南条ヶ丘高校

 僕が高校生活を思い出す時、真っ先に浮かんでくるのは奏太の少し怒ったような表情だった。こうして言葉にしてみると、男を真っ先に思い出すなんて少し悲しい。けれどそれは僕の高校生活が友情を中心に回っていた証なんだろう。僕に初めて彼女が出来たのは高校二年生の時だったけれど、それはお互いを苗字で呼び合っている内に終わった。そして僕の恋心はそれ以降卒業まで姿を潜めてしまった。だけれど、幸せなことに僕の周りには友達がいた。毎日笑って過ごせる程に仲良く、悩みを分かち合える程に心を許した友達が。

 そんな中、奏太は僕をよく動物でも観察するかのような目で眺めていた。僕と奏太の性格は正反対といってもいいくらいで、奏太の行動を不思議に思うことも多く、感心することも多かった。どうしてそこでそういう発想に至るのだろうとか、よくそこでそんなこと出来るなあ、だとか。きっとそれは奏太も同じだったのかもしれない。そうやってじーっと僕のことを見た後には、決まって「なあ」と声をかけ質問を投げかけてくるのだ。

 三年生の二学期が始まってすぐの頃だったと思う。終礼が終わり、下校の準備をしている時に奏太がいつものように僕を見ていた。

「なあ」

「ん?」

「ん? じゃねーよ。玲未と遊びに行くの何回目だよ」

僕は筆箱を鞄に放り込むと、奏太を見た。いつもの少し怒ったような表情をして僕を見ていた。怒っているのかと以前尋ねたことがあった。すると奏太は、もともとこういう顔なんだよ、とさらに怒ったような顔をして言った。いや、その時は本当に怒っていたのかもしれない。けれど今の奏太は怒っておらず、怒っているような表情をしているだけのはずだ。

「三回目かな。でも遊びに行くわけじゃないって。ちょっと話を聞くだけだから」

「でも二人だけだろ? 三回も二人で会ったりしたら、なんかあるんじゃないのー?」

奏太が僕をからかうように言うので、むっとして答えた。

「あのさあ、奏太も知ってるだろ。玲未の家が大変なこと」

「それは知ってるけどさ、でもどうして亮なんだよ」

「そんなこと僕だって知りたいし。今度玲未に聞いといてよ」

「やだ。そんなことしたら俺が嫉妬してるみたいじゃん。でも亮ってほんと不思議だよな。別にかっこよくもないし、頭も特別いいわけじゃないし、頼り甲斐もあるわけじゃないし。むしろ頼りないし。ただちょっと優しいだけ。それなのにやたら相談受けるよな」

「どうしてだろうね」

僕はそう言って鞄を肩にかけた。クラスメイトが教室からどんどん流れ出ていき、その中に玲未と亜矢の姿を視界の端で捉えた。

「でも相談されるのは嫌いじゃないかな」

「その余裕綽々な感じなんかむかつくわ。俺もう亮に相談しないから」

「別にいいよ全然」

そう言って僕は笑った。奏太も笑顔で言っていたから。

 教室を出て廊下を歩き始める。

「で、玲未と会うの何時から?」

奏太は僕の横を歩く。奏太と毎日一緒に帰るのは当たり前だった。

「四時半」

「今は何時だっけ?」

「三時十五分」

「ということは」

「一時間十五分」

「一人で時間を潰すには結構な時間だよなあ。一度家帰るには短すぎるし、本屋で立ち読みとかするには長すぎるし。あ、図書館で勉強するとかは言うなよ」

「あー、待ち合わせのカフェで勉強するか本でも読んでようかと思ってた」

「そうきたかー。でもさ、その隣に俺がいたらより有意義な時間になると思わないか?」

「誰がどう考えても邪魔だよなそれ。でもまあいいよ。奏太も来なよ。あ、でも」

「わかってる。玲未が来る前には帰るから」

「助かる」


 レジで注文したアイスコーヒー二つとチョコサンデーを、隣の受け取り口で受け取ると僕等は一番奥の席に座った。

「亮って普段からこんな店来るのか?」

奏太は座るやいなやチョコサンデーに細長いスプーンを差し込みながら聞いた。学校の最寄駅の裏にある小さなカフェだった。駅を挟んでこことは反対側の、学校側の駅前の方が栄えている。そこにはチェーン店のコーヒーショップが二つほどあり、そこはいつも時間を持て余した学生で繁盛していた。普通駅の反対側までやってくることは少なく、こちら側ではあまり学生を見かけなかった。

