9月1日(火)

 五年ぶりに会う香織にどんな顔をすればいいのかわからない。あからさまな笑顔も奇妙に見えるだろうけれど、暗い表情では会いたくない。いつも一緒にいた頃のような自然な笑顔を作りたいけれど、もうそれも思い出せない。考えれば考えるほど、頬が強張っていくのが自分でわかる。そもそも東京の空気に慣れていないせいか、単純に表情がうまく作れない。はあ。ため息と一つつく。もういいや。自然な表情を作ることを諦めた僕は、ポケットからエンドロールを取り出し、それを眺めることにした。

 香織から待ち合わせ場所に指定された店は居心地が良かった。洗練されすぎず、けれど野暮じゃない。カフェと呼ぶより喫茶店と呼ぶ方が似合うこの店には、初老の男性がカウンターの向こうに立っていて、もう一人若い男のウエイターがいた。もう日も沈んだ午後七時という時間帯も影響してか、客はさほど多くない。もともと広くはない店内で、半分程度しかテーブルは埋まっていなかった。

 アイスコーヒーを飲みながらエンドロールをめくる。この小さなノートはもうヨレヨレと言っていい程で、角は擦り切れている。これを書き出したのは三月の終わり。もう五ヶ月以上が経っていた。順に見ていくと、これまでの人生と共に、この五ヶ月間の記憶が蘇る。初めの一ヶ月で、すぐに思い出せるようなものは書きつくしてしまい、残りの四ヶ月はかなりペースが落ちた。どうでもいいようなことでも、自分の人生と一瞬でも関わりを持ったものであれば書いた。今何をしているのかわからない小学校の同級生の名前も書いたし、高校の部活で訪れただけのグラウンドも書いた。そして仕事を辞めた八月からは少し内容が変化する。そこからはあえて書かないでおいた大切な人や場所、思い出に強く残っているものを記すようになった。奏太や亜矢の名前もそこで初めて書いた。香織に告白した場所さえ実際に訪れて書いた。そして最後のページに書かれている文字が、加藤玲未の四文字だった。

 腕時計の文字盤を見る。時刻は七時を三分回ったところだ。カラカラと鐘が鳴る音が聞こえ顔を上げると一人の女性が店内に入って来た。もしかして香織ではと思った瞬間に遅れて男性が一人入ってきて、二人がカップルだということがわかる。よく見ればその女性も香織に全然似ていない。おそらく二十代前半で若すぎたし、何もかも違う。僕は急に不安になる。僕の知っている香織なんてもういないような気がした。僕の記憶の中の香織は五年前のまま止まっている。その上、きっとこの五年間で勝手に作り変えている可能性だってある。思い出はいつだって美化されるものだ。僕が思い描いている香織は幻想に過ぎなく、現実の香織とは遠くかけ離れているかもしれない。

 幸せそうなあのカップルを見ていると、またカランカランと鐘が鳴る。扉の方を見ると、今度も女性が一人で入ってきた。そして店内を見回している。白いシャツにタイトなスカートを着て、仕事帰りだと一目でわかる。香織だろうか。確信は持てない。けれど彼女がこちらを見て目が合った瞬間にわかった。香織だ。髪の毛はやや短くなっていて、化粧も昔に比べたら大人びている。全体的に随分落ち着き、洗練された風貌になっていた。それでも香織だとわかった。流れた時の長さを感じたけれど香織であることには変わりなく、むしろ僕の思い描いた香織よりも美しく魅力的になっていた。

 目が合ったと同時に、彼女もまた表情がぱっと変わった。それが良いことなのか悪いことなのかは判断がつかない。ただあからさまに強張るということは無かった。

 僕が軽く右手を上げると、香織も右手を軽く振ってこちらにやってくる。僕はその間にエンドロールを鞄にしまった。

「久しぶり」

そう言って香織は微笑んだ。その微笑みを僕は知っていた。

「久しぶり。知らない間に随分大人になったね」

「そう? 服装のせいじゃない? でも亮くんは全然変わんないね。私服だからかもしれないけど」

 いざ香織が目の前に座ると、表情を作る余裕なんて無かった。ここにいるのは紛れもなく香織自身で、容姿は少し変化したとはいえ、肝心なものは変わっていない。醸し出す雰囲気や表情の作り方、声、ちょっとした仕草、それらは僕の知っている香織そのままだった。五年の月日が生み出す懐古の感情と、変わらない香織がいる安堵の感情が混ざり合って、僕を自然と微笑ませる。けれど僕達はもう恋人同士ではない。元恋人だ。その間柄はもちろん緊張感を生み出し、背筋は真っ直ぐに伸ばされていた。

