8月12日(水) 午後八時

 午後八時、白いワイシャツ姿で現れた奏太は顎髭を蓄えていた。

「よお」

奏太に会うのは一年振りだった。

「珍しいよな、亮から会おうなんて」

「まあたまにはな」

軽い挨拶を交わすと、ビルの二階の居酒屋に入る。焼き鳥がメインの店で、全てのメニューが二百五十円というのが売りだった。別にどうってことのないチェーン店で、お互いに焼き鳥が好きというわけでもない。けれどいつもここでいいか、となる。

 平日だったけれど店内は混んでいてほぼ満席だ。冷房が効きすぎていて少し肌寒い。

「今日は仕事なかったのか?」

席について奏太がそう尋ねた。きっと僕がジーンズにパーカーというラフな格好をしていたからだろう。

「先月辞めたんだよ」

「え?」

奏太は運ばれてきた冷水を飲もうとした手を止めてこちらを見た。

「まあ、四年も働いたからもういいかなって思ってさ」

「まじか。急でびっくりしたわ」

驚いた顔でそう言って、奏太は水を一口飲んだ。

「亮が納得して辞めたなら全然いいんだけどさ。で、次の仕事は決まってたりするのか?」

「いや、まだ決めてない。しばらくゆっくりしてから探そうと思ってる」

「そっか。でも羨ましいわ。俺もゆっくりしてーよ」

「奏太忙しそうだもんな」

 奏太は広告代理店で働いていた。広告代理店はクライアントへの納期が決まっていて、それによって仕事時間が左右される。だから深夜まで仕事することも珍しくないらしい。何年か前に、晩飯を一緒に食べた後にこれから会議があるからと会社に戻っていったこともあった。

「それにしても随分思い切った考えだな。亮らしくない」

「そうかな?」

「そうだって。亮は基本考えすぎて行動出来ないタイプだろ。行き当たりばったりな行動しないじゃんいつも」

「そんなことないと思うけどなあ。で、何食う?」

 二人でメニューを見ながら注文する。キュウリの浅漬けとハツと砂肝とねぎま。それと唐揚げ。いつも同じようなものを頼んでしまう。

「仕事辞めたらびっくりするくらい暇でさ。だから奏太と久しぶりに飲もうかなって思って声かけてみたってわけ」

「なるほどな」

運ばれてきたビールジョッキを持ち、小さく乾杯する。

「奏太は最近どうなの」

キュウリを二つまとめて頬張った奏太にそう話しかけてみた。

「どうって言われてもなあ。ぼちぼちってやつだな」

「ぼちぼちか。そういや結婚とかは考えないの? もう長くなかったっけ今の彼女」

「来月で二年になるかな」

そう言うと少し眉間に皺を寄せて考えてまた口を開いた。

「そうなんだよなあ。結婚も考えなくちゃいけないよなあ」

そこでお互いにビールを一口飲んだ。

「最近彼女が結婚考え出してるみたいで困ってるんだよな。別に結婚する気がないってわけじゃないし、するなら今の彼女だと思ってるんだけど、まだ早くねっていうさ」

「そっか。彼女同い年だっけ」

「そう。俺と一緒で今年で二十七」

「確かに男で二十七は早い気もするけど、女だとちょうどいいくらいだもんな。同級生がどんどん結婚していって焦る時期だし」

「そうそう。やっぱ亮はわかってるよな。彼女いるみたいじゃん」

「まあ残念ながらいないんだけどね」

「でもほんとそうなんだよ。最近二件たて続けに友達の結婚式に出席したみたいでさ、それからやたら結婚式の話するんだよね。もし友達呼ぶなら何人くらいかなあ、とか、あの子は呼ぶけどあの子は呼ばなくていいかな、とかさ。一応話し合わせてるけど内心は戦々恐々っていうね」

