第九十八節 希望を託して
港街エルツティーンまでの海路は、思ったほど危険なものではなかった。魔物の出現はあれど、カーサからの襲撃はほぼないに等しかった。そこに多少の違和感を覚えつつも、特に被害を受けずに港の入口まで辿り着けたのは僥倖だ。このまま無事に港に船を停泊できるか、果たして。
「……いるな」
黒い制服の人物たちが港に屯している様子が、遠目からでも確認できた。さらに街の奥側からも、わらわらと虫のように湧いて出てきている。ならば駆除しなければなるまい。
スグリは少数の兵士とレイたちに向かって頷く。自分の意を酌んでくれたらしく、彼らは救助用に取り付けていた救命ボートに乗り、海に出た。そのまま先行して街に降り立ち、カーサの殲滅戦を始めた。
街に残っていたカーサの残党は力も弱かったらしく、自分の部下たちにいいように屠られていた。やがて全ての魔物とカーサを排除し、街の安全を確立したところで、軍艦を無事に港に停泊させる。
幸いにも街の住民たちは無事だった。カーサによって支配され、全ての権限を奪われていた彼らだったが、ミズガルーズ国家防衛軍の介入によって、街は解放された。街の市長も無事が確認された。解放直後の、幸せを感じている市長には悪いとも感じたが、こちらに急患がいると申し出る。
港街エルツティーンの最先端医療が集結する、総合病院で診てもらえないか。その申し出を市長は快く受けてくれた。最優先で診てもらえるよう市長の方で、緊急車両を手配するとまで申し出てくれた。感謝しかない。
謝礼をそこそこに、すぐさま軍艦に戻る。急いでヤクのカルテを用意するよう、医療班の人間に伝えた。そんな慌ただしい空間の中でも、やはりヤクは目を覚まさない。
しばらくの後、総合病院の緊急車両が港に到着する。彼らの付き添いには、まずこちらの医療班の人間を乗せた。スグリ、レイ、エイリーク、ソワンの四人は、あとから高機動車でそちらに向かう旨を伝えて。
市長に渡す書類などを整理するため、一度執務室に戻った時にそれは起きた。
「っ……!」
心臓がズキリ、と痛みを訴える。締め付けられるような、それでいて時々突き刺すような痛みが全身を駆け巡る。思った以上に痛みは激しく、思わず机の上に手をついて呼吸をする。肺が酸素を求めていた。身体中が引き裂かれるような痛みが走る。
この痛みは女神の力を使った代償だろう。女神の
その無理が、反動として身体にダメージを与えていた。神経を傷付け、毛細血管をはじめとした血管のいたる所を引きちぎり、筋肉へ直に痛みを与えられる。
簡単に言うならば、力を使えば使うほど、命が削られるということだ。
ただ、それでもよかった。命を削る覚悟を持っていなければ、ヤクを本当の意味で救うなんて出来なかったのだから。こんな痛みなんて、彼が過去に受けた苦痛に比べたら可愛いものだ。
「ハァッ……!」
大きく口を開く。目いっぱいに酸素を取り込む。新鮮な空気が入ってきたことを喜んだのか、やがて肺も心臓も落ち着きを取り戻していく。痛みが遠のく。荒い呼吸を繰り返し、最後に深呼吸をするように息を吐いた。額から大粒の汗が流れていた。
どうやら先のヤクとの戦いで、予想よりも力を使っていたようだ。今になってその代償が来るなんて。タイミングというものを考えてほしい。
独り言ちていると、扉がノックされる音が耳に入る。汗を拭って短く返事をすれば、レイがひょっこり顔を見せた。
「スグリ、総合病院から連絡来たって」
「わかった、すぐに出る。準備してくれ」
「了解。エイリークとソワンにも伝えとく」
「ああ、頼む」
レイが出ていく。資料を持って、スグリも執務室を後にした。
******
港街エルツティーン総合病院の診察室。そこにスグリたちは呼ばれていた。ヤクの担当医は、リゲルと言う中年の男性。その総合病院の敏腕医師であるとのこと。
初めに、ヤクは個室の一室で眠っていると聞かされた。入口の見張りなどはそちらの方で、と提案される。あとで数名の兵士に、その任を任せることにした。
「まず最初に、あの状態で生きていることが奇跡です」
「それって……」
「急性血中マナ濃度欠乏症、という病名を聞いたことはありますか?」
急性血中マナ濃度欠乏症。
それは魔術師に時折見られる症状のことを言うらしい。魔術師に必要なマナを、急激に全て使い果たした場合に症状は起こるという。軽いものであれば頭痛や倦怠感のような、風邪によく似た症状。重いものだと、そこに加えて意識混濁。
大抵の場合、体内にあるマナを全て使い果たしたとしても、十分な休息によってマナは回復する。しかし連日してマナの大量消費があった場合や、不十分な休息などの様々な要因が折り重なると、症状は一気に重くなってしまうのだとか。意識混濁に陥ると例えマナが全回復しても、意識回復は難しいのだとリゲルが告げる。
理由として、魔術師は体だけではなく、脳にもマナを循環させているからと説明を受ける。マナが脳に巡っていない間は、他の臓器から足りないマナを必死に生成しようとするため、身体に負担をかけさせてしまう。それによる臓器不全や脳細胞の死滅も起こりかねないらしい。そうなってしまった場合は脳死、つまり植物状態と診断するしかないのだと。
「さらに、身体組織の損傷があまりにも酷い。多臓器負担のマナ生成に加えて、筋肉の修復。マナが含まれている血の輸血はしていますが、それでも圧倒的に損傷への修復が間に合っていないのです」
「そんな……!」
「しかし私も医者です。最善は尽くします」
「ああ……頼む」
その後、顔を見るなら許されると聞かされる。レイとエイリーク、ソワンはリゲルの提案を受け、個室へと向かうと告げられる。自分も診察室を出ようとして、リゲルに呼び止められた。内心でやはりな、と思ってはいたが。困惑するレイたちに二人で話したいからと適当な理由をつけて、彼らを見送った。
シン、と静まり返った診察室。やがてリゲルが大きくため息を吐く。
「全く……無理をしたな、ヤクも、お前も」
「……リゲルには、全てお見通しなんだな」
「当たり前だろう。いつもお前たちを見てきたのだからな」
このリゲルとは、幼い頃の顔見知りだ。アウスガールズを出てミズガルーズに逃げ込んだ時、世話をしてくれたのが彼だった。あの頃の彼は、身寄りのない子供たちを匿う孤児院の院長をしていた。
その仕事がひと段落した頃に、施設を信頼できる人間に預けて医師としての腕を磨くために、この街へ移住したのだ。そのことは軍に入隊した後に聞かされた。元気そうで何よりだ。
「寝台に横になりなさい。診てやるから」
「いや、俺は……」
「隠しても無駄だぞ。例え大国の軍の一部隊長であっても、ここにくれば役職も関係なく誰とて私の患者だ。それにお前とて、気が置ける人間がそばにいないと無理をするだろうに、まったく」
この人には敵わないか。諦めて身体に横になる。軍服の上着は脱げと言われたので、そのように従う。
実質、体の内側を切り裂かれるような痛みは相当のものだった。リゲルの医療用の魔法陣に身体が包まれる。映し出された身体状態に、リゲルが顔を顰めた。
「……言わんこっちゃない。どうしてここまでになるまで無理をした」
「仕方なかった……。無理をしなきゃ、ヤクを助けられなかったんだ」
「話は聞いた。女神の
「ようやくあいつが、未来へ進むための一歩を踏み出したんだ……。どうしても、助けたかったんだ……」
医療用の魔法陣から放出される薬用の術が、体の内側に浸透していく。感じていた慢性的な痛みが、少し和らいだ気がした。
魔法陣が消える。どうやら今回の施術は終わったようだ。
寝台から起き上がり、礼を述べる。カルテを書いたリゲルが、ポツリと告げる。
「……私も噂でしか聞いたことはないが、女神の
「ああ、あるが……。その力が、どうしたんだ?」
「あの時は子供たちの手前、言うことが憚られたが……。ヤクには、さっき伝えた症状の他に、精神汚染の症状も見受けられた」
「なっ……」
しかもそれは他人から受けたものではなく、自らが生み出した闇によるものだと告げられる。例え臓器不全や脳細胞の死滅が起こらなくても、そのままでは彼は目覚めることはないだろう、と。あまりの事実に絶句する。
「だが夢渡りでその汚染を取り除くことができれば、あとはヤク自身の頑張りによって回復することもできるかもしれん。ただ私も夢渡りについて、確実な保障はできない。あくまで可能性の話からは出ないのだが……」
その話を聞いて、
「……ありがとう、リゲル」
礼を告げ、立ち上がる。診察室を出ようとして、最後にこう伝えられる。
「スグリ。お前もヤクも立場上難しいかもしれんが、生き急ぐようなことはするんじゃないぞ。まだお前たちは二十四年しか生きていないのだから」
「……まぁ、善処はする。ただリゲル。俺もヤクもな、この仕事に誇りを持っているし、今は頼れる部下たちもいる。そうそう、命を落とすことはないさ」
それだけ告げて、診察室から出た。
向かうのはヤクの個室。入口にはまだ誰もいなかったが、構わずに中に入る。ベッドには何本もの管で繋がっているヤクの姿。そのそばで、レイたちが不安そうに彼を見下ろしていた。
「スグリさん……」
何も言わずに、傍に寄る。
一見すると穏やかな寝顔だが、瞳が開かれることはない。そっと彼の頬に手を添えて、見下ろす。人よりほんのり冷たい、ヤクの体温。
彼を静かに見下ろし、決意する。夢で必ず、お前を迎えに行くと。
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