「そんなに変わってないかなあ。で、最近どう? 元気にしてた?」

「まあそれなりかなあ。仕事も順調っていえば順調だし。こっちでの友達もそこそこ出来てきて、ようやくこの街がホームに感じるようになったって感じかな」

そう言って香織は運ばれてきた水を一口飲んだ。香織の一挙手一投足に注目してしまう自分がいた。

「それなら良かった。確かデザインの会社だっけ?」

「うん。デザインっていうかちっちゃな広告代理店っていうのかな。その中でデザイン関連を主にやってるって感じ」

香織と僕は同じ大学だったけれど専攻していたものはまるで違った。僕は教育学部の心理学科で、香織は芸術学部のデザイン科だった。僕は香織の描いた絵や、作ったデザインが好きだった。よく香織の部屋で、絵を描いたりデザインを考えてる香織をベッドに横になりながら眺めていたことを思い出した。あの時は時間がゆっくり流れていたような気がする。

「そっか。すごいな。香織が作ったもの何かないの? 今の香織がどんなもの作ってるのか見てみたい」

「えー。なんか見せれるのあるかなあ」

そう言って香織が携帯電話を操作し始めた。きっと何か写真でも見せてくれるのだろう。

 ふと気になって声をかける。

「そういえば場所変えなくていいの? 香織晩御飯まだでしょ?」

香織が画面から目を離し、顔を上げた。

「亮くんさえ良ければここでいいよ。ここのご飯案外美味しいの。メニューはシンプルなんだけど」

「そうなんだ。じゃあここにしよう」

「これが五月くらいに作ったポスターなんだけど」

そう言って香織が携帯電話を僕の前に置いた。画面に映っているのは、女性のモデルが三人奇抜な衣装を着て立っているものだった。不思議な模様の背景が印象的だ。

「ファッションショーの広告なんだ」

「へー。何かすごいな。一人前のデザイナーなんだな」

「まあ、ありがと」

正直僕には何がすごいのか、すごくないのかもわからなかった。ただそのポスターが街中に貼ってあっても違和感は感じないし、プロが作ったというのが素人でもわかる。昔学生時代に作っていたものとは全然違うもので、それが寂しくもあり、香織の成長も感じさせた。

「亮くんはどうなの? 今もカウンセラーやってるの?」

「カウンセラーは辞めたよ」

「え、辞めたの? いつ? なんかあったの?」

香織は目を丸くして質問を次々と投げかけてきた。そんな表情の変化ですら懐かしい。

「やめたのは七月の終わりかな。別に何があったわけじゃないよ。仕事自体は順調だったし。ただ、なんというか、もういいかなって思ってさ」

上手く説明する言葉が見つからず、そう言って笑っておいた。まだどこかに香織に弱みを見せたくない虚栄心が存在していて、それがこんな言葉を吐いた。

「そうなんだ。今は新しい仕事してる感じ?」

「まだ探し中。候補はいくつか見つかってるんだけど」

「ふーん。なんか亮くんらしくないね。そういう見切り発車的な行動。亮くんなら仕事辞めるにしても、転職先の目処を立ててからやめそうだもん」

「それ何人かにも言われた。まあ僕も内面は変わってきたってことだよ」

「なにそれー」

まるで昔みたいに香織が笑うので、僕もつられて笑う。どうして香織はこうも自然に振る舞えるのだろうか。不思議で仕方がない。

 ふと沈黙が二人の間に訪れる。付き合っていた頃は、言葉を交わしていなくても居心地の良い空間が二人の間には形成されていた。けれど今は沈黙が気まずい。僕はアイスコーヒーを飲み干す。香織が来るまでにほとんど飲み終えてしまっていたから、ほとんど氷水と化していた。香織も水を一口飲んだ。

「なんか注文しよっか」

とりあえず会話を生み出す。

「あ、そうだった。忘れてた」

香織が恥ずかしそうに笑いながら、メニュー表を開いてテーブルに置いた。香織も緊張しているのかもしれない。そんな気がした。

 二人でメニューを覗き込むと少し顔の距離が近づき、香織の匂いがふんわりと鼻に届いた。その瞬間楽しかった日々の感覚が蘇り、目の前の香織をじっと見つめてしまった。香織はそんな僕の視線に気付かずメニューを眺めている。

