香織と別れた日

 三月も終わりに近づき、少しずつ暖かい日が増えてきた。その中でも少し冷え込む日だった。香織と会うのは卒業式以来一ヶ月振りだった。お互い友達と卒業旅行に行ったり、新生活に向けた準備などで忙しかった。

 そんな久々の香織の部屋はほとんど空になっていた。今日は香織が東京に引っ越す日だ。そしてついさっき引っ越し屋に荷物を預け終わったところだった。地元で就職する僕に対し、香織は東京で働くことに決めた。僕は特に反対しなかったし、反対する権利もないと思っている。香織の将来は香織が決めることだ。僕がそれに干渉するのは違うし、僕にできるのはただ応援するだけだ。

 そんな何もない部屋で、香織と向き合ってペットボトルのお茶を飲んでいた。フローリングの冷たさがズボン越しに伝わって来る。

「ありがとうね、手伝ってもらって」

「ううん。ちょっと運んだだけだし」

「部屋三回なのにエレベーター無いから一人じゃ辛くてさ」

「確かに階段はきつい。一往復で息切れしたもん」

「それは亮くんが運動不足なだけだよ」

「それもある」

就職も卒業も決まり、自堕落な生活を続けてきたことで体が相当鈍っていた。額の汗をシャツの袖口で拭う。荷物を運んでいるうちに汗ばんで、コートを脱いで座っている。改めて香織を見る。茶色で内巻きだった髪は黒のショートカットに変わり、社会人らしい風貌に変わっている。

 香織はどうしてか黙りこくってしまった。僕も特に話題が見つからず空になった部屋を見回す。何もないとこんなに広いのか。

「どうする?」

香織が目を伏せながらそう言った。

「どうするって何が?」

突然の質問に僕は香織の真意が掴めなかった。けれどそう聞き返した後になって、まさか、と嫌な予感がする。

「私たち」

やっぱり。僕は心の中でそう呟いた。四月から香織は東京で働く。僕はここに残ってカウンセラーになる。必然的に遠距離恋愛になる。それだけでなく、僕達の関係自体も徐々に間延びしてきていた。そしてそれは香織も感じていたらしい。

「ただでさえ最近微妙でしょ。それなのに遠距離でやっていけるかな」

「うん」

僕は曖昧に頷くだけしか出来なかった。もうすぐ付き合って三年になる。けれどこの半年くらいで会う頻度も減り、連絡を取る頻度も減りつつあった。別に嫌いになったわけじゃない。他に好きな子が出来たわけでもない。ただ当たり前になって来ただけだった。

 香織は僕の目を真っ直ぐ見た。何か答えを期待している目だった。けれど僕はどう答えたらいいのかわからず目を背ける。そして空白を埋めるようにペットボトルのお茶を飲んだ。心がざわつく。僕はふと高校時代に亜矢と二人で放課後を過ごした時のことを思い出した。あの感覚に似ている。何かが終わる感覚だった。何もない部屋が余計にそうさせる。

 どれくらいの時間が経っただろうか。香織がコートを羽織り直す。僕も汗が冷えていくのを感じてコートを着た。

「別れる?」

何も答えない僕にしびれを切らしたのかついに香織がそう言った。手元のペットボトルのラベルを見ながら。

「うーん」

僕はまた曖昧に答える。けれど胸の内は心臓が激しく鼓動していた。どこかで予感していた言葉だったけれど、実際のそれはとても重く、僕を押しつぶしかねないほどだった。

「じゃあさ、一旦別れてそれぞれの新生活に集中するってのはどう? 僕も香織の重荷になりたくないし。しばらくして落ち着いてきた時に、お互いやっぱり付き合いたいって思ったら、改めてまた付き合うってのはどうかな」

「そっか」

香織は同意も否定もしなかった。我ながら悪くない案だと思う。実際僕は香織と別れたくなかった。別れる理由もない。けれど香織が別れたいというなら、どうしてもというなら、強引に付き合い続けるのも僕には出来ない。だから、二人が妥協できるちょうどいいラインだろう。