「最近はたまに来るかな。玲未から初めて相談受けたときに教えてもらったとこでさ。結構静かだし、知り合いも来ないから落ち着くんだよね」

「ふーん」

奏太は納得したのか美味しそうに生クリームを頬張った。僕はLサイズのアイスコーヒーにシロップとフレッシュを一つずつ入れた。高校生になったばかりの頃、見栄を張ってブラックコーヒーを飲んでいた時期もあった。けれど見栄を張りたがる年頃も過ぎ、美味しく飲むのが一番だと気付いてからは、シロップもフレッシュも入れるようになった。底に溜まったシロップをストローでかき混ぜる。氷がカラカラと音を立てた。一口飲むと、苦味が舌に残った。もう少しシロップを入れようかどうしようか。Mサイズなら一つでちょうどいいのに。

 目の前では奏太が口元に生クリームをつけたままコーヒーにシロップとフレッシュを注いでいた。言葉にせず生クリームがついていることを伝えられないかと、僕はわかりやすく奏太の口元を凝視してみる。奏太は何食わぬ顔でストローでコーヒーをかき混ぜていた。そして一口味見するとシロップをもう一つ丸々加えた。甘いものを食べているのにコーヒーも甘くするのか。そうだ、奏太は甘党だった。もう一口味見すると、奏太の表情は満足げなものに変わった。まだ僕の視線には気づいていない。次に奏太はサンデーのカップの底ふかくまでスプーンを突っ込んだ。そして底のコンフレークごとアイスクリームを取り出して食べる。スプーンの上にはコーンフレークとアイスクリームとチョコソースと生クリームが乗り、小さなチョコサンデーが出来上がっていた。なるほど、確かにそうやって食べたほうが効率良くソースとアイスとコーンフレークを絡めながら食べられるなあ、なんて納得してしまう。

 奏太が何か言いたそうな顔をして口を開こうとした時、その口が止まった。僕の視線にようやく気がついたらしい。

「ん、何かついてる?」

「うん。生クリーム」

奏太は人差し指で生クリームをさっと取ると、そのまま口に運んだ。

「今なんか言おうとした?」

「そうそう、亮に相談しようと思ってたことがあるんだけどさ」

そう言いながら指を紙ナプキンで拭いていた。

「なに?」

僕はそう言いつつ、心の中で苦笑いした。教室を出るとき言っていたことをもう忘れたらしい。僕だって真に受けてはいないけれど、なんだよと言いたくなった。この奏太の切り替えの早さというか、あっけらかんとした性格を羨ましく思う。きっと僕は逆に一つの言われた言葉、言った言葉を重く受け止めすぎる傾向があるのだと思う。

「まあ何回も言ってるから今更なんだけどさ」

「あー、新山さんのこと?」

「そうそう。亮はどうしたらいいと思う?」

「どうするって何をだよ。こっちに丸投げするなって」

「じゃあ、まず、俺は新山のことが好きみたいなんだよ」

「それは知ってる」

「んで、夏休みに二回会った。しかも一回は二人でだ」

「知ってる」

「しかも新山は夏休み前に彼氏と別れた」

「知ってる」

そこで奏太は少し悩んだ。チョコサンデーを一口食べ、アイスコーヒーを一口飲んだ。きっと僕の知らないことを言いたいんだろう。でも普段からこの話は何度もしているから、ほとんど僕も知っているはずだった。

「あとはそうだな、新山は東京の大学目指してる。俺は推薦で地元の大学目指してる」

「それも知ってる」

「ええー。じゃあこれはどうだ。新山の好きなタイプは面白い人」

「それは知らなかった。けどかなりどうでもいい」

「そう言うなってー」

 最近、気づいたことがあった。何回か相談を受けているうちに、少し受け方というやつがわかってきた。みんな別に画期的な解決方法を求めているわけでも、はっきりとした答えを求めているわけでもないんだなと。きっとみんな背中を押してほしいだけなんだろうって。だから僕は無理に答えを出そうとしなくていいんだと思うようになった。相手に思っていることを全部話してもらって、それを整理して返す。聞いているうちにその人がどうしたいのかは朧げにわかってくるから、僕はそっと後押しするだけでいいんだ。ただ、実際は僕は冴えない高校生に過ぎず、いつもああ言えばよかった、なんて後悔してばかりいるけれど。

