高校三年の秋の放課後の教室
十月も深まり、クラス内の温度差が徐々に大きくなっていた。就職する生徒や推薦で大学に行くからもうそんなに勉強しなくてもいい生徒。それに対し、模試も増えいよいよ受験に対する焦りが膨らみ始める生徒。それまでは放課後に残って騒いでいた生徒も空気を読んでか早々と帰っていく。勉強しなくていい組同士で遊びにいく生徒やバイトに行く生徒。塾に向かう生徒。図書室や教室で自習する生徒。色んな生徒がいる中で僕たちは教室に残って勉強するようになった。僕は大学受験するから勉強していたし、亜矢は教育系の短大を目指していた。玲未はまだ就職するか迷っていたけれどとりあえず勉強を続けていた。奏太にいたっては推薦を止めて普通に受験すると言い出した頃だ。それぞれ状況は違う。けれどもそこは余り表に出さないようにしながらみんなで勉強していた。
教室には僕たち四人の他に五人の生徒がいた。野球部の三人組と大人しい女子二人組だった。
「なあなあ、この問題わかる?」
奏太がそう言いながら問題集を隣の席に座っている僕に見せた。
「あー、それたぶん仮定法じゃない?」
数学の問題を解いているところに英語の問題を見せられて、少し切り替えに時間がかかったけれどそう答えた。
「仮定法ってなんだっけ?」
「参考書見たら」
「えー」
そう言いながら奏太は参考書を鞄から取り出していた。奏太はすぐ聞いてくるので軽くあしらう方が賢明なのだ。
参考書から該当部分を見つけた奏太はそこを読むとまた声を上げた。
「こんなの全然覚えてねーわ。いつやったっけ?」
「二年の初めとかじゃない」
「そんな昔? そりゃ覚えてねーわ」
しばらくその部分を読み込んでいたけれどすぐ飽きたのか、奏太は参考書を閉じた。
「あーもう疲れた。別に将来海外で仕事しねーし英語なんて喋れなくていいし」
「もー奏太うるさい」
奏太の前の席で勉強していた玲未が振り返ってそう言った。
「飽きたなら静かにぼーっとしてなよ」
「はーい」
奏太は拗ねたような声を出して、ペンを置いた。それとほぼ同時に玲未もペンを置いて立ち上がった。
「奏太のせいで集中切れたしジュース買ってくる」
「じゃあ私も行こかな」
玲未の隣、僕の前に座っていた亜矢もそう言って立ち上がった。
「俺のせいかよー」
そんな奏太の声には反応せず二人は教室のドアへ向かって歩き出す。
「ついでに三ツ矢サイダー買ってきて」
「はいはい」
玲未は軽くあしらう。
「亜矢お願い」
「やーだ」
そうして二人は教室から出て行った。
玲未と亜矢が教室を出ていくと周囲の音が聞こえ始めた。教室では野球部の三人組が話をしていて、グラウンドからは野球部やサッカー部などの掛け声が、そして反対側からは吹奏楽部の音色が聞こえてくる。
「あー危機感覚えるわー。むしろ危機感しかない」
奏太が椅子の背もたれに体重をかけ、ため息を吐きながらそう言った。
「だって奏太が真面目に勉強しだしたの九月くらいからじゃん。危機感覚えて当たり前だって」
「いや、勉強もそうなんだけどさ」
「あ、あっちね」
奏太がどこまで周囲に新山さんの話をしているかわからないから、具体的な内容は伏せておく。
「別にそのためだけに推薦をやめたわけじゃないから別にいいんだけどさ。正直無理な気がしてきた」
「無理なのはどっち? 受験?」
「いや受験じゃない方?」
「なんで?」
「いやーなんか色々思う所あってさ」
その時教室にいた野球部の木口智也が近づいてきた。この時期の野球部は皆そうで、木口も例外でなく丸刈りの頭が少し伸び始めたイガグリ頭をしていた。
「あのさ」
「ん?」
奏太と二人して木口の顔を見た。
「玲未って彼氏いるのか?」
僕は奏太と顔を見合わせて首を傾げる。
「いや、いないと思うけど」
そう答える。僕は玲未から彼氏がいるなんて話を聞いていない。
「なんで急に? あ、もしかしてお前玲未のこと」
奏太が楽しそうにそう言うと木口は慌てて否定した。
「いやいや違うって」
「じゃあなんで」
「それがさ、この前だいぶ年上っぽい男と二人で歩いてるのを見かけたんだよ。だからもしかして彼氏なのかなって」
「え、まじで? やるなあ玲未。こんな時期にずるいわー」
「それほんとに玲未?」
僕がそうたずねると木口は自信なさげに首を傾げながら答えた。
「たぶんな。すれ違った瞬間に気づいたんだけど、振り返って見た後ろ姿も玲未っぽかったし。そしたら男の方が玲未の肩に手を回したんだよ。ぱっと見かなり年上だったぜ」
「まじかー。そんなの初耳だわー。なあ亮?」
「う、うん。全然知らなかった」
「まあそれだけなんだけどな。お前らならなんか知ってるかなって思ってさ」
そう言って木口は他の野球部二人の元に帰って行った。そして自分の席から僕らに向かって言った。
「この話玲未には言わないよな」
「言わないって」
「奏太も言うなよ」
「わかってるって」
僕はショックだった。自惚れかもしれないけれど、玲未は僕のことを信頼してくれていると思っていた。だからこそ僕に隠していることがあることが残念だった。亜矢はこのことを知っているのか。亜矢には言って僕には言ってないのか。結局はただの友達だったということなんだろうか。いや、もしかしたらもっと別の理由があるのかもしれない。別に僕を信頼していないわけじゃなくて、誰にも言えないようなことなのかもしれない。そう自分を励ますしかなかった。