 香織はペットボトルのラベルを爪で弄っている。香織が何を考えているのかわからない。三年も付き合ってきたのに。以心伝心だと感じた時もあったというのに。いつの間にか香織は僕の知っている香織ではなくなってしまった。香織が遠く感じる。どんなに愛し合ったといっても結局は他人だった。いったいいつからだろう。香織との距離が広がりだしたのは。四回生になった頃からだろうか。三年生の終わり、就職活動が始まった。二人とも忙しく会う頻度は減ったけれど、連絡はまめにしていたし、むしろお互い支え合いながら苦しい期間を乗り切った。そしてめでたく二人とも就職が決まった。そこからだったかもしれない。スケジュール的にもお互い余裕が生まれたはずなのに、会う頻度は増えず、連絡を取る頻度は減った。香織が新しいバイトを始めたことだったり、海外に二ヶ月留学したりなんてことがあり、なかなか会えなかった。今思えば、会うかどうかを決めるのはいつだって香織だった。香織が忙しければ僕は会うのを我慢したし、香織が会おうと言えば僕は大抵会った。ひょっとするともうあの頃から香織の熱は冷め始めていたのか。

 香織が手に持っていたペットボトルが床に置いた。香織の背後の窓から差し込む日の光が、少しオレンジがかって来たように思える。

「ならもういいや。そんな中途半端なことするならすっぱり別れよ」

香織は僕の提案に首を振った。やっぱり目の前にいる香織は僕の知っている香織では無かった。いつも僕が提案すると、亮くんは優しいねといって笑って受け入れてくれたのに。

「わかった」

僕は頷いた。

「香織が別れたいなら別れよっか」

そう言って僕はペットボトルのお茶を一口飲んだ。もう口の中はカラカラだった。本当はもっとたくさん言いたいことがあったけれど、今はこんな言葉しか出てこなかった。けれど僕が選んだ言葉は香織の中の何かに触れてしまったらしい。

「もうやだ」

その声は震えていた。そしてその目から涙が一滴こぼれ落ちた。

「亮くんっていつもそうだよね。いっつも。そうやって人に委ねてばっかり」

堰を切ったように涙は止まらなかった。けれど言葉ははっきりと吐き出されていく。

「香織の好きにしたらいいよ、とか、香織がよければそれでいいから、とかさ。そんなのもういらないの。そんな言葉を聞くたびうんざりするの」

香織が発する言葉一つ一つが僕の脳を揺らす。それは僕自身を否定する言葉だった。僕が良かれと思ってした行動が、言葉が全て裏目に出ていた。

「亮くんってほんと優しいだけ。それだけ。それ以外なんもない。その優しさに触れるたび私は悲しくなるの。もちろん付き合った頃はそれがよかった。こんな優しい人と付き合えて良かったと思ってた。でもそれだけだった。今じゃもうその優しさに愛情を感じない」

僕は言葉が出ない。香織の勢いに押され僕は言葉一つ一つを受け止めるのに必死だ。

「今だってそう。私が別れたいから別れよう。なによそれ。そんなの卑怯でしょ。まるで自分には関係無いみたいな言葉で。ねえ。亮くんは本当に私が好きなの?」

涙が流れ続ける目で僕を見る。

「好きだよ」

僕の言葉は上手く吐き出せたのだろうか。好きだよの四文字は喉で突っ掛かり、転げ落ちるように口から出た。

「じゃあ、じゃあさ」

僕の小さな言葉が香織の耳に届くと、はっきりとした言葉は次第に感情に侵された不恰好なものに変わった。

「なんで止めてくれないの。好きなら、好きなら、別れないって言ってよ」

「……ごめん」

香織の感情が直接心に刺さり、僕の目にも涙を溜める。僕はなんて愚かなんだろう。本当は全部僕のせいだった。勝手に香織が僕から離れていったんだって思ってた。それは違った。僕が香織を遠ざけていたんだ。

「少しでも、期待してた私が、愚かだった。今回は、止めてくれるんじゃないかって。今回はわがまま、言ってくれるんじゃないかって」

いつかと同じように僕は泣いている彼女をただ黙って見ているしか出来なかった。

「あの時もそうだった。就活の時だってそう。私が東京に行くかもって言った時、亮くんは笑顔でそれもいいんじゃないって言ったよね。香織が行きたいなら僕は止めないよって」