「どうする?」

その言葉にはっと我に帰る。そしてもう一度メニューを眺める。

「おすすめは?」

「個人的にはオムライスかな。ふわとろで美味しいんだよね」

「へー。そういや香織オムライス大好きだったよな」

「うん。二人でよく作ったね」

「そうだな」

懐かしそうに香織は目を細めた。あの日々を一体どういうものとして捉えているのだろう。ただの記憶か、愛おしい思い出か、それとも。

「じゃあオムライスにしよかな」

「あれ、昔は優柔不断だったのにあっさり決めたね。いつもこういう時めちゃくちゃ悩んでたのに」

「ほら、内面は変わってるから」

「またそれ言う?」

また香織が笑ってくれた。それだけで僕は嬉しくなった。

「じゃあ私もオムライスにしよっと」

 若い男性のウエイターを呼んで料理を注文した後、また沈黙がやってきた。どんな言葉から始めたらいいのだろう。本題に入るきっかけを探していた。もちろんそれは自分で作らなければいけないこともわかっている。

「そういや坪田と桜井さん結婚するって話知ってる?」

大学時代の同級生のカップルの名前を出してみる。

「聞いた聞いた。やっとだよね。確か大学三年の頃だからもう六年とかそんなもんでしょ。長かったよね」

「でも卒業してちょっとしたころに一回別れて、一昨年くらいにまた付き合ったらしいよ」

「それその時に佳奈から聞いてびっくりしたんだよ」

あーそうだ。桜井さんの下の名前が思い出せていなかったので、香織の言葉で喉のつっかえが取れたようにすっきりした。桜井佳奈だ。

「一昨年に何人かで久しぶりに集まってご飯食べたんだけど、その時に普通に聞いちゃったんだよね。坪井君とは上手くいってるのって。そしたら先週付き合ったって言っててびっくりしちゃった。そんなことあるんだねってその場のみんなで大盛り上がりしたもん」

「へー。でも確かにあるよな。そういう妙にタイミングいいことって」

「あるある。結婚式呼んでくれるかなあ」

「呼んでくれるんじゃない? 香織って桜井さんと仲よかったでしょ?」

「大学の時はね。でも卒業してからはあの一回しか会ってないんだよね」

「へー意外だな。もっと会ってると思ってた。でも呼んでくれるって」

「そうだといいんだけど」

どうして僕はこんなどうでもいい話をしているのだろう。こんな話をするために東京に来たわけじゃない。

 とりあえず水を一口飲む。するとタイミング良くオムライスが運ばれてきた。

「お、早いな」

「そうなの。ここ料理出てくるの早いんだよね。やっぱりおいしそー」

「おお」

オムライスがそれぞれの前に置かれた。トロトロの半熟卵がお皿の上に広がっている。きっとその下にはチキンライスがあるのだろう。しかも思ったより洒落た皿に盛り付けられていて、よくある喫茶店のメニューとは思えない。

「いただきまーす」

そう言って香織がオムライスにスプーンを差し込んだ。

「いただきます」

僕も小声でそう言って半熟卵にスプーンをそっと入れて口に運ぶ。

「うん。美味しい」

特別な美味しさがあるわけじゃない。けれど抜群の火加減とバランスのとれた味が素晴らしい。

「でしょー?」

目の前では香織が幸せそうな笑顔でオムライスを食べていた。この光景も懐かしい。美味しそうに食べる割には小食なことも思い出す。香織が食べきれない分をいつも僕が代わりに食べて胃が苦しくなっていた。

 お互い食べることに夢中になってしまう。けれど何か本題に近づかなければいけないと焦りが生まれて食べることに集中出来なくなってしまった。僕は手を止めて香織に話しかけた。

「香織は結婚とかしないの?」

とかってなんなのだろう。自分で言っておいて意味不明だ。そして、こんなことを聞いてよかったのか。もし、するっていう答えが返ってきたらどうしよう。自問自答を重ねながら香織の表情を窺う。

