8月12日(水) 午後十一時半
風呂にも入り、歯磨きも終わり、いざ寝ようとベッドに横になってみたものの、今日の奏太の反応が頭の中を巡ってしまい寝ることが出来ない。もう忘れた方が玲未のため。あの言葉が頭から離れなかった。奏太はそうやってあの日に折り合いをつけてきたのだろう。もしかしたらその方が健全なのかもしれない。あの日はあの日だ。そして今は今。過去に囚われるよりも今を生きる。その方が生きやすいということは僕にもわかる。ただ、奏太はあの日にちゃんと向き合ったのだろうか。ただ蓋をしているだけじゃないのか。もしそうだとしたら、それもなにか違うんじゃないか、とも思う。本当はもっと奏太に聞いてみたかった。けれど奏太はあからさまにそれを嫌がっていたからあれ以上は聞けなかった。
どちらにせよ、僕は向き合うことを選んだ。そうしなければこの先を生きることが出来ないと感じたのだ。今まではちゃんと向き合うこともせず、かといって蓋をすることも出来ず、ただあの日に引きずられるように生きてきた。もう蓋をするには遅い。だから僕は向き合わなければならない。その結果がどうであろうと構わない。もう僕は十分に生きた。
そして過去を振り返る度に、キーワードとなるのは優しさという言葉だった。大切な時に玲未を救えなかったことが、優しさという言葉の意味を大きく変えたのだろう。ただ人の嫌がることをしないだけで、手を伸ばす人がいればそれに対して手を差し出すだけの優しさ。それが僕だった。けれどそれでは玲未を救えなかった。あの日も僕は何も出来ず、何も言えず、ただ立っているだけだった。
ただ、僕の持つ優しさが優しさでもなんでもなかったと気がついたのはもっと後のことだった。心の奥では気づいていたのだろう。あの日以来ずっと違和感がしこりのように僕の中に存在していた。けれど、それが確かなものとなったのは香織に別れを告げられたあの時だった。僕はまだあの時のことをエンドロールに書いていなかったことに今更気がつく。どうしてだろう。知らず知らずのうちに思い出さないようにしていたのか。玲未のことと、庵野まどかのことに気を取られすぎてそこに思い至らなかった。
僕は起き上がり、明かりをつけ、枕元に置いてあるエンドロールを手に取った。そして書き込む。
「香織と別れた日」
そしてもう一度布団の中に潜り込む。タイマーを設定しておいたクーラーが停止する音が聞こえる。あの日は何度思い返しただろう。香織が横で寝ていた五年前の温もりをいまさら思い出す。
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