4月7日(火)

 朝目を覚ましてから、何をするか。それは人によって様々だけれど、それが変わることはあまりないように思う。一日の生活リズムの中で、朝が最も固定されているんじゃないだろうか。僕もずっと同じ過ごし方をしてきた。ベッドから抜け出すと、まずトイレで用を足し、そして顔を洗う。それからマンションのエントランスにある郵便受けから新聞を取って来る。その新聞を読みつつ朝食を食べ、歯を磨く。だいたいその頃に、家を出る時間が迫っていることに気がつくのだ。そして慌てて着替え、鞄の中身を準備し、身だしなみを軽く整えて家を飛び出す。こうやって僕の一日は始まるのだ。

 これが最近までの僕の朝のリズムだった。それが二週間前、エンドロールを書き始めてから少しだけ変化が生じた。朝起きてトイレに行き、顔を洗う。そこまでは変わらない。けれどその次、新聞を取りに行く前に着替えるようになった。着替えて、履いたズボンのポケットにエンドロールのメモ帳を入れるのだ。それが新たに加わった。後は変わらない。新聞を取り朝食を食べ歯を磨いて家を飛び出す。ただそれだけの変化。小さな変化だけれど、僕には大きな意味を持った。五年続いた生活リズムが変わったのだ。それだけで気分がまるっきり違う。五年間閉じ切った部屋の、鍵が錆び付いた窓をガタリと開けて、カビ臭い空気の中に新鮮でキリッと冷えた風が吹き込む。そんな気分だった。

 そして今日も僕はそんな気分で着替えたばかりのズボンのポケットにエンドロールを入れた。当初は着替えずに新聞を取りに行こうとして、玄関のドアノブに手をかけてから気づくこともあった。けれど徐々に慣れ、自然に新しい服の袖に腕を通すようになった。少しずつではあるけれど、この行動が習慣になりつつあった。ただ、ポケットにエンドロールを入れる瞬間だけは違う。その固さをズボンの生地を通して肌で感じる度に、新しい生活を送っていると実感する。今までに無かった異物の存在が、新鮮な風を僕に供給し続けてくれていた。

 部屋の外に出た僕は、エンドロールで膨らんだポケットにさらに手を突っ込みながらマンションの階段を降りた。四階から早足で一気に降りる。エレベーターもついているけれどせめてもの運動不足解消のため、階段を使うことにしていた。マンションのエントランスまで来ると、そこはもうほとんど外気と変わらない。四月になり、もう冬の匂いは完全に消え、春も盛りだ。とはいえ、朝六時半の空気は肌寒かった。自分の部屋番号の郵便受けから新聞を取り出す。新聞もほんのりと冷たい。僕はこっそり頬を寄せてみた。インクと紙の匂いが微かにする。そこで郵便受けにまだ一通のハガキが残っていることに気がついた。往復ハガキのそれを取り出してみると、高校の同窓会の案内だった。予期せぬものに驚きと戸惑いを覚えながら、もう一度階段を昇り始めた。

 コーヒーメーカーで淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ、余りを水筒に注ぐ。その水筒には牛乳を追加して、カフェオレとして仕事場に持っていくことにしている。そしてプラスチック製の小さなトレーに、マグカップとさっきオーブントースターから取り出した小さなロールパンを三つ載せた皿を載せ、テーブルに運んだ。テーブルに面したソファに座り、僕はコーヒーにフレッシュと角砂糖を一個ずつ入れて飲んだ。いつもならそこで新聞にざっと目を通すのだけれど、今日はさっきのハガキに目を通した。高校を卒業してもう九年も経つのか。その事実に悲しくなる。同窓会が開催されるのは二回目だ。前回は二十二歳、大学四回の時だったから僕が社会人になってからは初めてになる。開催日時は八月十三日だった。お盆と被せることで、地元を離れ散り散りになった同級生たちもきっと帰ってくるだろうという算段なのだろう。どれくらいの人が集まるのだろう。そんなことを想像しながらロールパンを齧った。中の溶けたマーガリンが口の中に溢れた。みんな元気にしているのかな。感傷的になってしまう。同窓会という言葉だけで心がキュッと締め付けられるような感覚がした。

 高校時代には二度と戻れない。どれだけ強く願っても、あの日々は過去として手の届かない場所に屹立しているだけだ。それはわかっている。だから手を伸ばそうとはしないし、それを眺めることさえも避けてきた。だから同窓会というのは僕にとっては楽しいだけのものではなかった。もちろん級友に久しぶりに会い、互いの近況を教え合うのは悪いものじゃない。ただ、高校時代の日々の香りが色濃く漂い、まるで高校時代に戻ったかのような感覚に陥ってしまう。そのせいで、むしろ決して届かないんだ、戻れないんだという現在とあの日々との懸隔を突きつけられてしまうのが悲しい。

 そんな同窓会まであと四ヶ月と少し。僕はおそらく行けないだろう。それだけあればきっとエンドロールは完成するのだから。

 ハガキを横にやり、コーヒーを一口飲んでからロールパンを齧る。そして新聞を広げた。興味深いニュースはないものか。今日の話のタネになるような見出しを探す。一面では、昨日起こった凄惨な事故が書かれていた。工場で爆発が発生し、三名の従業員が死亡し、十人以上が重軽傷を負い病院に搬送された、とのことだった。それに加え、爆発に伴い有害な物質がそばを流れる川に流出した可能性があり、対策を進めるとともに水質検査を行うとのことだ。もしこれが事実なら公害問題が発生しかねない。幸い遠く離れた町だったからよかったものの、恐ろしいものだ。

 僕は高校生の時の化学の授業を思い出した。確か硫化水素を発生させる実験でだった。直接鼻を近づけて嗅いでしまった生徒が、あまりの匂いにその場で食べたばかりの給食を吐いてしまった。そしたら硫化鉄の腐卵臭はする上に、吐瀉物の匂いもして、どんどん連鎖反応で他の生徒も気持ち悪くなって、トイレに駆け込んでいくという、ちょっとしたお祭り騒ぎになった。生徒の過半数はその状況を面白がっていて、教師が一番右往左往していたことを覚えている。

 同窓会のハガキのせいか、やけに高校時代を思い出す。結局僕は同窓会に行きたいのかもしれない。ただ、それはエンドロールを作り上げるという決意を鈍らせるほどではなかった。

 我に返り時計を見ると、思いの外時間がないことに気がついた。僕は残りのロールパンをコーヒーで流し込みながら急いで食べ終える。そしてエンドロールをポケットから取り出し一言書き加えた。

「南条ヶ丘高校」

出来るならもっと細かく書き加えたいところだけれど時間が無かった。

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