庵野まどかが自殺した日

 それはその年一番の雪の日だった。一年に一度積もるかどうかのこの街に雪が積もった日。前の日の夕方から降り出した小雨が夜に雪に変わり、夜中には大粒の牡丹雪となって降り続いた。朝には止んでいたけれど一面銀世界になっていた。ノーマルタイヤの車で恐る恐る通勤したことを今でも覚えている。

 清水さんが辞めて一年。僕がカウンセラーとして働き出して四年が経っていた。かなりこの仕事にも慣れ、良い意味でも悪い意味でもちょうどいい加減を覚えていた。すべての相談者に全力投球ではなくなり、ある程度ケースに当てはめて相談に応じることができるようになった。語弊のある言い方をすれば、『処理』していくことができるようになった。

 そしてその日も処理しつつ、けれど親身になりつつもカウンセリングをこなしていた。そして昼過ぎ。午後一つ目のカウンセリングを終え、自分のデスクに戻ると総務の小川さんが僕のもとに来て言った。

「警察の人来てるよ」

「あ、はい」

僕は何か悪いことでもしたか、もしくは誰かが警察の厄介になったのかなんて考えながら席を立って応接室に向かった。時折相談者の一人が精神的に不安定になりおかしな行動を起こし、警察に保護されたり補導されたりすることがある。そして警察が話を聴取しにくることがたまにあった。今回もそれか、なんてぽりぽり頭をかきながら歩いた。次のカウンセリングまで三十分だったのでそれまでに終わるといいななんて思いながら。

 ノックをして応接室に入ると一人の警官がソファに座っていた。三十過ぎぐらいの精悍な顔つきの警官だ。彼が妙に神妙な顔つきをしていて、僕はなにか嫌なものを感じた。もし誰かが保護されただけなら特別珍しい事でもないので警官も事務的に話を進める。今回はそれとは違う。きっとカウンセラーでなくともそれはわかるだろう。それくらい空気が違った。

 名刺を差し出しソファに向かい合うように座ってから尋ねる。

「どうしたんですか?」

すると彼は表情を変えず言った。

「庵野まどかさんがこちらに通院されていたのは確かですか?」

「はいそうです。僕が担当していました」

「そうですか」

そこで彼が一呼吸置いた。僕もつられて身構える。

「今朝、庵野さんが亡くなられました」

僕はその言葉がうまく飲み込めず、なんどか頭の中で反芻する。その間にも警官は話をすすめた。彼は彼で空白を作りたくなかったのかもしれない。

「自室で首を吊っているのをお母様が発見しまして。遺された遺書の中にはあなたに当てた部分もあり、お母様のお願いで遺書を持ってきました。もちろん多少お話を聞かせてもらうついでではありますが」

「はあ」

僕は気の抜けた返事しか出来なかった。彼の目に僕はどう映っていたのだろう。頭ではわかっていても心まで落ちてこず、感情のこもっていない言葉ばかり吐く僕は。

 それから後のことは覚えていない。話は驚くほど呆気なく終わり、僕はフラフラとしながらもその日残りの二件のカウンセリングを終えた。部長の斎藤さんも総務の小川さんも先輩の丹野さんも皆口を揃えて言った。

「この仕事してたら一度はあることだからあんまり考えすぎないで」

「お前はできる限りのことをしたよ」

けれど一つも僕の心には染みなかった。つるりと表面を流れ落ちるだけだった。僕は気がついたら清水さんに連絡をしていて、気がついたら仕事終わりに清水さんと待ち合わせていた。

