08:消沈する昼下がり

 イグニスが確認を終えると、侯爵家の使用人たちは客間に置かれた品々を回収し、一足先に侯爵邸へ帰って行った。

 入れ替わりに、トウカが客間へやってきた。


 侯爵夫妻はトウカを歓迎した。

 愛くるしい幻獣は半ば強制的に二人の間に座らされ、頭を撫でられたり尻尾を触られたりした。

 トウカは逃げたりせず、これまであった出来事などを身振り手振りを加えて熱心に報告し、侯爵夫妻は頷いてそれを聞く。


(侯爵家の使用人は信用してないけど、この二人は別なのね)

 ハクアが座るソファの斜め後ろに控え、幻獣と人間との微笑ましい対話を見守ること数十分後。


「へえー、それじゃあハクア様がお二人が結婚するきっかけになったんですね」

 新菜はハクアとともにソファに座り、侯爵夫妻との歓談に興じていた。

 本来なら使用人が主と同席するなど考えられないことだろうが、侯爵夫妻は寛容だった。

 ニナも座って話をしようとイグニスのほうから言ってくれたのだ。


「ええ。ハクアが王女と侯爵という身分の差に悩むイグニスの背を押してくれたから、イグニスは私に求婚してくれたのです。侯爵は上級貴族。過去に王女が降嫁した例はありますし、何ら問題はないというのに、私には他に相応しい人がいるとか言い訳して。私はとうの昔に心を決めていましたし、視線や動作で幾度も好意を訴えていましたのに。意気地がないんですから」

 アマーリエは唇を尖らせた。


「仕方ないだろう、君にどれだけの縁談があったと思うんだ。国内の名だたる有力貴族に、他国の王子や辺境伯。俺より遥かに財力があり、身分の高い者ばかりだ。躊躇しないほうがおかしい」

「もう。とにかく、私たちは結婚の許しを得るべく、お父様に思いを伝えたのです。するとお父様は言いました。これまで誰にも倒せなかった、国境を荒らす凶悪なワイバーンを討伐することができれば許す、と。無理難題だと思いましたが、イグニスは私の制止を振り切って国境へ向かい、見事に成し遂げたのです」

 アマーリエは紅茶の入ったティーカップを手に微笑んだ。


 ただティーカップを手に微笑む、それだけで絵になる。

 姿勢、所作。どれを取っても彼女は淑女として完璧だ。

 客間まで歩いてきたときも、その足運びは実に美しかった。

 ほとんど衣擦れの音を立てることのない、滑るような優雅な歩き方。

 物語でしか知らなかった本物の王女が目の前にいると、新菜は感心しっぱなしだった。


「凄いですね。イグニス様の実力と努力と根性、それはもちろんあると思いますが、何より大きかったのはアマーリエ様への愛ですね!」

 新菜はぐっと拳を握った。

 最初こそ失礼のないようにと気を張っていた新菜だが、イグニスの巧みな話術によって既に化けの皮は剥がされていた。

 肩からはすっかり力が抜け、完全に素で対話している。


「ああ、本当に死ぬかと思ったけどな。でも、後悔はしてない。きっと何度時間を戻しても、俺は同じ行動を取るよ。ワイバーン討伐でも西方の平定でも、アマーリエを妻に迎えるためならなんでもやっただろう」

「きゃー、オアツイ!」

 手を叩くと、イグニスは照れをごまかすようにトウカの頭を撫でた。


「むー」

 荒っぽいその撫で方が気に入らなかったらしく、トウカがふくれっ面で抗議の声を上げたため、イグニスが手を離す。

「ふふ」

 目を細め、アマーリエがトウカの耳を優しく撫でる。


(羨ましいぃー!!)

 多少は打ち解けてきたものの、いまだ新菜は『トウカをもふもふする』夢を叶えられていなかった。

 トウカとのスキンシップといえば、三日前、村に買い出しに行くときに手を繋いだ程度である。

 それも村人に怯えるトウカが縋る対象を必要としていたから、仕方なく、だ。

 新菜が求める親愛に満ちたスキンシップとは程遠い。


 それを侯爵夫妻やハクアは存分に見せつけてくる。

 彼らがトウカと触れ合う度、新菜は空想の中でギリギリとハンカチを噛み締めた。


「実はイグニスが凱旋し、城で盛大な宴が開かれた夜、お父様はごねられたのですよ。まさか本当に討伐するとは思われなかったようで、『お前はアヴァン帝国かエバンテ公爵家に嫁がせたかった』と零され、あろうことか、私の心変わりを望まれたのです」