「うん」

記憶を辿ってみると、確かにその言葉が見つかった。香織に東京に行って欲しいわけじゃない。けれどその時は離れる実感も湧かなかったし、彼女の決断を後押しするのが彼氏の役割だと思った。そこで行かないで、なんて言うのは格好悪いと思ったし、自分勝手な言葉で香織を振り回したくなかった。

「今まではそれが亮くんの優しさだと思ってたし、良いところだと思ってたし、愛なんだと思ってた」

「うん」

「でもその時はなぜかそう感じれなかった」

「そっか」

もう悲しいだとかそういった感情は生まれなかった。僕の心は感情に振り回されるのに疲れ果て、ただ香織の言葉を受け止め、こぼれ落ちないように必死に抱きかかえるだけだった。

「なんでなんだろうね。自分でもわかんない。でもそれから変わっちゃった。亮くんのあの優しさに触れるたびなんだか悲しくなるの。あ、亮くんってこんな人だったんだって」

 ひどく寒い。体の内側から熱を全く感じない。両腕で体を抱えるかのようにして香織の言葉を聞いた。

「別に嫌いになったわけじゃない。むしろそれでも好きだった。でも、でも、あの優しさに触れると、亮くんと一緒にずっと過ごすことは想像出来なくなった。これにずっと触れ続けるのは出来ないって」

「そっか」

 そこまで言うと香織は、小さくため息をついた。言いたいことは全部言ったのか、涙も止み、目に光も戻っている。僕は何を言えばいいのだろう。返す言葉が一つも見当たらない。香織が言ったことの意味はわかる。僕の行動が、優しさが全て香織には届いてなかったんだってことも。頭では理解出来る。ただそれを心で、自分のものとして理解することは出来ていなかった。だから香織の言葉に対してまだ感情が生まれないし、もちろん言葉も生まれない。

「ごめん」

僕が苦し紛れに出した言葉はその三文字だった。

「私こそごめん。せっかく手伝いに来てもらったのにこんな話して。亮くんは悪くないの。私が、私が亮くんの優しさを素直に受け取れなくなっただけだから」

「そんなことない。ちゃんと言ってくれてありがとう」

僕の口はこうして言葉を発しているけれど、心は無表情のままだった。

「もう帰るわ。今日この後バイトあるし」

そう言って立ち上がった。寒さのせいか体の関節が固まってしまっていて軋んだ。

「そうだね」

香織も僕に合わせて立ち上がった。この見慣れた身長差がここにきてどうしようもなく愛おしくなる。もうこの風景が見れなくなるのか。

 沈黙が訪れる。お互いが最後の時間を惜しんでいるかのような空気が流れる。これを手放す一歩を踏み出せなかった。けれどずっとこのままでいるわけには行かない。だから僕はドアに向かって歩き出した。

「今までありがとう。楽しかったよ」

そう言って香織に向けて手を振った。その瞬間香織の目に涙が急激に溜まり、一滴、二滴と零れ落ちていった。

「うん。うん。私も、楽しかった」

泣きながら香織が言う。香織に対する愛おしさがこんなにも自分の中にあったのか。泣く香織を見て今更そんなことを思う。今すぐ抱きしめたい。抱きしめて涙で濡れた唇にキスをしたい。そんな衝動に駆られる。けれど僕はこの部屋を出ていかなければならない。もう戻れる場所に僕は立っていない。

 僕はそんな香織を残して部屋を出ていった。乾燥して底冷えのする階段を一人で降りていく。さっきまで荷物を運んでいた場所とは思えないほど寂しい空間だった。足音が悲しく響く。この後バイトなんてなかった。あれ以上あの部屋にいることが出来なかっただけだ。

 マンションを出て通りを歩き出す。心に穴が空いたようとはこのことを言うのか。上手く表現したものだなあ、なんて冷静に納得する自分もいる。どこか感情にまつわる部分だけが抜け落ちたようで、自分でも意外なほどしっかりとした足取りで歩いている。そんな風に最寄駅に向かって歩く。もうこの道を歩くことはないだろう。香織の家は僕の家から二駅分離れている。今向かっている駅は香織の家に行く以外にほとんど利用したことのない駅で、この道や駅は香織との思い出であふれていた。そんな道を一人で歩く。もう香織と手をつないで歩くことは出来ない。