「とりあえずうち来るか」

一年ぶりにあった清水さんはそのブランクを一切感じさせずに僕を家に連れて行った。

 清水さんの部屋は綺麗とも汚いとも言えない感じで、テーブルの上には最近流行りのアニメのDVDがいくつか置かれていた。

「なんか飲むか?」

冷蔵庫を開けながらそう聞く清水さんに僕はテーブルの椅子に腰掛けながら答えた。

「いや、いいです」

「そっか。じゃあお茶でいい?」

「はい。ありがとうございます」

お酒を飲む気にはなれなかった。今感じている感情をお酒でうやむやにしてしまうことのほうが怖かった。彼女の死をないがしろにしているようで。

 向かいに座った清水さんはお茶の入ったグラスを僕の前に置くと自分は缶ビールを開けた。そして恥ずかしそうにアニメのDVDをテーブルの端に寄せながら言った。

「あ、これさ今俺スクールカウンセラーやってるじゃん。その生徒が貸してくれてさ。借りた以上見なくちゃと思って見てるんだよ」

一度端に寄せたそれをまた手に持った。

「そしたらこれが案外面白くてさ。お前見た事ある?」

けれど僕が答えられずにいるのを見てまたテーブルの端に戻した。

「まあそういう気分じゃねえよな」

「まあ」

ビールをぐびりと音を立てながら飲んで清水んさんはまた口を開いた。僕もお茶を一口飲む。

「どうせ斎藤部長とかに言われたろ。こういう仕事してたらこういうこともあるから気にすんなって」

「なんでわかるんですか」

「俺も昔言われたもん。しかもまだ一年目の頃だったかな」

そうか。清水さんも同じ経験をしているのか。

「清水さんもあったんですね」

「まあな。逆に新人の時過ぎてパニクってるうちに過ぎ去ったけどな。でもあれだろ。庵野まどかって三年前くらいから来てた子だろ。確か俺の一個下だっけ?」

「そうですね。今年で二十七歳になりますね。いや、なるはずだった、ですけど」

「おいおいそんな細かいとこまで気にすんなってー。まあでも三年も相手してりゃきついわな」

「……はい。しかも最近だいぶ調子よくなってたので余計なんでだろうって考えてしまって」

「魔が差したってやつだな」

「そうなんですかね」

「案外死にたい死にたいって言ってる時は死なないんだよな。本当に覚悟決めたやつは死ぬなんて周りに言わないし、言えない程追い込まれてる。もしくはだいぶ回復してきたときに何かの拍子で昔の感情が蘇ってふと死んじまうんだよ。そっちが魔が差したってやつなんだろうけど。きっと庵野まどかもそのパターンじゃねえのかな。俺がカウンセリングしてたわけじゃないから断言は出来ないけどさ」

「かもしれないですね」

ビールをグビグビと二口一気に飲む音が聞こえた。僕はそれでもビールを飲む気にはなれなかった。お茶で唇を湿らす。そして少しずつ話し始めた。

「めちゃくちゃ素敵な人だったんです。ほんとうに」

「最初のカウンセリングでは黙りっぱなしで何を言っても頷くか首を振るしかしてくれなくて。僕もまだ二年目とかだったからぎこちなく話しかけるしか出来なかったんですけど」

「でも何回か重ねるうちにポツポツ話してくれるようになって。そしたら今度は来る度泣くようになって。それがカウンセリングを始めて一年過ぎの時ですかね。でもその涙の間に少しずつ笑顔も見せてくれるようになって」

「笑ったらすごい可愛らしい笑顔をするんですよね。僕より年上なんですけど。そしてだんだん彼女も安定してきて投薬も少しずつ減らそうなんて話も出始めて。この一年なんかは本当に回復してきてもうカウンセリングもいらないくらいですねなんて会話をしたくらいなんです。だから余計にやりきれないんですよ」

「そうか」

僕がゆっくりと話している間にもう二本目を開けていた。

「でも遺書読んだんだろ。お前宛の部分もあるっていう」

「はい」

「なんて書いてあったんだよ。言えたらでいいから」

「二行だけですけどね。『いつも話を聞いてくれてありがとうございました。その優しさに何度も救われました。きっと先生に会ってなければもっと早く死んでいたと思います』って」

