8月7日(金)朝
店内には客は数えるほどしかいない。老夫婦が一組。そしてパソコンに向き合う三十代くらいの男。そして僕だった。内装が変わったのかかつてと比べて雰囲気が明るいように思う。電球がLEDに変わっただけなのかもしれないけれど。ただ店内の構造はほぼ変わっていないようで、いつも座っていた席に座っている。玲未の相談によく乗っていた席に。
病院を辞めてから一週間が経った。先週の金曜日に辞め土曜日に二年前のあの日のことをエンドロールに書き、そこから憂鬱と絶望を引きずっていた。もう働かなくていいということは、無理やり気持ちを切り替えなくていいということだ。それが悪い方向に作用し僕は立ち直るきっかけを失っていた。それは二年前のあの日からの一週間を思い出させるものだった。かろうじて仕事はこなしていたけれど、カウンセリング相手から大丈夫ですかと心配される始末だった。生きるのが嫌になり、死ぬ勇気もなく、機械のように過ごした。程度の差こそあれ、そこからの二年間はその苦しみから抜け出せなかった。それがエンドロールを書き出した時から和らいだ。仕事を辞めると決めたこともあり、様々な終わりが見えたことが大きかった。僕の二十七年の人生の終わりも。
死を意識し始めたのはもとを辿れば十八歳の時だと思う。そしてそれが自分の死として強く意識し始めたのは二年前だ。そこから憂鬱と共に死が僕の脳裏にこびりつき続けた。向こう側に踏み出すことは出来ない。けれどどうして生きているんだろう。自分の生に対する疑問を抱き続けた。だから僕はエンドロールを作ろうと思ったのだ。エンドロールを作ればこの人生の意味が見えてくるはず。そしてエンドロールが完成した時決めよう。もう終わりにするのかまだ生きていくのか。
仕事が辞めてから一週間が過ぎようとして僕は怖くなった。このまま二度と動き出すことができなくなるのではないかと。だから僕はエンドロールを持って今日この街にやって来た。高校三年間を過ごしたこの場所へ。
思っていたより客が少ない。でもまだあって良かった。なにせ十年近く来ていないのだ。正直もう潰れて無くなっているかもしれないと覚悟していた。駅の反対側、栄えている方にあったチェーン店の二つのカフェはもう潰れてまた別のカフェが二つ出来て入れ替わっていた。
アイスコーヒーを一口飲む。前と同じようにシロップとミルクを一つずつ入れて飲む。こんな味だったか。どこか変わったような気もするし、変わっていないような気もする。コーヒーの味が変わったのか、自分の味覚が変わったのか。もう一口飲んで考えてみるけれどはっきり言ってよくわからない。元々の味すらあやふやだ。どうやらそんな味わって飲んでいなかったらしい。
ふと思い出してエンドロールを取り出す。そして開いたエンドロールに南条珈琲館と書き込んだ。しみじみ思う。まさかまたここに来るなんて。十年の月日は記憶の角を取ってなめらかにする。いい思い出も悪い思い出も全部ひっくるめていい思い出に変わる。ただその中身自体はぼやけることなく鮮明に残り続ける。この場所でいつも玲未は何を考えていたのだろう。悲しそうな玲未、強がって笑う玲未。その奥にある玲未の真実を僕はあの時何もわかっていなかった。
いつの間にかグラスは空になっていた。思い出に浸っているうちにストローから吸い出しているコーヒーはコーヒー風味の氷水になっている。感傷に浸るのはもうこれくらいにしよう。僕はトレイとグラスを返却口に置き、外に出た。まだ十一時だ。眩しいくらいの日差しが僕を刺す。さて向かうか。
かつての通学路を歩き出す。目に入る風景全てが小さく感じた、なんてことは一つもなかった。よく考えたら高校生の頃と体の大きさは全然変わっていない。視点の高さも1センチも変わらない。変わったところといえば、何気ない坂や階段がきつく感じることくらいだ。
夏休みということもあって学生の姿はほとんど見当たらない。部活の生徒だってこんな時間に登校しないだろう。人気のない通学路をぼんやり歩く。ちょっとした丘の上にある南条ヶ丘高校まではなだらかな坂が続く。ただ今の自分にとってはもうなだらかとは言えず、息を切らすほどの坂だ。額にじっとりと汗をかいていて、それを半袖のポロシャツの袖口で拭う。駅から徐々に離れ、人通りも少なくなり、蝉の鳴き声が大きくなる。繁華街を抜けると住宅街になり、すれ違うのは遊びに行く小学生や地元の主婦くらいだ。所々にある街路樹の陰を出来るだけ通り、燃えるような日差しとアスファルトの照り返しを出来るだけ避けて歩く。部活帰りの汗まみれの下校を思い出す暑さだった。駅前のコンビニで部活仲間とアイスを買って食べていたっけ。そしてそのせいで晩飯が食べれず母親に怒られたことまで思い出す。
住宅街の真ん中には比較的広い公園がある。気まぐれに公園の中を通ってみる。小学生くらいの子供たちが遊んでいて、元気だなあと微笑ましく思いながら通り過ぎる。学校帰りにここを通ると南条ヶ丘高校の生徒が最低でも一グループはたむろっていた。そしてたむろっているのは大抵の場合校則をいかにばれないように破るかを考えているような連中だった。学校にいる時はちゃんと守るけれど校門を出た途端にシャツの裾をズボンから出しネクタイを緩める。休みの日だけピアスをつける。そんなタイプの人間だった。僕達四人はほとんど公園に寄ることはなかった。そのまま素通りして駅に下っていった。四人とも真面目だったし、社会に反抗することに快感を覚えるタイプの高校生ではなかった。そんな公園を通り過ぎ僕は高校に向かって坂を登り続けた。小学生の歓声を背中で受けながら。
