06:チューニ病には気をつけよう
◆ ◆ ◆
案の定というべきか、新菜は食あたりで寝込んだ。
これはわたしの仕事だと言い張り、ゾンビのような顔色と足取りでふらふらと食器の片付けをしようとするものだから、ハクアは見かねて彼女を抱き上げ、自身のベッドに寝かせた。
「……なんで食べたのかな。残せば良かったのに」
濃い草の香りが満ちた厨房で、トウカが呟いた。
責任を感じているのか、耳と尻尾が垂れている。
「わかってるだろう。ニナはお前を悲しませたくなかった、それだけの話だ」
コップに少量のハチミツを入れる。
ハチミツは煎じた数種の薬草と混ざり合い、なんともいえない芳香が立ち上った。
コップにスプーンを入れ、かき混ぜる。
煎じた薬草はよく効くが、激烈に苦いのが難点だ。このハチミツで飲みやすくなれば良いのだが。
「そんなの……」
トウカは俯いた。小さな手が握り締められる。
「人間にもいい奴はいる。お前も、イグニスやアマーリエのことは嫌いじゃないだろう」
「…………」
「酷い人間もいるが、それだけじゃないということだ」
後ろ髪に括った組み紐が、ほんのわずかに重みを増した、ような気がした。そんなわけがないというのに。
――なあ、お前にならこの目をあげてもいいよ。
――馬鹿ね。
そう言って笑った少女の姿を、声を思い出す。耳朶にそっと触れる風のような、甘やかで、優しい声。
――あなたの目をもらったって、私はちっとも嬉しくないわ。
雪のように真っ白な髪が風に揺れる。木漏れ日が彼女に光の斑点を散らす。
――どうして? 大金になるんだよ? みんなが欲しがるのに、いらないの?
――ええ。その目はあなたが持っていないと意味がないもの。あなたの目が私を映す、それが大事なの。そこにしか意味はないのよ……
「……ハクア?」
呼びかけられて、我に返る。
知らず、意識を過去に飛ばしていたようだ。
「なんでもない」
ハクアは小さく首を振り、それ以上の追及を封じた。
◆ ◆ ◆
居間の壁に備えつけられた姿見の向こうから、少女が見返してきている。
両手で箒を持った掃除中の少女――つまりは自分である。
服装は黒をベースにした膝丈のメイド服。
腰に巻いたエプロンは赤紫色で、腰裏に大きなリボンを結んでいる。
ポニーテイルにまとめた長い黒髪。その上にエプロンと同じ、赤紫色のメイドキャップをつけていた。アクセントの黒のリボンが可愛らしい。
(しっかしこの格好、完全にレニーナだよね)
箒を抱え、腰に手を当てて胸を張る。
この服は四日前、ハクアと買い出しに行った大きな街で新菜が選んだものなのだが、RPGのメイドキャラ『レニーナ』の服を参考にしたせいで、まるっきりコスプレ状態だ。
こうなると『キャラになりきってみたい』という欲が疼く。
新菜はレニーナが出てくるRPGの大ファンで、叔父や叔母にどうしてもと頼み込み、去年の夏には遥々地方から東京のイベントにも参加しに行った。
レニーナの決め台詞や必殺技はもちろん、他キャラとの掛け合いまでも空で言える自信がある。
(完全にコスプレ状態で、レニーナの固定武器の箒まで持ってるわけだし、一回だけなりきっちゃおうかなぁ……一回だけ、一回だけ! いまハクアさんもトウカも外で庭いじりしてるし。絶好のチャンス、活かさなきゃ損よね!)
