9月1日(火)

 夕食の準備が終わった。後はご飯が炊けるのを待つだけ。コロッケは中身が少し出てしまったけど、一つくらいならまあいいかな。それは私が食べたらいいし。大根はちゃんと味が染みてるかな。あの人ブリ大根にだけはうるさいからなあ。それ以外はなんでも美味しいって言って食べてくれるのに。大根を一切れ鍋から取り出して少しだけ味見してみる。うん。悪くない。あともう少し置いとけばもっと味も染みるだろうしちょうどいいかな。

 ダイニングの椅子に腰掛けて、テレビのバラエティ番組を眺める。画面の中ではたいして使えもしない情報を、まるでこれさえあれば人生が変わるとでもいうかのように大袈裟に紹介している。そんな番組に嫌気がさしてチャンネルを変える。一通り確認し終わった後、とりあえずクイズ番組にしておく。バラエティは騒がしくてあまり好きじゃない。ニュース番組はもっと好きじゃない。思い出させることが多すぎる。結局そのクイズ番組もあまり面白くなくてテレビ自体を消した。そしてラジオを付ける。沈黙自体はもっと嫌いだ。自然と余計なことを考えてしまう。

 ラジオからは今週のパワープッシュだという曲が流れ出した。女性ボーカルの消え入りそうな声が聞こえる。ギターだけのシンプルな伴奏に悲しいメロディー。聞いてるだけで悲しくなる。けれど歌詞は決してネガティブなものではなかった。むしろ絶望の中から光が見え、目に映る風景が一変していく歌詞だった。心地よい悲しみが生まれる。悲しみが好きなわけじゃない。けれど、悲しみの中でも心地よい種類のものがある。この歌はちょうどそんな悲しみを生む歌だった。

 そんな悲しみは逆に今の私の幸せを照らしてくれる。本当に今の生活が奇跡だ。あんな過ちを犯してしまった後、とても苦しい日々が続いてきた。それは当たり前だ。私は一生をかけて償っていかなければならない。だからむしろずっと苦しい生活が続くものだと思っていたし、そう覚悟を決めていた。そんな私の前に和志が現れた。私にとっては奇跡そのものだ。和志は奇跡なんかじゃないっていつも言うけれど。ただのしがない三十一歳の男だって。

 いつの間にかラジオから流れるのは高い声の男性ボーカルのロックバンドの曲に変わっていた。どうしてこんな私の前に和志みたいないい人が現れたのだろう。思えば昔もそうだった。情けない私の前に亜矢や亮、奏太が現れて友達になってくれた。亜矢なんてあんなことがあった後も私と友達でいてくれる。私には釣り合わない人ばっかりだ。不思議で仕方ない。

 はあ。有り難いことなんだけれど何故かため息が出る。今の幸せが今すぐにでも崩れ去ってしまう気がして仕方ない。きっと、この幸せは私が手に入れたものというよりも、周りから与えられた幸せだからなのだろう。だから私はこのガラスの幸せを壊れないように精一杯守っていこう。そうすることが今の私の精一杯だ。

 ドアが開く音が聞こえた。

「ただいまー」

和志が仕事から帰ってきた。時計を見る。七時半を回ったところだった。

「おかえり」

玄関まで迎えに行く。和志と結婚してもう一年半になる。子供もまだ作らず気ままな新婚生活がずっと続いていた。子供を作るのは怖かった。ちゃんとした家庭を作る自信が私には無かったから。

「ご飯出来てるけどどうする?」

「先風呂入っていい? もう汗だくでさ」

「わかった。でも今日暑いからお風呂貯めてなくてシャワーでいいかなって思ってたんだけど大丈夫?」

「うん全然おっけ」

そう言ってくれた和志から鞄を受け取る。鞄にすらも汗の匂いが染み付いていた。

「そういやポストに玲未宛に手紙届いてたよ。こんなの」

「え、なに?」

和志から受け取った手紙には、玲未へ、と書かれていた。裏返してみる。そこには亮より、とあった。

「え……」

九年振りに見た名前に思わず時が止まった。ちょうどさっき亮のことを思い出していた。こんなことってあるんだ。最近では思い出すことも少なくなっていたのに。

「どうした? 大丈夫か?」

「うん。大丈夫。嫌な奴じゃないから。むしろ、嬉しい、かな。久しぶりすぎて驚いただけ」

「そっか。それならよかった。じゃあ俺シャワー浴びてくるわ」

「うん。いってらっしゃい」

和志は風呂場へ歩いて行った。私には弱点が多い。だから和志は私が傷つかないようにいつも注意深く守ってくれる。

 私はキッチンに戻って料理を温める。コロッケをトースターに入れ、ブリ大根をもう一度火にかける。そしてダイニングの椅子に腰掛け、手紙を見つめる。どうしてこんなタイミングで亮から手紙が来たのだろう。あ、もしかしたら。亜矢に手紙を渡しておいたことを思い出す。当時はいつ返事が来るかと待っていたけれど、もう最近は忘れていたくらいだ。あの手紙がやっと亮に届いたのかもしれない。もう返ってこないと諦めていた分、心臓が激しく鼓動している。

 風呂場からドアが開く音が聞こえる。和志が服を脱いで浴室に入っていったのだろう。封筒の封を開け、便箋を取り出す。三枚の便箋が二つ折りになって入っていた。そして、その便箋をゆっくりと開く。懐かしい文字が目に飛び込んでくる。昔と変わらない筆圧の薄い文字。特別綺麗なわけではないけれど、何故か読みやすい文字。それが亮の文字だった。

「久しぶり。遅くなってごめん」

亮の文字をゆっくり追っていく。そして色んな感情も同時に湧き上がっていく。どこかで止まったままの時がいま再び動き出した。あの日止まってそのまま凍り付いてしまっていた亮との関係性が今溶け出していく。そして涙も溢れ出す。和志が帰ってきたらきっと戸惑うだろう。でも悲しいわけじゃない。ただひたすら感動していた。また私に奇跡が降ってきたんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エンドロール ハル @yusukumorishima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