第64話 現神の森の底で

 アヤメは柔らかな苔の上に寝転ぶ。

 苔は驚くほど柔らかかった。


 まるで羽毛のように、深く沈み込む。

 まるで粘性の高い液体に飛び込んだような、そんな感触。

 

 深呼吸して、目を閉じる。

 

 柔らかい。

 とても心地よい感覚だった。

 まるで限りなく落ちていくような、不思議な感覚が全身を包む。

 

「……」

 

 沈み込むような感覚が終わらない。

 地面に寝転がったはずなのに、底なしの沼に落ちていくようだった。


 苔に沈み込むにしては時間がかかり過ぎている。

 

 アヤメは目を開く。

 

 真っ暗だった。

 何の光も見えない。

 

「ちょ、え!? 何これ!」

 

 アヤメは周囲を見渡そうとするが、やはり真っ暗で何も見えない。


「一体、何が……」


 恐らくここが地中なのは間違いない。


 しかし息苦しさは全くなく、ただただ、ゆっくりと地面の中を沈んでいる。

 辺りは真っ暗だし音もしないが、肌を撫でる感触は身体が下へと沈む感覚を伝えていた。

 声も出せるし、身体も動かせる。


 不思議な状況だった。

 

 アヤメは試しに平泳ぎをしてみる。

 しかし沈む速度は一向に変化がない。

 

 どうやら浮上は不可能らしい。


 歌を使って全力で上がってみてもいいが――。


 

 多分、このまま沈んでいく方がいい。

 下手に暴れればどうなるか分からない。

 

 アヤメは地面に沈みながら、何となくどうしてこうなったのか気づき始めていた。



 よく考えれば、足元に苔があったのがおかしい。

 地面は転瞬楽土で焼いた後だった。


 苔が存在するはずがない。

 というか焼く前に、苔はアヤメから勝手に離れていた。


 森が離れていった理由はアヤメが現神を呼び出したからだ。

 前にオルデミアから聞いたが現神にはテリトリーがあり、現神は他の現神のテリトリーに近寄ろうとしない傾向にある。

 そして現神の森は、現神そのものであるという。


 そんな場所に別の現神を呼び出せば、森の全てがアヤメから離れようとするのも当然だろう。



 その離れた苔が、光神を送り返してから戻ってきた。

 それはつまり――。


 

「……ちょっと明るくなってきたかも」

 

 真っ暗のはずの周囲が、少しずつ明るくなってきた。


 光は足元から差している。

 アヤメは、その光源に向かってゆっくりと沈んでいるようだった。

 深く沈むほどに明るくなるのは何だか変な気分だ。

 

 そして周囲が明るくなって、周りの状況が少しわかってきた。

 

「根っこ……かな、これ?」

 

 暗闇の中に、完全に光を通していない部分と、光を通す部分がある。

 それは木の根のように細く広がっていた。

 上の方に行くほど細く枝分かれしており、下に行くほど太く絡み合っているようだ。


 さらに真っ直ぐ沈んでいると思ったら、微妙に左右に動きながらアヤメは沈んでいた。

 まるで血管のように広がる根っこの隙間を、上手く潜り抜けていく。


 試しに泳いでみたが、軌道は全く変わらない。

 アヤメが動いていようが動いていまいが、右に左に体が流されていく。


 誰かに落下軌道をコントロールされているのだ。

 

 周囲がどんどん明るくなっていく。

 ただの暗い影だった木の根の表面が見える程になった。



「これ根っこじゃない」


 

 木の根と思ったが、微妙に違っていた。

 確かに木のような質感だが、産毛のような毛が所々から生えている。

 沈むにつれて、毛の量はどんどん増えていく。

 

 すでに根の太さはアヤメの身体より大きくなっている。

 何千本も広がっていた根は一つに絡まり、今は十本にまで纏まっていた。

 木のような質感は失われ、ただの毛の塊に変貌している。


 細く長い毛の棒。


「うーん、尻尾――かな?」


 間違いない。

 これは生物の尻尾だ。

 

 

 ――現神の森は現神そのもの。


 

 その意味が、やっと明確に理解できた。

 現神の森に生えている植物は、全てこの下にいる存在に繋がっているのだ。

 

 もう辺りは真昼のように明るくなっている。

 これくらい明るくなれば、十本の尻尾がちゃんと脈動している事に気づけた。

 やはり植物ではなく、生物の一部だ。

 

 そして――。


 いきなり沈み込むのが終わった。

 正確には沈んでいたのが、落下に変化したのだ。


 

「――っ!?」


 

 地面ではない空中に放り出される。

 

 地下深くに広い空間が作られていた。

 アヤメはそのまま落下し、地面に着地する。


 広い空間ではあったが、天井の高さは低かった。

 四、五メートル程であり、アヤメの身体能力ならば無傷で着地できる高さである。

 

 しかしそれを差し置いたとしても、無傷で着地できていただろう。


 広い空間の地面は背の低い草と苔に覆われていた。

 まるでクッションのように、足元はふわふわと柔らかだ。

 

 周囲の壁や天井は、木の根が絡まったような木材で構成されていた。

 空間の奥行きも、そう広くはない。

 おおよそ二十メートルくらいの広さ。

 

 ここは植物で作られた部屋なのだ。

 

 部屋は楕円形をしていた。

 そして、その部屋の最奥には小さな花畑が広がっている。


 ささやかな花畑だった。

 タンポポの花くらいの小さな白い花が幾つも花開いている。


 

 

 そして、そこが終点だった。


 

 そのささやかな花畑の中央に、ソレはいた。


 


 その姿は、ミーミルより一回り小さい人の形をしていた。


 アヤメに背を向けて立っている。


 その全身は白銀の毛に覆われていた。

 一瞬、亜人種かと思ったが、体格は亜人種より獣に近い。

 

 二足歩行の獣。


 一言で言い表すならば、それだ。

 ただ明らかに普通の獣と違う部分がある。


 それは十本もある尻尾と、その先端が全て地面に突き刺さっている事だ。

 

「――おお。来たか」


 その獣人は、確かに喋った。


 アヤメの方へ、ゆっくりと振り向く。

 地面に刺さったままの尻尾は花畑を一切、荒らす事無く、まるで水中に沈めているかのように、ぬるりと地面を動いた。




 ――狐だ。


 顔も人の形をしていない。

 完全に二足歩行の狐だった。

 

 驚くべき事に、狐はメスのようであった。

 人間の女性のように胸がある。

 そういえばさっきの声も、女性の声だったように思う。


 こちらを向いても、狐は目は閉じられたままだった。


 もしかしたら盲目なのかもしれない。

 だが、アヤメの位置は完璧に把握しているようだ。


 その顔は真っ直ぐ前を向いておらず、小さなアヤメに合わせて少し下向きになっている。



「初めてやったが、呼び出すのは意外と手間じゃの。尻尾が邪魔じゃ」



 地面を沈んでいる間に、何となく気づいていたが顔を合わせて、はっきりと確信する。


 

 こんな事が可能な存在は一つしか考えられない。

 そしてこんな事をしようと思う存在も一つしかない。

 

 何故ならアヤメは、現神の森で別の現神を呼び出し。

 現神の森に強力な範囲魔法をぶっ放したのだ。

 

 それで黙っている方がおかしいだろう。

 

 

 

「――それで、お前じゃな。儂の背中にあの糞龍を呼び出したのは?」

 



 そう言ってソレは、口の端を釣り上げ、閉じていた目を開く。


 開かれたその目は、とても美しい藍色をしていた。

 


 





 最初はただの気まぐれだった。

 ゆっくりとできる場所を探して、大地に根を下ろす。


 そして少しばかりうたた寝をした。


 その少しのうたた寝の間に、ソレの体毛は変質し、根に変わった。

 根は地面を貫いて成長し、地表に出ると木へと成長する。

 ソレそのものである木からは膨大な量の魔力が産出された。


 魔力のせいで生態系は変化し、様々な生物が影響を受けて進化する。

 独自の生態系が構築された。



 そうやって、その地には全長数百キロにも及ぶ魔の森が生まれたのである。



 

 思いの外、ゆっくりと眠れたソレは、その場所が気に入った。

 邪魔物からも遠く、いつの間にか成長した森は豊富な養分を届けてくれる。

 地殻の変動も安定しており、しばらくは海に沈んだり、噴火で暑くなりそうもなかった。


 そうしてソレは、しばらくの間、そこでのんびりする事に決めたのである。


 

 それが人という種族が生まれる遥か前の事であった。


 

 そしてソレは現在に至るまで、森として留まり続けている。

 現神の森の全ての植物は、ソレであり。

 ソレこそが森である。

 

 もしソレが気まぐれで、その場から動こうと思ったのなら。

 全長数百キロにも及ぶ森は、一夜にしてめくれ上がり、その姿を消すであろう。


 

 身じろぎするだけで、世界環境が変わる力を持ち。

 この世の全ての植物を統べ。

 植物から送られてくる養分だけで生きる古代の超生物。





 『現神 木神テラー アズライト・オブ・イモータリティ』





 その本体が、アヤメの目の前に立っていた。

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