住宅街が途切れ始め、高校前最後の坂の横には雑木林が広がっていた。そしてその最後で最も急勾配の坂を登り始める頃には部活動の声がうっすら聞こえ始める。止まらない汗がアスファルトに黒い染みを作ってはすぐ乾いていく様を見ながら、聞こえてくる声や音に耳を澄ます。野球部らしき掛け声や吹奏楽部のトランペットの音。それらを聞くと懐かしさが胸の奥の方からとめどなく湧き上がってきた。いつも聞いてた音。三年間毎日聞いていた音。それが僕のかつての感情をどんどん蘇らせていく。登校中の面倒で憂鬱な気持ち。下校中の疲労感。試験期間が終わった日のあの解放感。様々な感情が胸の中を次々と巡り変わっていった。そして最後に残ったのは、新学期や新学年の登校初日の期待と不安が入り混じった感情だった。僕はその感情を携えて坂を登った。
坂を登りきり校門の前にたどり着いた。僕の母校、南条ヶ丘高校は変わらない姿でそこにあった。何も驚く要素もない。新しい発見も見当たらない。記憶の中そのままの姿でそこに佇んでいる。
「こんなもんか」
僕は何かを期待していたらしい。落胆している自分に気がついてからそのことを知る。母校に九年ぶりにやってきたからといって自分が何か変わるわけがないのに。母校の姿を見た瞬間に僕の心を鮮烈な稲妻が走り心機一転生まれ変われる、なんてあるはずがないのに。
僕は校門の向こう側に足を踏み入れようとして躊躇してしまう。急に怖くなった。知っている教師に出会うのが怖いのか、青春を謳歌している高校生を見るのが怖いのか、不審者と思われるのが怖いのか。その全てだった。僕という存在が高校という場所の中で認識されるということが怖くて恥ずかしい。
僕は高校に背を向けた。向かいには新たに新興住宅街が出来ていた。僕が三年生の時に工事が始まっていて、それがいつの間にか完成していた。ただの竹やぶは小綺麗な住宅街になっていた。高校自体は何ら変わっていなかったけれど周囲の環境は変わっているようだ。その中に小さな公園が見えた。そこからなら学校の校庭やグラウンドを見渡せそうだ。
さらに坂を登り小高い公園にたどり着いた僕は小さなベンチに座った。ベンチと滑り台とその着地点に小さな砂場。それとブランコ。それだけのちっぽけな公園。本当はブランコに揺られながら高校を眺めたかった。けれど人目を気にしてベンチに座ってしまった。三十も近い男が一人でブランコに揺られる姿は怪しい。周囲に誰もいないのにそんなことを考えて人目を気にする自分に苦笑いしてしまう。本当に小さな人間だな。
ベンチから学校の方を眺めると予想以上にうまく見渡せた。グラウンドには野球部とサッカー部がいて、奥のテニスコートにはテニス部がいた。主に声を出しているのは野球部とサッカー部で、テニス部は相変わらずダラダラとボールを打ち合っていた。どうやらあの放任主義の顧問は変わっていないらしい。学内で一番ゆるいテニス部は、部活動参加が義務のこの学校にとってとりあえず入っておく部活という位置付けだった。もちろん一部の生徒は真剣にやっているけれど幽霊部員も相当数いた。
校舎の壁には硬式野球部県大会準優勝と書かれた幕がかかっていた。小さな驚きだった。公立高校にしては大躍進だ。僕が高二の夏、ベスト4に残った時ですらちょっとした騒ぎで、もしかしたら甲子園に行けるかも、なんて思いながら全校生徒で応援に行った。結局甲子園常連の私立名門校にあっけなくコールド負けして現実の非情さを思い知ったのもいい思い出だ。
野球部員が監督の元に走り寄って何か話し合っている。監督の表情はここからじゃ見て取ることが出来ないけれどきっと説教をしているのだろう。監督を囲む生徒の背中が小さく縮こまっているし時折頭を下げる奴がいることから想像に容易い。その後ろのテニスコートでは生徒がじゃれつきながらふざけあっている。その温度差が見てるだけで気まずく居心地が悪くなる。ただその温度差も懐かしい。校内の色んな場所で色んな温度の色んな人がいてそれらが共存していることもある意味高校らしい。
そんな野球部の手前ではサッカー部がゲーム形式の練習を始めた。元サッカー部としては今のレベルがどんなものか気になってしまう。僕は品定めをするようにしてその練習を眺めた。
始まってしばらくして、一人の生徒がボールを持った。すると一人、二人と相手をドリブルで抜き去るとキーパーとの一対一を軽く制してゴールを決めた。あんなうまい奴がこの高校にいるのか。けれどゴールを決めたその生徒は顧問に呼ばれ怒鳴られていた。そういえばそんな顧問だった。独善的でひとりよがりのプレーを毛嫌いし、チームプレーばかりを強制する人だった。
「可哀想だね」
ふと亜矢のそんなセリフが蘇った。あれも今日と同じようにサッカー部の練習を眺めている時だった。その時横にいた亜矢がそんなことをつぶやいたのだ。急にその時のことが鮮明に思い出される。僕はエンドロールを取り出して書き込んだ。
「亜矢と眺めたサッカー部の練習」
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