第百十四節 迫られる決断

 弾かれるように、レイは目を見開いた。ぽつりと呟く。


「今……エイリーク、泣いてた……?」

「どうした、レイ」


 ヤクに呼ばれ、我に返る。


「今、エイリークの声が聞こえたんだ!まだ塔の中にいる、絶対に……!」

「なにっ……!?」

「戦っている……?誰とだ……?」

「……わからない。でもエイリーク、叫んでたような気がする。叫ぶっていうか、悲鳴みたなもの、だけど……」


 レイは塔を見る。グリムが訊ねた。


「何処から聞こえた?」

「あ、ああ……。多分、あの辺り」


 レイが指を指した部分は、塔の上方。炎が移りかけている階の辺りである。グリムはそこを目で追うと、ヤクに声をかけた。


「……おい、魔術師」

「なんだ?」

「貴様の力が必要だ。……手を貸せ」



 ******



 ダンスフロアにも、炎の手は伸びていた。その中でヴァダースは、疑念を抱きながら目の前の光景を見ていた。ひどく狼狽したような様子で、目の前の光景を信じられない、とでもいうかのように。


「何故……。そのようなバルドルの者のために、そこまで……」


 それは自分自身への問いかけか、自らのダガーで倒れたケルスへのものか。

 そんなヴァダースの背後に、空間転移の陣が浮かび上がる。そこから出現したのは、この塔から一度脱出したリエレンだった。


「ここ、非常に危険。速やかに離脱」

「……わかりました」


 ヴァダースはエイリークに背を向けると、静かに告げた。


「……また会いましょう。その時は必ず、貴方の首をいただきますよ……バルドルの者」


 それだけ言い残すと、彼はリエレンと共に空間転移の術でその場から離脱した。


 その場に残されたエイリークとケルス。いつの間にか、ヴァダースの放った銀の糸は消滅している。自由に動けると理解したエイリークは、覚束ない足取りでケルスまで近付くと、彼を抱き起こす。

 背中からの出血が酷く、ケルスの顔面からは血の気がない。それにも関わらず、彼の表情は満ち足りたものである。花のように綺麗ではあるが、その瞳が開かれることはない。


「なんで……こん、な……」


 独り呟くエイリーク。彼の中で、ケルスとの思い出が去来する。


 炎が辺りを包み、壁や天井を崩壊させていく。ガラガラと大きな音を立て、崩れたコンクリートの瓦礫がダンスフロアの入り口を塞いだ。エイリークの周りにも、それらは容赦なく降り注ぐ。刻一刻と彼の退路が塞がれていることにも関わらず、エイリークはその場から動こうとはしない。


「ケルス、お願いだ……。もう一度、笑ってくれよ。俺の目を見て、微笑んでくれよ。ケルスの笑顔が、見たいよ……!」


 嗚咽を堪えながら懇願する。それでもケルスが答えることはない。


「どうしてだよっ……!どうして俺なんか庇うんだよ、ケルスッ……!」


 冷たくなっていく彼を抱きしめるエイリーク。堪えきれなくなった涙が溢れ、頬を濡らしていく。慟哭に浸っている中で、今最も聞きたくない声が彼の耳に届く。


『無様だよなぁ……』


 ふと顔を上げる。目の前にいた裏の人格の自分が、嘲笑しながら己を見下しているように、エイリークには思えた。


『テメェが守りたかった奴に守られるたぁ、みっともねぇよなぁ。なぁ、今どんな気持ちだよ?』

「うるさい……!」


 彼から目をそらす。自業自得だと理解しているからこそ、別人格のエイリークの言葉が耳に痛い。傷口に塩を塗り込まれている感覚である。

 別人格のエイリークは続けた。


『どうだ、この際この体の所有権を俺様に譲らねぇか?テメェがこの体を支配していても、弱いことに変わりない。俺様も本来の力を出せねぇワケだしなぁ。だが俺様が完全にこの体を支配すりゃあ"エイリーク・フランメ"は、誰にも負けねぇ』


 その言葉に戦慄が走る。口を噤んだ。

 別人格のエイリークの言葉は、間違っていない。ヴァダースの話を裏で聞いていたエイリークだが、己の力はいまだ弱い。こうして守りたかったケルスを守れていないことが、それを何よりも証明していた。ならば己の価値は何なのだと、考えざるを得なかった。価値なんてものはないのではないか、そうとすら思っている。


