。
(何を勝手に思い込んでるのよハクアさんったら。そしてなんでわたしは日陰でウジウジ悩んでるのよ。ちっともらしくないわ)
新菜はすっくと立ち上がり、尻を叩いて土を落とした。
「ハクア様と話してくる」
「うん。頑張って」
トウカは応援するように、大きく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます