8月13日(木)
始めて訪れる住宅街はまるで迷路のように思う。特に今いるこの住宅街は建て売りの家が多く、似たような外見の家が並ぶ。車の種類や庭の様子ぐらいでしか区別が出来ない。けれど、だからこそ住人の人となりがわかりやすかったりする。築年数は同じくらいのはずなのに、綺麗に保たれている家とそうでない家。小さな庭だけれどきちんと手入れされている家と、ところ狭しと雑草が生い茂っている家。
「だいたいここらへんか」
携帯電話の画面上の地図の目的地マーカーと現在地マーカーが重なっている。
「それにしても暑いなー」
隣で奏太がハンカチで首筋を拭っている。ワイシャツのボタンを三つほど開け、袖も捲っている。僕は鞄からペットボトルのお茶を取り出して飲んだ。さっき買ったばかりなのに既にぬるくなっていた。
奏太が電話が来たのは午前十時過ぎだった。
「俺も一緒に亜矢に会いに行くわ。今日大した仕事も会議も無かったから半休にしちゃった」
昨日の会話を覚えていたらしく、電話越しに奏太はいきなりそう切り出した。
「まあいいけど」
そんなやり取りの末、奏太も同行することになった。
奏太が突然僕の方を向いて、顔の目の前で生暖かい息を吐いた。
「やめろよ」
手でその息を振り払う。
「なあ、息臭くないかな」
「第一こっちも同じもん食べてるんだからわかんないって」
「それもそっか。あー、なんで餃子なんか食べたんだろ」
僕達は駅前の中華料理屋で日替わり定食を食べてきたばかりだった。少しさびれて、昔ながらといった雰囲気の店に何故か惹かれて入ってみた。午後二時でピークを過ぎていたということもあって、一人しか客がいなかった。その客も常連のように店の主人とテレビを見ながら世間話をしていた。僕達二人が肉野菜炒めと天津飯がセットになった日替わり定食を頼んで食べていると、店主がこれサービスだといって二人前の餃子をテーブルに置いてくれた。強烈にニンニクの匂いがするやつを。
「ガム噛んでるから大丈夫じゃない?」
僕がそう言うと奏太はガムのパッケージを見ながら答えた。
「いやー、あのニンニクはこのガム程度じゃかき消せないでしょ」
「そうかなあ。まあもう今更だよ」
「そうだな」
高校時代なら亜矢に会うからといって口臭を気にしたことは無かった。いくらニンニク臭くても平気だった。けれど今はそれを気にしてしまっている。そのことが流れた月日の長さを物語っていたし、開いた距離を感じさせた。
「あった、ここだ」
奏太が指差す先を見る。橋元と書かれた表札がそこにあった。
「橋元亜矢か。違和感しかないよな」
「まあ僕らにとっては前田亜矢だしね」
「ああ。結婚したんだなって改めて感じるな」
「今更だけどね」
呼吸を二回繰り返してから小さな門の横インターホンを押した。ピンポーン。ピンポーン。そして懐かしい声がした。
「はーい」
「亮です」
なぜか敬語になってしまった。
「奏太もおるよー」
後ろから奏太も口を挟んだ。
「久しぶりー。入って入ってー」
インターホン越しに亜矢のおっとりした声がくぐもって、さらに間延びした声になっていた。
「やっぱ声は変わんねえな」
同じようなことも奏太は考えていたらしい。
促されるまま門を抜け玄関のドアの前に立つと、タイミングよくドアが開いて亜矢が顔を出した。
「いらっしゃい」
「おお、亜矢だ」
なぜか二人して声を揃えてそんな言葉を発した。
「当たり前でしょ。ここ私の家なんだから」
「そういう意味じゃなくてさ」
「とにかく上がって。立ち話もなんだし」
玄関に足を踏み入れると家庭の匂いがした。子供用の小さな靴があり、傘立てには傘が三本あって、靴棚の上にはミニカーが二つ置いてあった。僕はくたびれたスニーカーを脱ぎ、奏太は革靴を脱いだ。あの写真と同じく、亜矢のお腹は膨らんでいて、全体的にぽっちゃりとした印象を受けた。けれど顔はあの頃とままで若く見えた。そんな亜矢の後について廊下を歩く。
短い廊下の先には一つの扉があり、その先には団欒の部屋があった。リビングとダイニングが一体になっているタイプの部屋で、四人掛けのテーブルとその奥にソファがあった。
「コーヒー用意するから待ってて」
「そんないいのに」
「さすが亜矢は気がきくな」
僕と奏太は同時にそう返事して僕は椅子に座った。奏太はリビングを物珍しそうに見て回っている。
「子供は幼稚園?」
僕がそう尋ねると、亜矢はキッチンでコーヒーの用意をしながら答えた。
「幼稚園はもう終わってるよ。今日はお母さんに預かってもらってるの」
「なんだか悪いね」
「いいのいいの。今やんちゃ盛りで落ち着いて話出来なくなりそうだし」
「なんて名前だっけ?」
奏太が棚に飾ってあった写真を見ながら聞いた。
「芽衣っていうの」
僕も立ち上がってその写真を見る。幼稚園の運動会だろうか。亜矢夫婦と、体操服姿の芽衣ちゃんが楽しそうに笑っていた。そこには確かに温かい家庭があった。僕たちは年齢だけは大人になってしまったんだなあとしみじみ思う。ここに写っている亜矢は僕達が知っている亜矢だったけれど、僕とは違う世界に生きていることを感じさせた。僕達はもうあの頃と違い、それぞれ別の世界を生きているのだと。
「お腹の子の名前はもう決まってる?」
マグカップにコーヒーを注ぐ亜矢に向かってそう尋ねる。
「まだなんだよね。女の子っていうことはわかってるんだけど」
「俺が決めたげよっか?」
奏太が口を挟む。
「えーやだ。奏太が考える名前なんて絶対ろくなものじゃないもん。子供の名前決めるのって本当悩むんだよ。なんせその子の一生がかかってるんだから」
「そりゃそうだよな」
写真を棚の上に戻して椅子に座ると、ちょうど亜矢がコーヒーの入ったマグカップが三つ乗ったお盆を持ってきた。
「ありがとう」
「おーなんかこの感じいかにも家庭にお邪魔してるって感じでテンション上がる」
奏太が嬉しそうに言った。
「なにそれー」
「子供の頃にさ、たまに家に親の友達とかが来るじゃん。テーブルで向き合ってお茶しながら喋ってたりしてさ。なんかその風景が印象的でさ、その風景の中に自分がいるって思うとなんかすげーってなる」
「相変わらず変なの」
「でも僕も少しわかる気がする」
「だろ?」
僕の賛同を受け、奏太が自慢げに笑った。
お盆には三人分のコーヒーに加え、クッキーが数枚乗っていた。マグカップに入ったコーヒーを一口飲む。やっぱりブラックは苦い。添えられたフレッシュとグラニュー糖を入れてスプーンでかき混ぜる。
「でも亮から会おうなんて初めてだよね。昔から自分から企画とかしないタイプだったし。まあ奏太まで来るとは思わなかったけどね」
「亮は今自分探し中なんだよ」
奏太が僕の代わりに勝手に返事をして、そのまま喋り続ける。
「俺にもこの前急に会おうって言ってきて昨日一緒に飲んだんだよ。そしたら先月仕事辞めたって言うし、なんか色々人生に迷ってるみたいなんだよ」
「おいおい勝手に全部言うなよ」
僕がそう言うと奏太は意地悪げにニヤついていた。
「そうなんだ。なんかあったの?」
「別に何があったわけでもないよ。ただなんとなく惰性で生きるのが嫌になっただけというか。まあ自分でもよくわかんないんだよね」
本音は明かさないけれど、これも真実だった。正直自分でもよくわからない。
「亮は昔から考えすぎるところがあったもんね」
「だよなあ。そんなに考えても仕方ないのに」
「それが良いところでもあるんだけど」
「たしかに」
亜矢と奏太の会話を聞いて懐かしくなる。あの頃は毎日聞いていた二人の会話がこんなに大切なものに思えるなんて。
僕はコーヒーを一口飲んで、南条ヶ丘高校まで行ってきたことを切り出した。
「この前、高校に久しぶりに行ってきたんだよ」
「へー。どうだった? 何か変わってた?」
「それが全然変わってなかった。まあ外から眺めてただけなんだけどさ」
「そっかー。私も最近行ってないなあ。短大卒業した時に行ったっきりだからもう七年くらい行ってないや」
「そういえばさ、亜矢と二人で放課後の教室で、サッカー部の練習見ながら話したの覚えてない?」
「うーん。いつ頃の話?」
「高三の秋かなあ。もう高校生活終わっちゃうねなんて話してた」
「あー、そんなこともあったね。懐かしいなあ」
「え、なにそれ。俺の知らないところでそんなことしてたのかよ」
奏太が僕と亜矢の目を交互に見る。
「奏太は確か風邪かなんかで休んでたんだよ」
「そうそう。滅多に風邪なんか引かないのにね」
「ちくしょー。俺のいないところで」
奏太の愚痴を無視して話を進める。
「あの時亜矢はどんなこと考えてたの?」
「そんなの覚えてないよー」
「そうだよな。もう十年近く前の話だし。でもなんかよく覚えてるんだよな。なんか亜矢がすごい達観してた気がしてさ」
「そう?」
「うん。亜矢も色々考えてるんだなあって気がついたんだよね」
「私だって色々考えてるよー」
亜矢が笑いながら反論してると、横で奏太がクッキーを頬張りながら口を開いた。
「お、このクッキーうまいな」
「でしょ?」
僕も一枚食べてみる。ココナッツが乗っていて美味しい。
「本当だ。美味しい」
「近くのケーキ屋さんで売ってるんだけど、ケーキよりもクッキーが美味しいんだよね。特にこのココナッツクッキーがさ」
「腹一杯だけど、これなら食えるわ」
奏太が二枚目に手を出す。
「おかげで太っちゃって困ってるんだよね」
「あ、妊娠したせいでぽっちゃりしたわけじゃないんだ」
僕がそう言うと亜矢はお腹をさすりだした。
「そうなんだよね。芽衣の時はここまで太らなかったし」
「そういや昔から太りやすいって言ってたよな」
「なんで奏太はそういうことだけはちゃんと覚えてるかなあ」
「そういうことだけってなんだよ」
「でもさ」
奏太の反論を無視して亜矢は話し続けた。
「本当に私すぐ太るんだよね。食べても食べても太らない玲未が羨ましかったなあ」
予想外のタイミングで玲未の名前が出てきた、返す言葉に詰まる。いずれ玲未の話はしようと思っていたけれど、それはもっと場が暖まってからしようと思っていた。ただ亜矢はそんな僕の気持ちとは裏腹にあっけない程に話を続けた。
「そういや二人は玲未から連絡来たりした?」
僕と奏太は顔を見合わせてから首を横に振った。
「そっかー」
亜矢は特別感情を見せることなくそう言った。
「実はさ」
僕はこのタイミングに乗ってしまおうと本題を切り出した。
「玲未のこと聞こうと思って来たんだよ。もちろん亜矢に久しぶりに会いたいってのもあるけどね」
「うん」
「亜矢は玲未からなんか連絡来たりしたの?」
「うん。ちょっと待ってね」
そう言って亜矢は立ち上がった。そして部屋を出て階段を上っていく音がした。
僕と奏太は何を言うわけでもなく黙って待った。妙な緊張感があった。亜矢が何をしに行ったかが予想つかない。遺された二人で世間話をする雰囲気でもなく、玲未の話をする勇気もない。特に奏太は昨日玲未の話はもうやめようと言っていたくらいだ。ただ今日来たということは少しは心境に変化があったのかもしれないけれど。
そうこう考えているうちに階段を降りる音が聞こえ亜矢が帰ってきた。その手には白い紙切れがあった。
「実は二人に渡すものがあるんだ」
そう言いながら座った亜矢が僕たちの前に置いたのは二通の白い手紙だった。片方には亮へ、と書かれていて、もう片方には奏太へ、と表に書かれている。その白い手紙は僕の目を吸い寄せて離さなかった。
「まだ結婚する前だから六年くらい前だったかな。玲未が家にやって来てくれたの。なんとか落ち着いて暮らせるようになったから、亜矢にだけ会いに来たって。びっくりしたけど嬉しかったなあ。もしかしたらもう二度と会えないかなと思ってたから。でも玲未はずっと謝ってた。なにも謝ることなんてないって言ったんだけどね。それでその時にこの手紙を置いていったの。もし亮と奏太が私のことを尋ねてくれることがあったら渡してほしいって。何もなかったら渡さなくていいから。私を忘れて生きてくれるならその方がいいからって」
「そうだったのか」
奏太が振り絞るようにそう呟いた。僕はまた何も言えず俯くしかなかった。言葉も出てこないし、何を言ったらいいかもわからなかった。
「六年前か。もっと早く来たらよかった」
奏太が悔しそうにつぶやく。僕も同じ思いだった。まさか玲未が僕に言葉を残しているとは思っていなかった。僕がようやく玲未に心を向けようとした六年も前に玲未は僕に心を向けてくれていたのだ。
「見てもいい?」
「もちろん」
僕の言葉に亜矢は微笑みながら返した。
丁寧に手紙の封を開ける。中には便箋が三枚入っていた。
「久しぶり」
その言葉で玲未の手紙は始まっていた。懐かしい文字だ。けれどあの頃よりは少し大人びた表情を見せていた。
亮がこの手紙を読むのがいつになるのかわかんないけど、もしかしたら読むこともないのかもしれないけど、元気ですか? これを書いてる私は二十一歳になったよ。
改めて本当にごめん。いくら謝っても謝り足りないのはわかってるけど、本当にごめんね。私のしたことは、お母さんの命を奪っただけじゃなくて、亮や奏太、亜矢の人生も狂わしてしまったって後になって気づいたんだ。だから亮たちは私のことなんて忘れて幸せに生きてほしい。きっとそれが一番いい。こんなことを手紙に書いても仕方ないんだけどね。でも今亮がこの手紙を読んでるってことは忘れずにいてくれたんだね。ありがとう。こうして懲りもせず手紙を書いちゃう私の弱さを許してください。亮の迷惑にならないようにこの手紙は亜矢に預けることにするから。
こうして謝ってばかりだけど、別に謝るために手紙を書いてるわけじゃないんだ。本当は違うことが言いたい。それはあの日からずっと思ってることなんだ。そしてそれは日に日に強くなってる。
本当にありがとう。亮達三人に出会えて本当に良かった。四人で過ごした日々が本当に幸せで楽しくてかけがえのないものだって気づいた。その毎日を最後に壊して気付くなんて本当にバカだよね。でも三人に会えて本当に本当に良かった。もし会えずにずっと一人ぼっちだったらとっくに自殺してたかもしれない。四人といる時間だけが笑顔になれる時間だったから。
私は昔から感情を上手く出せない子供だった。だからずっと無愛想で、小学校でも中学校でも友達が出来なかった。だから毛を染めたりして初めから誰も近寄らないようにしてた。高校でもそれは変わらないだろうなって思ってたし、それでもいいと思ってた。でもね、違った。こんな私にも友達が出来た。きっと亜矢のおかげかな。亜矢が私なんかと仲良くしてくれたから、亮とも仲良くなれた。奏太ともね。
特に亮には何度も相談にのってもらったね。亮には関係のないことばっかりだったのに、いつも真剣に話を聞いてくれて嬉しかったよ。きっとめんどくさかったよね。でも私が相談したいことがあるんだけどって言うと、いつも笑顔でいいよって言ってくれた。そんな亮の優しさに何回も救われたんだ。それに亮に相談するとなぜかいつもすっきりした。あれはなんでなんだろうね。不思議で仕方ない。きっとあれも亮が持つ魅力だったのかも、なんてね。あのカフェも懐かしいなあ。何を言いたいのかわかんなくなってきた。とにかく本当に感謝してる。ありがとう。亮なら絶対良い旦那さんになれるよ。
私は新しい場所で一からやり直して地道に生きていこうと思う。だから亮も幸せになってね。私はいつも亮の幸せを祈ってるから。こんな私と友達でいてくれて本当にありがとう。バイバイ。
P.S. これを言おうかずっと迷ってたんだけど、この際だから言っちゃうね。初め亮のことが好きだったんだよ。それだけ!
横では奏太が嗚咽を漏らして泣いていた。僕は便箋を封筒にそっと戻して、目を閉じて玲未の笑顔を思い浮かべてみた。瞼に押し出されて涙が頬に一筋流れ落ちる。もしかしたら玲未は僕達を、僕を恨んでるんじゃないか。そう思う時もあった。そんなことはないと思っていてもその疑念が消えずにいた。けれどこうして玲未はありがとうと言ってくれた。僕の優しさに救われたと言ってくれた。その言葉は僕をその疑念から解き放ってくれた。
きっと奏太や亜矢も同じなんじゃないだろうか。だから奏太も横で今泣いているのだろう。僕もずっと責任を自分に求めてきた。何か自分がとった行動が玲未を追い込んでしまったのだろうか。いや、それ以上に、自分が何かしていれば玲未は罪を犯さずに済んだんじゃないだろうか。そんなことをずっと考えてきた。そうやって自分を責めた。責め続けた。
でも今思えば、それは玲未に対する申し訳さから来たものじゃなかった。そうやって自分を責めることで、自分を守ってきたのだ。もし自分がこうしていたら、なんて考えることで玲未と、あの日と向き合うことから逃げていた。もし本気で玲未を救いたければ今からでも行動を起こせばよかった。どんな手でも使って玲未に会いに行けば良かった。玲未は会いたくないかもしれない。けれどそうでない可能性もある。それならその可能性にかけるべきだ。あの日を本気で後悔するなら、今から玲未を救えばいい。実際に会えば、あの時出来なかった玲未への行動を今起こせるかもしれない。あの日幸せに出来なかったなら今から幸せにすればよかった。
しかし、僕にその勇気は無かった。僕の持ち合わせている優しさは、そんな勇気のある優しさじゃなかった。ずっと悩んできたその事実を改めて痛感させられた。だからこうして玲未からの手紙を六年越しに読んでいるのだ。僕が逃げ続けた六年もの間、玲未の言葉は薄暗い場所で人目につかず宙に浮かび続けたのだ。その後悔と負い目は僕が抱えて続けた闇をよりくっきりとさせた。僕の優しさは偽物だ。それは正しかった。エンドロールを作るきっかけであるその疑念は、エンドロールの最後に確信に変わった。
けれど、その確信が僕を絶望させることはなかった。闇がくっきりと濃くなった結果、小さな光が見つかった。それは玲未の言葉だった。手紙の中で玲未は、僕の優しさに救われたと言ってくれた。それも何回も。本当にありがとうと。それは僕に新たな光を与えてくれた。涙が再びこぼれだす。僕の優しさは本当の優しさではなかった。その事実は変わらない。けれど、それを後悔する必要はないんだ。今までの自分が嘘になるわけじゃない。本当の優しさでは無かったけれど、それが玲未を救っていた。ならもう恥じる必要は無い。玲未の言葉はそう思わせてくれた。
優しい。それは僕のアイデンティティーでもあり、長所でもあり、僕が顔を上げて生きていける理由でもあった。それが偽物だと気がついた瞬間、僕の人生は雲に覆われだし、雨が降り止まなくなった。だから僕はエンドロールを作り始めた。そしてエンドロールを作っていく程に、雲は厚く雨は激しくなった。そして最後に優しさが偽物だと完全に確信せざるをえなくなった。ただそれと同時に、雨が止み、雲が去り、太陽が差した。たとえ偽物でも優しさを持っている自分に誇りを持てばいい。
僕の心にこれまで感じなかった清々しさが流れ込んでいた。今までの苦しみがなんだったのかという程に。安堵でまた涙が一つこぼれた。
亜矢が渡してくれたタオルで涙を拭き、淹れ直してくれたコーヒーを飲むと、ようやく落ち着きを取り戻すことが出来た。僕以上に泣いていた奏太も目を真っ赤にしていたけれど、僕と同じようにコーヒーを飲んで少し落ち着いたようだった。
「あー、もっと早く来れば良かったー」
奏太は自分の後悔やさっきの涙をごまかすように、少しおどけながらそう言った。
「ほんとにな」
僕も心からそう思う。
「なあ、亮のはどんなこと書いてあった?」
「やだよ。なんで奏太に言わなくちゃいけないんだよ」
「いーじゃんかー」
「じゃあ奏太のも見せてよ」
「やだ」
「だろ?」
奏太とそんな会話をしながら、ちらりと亜矢を見るととても幸せそうに笑っていた。
「なにそんなに笑って」
そう亜矢に振ると、亜矢は笑みを穏やかな微笑みに変えながら答えた。
「ここに玲未がいたらなあって思って。また昔みたいに笑いあえるような気がして」
「そうだなあ」
奏太がしみじみと頷く。
「あのさ」
「うん?」
僕の言葉に二人がこちらを見る。
「今度三人で玲未に会いに行こうよ。もちろん玲未が会ってもいいよって言ってくれたらだけど」
「いいなそれ」
「うん。いいと思う」
穏やかな空気が心地いい。あの頃のようだ。もうここにはわだかまりはない。ただいるだけで笑顔になる空間。あとはここに玲未がいれば。
「そういえばね」
今度は亜矢が切り出した。
「その手紙に書いてあったかわかんないけど、玲未、亮のことが好きだったんだよ」
「え?」
驚いた顔で奏太が僕を見た。
「うん書いてあった。全然気がつかなかったなあ」
「俺も俺も。てかまじかよ」
「私は一年の時に聞いてたんだけどね。四人が仲良くなって少しした頃かな」
そう言う亜矢の表情はとても穏やかだった。玲未があんな事件を起こしたことなんて少しも感じさせない。きっと亜矢は玲未のこともあの日のこともちゃんと受け止めているのだろう。
「へー」
奏太が横で間抜けな顔で相槌を打っている。
「言ってくれたら良かったのになあ」
僕がそう呟くと、亜矢はさらに表情を綻ばせて話を続けた。
「それには理由があってさ」
「うん」
「実は私は奏太が好きだったんだよね」
「え?」
思わず聞き返す。奏太に至ってはさらに間抜けな顔で口をあんぐり開けたまま固まっていた。
「初めは、だよ。初めは」
「そんなにそこ強調しなくてもいいじゃんかよ」
「いや、そこは大事なの。でも、私が奏太を好きかもしれないって玲未に相談したら、実は私も亮が好きって打ち明けてくれたの」
「へー」
もっと適切な相槌があるような気がしたけれど見つからなかった。
「ちょうどいいじゃんか。なあ?」
奏太がそう言って僕をみるけれど、これは同意しないほうがいいような気がして無視しておく。
「でもね、私も玲未もあんまり友達が多い方じゃないからさ、その気持ちで動いて四人の関係性が崩れてしまうのが怖かったんだよね」
そういえば亜矢も中学の頃はいじめられることもあったと言っていたことを思い出す。
「それにさ、あの頃は二人とも好きな子いたでしょ?」
「え、どの頃?」
奏太が聞き返す。
「一年の夏休み明けとかかなあ」
「えー。あの頃好きな人とかいたかなあ」
「僕も全然思い出せない」
「嘘だー。私覚えてるもん。確か奏太が渋谷さんで、亮は青木さんでしょ」
「あ、そんなこと言ってた気がする」
僕はそう言ったけれど、奏太はまだ記憶の糸を辿っている。
「だから二人でこの気持ちはしまっておこうって決めたんだ。もし奏太か亮から言ってきたなら別として、自分から何か行動を起こすことはしないでおこうって」
「そうだったんだ」
「あ、確かに言ってた。忘れてた」
今になって奏太が思い出す。僕も今まで忘れていたくらいだから仕方ない。
「あー、亜矢俺のこと好きだったのかー。もったいないことしたなあ」
「まあ私はすぐ冷めたんだけどね。仲良くなればなるほどたいした男じゃないって気付いちゃったし」
「おいおいなんだよそれ。仮にも好きだったやつに言う言葉じゃないだろー」
亜矢はいたずらっぽく笑い、奏太も大袈裟におどけてみせる。
「玲未はそこそこ長い間亮のこと好きだったみたいだけどね。三年の初めにもういっかって言ってたのも本心かどうかわかんないし」
「そっか」
あの頃の玲未を思い出してみる。少しも気づかなかった。相談に乗っている時も友達としての信頼感は感じたものの、恋愛感情は微塵も感じなかった。思っているより演技派だったらしい。
「渋谷のこと好きなんて言わなきゃよかったなあ」
奏太は本気で後悔をしているように見えた。
「よく考えたらさ、全然好きじゃなかったし。よくあるじゃん。高校に入学してしばらくしたらクラスの男子で盛り上がるだろ。誰のこと好きかって。そしてちょっとでも可愛いと思った子をとりあえず好きって言っとく流れ。それで言ってただけだからさ。亮もそういうやつじゃないの?」
今更必死に言い訳する奏太は見苦しかった。けれどそれは僕も同じだった。青木さんの顔さえはっきり思い出せないくらいだ。
「まあうん。そうだったかな。今まで青木さんのことを好きだって言ってたことすら忘れてたしね」
「なにそれー。そんな軽い好きに振り回されてたのかー。まあでもおかげで三年間仲良く楽しく過ごせたから後悔はしてないんだけど。そもそも奏太と付き合ったりしたほうが絶対後悔してるもん」
「え、ひどくない? 俺そんなにひどい男かー?」
「奏太だからいいの」
「まあいいけどさ」
亜矢と奏太のやりとりを見てるだけで落ち着く自分がいた。コーヒーを飲みながら二人を見ているだけで幸せな気分になれた。
「亮はどうなんだよ。玲未のこと」
奏太が急に僕に話を振った。
「えーそうだなあ。当時は何も思ってなかったけど、今になるともったいないことしたなあとは思うけど」
「そーなんだ」
亜矢は嬉しそうに笑っている。
「今からでも遅くないんじゃないか? 亮も彼女いないんだし」
奏太がさらに煽る。
「それがね」
亜矢が間に入った。
「実は玲未もう結婚してるんだよね」
その言葉に僕と奏太は顔を見合わせてから言った。
「まじかよ」
「去年の春かな。ちゃんと玲未を受け入れて守ってくれる素敵な人が出来てね、結婚したんだよ。だから今からじゃもう遅いかな」
「そっか。なんか嬉しいや。ちゃんと幸せになってくれて本当に良かった」
「だな」
もしこれが玲未以外の人なら少しは残念な気持ちが生まれたかもしれない。けれど玲未に限ってはそんな感情が生まれることはなかった。ただただ玲未の幸せが嬉しかった。
「俺もそろそろ結婚するか」
突然奏太が伸びをしながら呟いた。
「お」
期待の表情で奏太を見る。
「え、奏太相手いるの?」
「まあね」
亜矢の言葉に奏太は自慢げに微笑む。
「もう二年も付き合ってるんだってさ。昨日はまだ早いって言ってたのにな」
「それが亜矢と玲未の話聞いてたら悪くないかって思えてきたわ。亜矢も幸せそうだし」
「うん。結婚って悪くないよ。大変なこともあるけど、それ以上に幸せなことがあるもん」
亜矢が幸せそうに言う。
「なんかこっちがみじめになってくるんだけど」
「あ、ごめんごめん」
僕の言葉に奏太が嬉しそうに笑いながら謝った。
「あ、亮は相手いないのね」
「残念ながらね」
「そっかー。亮のほうが父親になってるイメージ湧くのに」
「さっきから本当に俺に対して当たり強いよなー」
奏太がまた亜矢に文句を言う。
「それだけ奏太を信頼してるってことだよ。なあ」
「まあね」
僕がそうフォローすると、亜矢は恥ずかしがりながらも頷いた。
「なるほどそういうことね」
奏太が嬉しそうににやついた。
時計を見るともう短針が五時を指していた。
「そろそろ帰るか」
「お、もう五時なのかよ。はえーな」
「そうだね。これから買い物行って芽衣迎えに行って晩御飯作らないと」
「もう完全母親って感じだね」
亜矢が頼もしく見えた。
「そうかな?」
「うん。立派な母親だよ」
「ありがと」
亜矢のその返事を聞いて、僕は立ち上がった。奏太も立ち上がる。そして忘れないように玲未の手紙をしっかりと鞄にしまった。
「お菓子とコーヒーご馳走様でした」
「また近いうちに遊びにくるわ」
「うん是非来て。主人にも紹介したいし」
「うわ、それめちゃくちゃ緊張するやつだ。何て言おうかな。いつもお世話になってます、でいいのかな」
奏太が一人でぶつぶつ言っていると、亜矢が僕達に小さな紙を一枚ずつ渡してくれた。
「これ、玲未の電話番号と住所。連絡するかどうかは任せるけど、一応渡しとくね」
「お、ありがと」
「ありがとう」
一グラムにも満たない小さな紙切れだけれど、とても重く感じた。これは絶対に無くしてはいけない。ポケットに入れていたエンドロールにしっかりと挟んでおいた。もう当たり前になっているエンドロールの感触。だけれどその紙を挟むと、しっかりとした重みと感触がポケット越しに伝わるようになった。エンドロールがここにきてエンドロール以上の価値をもつことになるとは思わなかった。
玄関で靴を履き終わり、改めて亜矢に向き直る。
「それじゃあまた連絡する」
「うん私も」
「あ、俺も」
「バイバイ」
「バイバイ」
「またな」
別れの言葉を交わして、僕達は亜矢の家を出た。亜矢は玄関先で、僕達が角を曲がるまで手を振ってくれていた。僕達も手を振りながら歩いた。
亜矢が見えなくなってから、僕と奏太は言葉少なに歩いた。奏太は何かを考えていたし、僕も玲未と出会った頃を思い出してた。以前は思い出しきれなかったことまで鮮明に思い出すことが出来た。
高校に入学して同じクラスに奏太と亜矢と玲未がいた。僕と奏太は席が隣同士ということもあってすぐに仲良くなった。もっぱら奏太が話しかけてくれて、僕はそれに答えるだけだったけれど。そして六月くらいだったと思う。ある日学校に来たら奏太と亜矢が仲良くお喋りしていた。何か理由があった気もするけれどもう忘れた。奏太は誰とでも打ち解けられるタイプの人間だったから、その時もたいして疑問を抱かなかったと思う。そこから奏太を介して亜矢とも少し話すようになった。亜矢と玲未はすでに席が近いこともあって仲良くなっていたから、そこから徐々に四人でいることが増えていった。そして夏休み明けぐらいには、四人のグループが出来上がっていた。
正直、初めて玲未を見た瞬間少し惹かれた自分がいたと思う。入学式の日から玲未は化粧をしていて、明らかに大人びていた。髪の毛も巻いていたし、派手だなあと思いつつも興味を惹かれていたのは事実だ。けれど、同時にその垢抜けた姿に壁を感じていて、自分とは違う世界に生きている人だとも思った。きっと打ち解けることなく三年間過ごすタイプの人間だ、と。
仲良くなるにつれ壁は無くなったけれど、玲未はもっと大人の男と恋愛するんだろう、だとか、僕と釣り合うような女の子じゃない、なんてことを思い続けた。初めに抱いた気持ちが恋心に昇華することがなかった。
いや、もしかしたらただ怖かっただけなのかもしれない。毎度のことながら勇気がなかっただけ。そんな単純なことかもしれない。もし玲未が僕のことを好きと言ってくれていたなら、僕も玲未のことを好きになっていただろう。それは相手にされないかもしれないという不安が無いから。どこまでいっても僕はそういう人間だったんだ。優しいという言葉に逃げるだけの。
でもまあいいか。青春なんてそんなものだ。よくある成就しない淡い恋だ。だからそれでよかったんだ。今の僕はもう昨日までの僕とは違った。昨日までの自分ならば、また自分の弱さ、情けなさを思い知らされ、悩み、自己嫌悪に陥っただろう。けれどもうそんなことはしない。玲未の言葉が僕を変えてくれた。自分の心がどう変わったのかを言葉に置き換えるのは難しい。台風一過の曇りなき青空というのだろうか。濁った水の不純物が沈殿しきって透き通った上澄みが現れたとでもいうのだろうか。とにかく清々しさであふれていた。
気がつけば駅の入り口までやって来ていた。二人とも黙々と歩き続けていた。
「俺、今日来てほんとに良かったわ。まじでありがとな。亮のおかげだわ」
「僕も来て良かった」
そんな言葉をいくつか交わして僕達は別れた。奏太と違う方向のホームへ降りる階段を降りる。そしてホームのベンチに座ってエンドロールを取り出す。そして最後尾のページに書き込んだ。
『加藤玲未』
エンドロールが完成した今、これから何をするのか。それはエンドロールを作る前から考えてきたことだ。けれどそれはずっと見えてこなかった。エンドロールの先はずっと霧が立ち込めたままで、何も見えなかった。それが今では見えている。今の僕の目はそれをしっかりと捉えられていた。
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