 少し苦味の残るコーヒーを飲みながら何を言おうか考える。奏太は幸せそうにチョコサンデーを食べている。

「で、何を悩んでるの奏太は」

「告白するかどうか」

アイスクリームを口に含んだまま答えた。

「この前まで、する気満々だったじゃん。あ、これいけるかも、とか言ってさ」

「そうなんだけどさー」

「もしかして脈ない感じのこと言われた?」

「別にそんなんじゃないかなあ。むしろいけそうな気はしてる。根拠はないけど」

その自信がどこから来るのか切実に知りたい。実際奏太は高校に入ってから二人と付き合ったことがあったけれど、二人に断られてもいる。五割バッターといえば聞こえはいいけれど、二回に一回は振られているのだ。付き合った二人も最終的には奏太が振られている。

「じゃあなんでだよ」

「なんでだと思う?」

そう言って奏太は意味深ににやりと笑った。一口コーヒーを飲んでから僕は答えた。

「どうせあれでしょ。自分は推薦だからいいけど、新山さんは二月まで受験あるし、しかも賢いから受験の邪魔になったら悪いなってやつでしょ」

奏太はサンデーを食べながらもいつもの怒ったような顔を見せた。

「どうせってなんだよどうせって。しかも当たってるから余計腹立つわ」

僕は得意げにコーヒーを飲む。

「でもなんでわかるんだよ。俺そんなこと言ってたっけ?」

「いや、言ってないと思うけど」

「だよなあ」

奏太は首を傾げながら、カップの底に残った溶けたアイスクリームをスプーンで掬っていた。

「みんな同じこと思ってるんだなあ」

「どういう意味?」

きっと今僕は憎たらしい表情をしていると思う。

「この前、矢野が同じようなこと言ってたんだよ。矢野って推薦だろ。でも矢野の彼女の江口さんは普通に受験するじゃん。だから矢野が最近遊びに誘いづらいんだよって。俺は推薦だからいいけど、俺が遊びに誘い過ぎたせいで夏菜子が落ちたら夏菜子の親に顔向けられないとか言ってた。だから奏太も同じようなこと思ってるんじゃないかなあって思ったわけ」

「へー。別に矢野が誘わなくても江口全然勉強してなさそうだけど」

「まあそれは別の問題でしょ」

 気がついたら奏太はもうコーヒーもほぼ飲み干していた。飲むのも食うのも早い。昼休みの弁当もそうだ。いつも先に食べ終えて、唐揚げなんかを一個くれと言い出す。

「で、どうしたらいいと思う?」

僕はどう答えていいのかわからず、ストローでコーヒーの氷を沈めては、また浮いてきたところを沈めた。正解なんてわからない。

「難しいな」

「だろ?」

「新山さんがどういうタイプかにもよるよな。別に女子とか男子とか関係なくさ、恋愛して頑張れる人と、逆に恋愛すると勉強がおろそかになる人がいるじゃん」

「勉強をおろそかにするタイプにも見えないんだけどな。だってこれまで彼氏いたけど成績ずっと良かったじゃん。だし大丈夫なんじゃないかなあ」

「そう思うなら告白しちゃえばいいじゃん。成功する保証はしないけどさ」

「亮に保証された方が怖いわ。っていうか、前の彼氏、あの遠藤先輩だっけ、となんで別れたか知ってる?」

「あー、関係あるかどうかわかんないけど、遠藤先輩ってバレー部でしょ? バレー部の小林が言ってたんだけどさ、大学入ってからだいぶ遊んでるらしいよ。それで新山さんと喧嘩してるとか言ってたし」

「確かにあの人遊びそうだわ。普通にかっこいいし」

奏太が夏まで在籍していたバスケ部は、新山さんとその彼氏の遠藤先輩がいたバレー部と同じ体育館で練習していた。網一枚隔てているだけだから、奏太はよく見かけていたのだろう。僕は数回しか見たことがなかったので、記憶の糸を辿ってみる。特別目立つ人ではなかったけれど、確かに爽やかな人だった。バレー部ということもあって身長も高かった。大学に行って茶髪になったりして垢抜けたらモテるだろうなと、素人ながら思う。