奏太が苦笑いしながらも嬉しそうに話すのが見てて微笑ましかった。幸せそうだった。

「結婚しちゃえばいいじゃん」

「お、簡単に言ってくれるね」

運ばれてきた焼き鳥を僕達はつまみ始める。いつもと変わらない程よい美味しさだ。

「まあね。でも奏太、今の彼女と付き合ってだいぶ落ち着いたからいいんじゃないかって思うけど。昔みたいな軽薄さが少し薄れたというかさ」

「大人の男になったってやつ?」

「そこまでじゃないかなあ。近づいたくらい?」

「まだ近づいただけかー。遠いなあ」

天井を見上げて奏太はそう言った。

「それこそ結婚して子供出来た時に大人の男になれるんじゃない?」

「そういうもんかなー。でも子供とか全然考えられないわ。そんな責任負えないって。自分一人が生きて行くだけで必死だってのにさ」

「まあそうだよな普通」

 運ばれてきた串を食べながらの会話が続いていった。お酒は最初のビール一杯だけに抑えて、二杯目からは烏龍茶を飲んだ。奏太は二杯目からずっとハイボールを飲んでいた。高校時代の同級生がどうなった、という話から、最近の時事問題まで様々な話をした。未だに定期的に会う友達は奏太だけだ。自分から会おうぜ、なんて言えるタイプの人間ではない僕に、奏太だけは時折連絡をくれた。どうしてかはわからない。ただ僕にとって高校時代はかなり重要なもので大きな意味を持つものだったし、奏太にとってもそうだったのかもしれない。同じものを共有した仲間として大事に思ってくれていたならありがたい。

 締めに頼んだ釜飯が運ばれてきた頃に、僕は切り出してみた。

「この前さ、南高に行ってきたんだよ」

南条ヶ丘高校を南高と呼ぶこと自体が懐かしかった。

「へー。なんか用事でもあったのか?」

「いや、別に理由はないんだ。久しぶりに様子見に行こうかなって」

「それも奏太っぽくない行動だな。で、どうだった?」

「それがびっくりするくらい変わってなくてさ。相変わらずテニス部はダラダラしてたし、サッカー部は小林が怒鳴ってたし」

「あー、懐かしいなー。確かにそんな感じだったなー」

「強いて言うなら野球部が県大会で準優勝したっていう垂れ幕があったくらいかな」

「うーん、どうでもいいやつだなそれ」

「まあね」

「でさ、学校の向かいに住宅街作ってたじゃん。あれが完成しててさ、そこにある公園からぼーっと学校眺めてたんだよ」

「うんうん」

僕の話を聞きながら、奏太は釜飯を取り分けてくれていた。

「あの頃と自分全然変わってないなって思ったわ。本当に」

「それわかる。俺も一緒だわ。変わったのは腹回りくらいでさ」

「でもあの頃がまさに青春だったんだなあって実感した。残って勉強したり、一緒に帰ったりさ。奏太が新山さんに振られてたり」

「そんなこともあったなあ。まじで懐かしい」

そう言う奏太の表情はとても優しげだった。遠くを見つめる目は、昔の奏太には無い目だった。

「高校時代のこと思い出すときにさ、一番初めに思い出されるのが、四人で放課後教室に残って勉強してた頃なんだよな。あの時が一番青春してた気がしてさ。時間にしてみりゃ二ヶ月も無かった気もするんだけど」

「確かにそうだなあ。あの頃が一番楽しかった気がする」

あの頃を思い出すという行為はかなり危うい。きっと二人ともそうだった。それより先は見ない。あの二ヶ月だけを想う。悲しみにも似た懐かしさが胸に起こる。

「亜矢とは会ってる?」

僕が聞くと奏太は口の中の釜飯を飲み込んで答えた。

「いや、全然。でも確か二人目妊娠してるらしいよ」

そして奏太は携帯電話を取り出した。

「そうなんだ」

少し携帯を操作して、僕に画面を見せてきた。それはSNSのページで、大きなお腹を撫でているの亜矢の写真が載っていた。その亜矢の隣には幼稚園児くらいの女の子がお腹に耳を当てている。見ているだけで口角が上がるような、幸せに溢れた写真だった。

「幸せそうだな」

「ああ」

 奏太は携帯電話をしまうと、また釜飯を食べ始めた。箸を握った。けれど食べ始める前に、勇気を持って一線を越えようと決心した。その為に奏太を誘ったと言っても過言ではない。

