第九十七節 迷路からの脱出

 自分の挑発に乗ったヤクが、小刀を強く握りしめて向かってくる。


「あぁああ──!!」


 彼の慟哭は、出口のない迷路を彷徨っている。どうしようも出来ない絶望、変えようのない過去への悔悟。そして彼自身が奪ってしまった多くの命への懺悔。それらが一緒くたになって、突き動かされているのだろう。


 構えてから、静かに女神の力を発動させる。数分先の未来予知。

 ヤクは自分に小刀を向けながら突進してくる。このままだと、自分は腹部を刺されるだろう。回避することはできる。今の彼は、ただの力のない人間と同じなのだから。


 でも、と逡巡する。


 ここで自分が避けたら、誰が彼の、ヤクの懇願を受け止められるというのか。生まれてから今現在まで、実に二十四年。鬱積したそれらを、一体誰が癒せようか。


 それに第一、ヤクを切り捨てるなんてできない。自分のたった一人の幼馴染であり、愛している彼のことを。だから、このまま。彼に殺されるなら、それでいい。


 そこまで思ってはた、と気付く。


 待て、この光景を見るのは二度目だ。

 自分はつい先程、ヤクの刃を身に受けた。その後そのまま倒れ臥すはず。


 改めて正面を見る。

 ヤクはこちらに向かってくることなく、その場に立ち尽くしていた。握っていた小刀を手から離して、肩で大きく息をしている。

 彼がゆっくりと顔を上げる。自分の姿を確認できたのか、ひどく満足そうに微笑んで。その場に、膝から崩れ落ちていく。


「ヤク!」


 咄嗟に駆け出す。

 倒れ込むヤクを、その腕に抱える。どさりと感じる、彼の重み。

 抱えられたヤクは、残る最後の力を振り絞っているらしい。愛おしむように背に腕を回され、軍服を優しく握りしめられる。


「……よかった……。間に、あった……」

「お前……!?」


 ヤクのマナはもう一滴すらないはず。こんな芸当が出来るはずがない。

 だが可能性はたった一つだけ、ある。

 それはヤクが、自身の──。


「まさか……お前、使ったのか……!?」


 ──女神の巫女ヴォルヴァの力を、解放すること。


「だって……お前が……言った、だろう。……運命は……決まって、ない……。じ、ぶんの手で……なんだって、でき……」


 ヤクが大きく咳き込む。

 彼が吐き出した血が、己の白い軍服を赤く染める。


 ヤクのマナは空だった。それはつまり殆ど力を持たない人間と変わりないということ。そんな状態で、無理矢理神の力にも匹敵する女神の力を解放したのだ。とても無事でいられるはずがない。

 そのうえ時間を遡るだなんて。定められていた結末を、無理矢理捻じ曲げたというのか。そんな不条理の代償は大きいはず。


「……お前の、選んだ……未来をわた、しは選ばない……。選ばせたく、なかった……」

「だからって、お前!そんな状態で……!」

「……好き、だから……」


 ぽつりと呟く。ヤクがゆっくりと、こちらを見上げる。

 ただの人間の身で女神の力を使ったことの反動は、容赦なく身体を内側から切り刻んだのだろう。

 血に塗れ、蒼白な顔色で、それでも宝物を見つけた時のような純粋な瞳で、笑顔で。


「……お前を、愛して……いるから……」


 それだけ言いたかった、そう告げられて。

 彼の瞳が、完全に閉じられた。


 重みが増す。力を失った身体は、スグリに遠慮なしにもたれかかった。


「ヤク!!」


 返事は返ってこない。ならば自分がやることは、一つだけだ。ぐったりとしたヤクの体を背負い、駆け出す。


 絶対に死なせるものか。

 ようやく進み始めたヤクの未来を、閉ざしてなるものか。


 燃えていた村を駆ける。自らの足の筋肉もズタズタだが、構うものか。村の入り口には、ここまで走らせた馬がいる。もう一度力を貸してもらおう。


「っ!」


 足を止める。村の入り口に、一人の人影。

 黒い外套を羽織った人物、ヴァダースだ。


「……どけ」


 半身引いて、武器の柄に手をかける。今この状態で、彼の相手をしている時間はない。立ち止まっているこの時間でさえ、今の自分には惜しいのだ。

 ただしいくら構えても、不思議なことにヴァダースからは殺気を感じない。その違和感に疑問を抱きつつも、それでも警戒心は緩めずに前を見据える。

 対してヴァダースは懐から小石程度の大きさの鉱石を取り出す。それをキャッチボールのように、こちらに放り投げた。足元に転がってきたのは赤い鉱石。罠だろうか。


「……なんの真似だ」

「安心なさい、罠ではありません。……それは使い捨ての、空間転移の陣が込められた魔石です。踏みつければ鉱石が割れ、そこから陣が展開します。差し上げますよ、貴方に」

「なんだと……?」

「代わりに、貴方の括りつけていた馬をもらいます。持ち合わせの鉱石はそれしかありませんからね」


 至極当然に取引させられている。こちらはまだ了承していないと、反論した。それに対して、ヴァダースは自分が背負っているヤクの方を一瞥した。


「彼とは協力関係にありましたが、こちらの不手際で彼に不利益を与えてしまった。そのことに対する、私なりの謝罪です。それとも馬で何時間も地を駆け、それで彼を救えるとでも言うつもりですか?」