 一体どうアドバイスをしたものかと思案していたら奏太が口を開いた。

「例えばさ、邪魔しないように我慢したとするじゃん。それで新山が無事大学受かりました。もう遠慮する必要ありません。告白します。オッケーもらえたとします。四月から新山は東京で遠距離です。……意味なくない?」

「まあ確かに。じゃあ告白しちゃえば?」

「それもまた違うんだよ。自分でもよくわかんないんだけどさ」

「ふーん」

少し考えるのが面倒になって適当に相槌を打ってコーヒーを飲んだ。まだ玲未と会ってすらいないというのにもう残りわずかだ。もう一杯買わないともたないな。

「なんかすっきりしたわ」

カップに残っていたクリームを綺麗に掬い取り、残っていたコーヒーも完全に飲み干した奏太が口を開いてそう言った。

「え、なにも解決してないけど?」

「おう。あとは自分で考えてみるわ。どうせ正解なんてないんだろうし」

「そ、そっか。まあ奏太が納得したならよかったよ」

僕は煮え切らなかったけれど、奏太の表情が晴れやかだったので口を閉じることにした。よくあることだ。僕はなにも納得していなくて結論も出ていないのに今の奏太みたいに勝手に解決されることは。取り残された気分だけど仕方ない。

「んじゃ俺帰るわ」

「もうそんな時間か」

壁にかかった時計を見ると、もう四時十五分だった。文字盤が無闇に洒落ていて非常に読みにくい。時間はあっという間に過ぎていた。

「頑張れよ、玲未のこと」

奏太は鞄を肩にかけて言った。

「別に僕が頑張ることでもないんだけど。ま、ありがと」

「ただ絶対に手は出すなよ」

「だからそんなんじゃないから」

「本当かー? じゃあまた明日な」

「バイバイ」

 奏太は訝しみながら帰っていった。奏太がここまで念を押すのはきっと僕のためでもあるんだろう。僕には特別仲の良い友達が三人いた。いわゆる仲良しグループというやつか。その中に奏太はもちろん、玲未もいた。もし僕と玲未の間で何かあれば、その四人の関係がギクシャクしてしまう。きっと奏太はそう思っているんだろう。僕もそう思う。そんなことを考えながら、僕はコーヒーをお代わりするために席を立った。このカフェではお代わりは半額なのだ。

 新しいコーヒーにミルクとシロップを入れながら玲未のことを考えた。玲未から初めて相談を受けたのは四月だった。その時、玲未が疲れ切った顔をしていたのを覚えている。親が離婚する。説得したけど無理だった。そう言って涙ぐんでいた。僕はそんな玲未をただ見ているしか出来なかった。こういう時どうしたらいいんだろう。頭でも撫でたらいいのか。それとも大胆に手を握ればいいのか。それとも気の利いた言葉を言って励ませばいいのか。結局僕は三十分間ほとんど黙ったまま座っていた。それなのに玲未は涙の跡の残る笑顔で帰っていった。そうだね、うん、と相槌をたまに打つだけで、黙って話を聞いていただけなのに。

 それから三ヶ月後、玲未の親は正式に離婚した。前回、夏休みの直前に相談を受けた時玲未がそう言っていた。ある程度覚悟が決まったのか、もう泣いたりしなかった。淡々と事実を話していた。もし僕だったら泣かずに済んだだろうか。玲未みたいに取り乱さずに話せただろうか。いや、人に相談すら出来ない。一人部屋で泣くだけだろう。そして責任を全部親のせいにして、文句ばかり言う人間になると思う。こうして僕に相談してくれて、前向きに考える玲未の方が僕よりもずっと強い。

 そして夏休みから玲未は、父親にも母親にも付いて行かず、一人暮らしを始めた。お互いに浮気をして愛人を作った両親からしてもその方が都合が良かったのだろう。玲未もそれを望んだというのだから仕方がないけれど、僕は薄情過ぎる気がしてどうも腑に落ちなかった。もともと父親が帰ってくるのは遅く、母親もこの頃ほとんど家にいなかったから別に暮らしに変化はないの、と話す玲未は笑顔だったけれど、僕には強がっているだけにしか見えなかった。