「玲未はどうしてんだろうな」

その言葉に奏太も箸を止めた。

「……どうしてんだろうな」

奏太は壁に貼られたメニューの方を見ながら呟いた。

「亜矢だったら何か知ってるのかな」

「どうだろうな」

「なあ、亜矢って今でも玲未と」

「もういいんじゃないか。玲未のことは」

奏太は僕の言葉を遮ってそう言った。

「もう忘れてやろうぜ。その方が玲未の為だろ」

そう言って釜に残った釜飯を空になった茶碗によそった。

「そっか」

「もし玲未が俺達に会いたかったら連絡してくるだろ。別に実家は変わってないし。それでもしてこないってことはきっと会いたくないんじゃないか。そこをこっちからあれこれ詮索するのも野暮だろ」

「確かにそうかもな。そうかもしれない」

「いくら後悔してもあの頃には戻れないし、何も変わらないんだよ。それなら忘れて生きた方がよっぽどいい。少なくとも俺はそう思ってるかな」

「やっぱ奏太は大人だなあ」

「どこが」

そう言って奏太が昔と同じように笑った。

「昔から亮の方が落ち着いてて大人だったじゃん。俺がいつもヘラヘラしててさ」

「そんなことないさ。奏太はわかってやってたもん。あえてああいうキャラでいたというかさ。そうやって周りに安心感を与えてたよ。自分から馬鹿にされてあげてたんだろ」

「やっぱわかる? なんてな。そんなわけないじゃん」

「っていうこの発言もキャラを演じてたりするんだろ」

「おいおい、やりづらいわ」

そう言って嬉しそうに笑った。

「あ、すいませーん。ハイボール下さい。亮もなんか飲む」

「じゃあハイボールもう一つ」

 最後にもう一杯飲んでおこう。このまま終わるのは少しもったいなかった。出来るだけこの時間を大切にしておきかった。

「お、亮ハイボールとか飲むようになったの?」

「最近ね。少しだけ」

「亮も大人になったなあ」

「それ馬鹿にしてるだろ」

「そんなことないって。でもさ」

空になったグラスと皿をテーブルの通路側に寄せながら奏太は言った。

「俺もあのキャラが本当の自分だったがどうかはわかんないんだよな。今の会社じゃあの頃よりは頼られることも多いしさ。少しは亮の気持ちもわかるというか。もちろん後輩がいるから、とかもあるんだけどさ、あの頃とはまた違う立ち位置に自分がいるってことはわかるんだよ」

「へー。全然想像つかない」

「だろ。だから結局キャラなんて周りに合わせて出来上がるんだよ。昔は亮が横にいてさ、亮はみんなに頼られて相談されて、一方俺はヘラヘラお調子者で。でもそれが居心地良かったんだよ。今は俺を慕ってくれる後輩もいて、そしたら自然と他の人にも頼られることも増えたりして。そうやって周りの中に上手に溶け込める自分を作り上げてるだけなんだよな」

「なるほどな。そう言われたらそういう気もする」

「だろ。俺だってそれなりに色々考えて生きてるんだぜ」

そう言って自慢げに微笑んだ。

 いかにも毎日楽しんでる大学生といった見た目の店員がハイボールを机に置いて、空のグラスと皿を下げていった。

「でもそれって奏太が人付き合いが上手いから出来てるんだよ」

「そんなもんかなあ」

「そうだよ。周りに合わせてキャラを変えるって、奏太はきっと無意識にやってるんだと思うけど、結構難しいよ」

「でも亮だって俺と仲良くなってなくて、もっとしっかりしたやつと仲良くなってたら俺みたいにヘラヘラしてたかもしんないぜ。俺の横にいて、俺に比べれば、優しくてしっかりしてるからみんなに相談されてただけで、亮単体で見たらそんなに優しいやつじゃなかったりして」

「案外それ当たってるかも」

「だろ。今になって思うと、亮って優しいっちゃ優しいけどドライなとこもあるもんな。まあそれくらいの方が俺はいいと思うけど。押し付けがましい優しさほどうざいもんないし」