「え、え、それで? どうしたんですか?」

 新菜は上体を乗り出した。

 イグニスも真顔でアマーリエを見ている。


「約束が違うと抗議しましたわ。これではイグニスが命を懸けた意味がないではありませんか。もちろん、度重なるワイバーンの襲撃に悩まされていた国境の民はイグニスに感謝するでしょうが、それとこれとは全く話が別です。怒り狂った私は、窓辺に立ち、言ってやりました。イグニス以外の殿方と結婚するくらいなら、いますぐこの窓から身を投げますと」

 アマーリエはにこっと笑った。

 妙な気迫がある笑みに、イグニスの顔色が青くなる。


「私の本気が伝わったのでしょう。お父様は泣いて止めてくれと私に縋り、早急に婚儀を整えてくださいましたわ。それ以降は一切反対の言葉を口にすることなく、とんとん拍子で話が進みました。初めからそうすれば良かったと思ったくらいです」

 アマーリエは笑んだまま、頬に手を添えた。


「良いわけないだろう……」

 イグニスは顔を片手で覆い、唸るように言って嘆息した。

「……君との婚儀の際、何故皆が大げさなくらいに俺たちを祝福してくれたのかよくわかったよ。異を唱える者は死刑だとでも陛下が言われていたのだろうな。愛娘の脅しがよっぽど効いたんだな……お気の毒に」

「あら、あなたはお父様の肩をお持ちになるのですか? それはつまり、私と結婚したくはなかったと?」

 アマーリエが柳眉をひそめた。


「まさか。君以外の女性など考えられないよ。俺が花を捧げ、傍で笑顔を見たいと願う人は、今も昔もただ一人、君だけだ」

 イグニスはアマーリエに身体を寄せ、その頬に口づけした。

「……仮面舞踏会の際に揃いの正装をしてくださるなら許しましょう」

 つんとした顔で、アマーリエ。

「からかわれるのが目に見えるが……わかった。君の望むままに」

 イグニスは降参、とばかりに両手をあげた。


「約束しましたわよ」

 固く閉じた蕾が開くように、ようやくアマーリエが笑った。

 イグニスも相好を崩す。

「やはり君は笑顔が一番良く似合う。俺は出会った時から君に花を贈り続けてきたが、君の笑顔の前ではどんな花も霞んでしまうな」

「もう。からかわないで」

 アマーリエの頬が赤みを帯びる。

「おや、俺は本気で言っているのだが」

「……あなたこそ」

「それはどういう意味かな?」

「あなたの笑顔は私にとって太陽ですわ。失っては生きていけません」

 頬を染めたまま、恥ずかしげにアマーリエが言う。

「全く。その顔は反則だろう。君には敵わないな」

 もう一度イグニスがアマーリエの頬にキスをした。


(うわー、空気が桃色だわー)

 侯爵夫妻は二人の世界へ突入してしまった。

 居たたまれず、ちらりと横目で窺えば、ハクアは能面のような無表情。

 トウカは両手でティーカップを持ち、マイペースに紅茶を飲んでいる。

 二人とも、侯爵夫妻のバカップルぶりにはもう慣れっこらしい。


「あの、ところで」

 遠慮がちに声をかけると、いちゃついていた二人はこちらを見た。

 その動作が完璧に揃っていたので、笑いそうになるのを堪えて訊く。


「仮面舞踏会があるんですか?」

「ああ。ニナは知らないか」

 イグニスは親切に教えてくれた。

 あと一ヵ月ほどで夏至が訪れ、夏至祭が行われる。

 夏至祭は太陽を司る女神に感謝する祭り。

 各地は光と炎で彩られ、特に王都の夜景は圧巻だという。


 夏至祭が終われば王侯貴族たちは年に一度の華やかな社交期を迎える。

 貴族は自らの邸宅を競うように飾り立て、代わる代わる舞踏会を開き、社交を繰り広げるそうだ。


「社交期の舞踏会は貴族の見合いの場でもあるが、俺には既にもったいないほどの妻がいるからな」

 アマーリエが照れ隠しのように艶やかな髪の毛先を弄った。


「だから今年は少々趣向を凝らして仮面舞踏会を開くことにしたんだ。その後に改めて正式なパーティーを開くが」

「仮面舞踏会……楽しそうですね」

 仮面をつけ、着飾った紳士淑女たちが踊る様を想像し、新菜は思わず本音を漏らしていた。


「興味があるならニナも参加するか?」

「えっ! いいんですか!? わたし、貴族でも何でもありませんけども」

「いいさ。仮面舞踏会は社交より楽しむことが目的だからな。相手の正体を明かそうとするのはマナーに反する行いだから、一人や二人貴族でないものが混ざっていてもわかりはしない。ハクアも参加して良いんだぞ?」

