03:取引成立!
透明な液体が乾ききった喉を潤し、臓腑に滲み渡る。
(あー。
新菜は小川のほとりで恍惚の表情を浮かべていた。
まるっきり風呂上がりの一杯を噛み締める叔父そのものの姿だったのだが、本人はそれに気づかない。
現在、新菜の左手には大きなビール缶――もとい、ただの水があった。
足元の小川からすくった水である。
ほんの数分前、ハクアは森の中を流れるこの小川に案内してくれた。
周囲には白い花が咲き乱れ、苔むした岩や老木が転がっている。
高く鳴くのは枝の上の小鳥。
青空から降り注ぐ光を反射して、水面が宝石のようにキラキラ輝く。
神秘的までに美しい小川の風景は、歩き疲れていた新菜の目にこの世の楽園と映った。
「はー……」
生き返ったような心地で息を吐く。
森の水場は涼しく、川のせせらぎは心を落ち着かせた。
ふと水面に映る自分の姿を見る。
乱れた髪、ほつれたセーラー服、頬に走る赤い筋――どうやら枝葉でひっかけたらしい。
見下ろせば、手足には細かな傷がいくつもある。
一番酷いのは右足、膝の下に走る裂傷だ。血が一筋垂れている。
茂みに突っ込んだときにできたものだろう。痛いなと思ったのだ。
横を向くと、ハクアは少し離れた岩場に座っていた。
立てた片膝に腕をかけ、銀髪を微風にそよがせながら、水面を見ている。
慣れない森の中を歩き回り、疲労の色が濃い新菜に比べ、ハクアは全く平気そうだ。息一つ乱していない。
新菜のために休憩時間を設けてくれたのだろう。
(何も言わなくてもここに案内してくれたし、本当に優しい竜なんだな……お礼したいけど、いま何も持ってないし……いや、待てよ?)
新菜はポケットから飴を取り出し、ハクアの前に立った。
「これ、助けてもらったお礼……に、なればいいんですが。飴はお嫌いですか?」
「飴……?」
自分の知っている飴と違う。ハクアはそんな表情をしていた。
(毒入りとでも思われたら一大事だわ)
新菜は急いで包装紙を破り、赤いイチゴ味の飴を口の中へ入れてみせた。
「手を出してもらえませんか?」
「…………」
仕方なく、といった様子で、ハクアが手を差し出した。
人間と変わらないその手に、緑色の飴を乗せる。
ハクアは飴を摘み、口の中に入れた。
おいしいのかまずいのか、無表情からは窺い知れない。
「おいしいですか?」
「……まあまあ」
「そうですか。まずくなかったなら良かったです」
微笑んで、手に残った包装紙をポケットへ突っ込む。
「ところでハクアさんは森で何をしてたんですか? 巡回とか?」
「巡回してどうするんだ。薬草を摘みに行ってただけだ」
ハクアは腰に下げた袋から草の束を取り出した。
茎が紐で縛ってある。
几帳面な性格らしく、草の束は丁寧にまとめられていた。
「そうなんですか。良かったです、このタイミングで外に出てくれてて。ハクアさんがいなかったらわたし、死んでましたもの。助けてくださって、本当にありがとうございました」
「お礼はさっき聞いた」
ハクアは薬草を腰の袋に戻そうとし、それから、思い直したように一枚を引き抜いた。
新菜に薬草を突き出す。
「傷に効く。潰した汁を塗れ」
ハクアは新菜の傷ついた右足を見てから、再び顔を見た。
「はい。ありがとうございます」
受け取った葉を両手で潰し、その汁を傷に塗る。
ぴりりとした痛みが走った。
生理的な反応として涙が込み上げてきたが、傷に効いた証拠だ。
そう思うことにして、目元を人差し指で拭う。
せっかくなので気になった他の傷にも塗っておき、薬草を捨てる。
「さっきわたしのことをリエラの招き人とか言っていましたけど、あれはどういう意味ですか? わたしがこの世界に来たのは、リエラっていう人のせいなんですか?」
「違う」
ハクアは淡々と否定した。
「リエラはこの世界で信仰されてる女神の名前だ。旅人の守護神だが、少女の見た目がそのまま精神年齢で、よく悪戯をするらしい。召喚術もなしに異世界から迷い込んだ人間がいれば、リエラの仕業ということになってる」
「なるほど。じゃあ、そういう人たちはその後どうするんですか? 国が保護してくれたりします? 就職先を斡旋してくれたりとか……」
「まさか」
ほのかな期待を、ハクアは一蹴した。
「全くの偶然、ただの事故で迷い込んできただけの人間を、どうして国が保護するんだ。お前が国賓と認められるほどの技術や知識を持ってるなら話は別だが」
「う……」
「ある日突然、家に見知らぬ他人が出現したとして、家族よりも見知らぬ他人を優先する人間なんてどこにもいない。汗水流して稼いだ金があれば、当然家族のために使うだろう? 縁もゆかりもない他人が野たれ死のうとどうなろうと知ったことか、で終わりだ」
「正論ですね……」
項垂れる。
(これからどうしよう? 読んでたライトノベルじゃ冒険者を目指してギルドに登録し、魔物を倒してお金を稼ぐっていう展開だったっけ)
「この世界に冒険者ギルドはありますか?」
「あるが、冒険者を目指すのか? あの程度の魔物に殺されそうになっていたのに?」
ハクアは不安げな顔をした。
「あの程度って……もしかしてあれ、雑魚なんですか?」
「ああ。一撃で倒せるくらいの力量がなければ止めたほうがいい。まず間違いなく死ぬぞ」
「はい、わかりました。わたしに冒険者は向いてませんね!」
新菜は爽やかな笑顔で言って、冒険者という選択肢を脳内の架空のゴミ箱に叩き込んだ。
しかし、改めて考えてみると、自分に何ができるのだろう。
趣味はゲーム。この世界では役に立ちそうにない。
特技は嘘泣き。世渡りの有効手段にはなっても、金にはならないだろう。
(得意なこと……うーん……あ、家事ならやれるぞ!)
