第二部その一
幼い僕が雀小弓を構える。
『えい、えい!なんだ、ちっとも当たらないじゃないか』
揺れもしない的に嫌気がさしていると、一回り大きな手が添えられる。
『ちょっと失礼します』
草野の手が僕の代わりに弓を引く。
耳元でささやく声にぼうっとしている間に、矢が飛んだ。
『…当たった』
『ちゃんと的見りゃ当たりますよ』
得意げに草野が笑う。
『僕だって見てる!…なんでこんなに差があるんだ』
『そりゃ、どんくさいからじゃ』
『あん?何だって?』
じろりと後ろをにらみつける。
『あーでも、別に弓くらいできなくても、この草野が御身をお守りしますよ』
この野郎、誤魔化しやがったな。
『ほー、その言葉忘れるなよ』
『はいはい、んじゃ息抜きもできたことだし手習いに戻りましょうか』
『え』
そこで目が覚めた。
「…懐かしい夢を見たな」
首だけ回すも、部屋には誰もいない。
変な感じだ。
「よいしょっと…やけに頭が重いな」
起き上がると背中でさらりと髪が揺れる。ん?背中?
「はぁあああ!?なんでこんなに長くなってんだ!?」
下ろしても肩くらいまでだった僕の髪が、身の丈以上になってる。え、そんなに寝こけてたのか。
「いや違う、この格好は…」
つけ毛じゃないか。衣も女人のものだし、いくら玉のようでも僕は男だぞ?なんでこんな…。
「おや、お目覚めでしたか」
「草野…」
御簾を少しだけ上げて草野が入ってきた。つつじの襲が嫌味なくらい似合ってる。まるで頭の中将みたいだ。
「どうですか居心地は。なるべくあんたの好みに合わせたつもりですけど」
側に座し、目線の高さを合わせられる。
「どうって…」
言われてみれば、硯箱から屏風まで一通り揃ってる。どれも蒔絵だったり螺鈿だったりが施された見事な品々だ。一朝一夕で揃えられるものじゃない。
…つまり、こうなることが分かってたんだ。
「お前こそどういうつもりだ。自分が何したか分かってんのか?」
裏切られた。それも、草野に。わざわざ聞かなくても、分かってる。邸に火をつけ、僕をさらったんだ。それでも、聞かずにはいられなかった。
「分かってますよ」
「…っ目的は何なんだよ!僕の出世はお前の出世でもあるんだぞ!こんな、こんなことしたら」
「出世どころか没落したも同然ですね。左大臣はお亡くなりに、あんたは世間的には行方知れず…もし表舞台に出れたとしても、何の後ろ立てもないわけだ」
「なら何故…」
ぐっと身体を寄せられる。
「あんたですよ」
「な」
「俺は、あんたが欲しかった」
伸ばされた手は、夢と違って冷たかった。
「なるほど、顔の痣はそのせいか。ふふ、ほんに躾のなってない子猫だこと」
「笑い事じゃありませんよ…」
結構本気で迫ったのに、この様だ。硯箱なんて手の届く所に置いとくんじゃなかった。俺としたことが、あの人の凶暴さをすっかり失念していた。しゃーない、落ち着くまで右近に頼むか。
「して。左大臣の方はどうかな?」
「…まあ、生きてるでしょうね。火に巻かれたくらいでどうにかなる方じゃありませんし」
なんせ、あの狭霧様の父上だ。雷にうたれても大丈夫な気がする。
「探りますか?」
「よい、化けて出られても困る。邪魔されなければ結構…それより、あれの準備を急がねば」
「はい」
狭霧様も手中に収めたことだし順調順調。
後は物をあらためるだけだ。
「見張りはいないな、よし」
御簾を上げて辺りを見回す。貴族の邸なんて構造は大体同じだ。僕が今いるのは対屋の廂だろう。だったらこのまま広廂まで行ってそこから門まで走るしかないか。のびてきた手を思い出す。さっきは運良く硯箱があったけど、まともに押さえ込まれたら逃げられない。
逃げられなかったら、どうなるんだろう。
僕は、これからどうなるんだろう。
ずぶずぶと悩みの底なし沼にはまりそうになって、あわてて首を振る。…っ駄目だ、考えるな。まずは父上のご無事を確かめるのが先だ。
「そうとも、こんな所とっとと出てってやる」
気を取り直して一歩踏み出す。
びったーんと顔からこけた。
「くっそー動きにくい!草野め、ここまで考えてやがったなちくしょう」
あいつの忍び笑いが聞こえてきそうだ。畳も投げつけりゃよかった。だいたい『欲しい』ってなんだよ僕は犬猫じゃないぞ。慕っているというなら歌のひとつも寄こせってんだ。…それか自分の出世に利用しようってか?そっちの方がしっくりくる。例えばここは右大臣の邸で、僕を手土産に取り入るつもり…とか。単に僕を手に入れたいなら、何も火事を起こす必要はないんだし。
「…………」
いつの間にか足を止めてうつ向いていた。
さっきからどうも悪い方へ考えが行きがちになってるなぁ。まあ当然っちゃ当然か。乳兄弟に放火されてかどわかされたなんて、京でも僕だけだろうよ。
「はあー…」
腹の底からため息をつくと足を動かす。なんにせよ、広廂まであともう少しだ。手すりを超えて降りればいい。これだけ人気がないんじゃ、外の見張りも少ないだろう。無事逃げおおせたら、へのへのもへじの所へでも行こう。そうだ、父上もきっとそこにいらっしゃる。邸が焼けても財はそこらに隠してあるからすぐに再興できるさ、それから……それから。
「あなつきなし。姫がこんな所まで来るものではありませぬ」
気配もなく突然聞こえた声に再び足を止める。
振り返るといつか見た仏頂面の女房がいた。
「お前は…」
「右近にございます。草野様のご命令でお仕えさせていただくことになりました」
竹の棒でぴしゃりと叩くかのようなこの言い草、間違いない。右大臣の邸で会った女房だ。
じゃあ、じゃあここは、本当に右大臣の邸なのか…?それに草野『様』って。
「さ、お戻りなさいませ。琴と歌の手習いもありますし」
「は?手習い?なんで」
「北の方になられるのですから当然でございましょう」
一瞬何を言ってるのか分からなかった。
「…誰が誰の?」
「貴方様が草野様の」
しれっと返される。待て。ちょーっと待て。
「僕は男だぞ!?」
「ほほ、草野様が望まれれば姫としてまかり通ります」
いつの間にそんな偉くなったんだ草野のやつー!