こほんと咳払いし、鏡の正面に立つ。
右足を後ろに引き、左足を前へ出して、高らかに叫ぶ。
「ご主人様の敵はわたしの敵! みーんなまとめてお掃除します!」
踊るようにステップを踏み、左手の箒を器用に回転させ、次々にポーズを変えていく。
「悪党どもめ、覚悟なさい! バトルメイドニナ、華麗に参上!」
本来はバトルメイド『レニーナ』だが、そこは自分の名前に改変した。
箒を掲げ、ピースした右手を額につけ、ウィンクしながらびしっと決めポーズ。
ちなみにゲームならばここでド派手なエフェクトが入る。
(……ふ……決まった。我ながら惚れ惚れする完成度だったわ)
達成感に浸っていたところで、部屋の扉が開きっぱなしであることに気づいた。
そして、その向こうに二人がいることも。
「……………」
何故彼らがここにいるのだろう。
草刈り用の道具を取りに引き返してきたのか。
はたまた、気が変わって庭いじりを止めたのか。
いや、理由など、もはやどうでも良い。
問題は彼らがここにいて、ばっちり目撃したという現実そのものなのだから。
新菜はポーズを取ったまま石像と化した。
ハクアは鉄壁の無表情。
トウカはとんでもないものを見たかのようにガタガタ震え、ハクアの腕に縋りついた。
永遠とも思える、地獄の数秒が過ぎていく。
ハクアは顎に手を当てて俯き、ぼそっと呟いた。
「……チューニ病か……」
「なんでそんな単語を知ってるんですかっ!?」
新菜は仰天した。
「以前に会ったリエラの招き人に聞いたことがある」
ハクアは書類の数字でも読み上げるように、淡々と語った。
「異世界人は一時期、誰でも発症する厄介な病があると。多くは成長に伴い自然に治るが、人によっては長く引きずる。だからもしもこの先、リエラの招き人と出会い、そいつが『左目が疼く』などと言い出したり、奇怪な言葉を叫んで珍妙なポーズを取ったりしても、深く追及したりするな。ただ生温かい視線で見守ってやれと言っていた」
(あー、きっとその人も異世界に来て、ついハイテンションになって、おかしなことしたんだろうなぁ……)
新菜は見知らぬ先達に思いを馳せた。
「トウカ、ニナは病気なんだ。だからそんなに怯えるな」
ハクアが頭を撫でると、ハクアの背後に隠れていたトウカが出てきた。
まだ顔が青ざめている。
「そうなのよー、驚かせてごめんね、トウカ。
頭をこつんと叩いて『てへっ』と笑い、さも些細な失敗を犯したように振る舞ってみせる。
いまこそ新菜の精神力が試される時だ。開き直らなければ羞恥で死んでしまう。
「もうほんと、失礼しました。ところで」
即座に話題転換にかかる。
「ハクア様は他の異世界人と会ったことがあるんですね。だから私と会ったときにそんなに驚かなかったんですねー。ちなみにその人はどうなったんですか?」
「さあ。五十年も前に別れて、それきりだ」
「五十……!? ちょっと待ってください、ハクア様っていまいくつなんですか?」
「七十は過ぎたと思うが……正確にはいくつだったか。忘れた」
「そんなに年上だったんですか!?」
てっきり人型の外見年齢通り、二十歳前後だと思っていた。
「竜は人間に比べて長寿だからな。二百は生きる」
「二百……!」
新菜は目を剥いた。人間の倍以上だ。
「それより、メイドとして働くんだろう。仕事はちゃんとこなせ」
「はい、ご主人様」
新菜は己の立場と職務を思い出し、背筋を伸ばして深く頭を下げた。
ハクアが廊下の奥へと歩いていく。
トウカはハクアに続いて立ち去る寸前、こちらに顔を向けた。
「どうしたの?」
笑顔で尋ねた新菜に、トウカは上目遣いに、いかにも心配そうな顔と声で。
「お大事にね」
全身に電撃を喰らったようなショックが走る。
幼い子どもの、深い同情と哀れみがこもったその一言は、新菜の笑顔を凍らせるには充分だった。
トウカが小走りに駆けていく音を聞きながら、新菜は激しく震え始めた。
トウカから声をかけてくれたのは、顔を合わせるなり逃げられていた頃に比べたら随分な進歩だと思うし、心配してくれたのも嬉しい。
嬉しい。が。
「………………」
箒から手を離し、がっくりとその場に膝を落とす。
一拍遅れて背後で箒が床に落ちる音がする。
(……もういっそ殺してくれ……!!)
真っ赤に染まった顔を両手で覆い、新菜はしばらく悶絶した。
金輪際、RPGのキャラになりきるのは止めよう。
そう心に決めた朝の出来事だった。
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