「しないよー。する相手いないし。ってか失礼でしょ。この年代の女子はみんな少なからず気にしてるんだから」

香織は爽やかに笑って答えてくれた。

「ごめんごめん」

香織の対応にも答えにもほっと安堵しながら謝る。

「亮くんこそしないの?」

「結婚する男が仕事辞めないでしょ」

「そりゃそうだ」

「でしょ」

香織は一体どう思っているのだろう。こいつは東京まで来て何を話したいのか、なんて思ってそうだ。久しぶりに会おうと誘ったのは僕だ。それなのにお茶を濁してばかりで情けない。

 とりあえずオムライスを口に運んで沈黙を埋める。オムライスが美味しいのが救いだ。

「実はさ、五年前亮と別れてから、一回だけ彼氏作ったことあるんだよね」

僕が迷っているうちに香織が話し始めた。

「そうなんだ」

「っていっても半年くらいで別れちゃったんだけど」

「うん」

突然の告白に動揺しながらも相槌を打つ。この話の先にどんな言葉が待っているのかが怖くなってしまう。

「それで亮くんは優しかったんだなあって改めて思った」

「そうかなあ」

きっと昔の自分なら嬉しかった。けれど今は複雑な感情を抱いてしまう。

「そうを言うならさ、香織が僕を振った言葉覚えてる?」

「覚えてるよ。亮くんって優しいだけだよね、とかそんな感じでしょ?」

「そうそんな感じ。あれ結構引きずったんだからな」

「ごめんごめん」

別れの日のことを話題にあげるのは怖かった。だからこそ出来るだけ笑顔で口にした。幸い香織も笑顔を返してくれた。こればかりは五年の月日が味方したのかもしれない。もうそれぞれあの日を受け入れるだけの時間が流れたのだ。

 再びオムライスを食べる時間がやってきた。僕はオムライスを口に運びながらも、香織が食べる様子を自然と眺めてしまう。この風景が一番懐かしさを感じた。

「なにそんな見てるの?」

僕の視線に気がついた香織がオムライスを飲み込むとそう言った。

「いや、昔と変わらず美味しそうに食べるなあって」

「そうかなあ?」

「うん。そうだよ」

少し照れた表情も懐かしい。香織がどんな表情をしても全て見たことのある表情だった。

 さすがに香織を見続けるのは止めにして、僕もオムライスを食べる。そこからしばらくは、食べ物の好き嫌いの話をしながら食べ続けた。昔食べられなかったオクラを少しは食べられるようになっただとか、相変わらず舞茸は食べられないだとか、ついにミョウガの美味しさがわかるようになっただとか。全て香織の好き嫌いだけれど。そんなたわいもない話をしているうちに、緊張もほぐれ、本題に入らなければという焦りも消えていることに気づく。ほんの少しではあるけれど別れた日のことを笑い合って話せたことで、心のわだかまりが溶けていったらしい。だからこの世間話を心から楽しむことが出来た。

 そうしているうちにお互い料理を食べ終え、僕は食後のコーヒーを、香織はカフェラテを注文した。そして自分でも驚くほど躊躇なく、自然に本題を切り出すことが出来た。

「実はさ、これから東京に住むことにしたんだよ。もう昨日に引っ越しも終わってさ」

「え、そうなの?」

香織は少し驚いた表情を見せた。ただそれも少し語気が強くなった程度で、予想していた程の驚きはなかった。むしろ物足りなさを感じるくらいに。

「でもどうして? 別にこっちの仕事が決まってたわけじゃないでしょ?」

「うん。特に東京がいいっていう理由は無いんだ。ただ今までの場所から離れて心機一転やり直そうと思ってさ」

嘘をついているわけじゃない。ただこれは理由の一つに過ぎなかった。

「やり直す? 借金でもしたの?」

香織が真顔でそう尋ねた。

「違う違う。そんなんじゃないよ。ただ色々思うところがあってさ、話してもいい?」

僕がそう聞くと、香織はあっさり頷いた。

「うん。いいよ」

「話長くなってもいい?」

「もちろん。むしろちゃんと聞きたい」

そう言って香織は椅子に座り直した。そして真っ直ぐに僕の目を見る。

「今まで仕事もそれなりにこなせていたし、別に嫌なことがあったわけじゃないんだ」

「もちろんカウンセラーっていう仕事上、辛いこともあるしそれで悩んだりするけど、そういうのって皆それぞれ抱えているものじゃん」

ゆっくりと、言葉を選びながら話す。大事に話したかった。

「きっと周囲から見れば恵まれた毎日を送っているように見えたと思う。確かに事実だけを見れば悪くない毎日だった。でもさ、どこかおかしいんだよ。どっかにもやもやしたものがあってさ。もっと上手く言葉にできればいいんだけど」