 こんな失敗を繰り返してしまうのであるのならば、"自分"が存在する価値はない。


 そんな思いが、胸に灯る。考えすぎて深みに嵌っていたエイリークの意識を浮上させたのは、耳にかかった僅かばかりのケルスの息遣いだった。咄嗟に彼の口に手を添える。弱弱しい空気が、掌にかかった。ケルスは、まだ生きている。


『決断すんのは、そうだな……。日付が変わる頃でどうだ?いい返事待ってるぜ』


 別人格のエイリークが消える。


「(決断、か……)」


 エイリークは逡巡する。答えは彼の中で、既に決まっていた。


 ひと際大きな音を立て、エイリークの頭上の天井部分がひび割れる。下敷きになる前にと、彼はケルスを抱き上げ退避する。崩壊が思った以上に進んでいた。もはや一歩を踏み出すことさえ、難しい状況である。


「……大丈夫だよ、ケルス。俺が、ついているから……」


 崩れそうな足場を次々と避けていく。しかしこれではいつまで持つか分からない状況で、具体的な逃走ルートがわからないエイリーク。足の踏み場がなくなり、もはやこれまでと諦めかけていたその時。彼の足元に青い魔方陣が広がった。


「え?」


 どこからともなく声がする。


「座標固定。汝、離脱の時を迎えたり。開け影の門……"迷宮よりの解放"ラビラントエヴァジオン


 その声は、聞き覚えのあるの声。

 詠唱の直後。エイリークの体は透けていき、フロアからケルス諸共消滅した。


 ******


 冷たい風が頬を撫でる感覚で、我に返るエイリーク。朧げに前に視線を向ける。視界には、見知っている仲間たち──レイたち──が、走ってこちらに来る様子が見れとれた。


「エイリーク!!」

「み、んな……?」


 エイリークは混乱した。今しがたまで炎上している塔の中にいたというのに、と。彼の疑問にはレイが答えた。レイがエイリークの悲鳴のような叫びを聞いた直後、ヤクとグリムがマナを総動員させてエイリークたちを捜索したのだと。位置さえ捉えてしまえば、グリムが使える転送術で呼び寄せることが出来た。結果として成功し、エイリークは無事に脱出できたのだ、そう説明を受けて。

 そんな中、ヤクがエイリークの抱えていたケルスの状態に気付く。


「エイリーク、ケルス国王のその傷はいったい……!?」


 彼の言葉に、レイたちもつられて状況に気付いた。慌てながらも、レイがケルスに治癒術をかけていく。


「どうしたんだよ、ケルスのこの怪我!?」

「……俺の、せいなんだ……。ヴァダースからの攻撃を、庇って……!」

「……見せてみろ」


 グリムがケルスの状態を確認する。


「……出血が酷いな、すぐに何処かの医療機関で治療するべきだ。脈も浅い。このままでは、確実に死ぬぞ」

「そんな!!」

「呼吸も薄い……。治癒術だけでは治らん。この近くに医療機関はないのか?」


 グリムの言葉に、スグリが反応する。


「この大陸には、少なくともない。可能性があるとしたら海を渡ってすぐの、アウスガールズの港街エルツティーンだ」

「あ、別名医師の街の!そこなら確かに最先端の医療技術がある!」

「しかしここからだと、少なくとも数時間はかかる。足もない今、まずはここから軍艦を停めてあるアルヴですら──」


 ヤクの言葉が途絶える。彼の耳に、遠くから近付いてくる音があった。ヤクは勿論のこと、レイもスグリもその音の正体に気付く。この音は、ミズガルーズ国家防衛軍の高機動車のエンジン音である。


「ヤク様、スグリ様!」


 高機動車には一人の兵士と、ソワンが乗っていた。


「ソワン!」


 高機動車が停まる。兵士がヤクたちに報告した。ソワンはケルスを見るや否や、応急処置を始めていく。

 兵士の報告によると、塔から爆発音が聞こえた直後に行動は始めていた。高機動車を走らせた直後、軍艦はいつでも出港できるようにと準備もしている、と。今のレイたちにとってその判断は、まさに渡りに船。言うが早いか、彼らはすぐさま高機動車に乗ると、塔を後にした。

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