間もなくして廊下から二組の足音が近づいてきた。
「あったかー」
教室に入るなり亜矢はそう言った。続いて玲未も入ってくる。二人とも缶を両手で包むように持ちながらこっちにやって来た。なぜか少しだけ緊張してしまう自分がいた。木口が余計なことを言うからだ。知らなければ良かった。
「もうマジで秋だね。っていうか冬だよこれは」
「じゃあなんでそんなにスカート短いんだよ」
奏太が玲未につっこむ。
「別にいいじゃん」
「それが女子ってやつなの」
亜矢がフォローを入れる。そういう亜矢は特別スカートが短いわけではないし、玲未と違って黒タイツを履いている。
「じゃあ亜矢は女子じゃないの?」
「私は玲未見たいに足細くないし、スタイルも悪いから」
「でもあえて露出した方が細くなるって言うじゃん」
「もう奏太うるさい!」
いつものように意味のないやりとりを続ける奏太と亜矢を眺めていると携帯電話がメッセージを受信して震えた。開いてみると玲未からだった。
『今日帰りにでも話せない? 相談したいことがあるんだけど』
『いいよー』
目の前で何食わぬ顔をしてミルクティーを飲む玲未に送信した。表情を変えずケータイを開き、慣れた手つきで文字を打つとまた外を眺めながらミルクティーを飲み始めた。
『ありがと』
素っ気ない文字が見えた。けれど亜矢と奏太に隠れてやりとりする背徳感が僕を興奮させる。特別に頼られている、そんな感覚だった。さっきのショックが一瞬で消えた。自分でも現金なものだと思う。ケータイをポケットにしまいながら考える。さっきの木口の話を聞いてみるかどうか迷う。デリケートな部分だから余計に悩む。でも今はとりあえず勉強をしよう。そう考えてシャーペンを握った。
なんでもない会話をして時間ばかりが過ぎた。木口から聞いた話を切り出す勇気も出ず、玲未もまたなかなか本題に入れない様子だった。頼んだアイスコーヒーも飲みきってしまい、ストローですすっても溶けた氷の水からほんのりコーヒーの味がするだけだった。
「そういやなんか話でもあったの?」
こらえきれずそう切り出した。もう八時近くなっていた。
「ずっと悩んでたんだけどさ、やっぱ私就職することにした」
「そうなんだ」
もっと気の利いたことが言えれば良かったのだけれど、ありきたりな相槌しか打てなかった。
「おばあちゃんもいつ死ぬかわかんないしさ、やっぱ自分で稼いどかないと不安じゃん?」
そう言って笑った。
「玲未は強いな」
「そんなことないよ」
僕は本心から玲未を強いと思った。僕ならそこで就職という選択を出来なかっただろう。けれどそれと同時に玲未が強がっていることもわかった。
「じゃあ四人で放課後残って勉強するのも今日が最後だったかもね」
「かもね。暇な時はたまに一緒に残るかもだけど。だって何もやることはないし」
「そっか」
玲未はまだ笑っていた。やっぱり強がりなんだと改めて思う。ただそれがわかっても玲未の就職という選択を変えさせることは出来ない。そんな勇気も権利も僕にはない。きっと玲未なりに考え抜いて出した答えなのだ。僕はそれを後押しするしか出来ないし、きっと玲未もそれを求めている。大丈夫これが正解だ。今更不安になる自分にそう言い聞かせた。
机の上に置かれていた、玲未のケータイが震えた。それを確認した玲未はカバンに放り込むとこう言った。
「んじゃそろそろ帰るね。今日も相談乗ってくれてありがと」
「ううん」
「やっぱ亮に話したらすっきりした。不思議な話なんだけど」
「ならよかったよ」
「じゃあね。また明日」
「バイバイ」
「バイバイ」
僕が手を振ると玲未も手を振り返してくれた。そうしてそのまま玲未は店を出て行った。
取り残された僕は空になったグラスを持ち上げストローですする。やっぱりほのかにコーヒーの味がするだけだった。
トレーとグラスを返却口に返して僕も外に出た。暗くなった街に吹く風はもう冬の匂いがした。肌寒さを感じる。僕はポケットに手を突っ込み、肩をすくめて歩き出した。
大通りに出ると多くの人がせわしなく歩く。スーツ、学生服、私服、スーツ。色んな服を着た人が歩く。四月から玲未は社会人か。そう思うと少し羨ましい気持ちもあった。いったい何をして働くのだろう。もしキャバクラで働くとかいいだしたらどうしよう。別にいっか。玲未の好きにしたらいいか。
人混みに紛れて、駅に吸い込まれていく。少しでもその流れに抗おうとエスカレーターは避け階段を使う。明日から放課後が寂しくなるな。玲未がいなくても亜矢と奏太はいる。けれどいつもの四人が揃わないということが寂しい。そういえば亜矢と奏太には就職することをいつ言うのだろう。亜矢にはもう言ってあるのかな。
どことなく明日がやってくることが不安になっていく。受験に向かう不安。高校生活が終わる不安。卒業して友達が皆離れ離れになる不安。いわゆる終末に向かう不安が一気にこみ上げた。玲未が就職すると決めたことが、僕たち四人の関係に終わりを告げ、今までの幸福で平安な毎日が終わるような気がしたのだ。
ホームに降り、電車に乗り込んでも肌寒さは消えなかった。
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