夜行バス乗り場のマスク集団

 夜行バス乗り場には、スキーやスノーボードをしに行くのだろうという人たちが集まっていた。実際にスキー板やスノーボードの入ったケースを抱えている人もいて、そうでない人たちもこれから雪山に行くのだという格好をしている。そして自分たちも例外ではない。二人とも分厚いダウンジャケットを着て、香織は白いニット帽を、僕は紺のニット帽を被っていた。

 ちょうど駅ビルから出てすぐのところがバスターミナルになっていて、屋根がアーケードのようについている。まだバスの到着時刻までは十五分ほどあり、そのアーケードの下に乗客が点在してバスを待っていた。僕たちも同じようにして、駅ビルのシャッターにもたれながら待つ。

「夜の駅ってなんかいいよね」

手袋をはめた両手で口を覆い、息で温めながら香織はそう言った。手袋をはめているのだから別に息を吐きつけたところで意味がないだろうと思ったけれど、それは言わないでおいた。そう考えながら僕も同じことをしていたからだ。

「そう?」

僕がそう答えると香織はマフラーとニット帽との隙間から覗かした目で僕を見る。

「うん。今は周りに人が多いけど、全体的には閑散としてて物悲しい感じがするじゃない? それがなんか好きなの」

 昼間は人が溢れている大きな駅なだけに、多少人がいたとしても閑散とした印象を受ける。駅ビルに入っている売店などもほとんどが閉まり、営業しているのはコンビニだけだった。そして時折遠くから酔った人がはしゃぐ声が聞こえた。駅の反対側は居酒屋が多く、繁華街になっていた。

「あーなるほど。確かに香織って夜道を散歩するの好きだしな」

「そうそう。人がたくさんいたはずの場所に今は全然いないっていうのが好きなの」

「ふーん」

「あ、興味ないでしょ」

「いや、そういうことじゃないよ。そう言われたら悪い気はしないなって思っただけ」

「でしょ? 深夜にコンビニ行くのも好きだもん」

「なにその不良中学生みたいな行動」

「そうかなあ?」

そう言っている間にもちらほらと人は集まり続ける。

「ラピュタのあの島も好きだよ。古代文明の廃墟って感じが」

「確かにあれも昔人がいて今はいないもんな」

「うん。たぶんあるはずのものがないっていうのが好きなんだよね。寂しいっていえば寂しいんだけど、心地よい寂しさっていうのかな。心がきゅんってするの」

「なんかわかるような気もするけどわかんないや」

「えー。人類が滅亡した後の世界に取り残される想像とかしない?」

「しないしない」

「えー。普通するよー」

「いや、普通はしないから。香織がちょっと変わってるだけで」

「全然変わってないよ。ほんのちょっとだけ空想好きな少女かな」

「もう少女って歳じゃないけど」

「そこはつっこまなくていいの」

マフラーの下の頬が膨れたのがわかった。それが妙に愛しく、僕はニット帽の上から香織の頭をポンポンと叩いた。

 きっとバスは満席だろう。予想よりも多くの人が夜の駅に集まっていた。明日一日スノーボードをするというのに、向こうに着く前から体が痛くなりそうだった。

 乗り合わせる人たちは同世代が多いように見えた。それもそのはずで、家族連れが夜行バスを使って雪山に行くはずがないし、車を持っていればそれを使うだろう。夜行バスに乗るのは車も持っていない貧乏な若者が大半だ。

 そして集まってくる人たちを見ているとある事実に気がついた。かなり多くの人がマスクをしている。さらに女性に限ればほとんどがマスクをしていた。

「マスクしてる人多いな」

「ほんとだ。マスクしてる人多い」

「まあインフルエンザ流行ってるし。ほら、マスクしてない女の人香織以外はあそこの二人組だけだし」

「え、ほんとだ。あの二人以外女の人みんなマスクしてるね。そういえば私が去年麗奈たちとスノボ行ったの覚えてる?」

「そんなこと言ってたね」

「その時も全員マスクしてたなあ。私もしてたし」

「へー」

「やっぱ女はマスクしちゃうよ、夜行バスは」

「え、なんで?」

「え、わかんないの?」

「え、わかるもんなの?」

「男はわかんないかー。そっかー」

香織は少し馬鹿にしたようにこっちを見ながら言った。少しだけ考えてみる。女はわかって男はわかる。女と男の違い。

「そっか。わかった気がする」

「なになに?」

「すっぴん隠しでしょ」

「お、正解」

香織が楽しそうに話すので僕まで楽しくなる。

「化粧しながら寝るのは嫌じゃない? でも人の目があるからすっぴんもちょっとってなるでしょ。だからマスクをしてごまかすの。マスクしてたら、化粧するとしても目だけで済むからね」