「さあ戻りますよ。まずは裳着を済ませなければ。草野様が選ばれた裳はそれはそれはいみじくあはれなりて…」
こうして僕はずるずる引きずっていかれたのだった。
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「ほ、本当によろしいのですか?」
「あーいいからいいから」
「はあ…」
牛飼いがしぶしぶ牛を引く。そりゃそうか、行き先が行き先だもんなー。俺だって右京の端なんか用がなけりゃ行きたかない。あそこは京であって京じゃない。人家はまばらで華やかさなど微塵もなく、昼でも物の怪が出ると噂が絶えないからまともな奴は近づかない。いるのは乞食か骨くらいだ。
「…まあ、だからこそ悪だくみには持ってこいなんだけど」
空がやうやう白くなりゆく頃、やっと沼地が見えてきた。車を待たせ、靴を汚して人気のない通りを歩いていく。あばら家なんてどれも似たようなもんだが、その中でも格別にみすぼらしい家の戸を叩いた。
「…誰かえ」
しばらくして、枯れ木をこすり合わせたような聞き取りづらいしゃがれ声がする。
「俺だ」
「ほう!ほう!これはこれはお久しゅう草野様」
とたんにしゃがれ声がはしゃいだものに変わる。
「例の物なら出来は上々…ささ、こちらに」
朝日もささない部屋はどんよりして暗く、湿っていた。しかも臭い。糞尿と屍肉の臭いがする。
「ひひ、どうじゃ?今度のはよう出来とるじゃろ?」
板きれに乗せられたそれをのぞき込む。うわぁ、怨念こもってそうだ。
「これはの、三日三晩血の中につけこんだ。死臭は屍肉になすりつけたらよう香るわ」
「もういい」
聞いてるだけで吐きそうだ。袖で顔を覆うのを見て、翁がにたりと笑う。
「これよりさらに恐ろしいことを企だてておいでの方が何をおっしゃる…貴方様でそうならあのお方は気が触れるでしょうなあ」
「だと楽なんだがな…それで、完成したのか?」
「いえいえ。大事な仕上げが残っておりまする、あれはお持ちでしょうな?」
言われるがまま、預かってきた髪の毛を渡す。翁がうやうやしく両手で受け取った。
「これじゃあこれ。髪は呪にかかせませぬからな」
か細く震える手が、血を吸ってどす黒く染まった人形に渡した髪の毛を巻きつけていく。迷いも恐れもない。むしろ楽しげだ。どんだけ手慣れてんだこのじじい。
「これで完成じゃ。いかがかな?」
それはよくできた呪具だった。
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「ほんに容姿だけなら若紫にも劣らぬというのに…」
裳着のための衣をあてて、右近がため息をつく。
失礼だな、まるで僕の長所が見た目だけみたいじゃないか。ちなみに今日はあくまでもあてるだけ。 着るのは本番だ。
はりきってるとこなんだが、僕は男子だからな?左大臣の一人息子だからな?
「腰結役は草野様にしていただきますからね。異例ではありますが、まあいいでしょう」
いいわけあるか。さっさととんずらしたいとこだが、この女房、結構な馬鹿力だ。
暴れまくったのにびくともしなかった。 決して僕が非力というわけじゃないからな。
んなわけでおとなしく逃亡の機会を伺っているのであーる。まずは情報収集だ。
「な、なあ」
ちろりと目線が突き刺さる。う、怯むな狭霧。
「ここは…本当に右大臣の邸なのか?」
意を決して聞いてみる。右近は右大臣の女房だ、それは間違いない。ただ、この部屋といい、邸といい、なーんか違う気がするんだよなぁ。前に忍び込んだ時は地味ながらもどことなく雅さがあったが、今は武骨とも言ってもいいほど味気ない。…僕がいる部屋以外は。
「おや、分かりましたか」
まさか気づくとは思わなかったとばかりに大げさに驚かれる。
「ここは草野様のお邸ですよ」
「……は?」
「右大臣が草野様のためにお建てになられたのです。ああっ急に座らない!皺になってしまうじゃありませんか!」
…座ったんじゃない。 力が抜けたんだ。
「……草野は」
衣を丁寧にたたむ手が止まる。
「草野は……何者なんだ?」
右近は部屋を出るまで黙ったままだった。
続く
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