「いい言葉だな。たかがカウンセラーが遺書に書いてもらえるってなかなか聞かないぞ。それだけでもお前ができる限りやった証拠じゃないか」

「……そうなんですかね」

今日は清水さんの言葉でさえ素直には入ってこなかった。すべての言葉を否定したくなってしまう。ただ清水さんの言葉ならその拒否反応が比較的穏やかだった。そして誰かに話を聞いて欲しかったし一人になりたくなかった。

 しばらく沈黙が流れた。そして突如空腹を覚えた。

「清水さん」

「ん?」

「何か食べるもん無いですか?」

それを聞いた清水さんは表情を崩して笑った。

「何を言うかと思ったらそんなことかよ。今カップ麺しかないけどそれでいいなら食うか?」

「いただきます」

「そうだな。腹が減ったら思いっきり悲しめないもんな」

そう言って清水さんは席を立った。

 味噌ラーメンをすすっていると凝り固まった心が少し和らぐのがわかった。そしてそれは僕の喉のふたを緩めて本音が零れ落ちるのを助けた。

「実は気になってたことがあったんです」

「なんだ?」

清水さんもカップ麺をすする。そっちは豚骨味だった。

「前回のカウンセリングの時、もう会うのは最後かもしれないですねって言われたんです。その少し十五分くらい前に、元気だからもうカウンセリングなんてしなくていいんじゃないなんて冗談を言ってたのでその瞬間は別に不思議には思わなかったんです。でももう次の予約してあるからねって僕が言うと彼女はふふって笑うだけで。いつも冗談を言った後は冗談ですよなんて言ってくれるからそこで少し違和感を感じて。でも僕はそこから何も突っ込めなかった。きっと怖かったんです。そこを掘り下げて何かが出てくるのが。彼女のその笑顔を崩すのが。だから何も気づかないふりをしてそのカウンセリングを終えたんです」

 一滴涙がこぼれた。そしたら止まらなくなった。

「所詮僕の優しさなんてそんなものなんです。その場しのぎの優しさだけ。あの時だってあの笑顔を崩したくないという優しさにかまけて本当の優しさを捨てたんです。その勇気が無くて」

涙と一緒に麺をすする。

「あの時、僕がどういうことってちゃんと聞いていれば。どうして最後なんて言うのって確かめていれば。そしたら何か変わったんじゃないか。すくなくとも今日彼女が死んでしまうことはなかったんじゃないかって。そう思えて仕方ないんです」

テッシュで鼻をかむ。腹が満たされてくると酒を飲みたくなった。すべて吐き出した後に素面でいるのが嫌だった。

「ビール飲んでいいですか?」

「おう。いくらでも飲め。そして全部話せ。俺も大した人間じゃないから何も言ってやれないけど全部受け止めたるから」

「ありがとうございます」

ビールを受け取った僕はビールとラーメンを交互に口にして、その隙間に言葉を吐き出した。

「僕ね、昔からこうなんです。どこかではわかってたんです。優しさに甘えて優しさを放棄しているって」

お酒の弱い僕は一口飲むたび酔っていく。

「優しいって言われることに甘えてるんです。こんなものなんの役に立たない優しさなのに。でも僕には優しさしかない。それだけを支えに生きてきた。けれどそのしっかりとしていると思っていた優しさはただの中身のない枯れ枝みたいなもんだったんです。いや、初めからわかってたんです。支えでもなんでもないって。でもそれを支えと思い込まなければ僕は僕をやってこれなかった。でもやっぱり今日思い知らされました」

「僕は一体なんなんですかね。僕から優しさをとったら何も残らないです」

「結局は高校のあの事件から僕はまだ逃れられてないんです。あの呪縛から。あの日のことを見て見ぬ振りして生きていくのは今日までが限界だったんです」

 だんだんと酔いがまわり、しどろもどろになりながら話をした。いや、きっとしたはずだ。酔いつぶれた僕は正確には覚えていない。ただ文句も言わず僕の話をずっと聞いてくれていた清水さんの優しげな表情だけは脳裏に残っていた。

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