香織が黙って首を振る。

「生きてるっていうかただ毎日を過ごしてるだけっていうのかな。ゆるやかに死に近づいているのを待ってるだけのような感覚というか。心の中の違和感が少しずつ膨らんでわだかまりになり、膨らみ続けたそのわだかまりに押し潰されてしまうような感覚。そんな感覚がずっとあったんだよ」

「原因はいくつかあるんだと思う。例えば、昔香織に話したことがあると思うけど、高校の卒業式の次の日に仲の良かった友達が親を殺してしまったことを、僕がちゃんと消化して受け入れられていなかったこととか。もしかしたら香織に優しいだけって言われたことも原因の一つなのかもね。あ、別に香織は全然悪くないよ。実際その通りだったからさ」

香織は真剣な目をして僕を見ていた。その目は僕が香織に告白をした時のようだった。

「それで今年の春、三月くらいかな。その感覚がどんどん強くなって、もうどうしようもなくなってしまった。生きる気力が失われてしまった。言葉にすると大げさに聞こえるかもしれないけど、そのまま続けていく生活の先に光を感じなくなってしまったんだ。あの時の気持ちは上手く伝えられないし、きっと誰にも理解してもらえないんじゃないかとも思う。でも当時は本気でそう思っていたし、僕にとっては死活問題だったんだ」

「そうだったんだ」

香織が小さな声でそう言った。

「うん」

香織の言葉に僕も相槌を打った。話しているうちに運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖を入れて飲む。ずっと話していると口の中が乾燥してしまう。

「でさ、なんかある日思っちゃったんだ。もういいやって。別に生きることに未練もないし、全部終わらしてしまおうって」

「そうなんだ」

香織は相変わらず真剣な目で僕を見ながらそう言った。気のせいか、香織の目に涙が溜まっているような気がする。

「そうしてもう死んでしまおうって思ってた頃にさ、昔映画館で見た映画がテレビで放送されてたんだよね。懐かしいなあって思いながらそれを見た後に、ふと思ったんだ。エンドロールを作ろうって」

「エンドロール?」

「そう、エンドロール。映画のエンドロールみたいに、僕のこれまでの人生にエンドロールを作ろうって。こんな人生でもエンドロールがあればそれなりのものになるんじゃないかってさ。そしてエンドロールが完成してからその後どうするか考えたらいいやって思った。それでまだ死にたかったら死んでもいいやって」

僕はそう言って、鞄からエンドロールを取り出してテーブルの上に置いた。

「これがそのエンドロールなんだけどさ」

「ちょっと見てもいい?」

「いいよ」

自分の分身のような存在になってきているエンドロールを香織が手に取り、ページをゆっくりめくっていく。真剣にエンドロールを見ている香織を見ながら、改めてその魅力を感じてしまう。こんなこと他の人に話しても笑われて終わりだろう。そんなことやるくらいなら普通に働けばいいじゃん、なんて言われてしまいそうことを、香織はこんなにも真剣に耳を傾けてくれる。

「今までの人生で訪れた場所とか出会った人をひたすら書き出してみたんだ。印象的なところはもう一回行ったりしてさ。五ヶ月くらいかけたかな」

時折、香織の頬が少し緩む。

「なんか面白いものでもあった?」

「いや、亮くんが告白してくれた場所があって懐かしくなっただけ」

「あーそれね。そこにもう一回行ったりもしたからね、一人で」

「そうなんだ。すごいね」

香織は単純に感心していた。

「でもさ、エンドロールを作っていく過程で色んなものが見えてきたんだ。そしてあの心を覆う靄の正体もわかったんだ」

香織がエンドロールから目を離して顔を上げて、僕を見た。

「それは僕が持ち合わせていた優しさは本当の優しさじゃないっていう事実だったんだ。偽物の優しさしか僕は持っていなかったって」

「えっ」

香織の表情が一変して曇る。

「いや、香織が悪いわけじゃないんだ。香織に言われる前から僕は気づいてたんだ。見て見ぬ振りしてただけで」

「そう?」

申し訳なさそうな表情にさせてしまったことが申し訳ない。

「元はといえば、高校時代のあの事件がきっかけだったんだ。だからもう一度高校に行ったりもした。そして当時のことを思い返したんだ。いつも一緒にいた四人のこと。そしてその中の一人が大きな罪を犯してしまったこと」

