第九十九節 「帰ろう」

 目を開く。一面は白くて暗い部屋。自分はその光景を見下ろしていた。

 一人の子供に、ハイエナのように集る白い研究者たちが見える。文字通り、自分たちの餌を奪い合うように。


「やだ、やだぁああ!!」


 泣き喚く子供。身ぐるみを剥がされ、代わる代わるその小さな体に研究者たちの欲が注がれる。その度に苦しむ子供、盛る大人たち。


 笑う嗤うワラウ。狂った動物のように、錆びついて嫌な音を立てる歯車のように。強く耳障りな嗤う声。


 子供は助けを乞うように、手を伸ばす。誰もその手を掴むことがないと分かっていても。必死に叫んでいた。


「助けて……!だれか……!!」


 ふと、幼子の碧眼と目があった気がした。


 場面が切り替わる。

 時間が経過した、のだろう。今度は見覚えのある部屋だ。今は廃棄された、街の倉庫の地下室。そこでもまた汚い大人たちが、成長した少年に毒牙を剥く。


「くる、し……あ、ぅ……」


 吊るし上げられた少年の身体をを弄る、複数の手。神にすがり、そのまま自分たちの元へ引きずり下ろすように。酷く勝手で傲慢な大人たち。張り付いている笑顔は、先程の男たちと同じ。


「……け、て……。誰か、たすけ……」


 少年はやはり、誰も来ることがないと分かっていても、助けを求めていた。


 三度目の切り替わり。今度は、真っ暗な空間。赤い薔薇が枯れた地面が見える。ちょうど一人分の広さが、雲の隙間から零れた光に照らされていた。そこに少年が座り込んでいる。現実味に欠けるそこは、の見ている夢だろうか。


 少年は一人、泣いている。

 ボロボロの姿で、ただ一人。


「なんで……。全部、決まってたのか?運命だから、諦めろって……そんなの……!」


 言葉の端々から滲み出る遣る瀬無い思いが、夢を通じて伝わってくる。


「助けて……誰か……誰でも、いいから……たすけて……」


 嗚咽を漏らしながら泣く少年。やがて一人だけだった空間に、別の声が響いた。


 「私が助けてあげようか?」


 見覚えのある青年が、ふっと現れる。少年が顔を上げる。少年は見上げた先にいた青年に首を傾げた。


「だれ……?」

「そうだな……。私は、未来の選択肢の一つのキミだ」

「未来の選択肢……?」

「キミは、聞いたのだろう?……あの運命の女神という傍迷惑な女神から、自分の正体について」


 青年の表情が険しくなる。言わなくても、彼が女神たちを恨んでいるとわかる。少年もそれを感じたのか、恐る恐るといった様子で一つ頷く。


「私は、運命の女神を恨んだ果てのキミ。心の中に燻る負の感情を抱きながら成長したキミが、私」

「じゃあ……わかる、の……?」

「ああ、キミの気持ちは勿論痛いほど。許せない、普通に生きていたいだけなのに、なんで運命を勝手に決められなければならないのかと。人の人生をいいように弄って、楽しいのかって」

「っ……!!」

「私なら、キミの苦しみを分かってあげられる。キミを一人にはしない。吐き出したい事は全部私に言えばいい。私が、忘れないでいてあげるから」


 少年には、青年が救世主のように見えたのだろう。僅かに瞳に光が戻り、彼に縋る。ゆっくりと近付き、青年の胸に顔を埋めた。やがて肩が小刻みに震えたかと思えば、啖呵を切ったように泣き出した。青年は何も言わず、優しく少年を抱く。