「行かない」

 ハクアはにべもなく断り、新菜に平坦な視線を送ってきた。

 その視線を受けて、はっとする。

 仕事はちゃんとこなせ、と今朝言われたばかりではないか。


(わたしは何を浮かれてるの。立場も忘れて! メイドが主を置いて舞踏会に参加するなんて許されるわけないじゃない!)

 おこがましいとはこのことだ。新菜は慌てて言った。


「申し訳ありません! 大変ありがたいお話ですが、わたしはこの家のメイドです。職務を放り出すわけにはいきません。ハクア様が出席されないんでしたらわたしだけ出席するわけにもいきませんし、お気持ちだけで――」

「そのことだが」

 ハクアが新菜の言葉を遮った。


「ニナを侯爵家で引き取ってもらえないか」


「え」

 新菜は目を見張った。

 トウカも侯爵夫妻も驚いている。


「五日間共に暮らしてきたが、こいつは働き者だ。侯爵家でもきっと役に立つと思う」

「待って、待ってください!」

 堪らずに叫ぶ。

「どういうことですか!? そりゃあ、今朝は鏡の前で醜態を晒してしまいましたけれど、わたしはこれまできちんと職務を果たしてきたつもりです! 少しでもハクア様やトウカに喜んでもらいたくて、頑張ってきたのに」

「だからお前は働き者だと正当に評価しているだろう。何をそんなにうろたえているんだ。この家には一時的に住まわせてやるだけだと最初から伝えていたはずだが」

「……それは……」

 虹色の瞳に見据えられて、言葉に詰まる。


「お前は人間だ。人間が人間と暮らす、そこに何の不都合がある? むしろ竜と幻獣と暮らす現状のほうがおかしいだろう。話してみてわかったはずだ。イグニスなら仕える主としては申し分ない。それとも何か不満があるのか」

「……ないに決まってます、けど……」

 違う。問題はそこではない。

 その言葉が口に出せず、新菜は唇を噛んでメイド服を握り、俯いた。


「オルハーレン侯爵家は裕福だ。賃金も弾んでもらえるだろうし、メイドとして働く者はたくさんいる。仕事量も断然少なくなる。いまよりずっと幸せな生活が送れるぞ」

「…………」

「魔導具を買って魔法を使うのが夢だと言っていただろう。侯爵家で働けばその夢はすぐに叶う。金が貯まればどこへ行くもお前の自由だ。侯爵家の使用人になって、仮面舞踏会でもなんでも、好きに参加すればいい。これ以上お前がこの家に留まる理由などない」

「あー、おい。ちょっと待てハクア」

 俯いた視線の先で、イグニスの手が動き、手のひらをハクアに向けた。

 意気消沈したまま、のろのろと顔を上げる。

 イグニスはこめかみを揉みつつ、渋面で言った。


「ニナを引き取るのは構わない。が、それはあくまで、ニナが望むなら、の話だ。本人の意向を無視してどうする。主の言葉には無条件に従えというなら、それは横暴だぞ」

「全くです」

 アマーリエが呆れ顔で同意する。

 トウカも何やら不満そうにハクアを睨んでいた。

 非常に珍しいことだったが、新菜に気づく心の余裕はない。


「ニナはどうしたい?」

「……少し、考えさせていただけないでしょうか」

 イグニスの問いに、小さな声で言う。


「そうか。俺たちはまた一週間後に来るから、そのときに返事を聞かせてくれ。ハクアとよく話し合って、ニナの望むようにすればいい。ニナがどんな選択肢を選ぼうと、俺はニナの望みを尊重するよ」

「ありがとうございます」

 温情に深く頭を下げると、イグニスは頷き、立ち上がってハクアを見た。


「ハクア、ちょっと来い。話がある」

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