ピコーンと閃き、新菜は手を打った。
新菜は小学生の頃に両親と弟を事故で亡くし、叔父の家に引き取られてからというもの、家事の一切を押しつけられてきた。
特に料理の腕は研究を重ねてきたおかげで――なにしろまずいと文句を言われるのだ――かなりのものだと自負している。
この世界は現代日本ほどインフラが整備されていないだろうが、川での水汲みでも洗濯板を使っての洗濯でも、生きるためならばなんでもやろう。覚悟は決めた。
(よし、それじゃ住み込みで雇ってくれそうな人を探そう! 得体の知れない異世界人を受け入れる物好き――もとい、度量の広い素敵な人なんてそうそういないだろうし、頑張って探さないと……ん?)
ハクアは無表情でこちらを見ている。
(……もしかしてわざわざ探さなくても良いんじゃない?)
ハクアを見つめて、新菜の目が怪しく光った。
「ところで、ハクアさんはどこで暮らしてるんですか? やっぱり竜らしく、森の中で巣を作ってるとか?」
内心の企みを悟られぬよう、努めて平静に探りを入れる。
「いや。竜の姿だと人間に追いかけ回されるから、この森の近くで人になりすまして暮らしてる」
「……一人暮らしですか?」
新菜の目がさらに強く輝く。
獲物に狙いを定めた肉食獣の目の輝きだ。
「幻獣の子が一人……どうしてそんなことを聞くんだ? 目が怖いんだが。まさか」
「そのまさかです」
新菜は真顔で肯定し、一歩詰め寄った。
ハクアがわずかに頬をひきつらせる。
「……。ちょっと待て。本気か? 人間が、おれの家で暮らしたいと?」
「だってわたし、お金も何も持ってないんですもの。このままじゃ野宿確定です。野垂れ死にしてしまいます」
胸の前で手を組み、瞳を潤ませる。
そうして嘘泣きしてみせると、ハクアは目に見えて困った。
やはり彼は優しい竜だ。
良心がちくちくと痛むが、新菜も切羽詰まっているのである。
異世界で野垂れ死にするのも魔物の餌になるのも嫌だ。
――バッドエンド回避のために、なりふり構っていられない!
「村に行けば、泊まらせてくれる奴がいるかも――」
「『一文無しの異世界人なんですけど泊めてください』って言って、泊めてくれるお人好しがいると思います?」
瞳を潤ませたまま、切々と訴えると、ハクアは渋面を作った。
「……じゃあなんでおれに頼むんだ?」
「ハクアさんは優しい方ですし、信頼できますから。わたしを助けてくれて、傷の心配だってしてくれました。とっても親切にしてくれて、凄く嬉しかったんです。もちろん、ただでとは言いません! わたし、家事は一通りこなしてきたので、料理も洗濯も掃除もできます。メイドとしてきっと役に立つと思、いえ、必ず役に立ってみせます!」
新菜は地面に跪いて土下座した。これぞ日本人の必殺技である。
「一生懸命働きます。完璧なメイドになってみせます! だから、お願いしますハクアさん、いえ、ハクア様!!」
地面に額を擦りつける勢いで、深々と頭を下げる。
ハクアは何も言わない。
聞こえてくるのは木の葉が揺れる音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
数分が過ぎただろうか。
風が吹いて、新菜の長い髪が踊る。
やがて、声が降って来た。
「……わかった」
渋々といった了承の声に、顔を跳ね上げる。
上体を起こした拍子に、折り曲げていた腰がぽきっと鳴った。
「ただし、あくまで一時的に住まわせてやるだけだからな。メイドとして働くっていっても、給金なんて出す余裕はないから。なるべく早く出て行けよ」
秀麗な顔には、はっきりと『不本意だ』と書いてある。
でも、お構いなしに新菜は大喜びした。
「はい! ありがとうございます!!」
(やったー!! これで『異世界で野垂れ死にエンド』のフラグは回避!! ハクアさんに会えて本当に良かったー!! 神さまありがとう! ハクアさんありがとう!! よーし、メイド業頑張るぞー!!)
涙目もどこへやら、元気に立ち上がって万歳三唱する新菜を、ハクアは呆れたように見つめ――ほんの少しだけ笑ったのだが、新菜は気づかなかった。
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