 ストローで氷をつつきながらうわの空で考えていた僕の目の前で、玲未が手を振っていた。

「おーい。生きてる?」

「うわ、全然気づかなかった」

玲未の長くて少しカールした髪がコーヒーに入りそうになっていて、髪をどけてあげる。さっきまでいた学校では前髪を下ろしていたのに、今は前髪を上げている。普段見せないおでこに少しどきっとする。すでに手には生クリームが乗った飲み物を持っていて、そのままさっきまで奏太が座っていた席に座った。

「で、どーしたの?」

早速聞いてみた。

「それがさ、やっぱ就職しようかなって思うんだけどどう思う?」

玲未は今日の晩御飯を迷っているかのようにさらっとそう言った。そこには人生を左右する選択だという重みは全くなかった。

「それはなんで?」

周りから見たら僕達はどう映るのだろう。そんなことを考えてしまう。髪を巻いていて、化粧もばっちりしていてスカートだって短い。クラスの中でも垢抜けた部類に入る玲未と、髪の毛にワックスもつけたりせず、制服も模範通りに着こなし、平凡で地味な僕。どう考えても釣り合わない。別に玲未に対して恋愛感情なんて抱いていない。仲の良い友達の一人だ。だけど玲未のようなタイプの女友達は僕にはいないから少しドキドキしてしまう。

 店内をさり気なく見回してみる。大学生くらいのカップルが一組と、中年のおばさんの三人組、そしてスーツ姿でノートパソコンを向き合っている男の人。それだけしかいない。狭い店内はそれで半分ほど埋まる。皆それぞれに夢中で僕達を見ている人はいなさそうだ。

「理由はいろいろあるんだけどね」

そう言って玲未は困り顔で微笑んだ。

「もしかしてお金の問題?」

「まあそれもあるよね。一応父親が生活費とか学費は出すって言ってんだけどさ、正直あんま当てになんないじゃん。第一これから四年間もあいつの世話になるっていうのが気にくわないっていうか」

「そっかー」

僕はどこまで口を出していいのかわからないので、余計なことは言わず相槌だけを打った。玲未はスプーンで生クリームをすくって食べる。

「あと今おばあちゃんがいろいろ面倒見てくれてんだけど、あの人だいぶ体弱いんだよね。去年一回入院してるし。もはや私が面倒見てるっていってもいいくらいだもん」

「確か晩飯作って持ってきたりしてくれるんだっけ?」

「そう。家も近くだからさ。煮物とか昭和の食べ物って感じのもんばっかりだけどね」

そう言う玲未だったけれど表情は嬉しそうで僕は安心した。玲未は僕のそんな心の動きを気にすることなく話を続ける。

「まあおばあちゃんからしたら、息子の罪滅ぼし的な意味合いもあるんじゃない? だって今までそんな頻繁に会ってなかったし。親の離婚の話が出てからだしね、おばあちゃんがやたら心配してくれるようになったの」

「まあでもよかったんじゃない。どうせ玲未料理とか出来ないでしょ」

「ちょっとバカにしないでよ。こう見えてそれなりに出来るから。昨日だってタコライス作ったんだから」

「タコライス?」

「知らない? ご飯の上に甘辛いミンチが乗っててレタスが添えられてるやつ」

「うーん。知らないや。でも玲未が料理してるの全然想像出来ない」

「なにそれひどくない?」

「じゃあ今度みんなで玲未んち遊びに行くからなんか作ってよ。前にも、玲未が一人暮らししたらみんなで遊びに行くって言ってたのにまだ行ってないし」

「任せて。美味しいタコライス作ってあげるから」

「期待しとく」

僕はコーヒーに少し飽きてきて飲むペースが落ちていた。二杯目はココアにすれば良かった。玲未は少なくなった生クリームをストローでカフェラテとかき混ぜていた。

「ってなわけで、おばあちゃんが元気なうちに働き出したいってこと?」

「そうそう、そういうこと」

「それ先生には言った?」

「一応選択肢としては考えてるとは言った」

「そっか」

「亮はどう思う?」

「どう思うって言われてもなあ」

正直もうコーヒーは辛かったけれど、考える間手持ち無沙汰でとりあえず一口飲んだ。少なくとも玲未が働いている姿は全く想像出来ない。ただ今回は口に出さないでおいた。

「僕だったら学費とか出してもらえるなら大学行っちゃうかなって思ったけど、そこらへんの感覚がわかんないからなんとも言えないかな。玲未がお父さんに抱いてる感情が僕にはわかんないからさ」