「っ……」

「彼の命を守るのであれば、急ぎなさい」


 彼の言葉に、偽りはなさそうだった。それにヴァダースの言う通り、ヤクの命は刻一刻と消えつつある。急がねばならない。疑問が消えるわけではないが、今は頭の隅に追いやるほかなかった。

 足元の鉱石を踏みつける。パキリと音を立てて割れた鉱石から、滲み出るようにして空間転移の陣が広がった。赤い光に包まれ、やがて森の村フォルストから転移させられた。


 ******


 我に返る。

 眼前に広がるのは、アウスガールズを囲む広く青く、透き通る海原。鼻腔を擽る潮風の匂いと、微かに感じる石油の臭い。見覚えのある光景だ。


 ここは、海の街ビネンメーアか。

 ということは、と振り返る。そこには停泊していた、自分たちの軍艦があった。兵士たちが、突然の自分の出現で驚いている。


(本当に、罠じゃなかったんだな……)


 ヴァダースの言葉を思い返す。とにかくいち早く、ヤクを医療班に診てもらわなければならない。全身が悲鳴を上げているが、それを無視して軍艦へと向かった。


 軍艦内の医務室に辿り着く。

 ヤクは寝台の上に寝かされ、部下たちの必死な手当てを受けている。見た目こそたいした外傷はないものの、体の中はズタズタだろう。医療班の部下たちは原因が分からず、困惑しているようだ。


 ふと、廊下が騒がしいことに気付く。複数人の慌てるような足音が大きくなり、やがて勢いよく医務室の扉が開かれた。中に入ってきたのは、レイたちである。


「お前たち……」


 ガッセ村から戻ってきたというのか。

 聞けばガッセ村を襲撃した犯人のカーサは倒したとのこと。大きな脅威がなくなり、救援物資の補給のために一時帰還したらしい。その際にレイたちも戻ってきたのだという。


 彼らは寝台に寝かされているヤクを、不安そうに見ている。


「師匠……大丈夫、なのか……?」


 レイの疑問に無言で返答する。そもそもこの医務室の設備では、精々出血を止めるくらいのことしか出来ないだろう。巫女の力を使ったことによる反動が、果たしてそれだけで済む話だろうか。

 医療班の部下たちが原因究明のために、あれやこれやと手を施す。急性マナ不足なのは確実だ。それによる意識混濁なのだろうが、それでは体内の状態の説明がつかないという話し声が耳に届く。


「ベンダバル騎士団長、ここの設備ではこれ以上は治療できません……!」

「神経にも身体全体にも、相当なダメージが見受けられます。そのうえ血中マナ濃度が極端に低く、このままでは植物状態にもなりかねません……」


 医療班の言葉に、場に重い沈黙が流れる。

 その中で我に返ったレイが、そのうちの一人に掴みかかる。


「植物状態って、なんだよ……。なんだよそれ!どうして!?」

「レイ!落ち着いて……!」

「でも!!」


 遣る瀬無い気持ちを抑えきれないのか、レイが今にも泣き出しそうな面持ちになる。どうすることもできないのか、と彼らが諦めていた中で、ただ一人。


「……まだ、可能性はある」


 自分だけは、まだ思いつく案があった。

 救いを求めるような彼らの視線を一身に受け、静かに告げる。


「ここより正反対の位置に存在している、港街エルツティーン。そこは別名医師の街と呼ばれ、最先端の医療技術を誇る街だ」


 ただ、一つだけ懸念する点がある。

 港街エルツティーンも、ここアウスガールズに存在している街だ。カーサが支配していないとも限らない。さらその影響で、住民や医師が存在していない街、ゴーストタウンになっている可能性も否めない。

 だが現状で考えられる唯一の手でもある。


「ここからエルツティーンなんて、そんなの軍艦のエンジンを総動員させても、半日かかります!」

「そうだ。さらに下手をしたら戦闘も避けられない。だが賭けるしかないと、俺は考えている。……賛同してくれるか?」


 決意を宿して部下たちを見る。それを見た医療班の部下たちやレイやエイリークは、そんな自分に何か感じてくれたのか。活気のある声で答えられる。


「当然だよ!師匠を助けられるなら!」

「俺も、手伝えることはなんでもします!」


 どうやら全員の思いは一致していたようだ。必ずヤクを救う、と。


 小さく微笑むが、すぐに表情を切り替える。そのまま出航の合図を出したのであった。

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