「玲未ちゃんだっけ」

「うん。あとは香織も知ってる奏太と、もう一人亜矢っていう女の子」

奏太は何度か香織と三人で食事をしたことがあった。

「懐かしいね、奏太くん」

「あいつは元気にしてたよ。相変わらずね。あ、香織と会ってた頃よりはだいぶ大人になってたかな」

「そうなんだ。もう一回会ってみたいな」

「そうだね。それでさ、今思い返すと、あの時からずっと周りに優しいって言われてきたんだよね。玲未からも色々相談受けたりもしてたし。その時にはすでに優しい人っていうレッテルが出来上がってたんだろうね。優しいって言われると嬉しかったし、それが自分の存在価値なんじゃないかって思ってた。大げさじゃなくね」

「うん」

香織はエンドロールを一通り読み終わったのか、閉じてこちらを見ていた。

「でも事件は起こった。どうして玲未を止められなかったんだろうってずっと思ってた。どこかで救えなかったのかって。でも同時に本当は気づいてた。救えなかったんじゃなくて、救わなかったんだって。僕がもし本当の優しさを持っていたら救えたかもしれない。けれど僕が持っている優しさは偽物で、玲未を救う勇気を持っていない情けないものだった」

一息ついてからまた話し始める。

「でもさ、それを認めてしまえば僕が僕じゃなくなるんだ。だから僕はその事実を心の奥底にしまったんだ。無意識のうちに。そうして何食わぬ顔で優しいというレッテルを維持したんだ」

「そうだったんだ」

「そして香織に言われた。優しいだけだよねって。そこで心の奥底にしまっていたその事実が顔を覗かせた。やっぱり僕は別に優しくなかったんだって。ただ、それでもしぶといことに、僕はまたその事実に蓋をしたんだ」

コーヒーを飲む。つられて香織もカフェラテを一口飲んだ。

「そして二年前だったかな。僕がカウンセリングを担当していた人が自殺したんだ。その時にさすがに蓋をしきれなくなってしまった。そして緩やかに死に向かう毎日が始まってしまったんだ。普段は忘れてるんだけどね。自分が持っているのはまがいものの優しさだってことは。でも違和感と圧迫感だけは消えずに僕を追い詰めていったんだ」

「亮くんは優しいよ」

そう言う香織の声は不安げだった。

「優しいといえば優しいのかもしれないけど、僕の優しさは受け身の優しさなんだよね。今までずっとそうやって生きてきた。助けてと言われればある程度助ける。でも困っている人を見てもじぶんから手を差し伸べやしない。そんな人間だったんだ。高校の時だって、最近玲未大丈夫かなって思うことはあった。でも何もしなかった。その結果があの事件だ」

「でもさ、世の中の人もだいたいがそうだよ。別に亮くんだけがそうなんじゃない。むしろもっと優しくない人ばっかりだよ」

「ありがとう。でもさ、僕にとっては優しいってことが自分自身そのものだったんだよ。それが違うって気づいてしまって、今までの自分自身が崩れてしまった。それで二週間くらい前かな、奏太と一緒に亜矢に会いに行ったんだ。随分会ってなかったんだけどね。そしたらさ、玲未が僕と奏太宛に手紙を残してくれてたんだ。七年も前に。もし私のことを聞きに来てくれたら渡して欲しいって。来なかったら渡さなくていいからって。そのことを聞いて、改めて痛感したよね。やっぱり僕は優しくなんてないなあって。玲未のことをずっと引きずっていた癖に、亜矢に玲未のことを聞きもしなかったなあって」

香織は黙って僕を見つめている。少し悲しみを帯びた瞳をしていた。

「でも、玲未からの手紙には、ひたすら僕への感謝が綴られていた。本当にありがとう。亮に会えて良かった。幸せだったって。それを読んで一筋の光が差したんだ。ああ、別にこの偽物の優しさも悪くないのかもしれないって。確かに本物の優しさではないかもしれないけど、偽物の優しさを否定する必要はないんだって初めて受け入れられたんだ。そしたら不思議なことに、本当の優しさを手にいれる勇気を出してみようかなって思えた」