「そうだよね。自分のことなんだから自分で決めろって話だよねー」

そう言って笑った玲未だったけれど、その笑顔の端に強がりが垣間見えてしまって少し心苦しくなった。同じような高校生活を過ごしてきたと思っていたし、こうして何気なく会話している二人だったけれど、置かれている境遇が大きく異なるということが悲しくなる。僕には両親がちゃんといて、仲が良いとは言わないけれど浮気も離婚もせずに家族みんなで一つ屋根の下で暮らしている。それに比べ玲未は親が離婚し、アパートの一室で一人で暮らしている。その差はいったいどこから来たんだろう。玲未がなにをしたわけでもないのに。その理不尽さが僕の胸を締め付けていく。

「やりたい仕事とかはあるの?」

「んー」

椅子の背にもたれ、視線を上に外しながら少し考えてから玲未は答えた。

「特にないかな。嫌な仕事はいっぱいあるんだけどね」

「嫌な仕事?」

「そう。まず地味な仕事は嫌じゃん。工場で部品はめるだけどかそういうやつ。それに女ばっかの仕事も嫌。女特有の馴れ合いとか大っ嫌いだし」

「確かに玲未は女ばっかりのとこはやめた方がいいね。喧嘩してるの目に見えるし」

「でしょ?」

玲未は女友達が少なかった。僕の知る限りでは亜矢しかいない。同級生の女子の中ではやっぱり浮いているように見えるし、あからさまに化粧しスカートも短くし愛想の悪い玲未は避けられがちだった。そんな玲未も他の女子達を精神年齢低いだとかガキだとか言って避けていた。きっと都会だったら玲未みたいな女子もたくさんいて馴染めるのだろう。でも地方都市のさらにはずれぐらいのこの街じゃ玲未のようなタイプは少なかった。

「なんか半分以上は就職する気なんじゃない?」

僕はそんな気がした。もともと就職は考えていたけれど、僕達四人で勉強することが増え、もう受験しないなんて言い出しにくかったんじゃないかって。だから急にならないよう相談という形で伝えているだけなんじゃないかと思った。

「うーん。たぶんそうなのかも」

玲未は首を傾げ視線を宙に彷徨わせながら答えた。

「ぶっちゃけ勉強もうしなくてすむじゃん。それが一番大きいよね」

そう言って玲未は無邪気に笑った。

 玲未の成績は決して悪い方じゃない。平均より少し下辺りをうろうろしていたけれど、ほとんど勉強せずにそれだった。だからきっとちゃんと勉強すれば上位に食い込める力はあるんだと思う。実際最近僕達につられて一緒に勉強するようになって、初めは僕が教えることもあったのに、今じゃ玲未に教えてもらう問題が増えた。だから玲未のその言葉が本心じゃないような気がしてならない。

 ふと思い出した。あれは高校二年になったばかりの頃だったと思う。四人でいた時に、どういう流れか亜矢が将来保育士になりたいと言っていた。そしてそのまま玲未にも聞いたんだ。玲未はなんかなりたいものないのかって。そしたら、建築家とか、と玲未が言った。その後すぐに奏太が俺はビッグになりたいなんて言ったから、みんなそれに反応してしまい、玲未の建築家について詳しく聞くことが出来なかった。あれは本気だったのか、それともその場で適当にひねりだした答えだったのかはわからない。

 そんなことを思い出してしまった僕は、口に出すべきか迷う。建築家はもういいのかって。建築家になるためには大学に行かないといけないんじゃないかって。けれど目の前の玲未を見ているとそんな酷なことは出来なかった。玲未はいつものくだらない話をしている時と同じような穏やかな表情でストローをくわえている。けれどその奥には僕には想像できない葛藤や悲しみがあるはず。そう思うとこれ以上苦しめたくなかった。きっと色々考えて、悩み抜いて就職という選択肢を選ぼうとしている。それなら僕はそれを見守ろう。それが僕が選んだ優しさだった。

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