「なんか褒められてるのか、貶されてるのかわかんないけど、褒め言葉として受け取っとくわ」

「そうしてくれるとありがたい」

 奏太の考察は納得のいくものだった。まさかこんなことを考えてるとは思っていなかったけれど、意外とすっと心に入ってきた。僕は決して優しいわけじゃない。それは自分でわかっているからこそ、他人から指摘されると認めたくなくなる。けれど奏太から言われると余計な感情を挟まずに受け止めることが出来た。

 いっそ今僕が思い悩んでいることを全て打ち明けてしまおうか、心が揺らぐ。自分のアイデンティティーだと思っていた優しさが、ただの虚構だったこと。玲未が母親を殺したあの日から気がついていたけれど、それを見て見ぬフリしていたこと。それを認めてしまえば僕という存在が成立しない気がしたからだ。けれどそれも限界が訪れた。庵野まどかが自殺したあの日に崩れ去った。そこからは言葉にできない無力感が僕を支配してきた。それがどうしても離れずまとわりついてきた。もはや生きるということがポジティブなものと捉えられなくなってくるほどに。

 僕が少しずつハイボールを飲みながら、どうしようか逡巡しているうちに、奏太がジョッキに三分の一程残ったハイボールを一気に飲み干してゲップとともに愚痴を吐いた。

「あー、明日も仕事かー。まだ水曜日かよー。きついわー。亮はもう仕事行かなくてもいいんだろ。いいよなあ。いや、よくはないのか。どっちだ。もうよくわかんねえわ」

「よくもないし悪くもないかな。でも明日は亜矢に会おうと思ってるんだよな」

「え、まじで。いいなあ。よろしく言っといてくれ。俺は昔よりも大人になってまーすって」

「奏太酔ってるだろ」

呆れながら僕も残りのハイボールを飲み干した。

「酔ってねーよ。少し気持ちよくなってるだけだって」

「それを酔ってるっていうんだよ。この世の中の常識では」

「常識なんかに囚われてるとつまんない人間になっちまうぞ」

「はいはい」

悩みを打ち明けるのはやめにしよう。少し赤らんだ顔で楽しそうにしている奏太を見ると、もう真面目な話をするのは厳しそうだ。

「よし、帰るか」

 時刻は九時半を過ぎたところだ。腕時計を確認してから奏太がそう言った。

「今日は早いじゃん。いつもは帰りたくないって駄々こねるのに」

「それがさ、今同棲してんだよ」

「まじかよ」

驚いて水を飲もうとグラスを持ち上げていた手を止めた。

「実はね。三ヶ月くらい前から。だからまあ早めに帰ろうかなって思ってるわけ」

「奏太も変わったなあ」

「本心はもっと飲んでたいんだぜ。二軒目行きたいくらいだし。ただ遅くなって無駄な喧嘩とかしたくねーし」

「なるほどな。やっぱ男を変えるのは女の存在か」

「そんな大げさな。でも否定はしきれないかもな」

「じゃあとっとと帰るか。奏太の幸せを壊すわけもいかないし」

「うっせーな」

そう言いながらも嬉しそうにしている奏太は立ち上がった。僕も立ってレジへ歩き出す。伝票は奏太が持っていった。

「俺払うわ。仕事辞めたんだったらあんま余裕無いだろ」

「別に全然いいのに。それなりに貯めといたからさ」

「いいのいいの。また今度おごってもらうから」

「ありがとう。助かるわ」

 きっと奏太の方が優しい。自分なら理由なく奢ったりしない。僕が持ち合わせているのは優しいという名前の何か別のもので、奏太が持っているものこそ本当の優しさだ。本当に人を救えるのは僕じゃなく奏太なのだろう。

 一人先に外に出ると、息苦しい蒸し暑さが僕を覆う。今のこの状況が、僕の精神状態と重なる。まるで金魚みたいだ。水槽の中で、酸素が足りないのか水面から顔を出して口をパクパクさせている小さな赤い金魚。そして光のない目で水面に浮かぶ金魚の死んだ姿がよぎる。僕もいずれそうなってしまうのか、それともしっかりと呼吸できるようになるのか。まだ僕は決断出来ていない。今はエンドロールを完成させてしまおう。全てはその後からだ。

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