「そっか。そんなことがあったんだね。全然知らなかった」

「だって言ってないからね」

そう言って僕が笑うと、香織も少し笑った。

「そりゃそっか」

コーヒーではなく、水を一気に飲む。一気に喋りすぎて、喉がカラカラだった。

「だから受け身じゃない優しさを身につけようと、勇気を出してみたんだ」

「どんな勇気?」

香織があまりに素直に聞き返してくるので、言葉が詰まりそうになるけれどここで二の足を踏んだら意味がない。勇気を出すんだ。

「もう一度付き合って欲しいんだ。あの日香織と別れた時も僕には勇気が無かった。遠く離れても付き合い続ける勇気が。香織には香織の人生がある。そう思っていたし、そう思うことが優しさだと思ってた。もし僕よりも香織を幸せにしてくれる人がいるのなら、その人に譲るのが優しさなんだって。でも本当に優しいなら、本当に香織のことを大切に思うなら、自分がそれ以上に幸せにするために一生懸命行動すべきなんだってようやく気づけたんだ」

コーヒーを一口飲んで言葉を続ける。

「何年も連絡とってなくて、急にこんなこと言われても困るとは思うんだけどさ」

「そうだよー」

実際香織は困ったようにそう言った。

「でも私に彼氏がいなくて良かったね」

「え?」

「さっき亮くんが言ったように、もし私を幸せにしてくれる人が現れてたら今日会うこともなかったと思う。きっと亮くんは私の中で過去の人になってた」

「うん。そうだな」

「でもそんないい人は現れなかったし、ちょっと付き合った人も全然だった。本当の優しさも、受け身の優しさも持っていなかった」

「そうなんだ」

「だから久しぶりに亮くんが連絡くれて嬉しかったし、五年も会ってないなんて思えないほどしっくりきた」

「じゃあ」

この流れは、と思い口を開いたけれど、香織の言葉に遮られる。

「ううん。付き合わない」

期待とは違う言葉に動揺してしまうけれど、これを表に出せば格好悪いと思って必死に平静を装う。

「そっか。そうだよな。さすがにずうずうしいよな」

「そうだよ。ずうずうしいよ。五年振りに会っていきなり付き合ってくれって言われてもさすがに付き合わないよ」

でも香織はずっと微笑んだままだった。

「ごめん」

「でもね、今の亮くんの話を聞いて、ちょっと楽しみになった。もしその本当の優しさっていうのを手にれた亮くんはどんな人になるんだろうって。そんな亮くんならもしかしたらまた好きになるかも」

悪戯心を感じさせる笑みを香織は浮かべる。

「ほんとに?」

「好きにならないかもしれないけどね。人間そんな簡単に変わらないし」

「変わるよ」

「ほんとに?」

「うん。変わる」

「なんか変な感じ。亮くんがそんな断言すること今まで無かったから」

「だってもう変わってるからね」

「顔が自信満々すぎて笑えてくるんだけど」

「え、それひどくない?」

二人で昔みたいに笑いあう。もし香織と付き合えなくても、東京に来て香織と会って良かったと思える。エンドロールを作って良かった。このエンドロールが僕の人生を変えてくれた。自分でも大袈裟だとは思う。けれどエンドロールを作らなければこうして香織ともう一度笑いあえることはなかったのは確かだ。

「だから、とりあえずデートしてあげる。友達にはなってあげる。そこから私を惚れさせてみせてよ」

「わかった。一ヶ月もかからないから」

「私そんな軽い女じゃないんだけど」

「じゃあ半年にしとく」

「さっきまでの自信はどこにいったのよ」

「いや、やっぱり三ヶ月」

「なにそれ中途半端だよー」

 空白の五年間は確かに存在する。もう恋人同士ではないし、告白も成功したわけじゃない。けれどこの五年間があったからこそ今こうして笑いあえているのだと思う。そしてこれからまた始まっていく。明日が来ることが楽しみ。今はそう思える。それは香織のためだけじゃない。純粋に理由なくそう思えるのだ。そしてその気持ちは目の前の香織の笑顔を見るとより強くなる。もう相手を傷つけることを怖がって自分を守ることを優先したりしない。本当の優しさを身につけてみせる。このエンドロールが心の中に存在する限り、もう忘れることはない。

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