 それは一見すれば微笑ましい光景だが、何処か執着めいたものも感じた。


 何度も、何度も。少年が成長しても、青年は変わらずにそこに居続けた。少年が青年に会いに来る度、ほんの二人分しかないスペースに、花が咲き乱れていった。

 オトギリソウにクロユリ、白詰草やマリーゴールド、アザミなど。季節感はまるでバラバラなのに、不思議と一体感を表している花畑が二人を包んでいる。


 少年は成長し、青年と瓜二つに成長した。そんな何回目かの夢の巡り。少年だった青年が立ち上がり、くるりと青年に振り向いた。


「今まで、ありがとう。さようなら」


 それだけ告げると、少年だった青年が踵を返す。ゆっくりと、しかし確実に。青年の元から立ち去っていく。突然告げられた別れに、青年が慌てて声をかける。


「待ってくれ!置いていかないでくれ!」


 青年の足は止まらない。徐々に姿が遠のいていく。


「嫌だ、頼む!私を忘れないで!私を愛して!こんな別れ聞いてない……!こんな悲しみ、味わいたくない!!」


 少年だった青年が消える。少年の成長を見守っていた青年が、取り残される。

 一人残された青年が力なく膝をついて、花畑に顔を埋める。


「どうして……ずっと、変わらないはずだったのに……!」


 悔しいと。こんなこと、どうしてと。

 青年の慟哭が周囲に満ちる。


 その中を、自分は進んだ。


 青年が憎悪の瞳でこちらを見る。どうやら自分を認識したようだ。


「……ヤク」

「……貴様か。貴様のせいで、彼が私の前から立ち去ったのか……!!」


 氷の牙が浮かぶ。それに構わず、一歩踏み出す。こちらに放たれた氷の牙が腕を掠めるも、構わずに歩いていく。


「私は貴様が憎い!いつも偽善者面をして、誰かを助けた気でいる貴様が!」


 牙が横っ腹を掠める。近付くたびに、容赦なく。それでも彼に、どうしても言わなければならないことがある。痛くなどない。だってこれは、夢なのだから。


「いつもいつも、貴様は私を置いて勝手に進んでしまう!私を受け入れず『私』ばかりを見て、満足して!!どうして私を否定するんだ!?私だってヤク・ノーチェなのに!」


 泣いている。一人は嫌だと、ごくごく当たり前の言葉。悲しみをぶつける相手になるはずだった自分にですら、ついぞ話すことができなかった彼の本音。そのことに対する恨み辛みをどうすることもできなくて。でも彼をそうさせてしまっていたのは、他ならぬ俺だ。


「叫んでいたのに……助けてって、呼んでいたのに!!」


 肩に足に腕に、氷の牙が突き刺さる。やがてようやく腕の中に、彼を捕まえることができた。放せともがくヤクに、一言。


「ごめんな、ヤク」


 謝罪の言葉を告げ、一層強く抱きとめる。


「一人にさせて、ごめんな……。お前、ずっと俺に助けを求めてたのに。俺がお前を受け入れなかったばかりに……」

「謝ったからって、それで済む話ではない!私の時間は戻らないのに!戻れないのに!返してくれ!『あの少年』を返せ!!」


 叫ぶ彼に、冷徹に告げる。


「それは……できない」

「っ……!殺す!なぜ私は貴様に全て奪われなければならない!?そんなに憎かったか、そんなに私を否定したいのか!」

「そうじゃない!俺もあのヤクも、お前を忘れたいわけじゃない!!」


 一度離れ、彼の濁った氷の瞳を見て伝える。


「お前は過去、自分自身に己は未来の選択肢の一つの姿だと言った。別の時間軸のヤク・ノーチェの姿だと。それを今まで過去に留まり続けたあいつ自身は、それを目標に生きてきた。だがあいつは、お前という未来の選択肢を選ぶことを放棄した」

「そうだ!私を否定して──」

「それが違うと言うんだ!あいつは、ありえたかもしれない"未来の姿"お前を受け入れ、別の"選択肢"未来を選ぼうとしているんだ。お前を忘れるためじゃない、その逆だ。お前を忘れないためにだ!」


 その言葉を聞いた目の前の青年から、殺気が消える。力が抜け、自分を見る瞳が揺らいでいる。信じられない、と表情が物語っていた。わからないなら、理解できるまで伝えるだけだ。


「いつかあり得たかもしれない未来のお前は、確かに存在しただろうさ。それを選ばなかったからって、何もあいつは全て消し去るわけじゃない」

「そんなの、ただの屁理屈だろうっ……!?」

「そんなことはない。お前のようになりたい、そんな未来を思い描いた時間が、確かにあいつの中にあった。それがお前の存在証明だ。忘れて前を行くんじゃない。そんな自分と一緒に進んで行こうとしているんだ」

「……人間を恨んだまま成長した私を、受け入れて……?」

「そうだ。それもまたヤク・ノーチェ足らしめる自分だったのだと、認めてな。お前は未来に存在しなくても、過去の……ヤクの記憶の中には確かに存在したんだ」

「っ……」

「俺も今まではお前を否定してしまっていた。けどこれからは、お前のことも受け入れていく。お前と共に、ヤクと未来へ生きていきたい」


 言葉が染み渡ったのか、彼の双眸からポロポロと涙が落ち、嗚咽が漏れる。そういえばこいつ、昔は泣き虫だったな。彼の頭に手を置いて、もう一度優しく抱きかかえた。

 しばらくして、ヤクは声をあげて泣いた。彼が満足するまで、このままでいよう。やがて落ち着いたらしい彼の体から、力が抜けた。ぽんぽん、と子供をあやすように背中を叩く。


「……沢山泣いたな」

「うるさい……」

「落ち着いたか?」

「……ああ」


 腕を解放する。泣きはらした後のひどい顔だ。でもどこか清々しさのようなものが、そこにあった。満足したのか、彼の体が光の粒子となって散っていく。


「……待っている。未来で、レイたちと一緒にな」

「ああ」


 そういう彼は、一度俯く。しかしそれは一瞬のことで、顔を上げてこう言った。


「……最後に、キスしてくれないか……?」

「……ああ、いいぞ」


 頬に手を添えて、触れるような優しいキスをして。

 永遠のような一瞬を味わう。


 どちらともなく離れる。彼の体はほぼ粒子となって消えていた。最後に、儚くも美しく笑った彼に、頼まれた。


「未来の『私』を、どうかよろしく……」


 彼が消える。足元の花は枯れ果てていたが、一凛だけ。赤いキクの花が満足そうに咲いていた。

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