 一人、二人、通行人とすれ違う。そしてすれ違う人の数を重ねるほどに、少しずつ心の穴が塞がっていく。それはショックから立ち直るという意味ではなかった。感情が戻ってきたのだ。ようやく悲しみがこみ上がる。とうとう僕は香織と別れてしまった。その事実が悲しみを心の底から引っ張り上げる。この悲しみと空虚さを引き連れて僕はただ歩いた。

 地下鉄の階段を降りていく。平日の午後四時ということもあり、さほど人は多くない。それがせめてもの救いだ。切符を買い、改札を抜け、ホームに向かう階段をさらに降りる。体はそうやってスムーズに動いていくけれど、心はまるで別の動きをする。ずっと香織の言葉が繰り返し再生されていた。僕の優しさは一体なんなのだろう。僕がしてきたことは優しさではなかったのか。自問自答を繰り返す。香織と過ごした三年はこうも一瞬で終わってしまった。あれだけ幸せだった時もあったというのに。しかもお互いに他の人を好きになってしまったわけじゃない。全ては僕の間違った優しさのせいだった。

 ホームにやって来た電車に乗り込む。普通電車だったので空いていた。僕は車両の一番端の座席の一番端に座った。香織の幸せそうな笑顔とさっきまで見ていた泣き顔が交互に浮かんでくる。ため息が止まらない。ありきたりな感想ではあるけれど、失ってからその大きさに気づいてしまった。心のどこかで別れても仕方ない。そういった考えが少なからずあった。それが香織と付き合うことに対する慣れだったのかもしれないし、香織が僕から距離を空けつつあるのを感じていたからだったかもしれない。けれどそれでも手放すべきではなかった。今はそう確信している。

 ひたすら香織への未練と悲しみを心の中に充満させているうちに、電車は自分の家の最寄駅に着いた。僕は立ち上がって車両から降りた。もう心の穴が塞がってしまった。感情と体が結びつき始めている。体がさっきよりスムーズに動かない。体が心に引っ張られ始めていた。

 重くなった足を引きずって階段を上がって地上に出る。地下にいた三十分余りで太陽が傾き、より冷え込んできた気がする。脳裏に浮かぶ香織の笑顔と泣き顔。そしてその奥に何故か玲未の顔がたまにちらつく。どうしてだろう。不思議に思うけれどほどなく気づいてしまった。あの時と同じだ。あの時と同じことを僕は繰り返している。優しいつもりの自分は何も出来ない。気がついたときにはもう手遅れ。

 ああ。きっとあの時もう気がついていたんだ。自分の優しさがまがいものだってことは。けれどそれを認めてしまえば自分が自分でなくなる気がして、またあの日と向き合うことが怖くてそれを奥底にしまっていた。そしていつしかそれを忘れていた。少しの違和感を残して。

 けれどもう見て見ぬ振りは出来ない。二人も失ってしまった。この事実に向き合わなければならない。このままだと一生こんなことを繰り返してしまう。けれどだからといってどうしたらいいんだ。これが自分なんだ。そんな簡単に性格を変えられたなら苦労しない。

 ああ。またため息が出る。もうどうしたらいいかわからない。頭の中が様々な言葉が氾濫して混乱していた。もうまともな思考が出来なくなっていた。自分の部屋があるマンションの入り口までたどり着いた僕は、もう考えることを諦めた。今考えたところで何も変わらない。なにせ一朝一夕で解決する問題じゃない。

 もうくたびれ、疲れ果てた体と心で僕は自分の部屋に帰ってきた。そしてベッドに倒れ込む。悲しみと喪失感の海に沈んでいく。もう息が出来なくてもいい。二度と浮き上がって来なくても構わない。そしてそのまままどろんでいく。こうしていっそ悲しみで満たされた方が楽だった。余計なことを考えなくて済むから。そして気がつけば僕は眠っていた。

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