第百節   おかえり雪花

 雫が滴る。この聳える大樹の恩恵を受けている泉に来るのも、何十年ぶりだろうか。ニールヘームの奥にあるヘルヘームの村の、さらに奥。世界三大泉と呼ばれている、フヴェルゲルミルの泉。ここはそこの潜在意識の中。

 体はそこになくても、意識だけをそこへ持っていくことはできる。自分は、女神の巫女ヴォルヴァなのだから。泉の中心には、一人の女神が待っていた。捉えた視界にいる人物が自分だと気付くと、表情が変わる。運命の女神の一人、ウルズ。この女神の力を、自分は受け継いだ。


「……来て、くれたのですね……」

「ああ……」

「二度と、貴方の方からは来ないかと思っていました……。お元気、でしたか?」

「……それはお前に言わねばならないことか?」


 自分の冷たい言葉に、たじろぐ女神。この女神は、自分に対して負い目を感じている節があるのだろう。幼い自分に己の運命について言及した結果、今の私となった。運命を否定し続けていた、自分に。

 そうなってしまった原因は自分にあると、そう思っているのだろうか。女神なのに、どこか人間臭い。昔の自分ならそれを、何を当然のことだと一笑に伏していただろう。自業自得ではないかと。


 しかし──。


「……私の運命を否定したのは、私が弱かったからだ」


 今なら、悪いのは彼女ではなく。己の弱さが招いたことだと、理解できる。自分は悪くない、周りが全て悪いのだと責任転嫁してしまっていた、己の身勝手さを。

 彼女は不思議そうに、自分に視線を投げかけた。


「私を、責めないのですか……?」

「責めて何が変わる。時間を巻き戻すことなんて出来ないだろうに」


 ああいや、限定的にはできたが。己の行動を振り返る。


 自分がスグリの腹部を刺し貫く前の時間軸に、彼と自分を戻した。それが自分の女神の巫女ヴォルヴァの能力だ。

 過去の事象を、限定的にだが巻き戻す。定められた現在を覆し未来を裏切る、遡行の力。ただしその力で数年単位分を戻すことはできない。あくまで現在進行形に繋がる過去の事象に対してのみ、有効だ。


「……正直、まだお前を許せないという気持ちはある。人間のことも、はいそうですかと納得するには時間がかかる。それだけのことをされたという過去は、覆せないのだから」

「……はい」

「だが……信じてみようとは、思えた。あの時お前が言いかけた言葉の続きを、理解できたから」


 初めて彼女と出会った時に、彼女が言いかけていた言葉。


 ──「そうではないのです。あなたは──」


 あの時はとにかく許せなくて、続きを聞きたくなくて。運命からは逃れられない、その言葉だけを恨んで、そんなことを自分に告げた彼女が妬ましくて。

 だが今なら言える。


「私は、定められた運命を選べる権利も、選択肢もある。自分の未来を、自分で繋げることができる。……そう、言いたかったのだろう?」


 ウルズの表情が花のように綻ぶ。一つ頷いて、胸の前で手を組んだ。


「貴方の幸せを、私はいつも祈っています」


 その言葉を最後に、光が辺りを包んだ。


 ******


 風に頬を撫でられたようだ。何故か自分を呼んでいる気がする。ゆっくりと、瞼を持ち上げてみた。

 見覚えのない天井が、自分を見下ろしている。ここは一体何処だろうか。視線をずらしてみた。


「ぁ……」


 自分の隣で、手を握っていてくれた人物がいた。その人物は笑っている。


「……おそようだな、ヤク」


 少しからかうような口ぶりで、名を呼ばれた。生きている。自分を一番に理解してくれて、いつも傍に寄り添っていてくれていた、彼が。


「スグリ……」


 自分の好きな、翡翠の瞳。ようやく脳が理解してきた。起き上がろうにも、どうも手足や体全体が鉛のように重く、思うように動かせない。そんな自分の状態がわかっていたのか、スグリに補助されながらどうにか起き上がり、改めて彼を見る。

 何もかも理解しているような、許しているような表情。そんなことなかっただろうに。自分のせいで、一度は死にかけたというのに。それでも安心感が抑えきれなくて、彼に抱き着いた。