「なるほどなあ。香織はマスクいらないの? 去年はしてたんだろ」

「今日はいいの。だって昨日亮くんがすっぴんでいいって言ったじゃん」

「まあそうだけどさ」

「だからいいの。亮くんがそれでいいなら別に他の人の目を気にする必要ないし。もともとすっぴんにそこまで抵抗がないタイプの人間ってのもあるけどね」

「そっか。ならいいや」

内心嬉しかったけれど、それが恥ずかしく、隠すためにむしろ素っ気ない返事をしてしまう。こういう時にもっと素直に喜べたらといつも思う。

「女同士だと色々あるからマスクの方が楽なんだけどね」

「色々って?」

「だってみんなマスクしてるのに一人マスクせずにすっぴんでいたら、自分すっぴんに自信ありますって言ってるみたいでうざがられそうでしょ。逆に一人化粧してても、そんな張り切ってどうしたのって思われるし」

「うーん。考えすぎじゃない?」

「女同士は考えすぎくらいがちょうどいいの」

「そんなもんなのか。女は大変だな」

「そうなの」

香織はそう言って肩をすくめた。それを聞いた僕は改めて周りを見回している。そう考えるとマスクをしていない二人組はそれだけ気のおけない関係ということか。そこ以外に二つ女だけのグループがあったけれど、どちらも皆マスクをしている。片方のグループは全員目だけ化粧をしているようで、さらに全員ニット帽を被っているせいかもう区別がつかない。それを見ていた僕は思わず言葉が漏れた。

「マスクってすごいな」

「ん、どうして?」

口を香織の耳元に近づけて答える。

「マスクしてるだけでみんなそれなりに美人に見える」

そう小声で香織だけに聞こえるように言った。

「亮くん。それは失礼」

香織は僕の目を向いてゆっくりそう言った。まるで園児を諭す保育士のように。

「だから小声で言ったじゃん」

「わかってる。でも実際そうだよね」

「でしょ」

「化粧しちゃえば目なんて誰でも大きくなるもん」

「そういうとこ女はいいよな。よく男は化粧しなくていいから楽で羨ましいなんていうけどさ、化粧さえすればある程度誤魔化せるのも羨ましいって。男なんて元々のルックスで決まるからブサイクだったら逆転しようがないいし。せいぜい髪型ぐらいだよ誤魔化せるのは」

「ふーん」

そう言って香織は僕をじっと見つめる。

「そりゃ化粧する側からしたらめんどくさくて仕方ないのかもしれないけどね」

香織が何も言わないので、なにかが気に障ったのかとほんの少し不安がよぎった。

「別に私は亮くんの顔好きだよ」

そう言って目線を外してそっぽを向いた。

「あ、ありがとう」

突然の告白にどぎまぎしながらとりあえず礼を言っておいた。こういう時にどういうリアクションをとればいいのかわからない。

「かっこいいとは思わないけど」

バス停の方を向きながら香織はそう付け加えた。

「今の言葉は余計でしょ」

「ふふ」

香織は嬉しそうに小さく笑った。いつも突然言うのだ。雰囲気のいい時こそ好きなんて言ってくれない。こんななんでもない時にふと口に出す。突然のことに僕がうろたえるのを楽しんでいる節すら感じる。

「でも本当によかったの? 今日ゼミの飲み会だったのに」

「まだそれ言う? いいって何回も言ってるだろ」

「でも……」

香織は申し訳なさそうに僕を見た。今日は僕が所属している大学のゼミの忘年会が催されていたのだ。もともとこのスノボ旅行を先に計画していたので仕方なかったのだけれど、香織は必要以上にそのことを気にしていた。初めは一週間早く行くつもりだった。けれど香織の高校時代の友達との食事と重なるからといって、この日にずらしたのだ。その結果僕のゼミの忘年会と被ってしまった。香織はやっぱり日にちを戻そうと言ってくれたけれど、僕が半ば強引にこの日でいいと押し切ったのだ。別にゼミに仲の良い友達がいるわけじゃなかったから。

「もうその話は終わり。楽しむことだけ考えよ」

「うん。わかったありがとう。やっぱり亮くんは優しいね」

「そう?」

「そうだよ。私の友達もみんな優しいって言ってるもん。そんな優しい彼氏なかなかいないよって」

「まあ優しさだけが取り柄みたいなもんだし」

「確かにね」

「そこは否定するとこでしょ」

「ふふ」

香織は楽しそうに微笑んだ。

 優しいと言われるのは嫌いじゃなかった。昔から幾度となく言われてきた言葉だから今更舞い上がったりはしない。ただそう言われることに嬉しくなり満足する。自分でも優しい人だと思う。その考えと周囲からの印象が一致していることに安心するのだ。いわば優しさというものが僕の存在証明であり、この世界で胸を張って生きていくための価値なのだろう。

 バスがやって来て、人が列をなす。僕たちもその列に紛れる。これからの二日間を思うだけで笑顔になる。繋いだ手にぎゅっと力を込めると、香織も無言で握り返してくれる。手袋越しに香織の体温を感じた気がした。僕たちはこの手のひらで胸の高まりを確かに共有していた。そこに言葉はいらない。

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