 スグリはそんな自分を優しく抱きとめてくれた。背に手が回される。


「おかえり、ヤク」

「……ただいま、戻った。スグリ……!」


 言いたいことは沢山あるが、とにかく何よりも言いたかった言葉を口にする。


「ごめんなさい……!」

「もういいんだ、ヤク。俺の方こそ、ごめんな」


 彼のぬくもりを逃がさないように、今入れられる精一杯の力でスグリを抱いた。

 風が撫でる。暖かくて優しい、彼のような風。


 ふと、背中の方で扉が開くような音がした。抱擁を解いて振り返る。そこに立っていたのは、自分の愛弟子たち。中心にいた彼が、ポツリと自分の名前を呟いた。たどたどしく足を進めたが、耐えきれなくなったのか。何かを追い求めるようにして、自分の方へ走ってきた。


「師匠!」


 覚醒しかけの体に遠慮なく突撃してきたのはレイだった。そのまま押し倒されそうになるのをスグリが支え、どうにか受け止める。レイは震えていた。昔のように頭を撫でれば、嗚咽が漏れ出ていることに気付く。


「ヤクさん!」

「ヤク様!」


 エイリークやソワンも、安心したような表情をしている。よほど迷惑をかけてしまった。そのことについて謝罪すれば、なんてことないと彼らは笑う。


「おかえりなさい!」


 笑顔を見せ、再び自分を受け入れてくれた。

 ああ、私は。ここにいてもいいのかと。安堵が胸の内に広がる。


「ああ、ただいま戻ったぞ」


 その後、自分の覚醒を知った主治医が来た時は驚いた。まさかリゲルが診てくれていたとは。精密検査の結果、多少のリハビリは必要なものの大きな後遺症も少なくなるだろう、とのことだ。

 それならばと、止まっていた世界巡礼の任務をスグリに任せ、自分はひとまず動けるだけのリハビリをすることになった。回復次第、合流することになる。マナの回復は多少遅くなるものの、基準値を大きく下回ることはないそうだ。


 その日もリハビリを行い、個室で休息をとっていた。夕日が赤く部屋を照らしている。お見舞いとして、レイが訪ねてきた。ベッドの脇に椅子を置いて座らせる。

 レイはスグリからの伝言役でもある。次の巡回地や各地の状況が、彼を通して情報が入ってくる。スグリからは休めと釘を刺されたが、どうにも知っておかないと落ち着かないと押し通した。そこで苦肉の策として伝言役というわけだ。自分のリハビリ状況を伝えるためにもいいだろうと、提案された。


 今日の分の報告を受け、伝言を伝えた。あとはレイは帰るだけだが、今日はどうにも動こうとしない。何かあったのかと尋ねた。


「師匠……ごめんなさい」

「なんだ藪から棒に」


 聞けば、スグリから自分の行動について聞いたのだとレイは告げた。自分が何故レイの夢の話だけは、頑なに信じようとしなかったのか。何故女神の巫女ヴォルヴァの力を真っ向から否定していたのか。

 それらをすべて聞いたのだと。回復したら真っ先に、スグリにお灸を据えなければならないと心に決めた。人のことをべらべらと……。


「師匠は、全部知ってたんだよね。俺が"戦の樹"であることも、女神の巫女ヴォルヴァであることも。そんで俺がその力を使うと、どうなっていくのかも」

「……そうだ」

「俺、そうとも知らずに師匠にあんなこと言って……本当にごめんなさい……!」


 ガッセ村でのことをずっと謝りたかったのだと、彼は言う。

 それならば、自分も。


「私の方こそ、すまなかった。感情的になっていたとはいえ、お前を傷付けたのだから」

「師匠……」

「だが、私の思いは変わらない。いくら強力な女神の力を持っているとはいえ、無暗にその力を使ってほしくはない。お前の命に、代わりはないのだからな」

「うん。俺には、師匠から教わった魔術があるから……!」


 にこ、と笑うレイ。


「……もう一度、俺を弟子にしてください」


 そう言って頭を下げられる。懐かしい、と感じた。

 昔、自分に弟子入りを志願してきた時のことを思い返す。自分に何度も断られても、必死に頭を下げていた少年の姿が、瞼の裏に甦る。その願いのに対する、自分の答えは決まっている。その時と同じように、その頭に手を置いて。


「私の課題は、厳しいぞ。そうそう免許皆伝を与えられると思うな?」


 当時と同じ言葉で返した。顔を上げたレイは、その名に負けず劣らずの明るい笑顔で頷く。その嬉しそうな顔は、時間が経っても変わらないままだ。


「はい、師匠!」


 そう言って、互いに笑いあった。



 第三話 END

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