第九十六節 伝えたい言葉

 十二年前。

 世界保護施設の実験施設にいた時、自分には双子の兄弟がいたと聞かされた。本当はヘルヘームで人柱になるのは自分だったのに、双子の片割れが入れ替わって邪魔をしたらしい。

 お前のせいだと。だから誰よりも実験を繰り返す。体の外も中も蹂躙してやると言われた。

 そうか、自分は片割れを殺してしまったのか。だからこんな酷い目に遭うのか。助けてって叫んでも、誰も手を差し伸べてくれなかったのか。そう絶望しながら日々を過ごしていた。


 それなのに他の被験者たちは、あろうことか自分を逃がそうとした。自分が誰よりも傷付いていることはわかる。でも一番力を持っている。だから外に逃げて助けを呼んでくれれば、みんなも助かるからと。

 危険だって何度も言っても、ここで死ぬよりはましだと、その時だけはみんな笑っていた。結果、隙を見て脱走することができた。


 必死に走った。助けを呼ぶために無我夢中で。それでも日々の実験で受けたダメージは相当で、力尽きそうになった。そんな時、きれいな翡翠の瞳の彼が、自分に手を差し伸べてくれた。


 彼は心優しくて、そして逞しかった。自分にはないものを持っていて、それでもこちらに心を砕いて。

 初めて、見知らぬ誰かからの優しさに触れた。とても温かかった。彼の父親という人物も、自分を否定しないで受け入れてくれた。混乱する自分に力を貸すと、頼もしい言葉をかけてくれた。


 だからその人物たちに助けを求めた。快く引き受けてくれた時は、ああ、これが安心するということなのかと学んだ。そして自分を助けてくれた被験者を救うために、戻ったのに。

 研究所の人間たちは、彼らに自分を逃がした罰として以前よりも激しい拷問を与えていると、残酷に告げてきた。中には耐えきれなくて死んだ子もいると。


 自分のせいだ、自分が生きているから。

 でも何も、どうして。

 そこまですることないじゃないか。


 その感情が力と繋がって暴走した。氷のマナは途端に村一面に広がり、全てを凍結させた。泣き喚いた。返してと懇願した。


 なにもかも凍て付かせた。世界保護施設の人間、彼らを匿っていた村人たち。自分を助けようとしてくれた、被験者だったみんなのことも。


 力と感情を抑えきれなくて、どうにでもなれと思ってしまった。自分を抑えることが、出来なかった。

 そんな時自分を優しく抱きしめたのが、翡翠の少年と彼の父親だった。


「大丈夫、お前は何も悪くない!」


 なんで、こんな、初めて会ったヒトにそんなことが言えるのか。わからなかった。

 でも気を失う前に言ってくれた言葉は、ずっと心に残っている。


「俺が、お前を守るから!もう泣かなくていいように、守るから!!」


 その言葉に、私はとても、救われた。


 ******


「ゴホッ……」


 吐血の声。

 勝負は一瞬だった。抜いた刃を体に突き立てて、そこで終わる。


 自分は彼より速さで劣る。そのうえ貯蓄したマナも使い果たし、無力な存在となってしまっていた。

 対して彼は魔術の腕こそ劣るが、基本的な身体能力は自分より上だ。この場において、彼は全てにおいて自分より有利だった。

 だから、知った。自分は負けたのだと。


 結局自分は、強い力に飲まれるしか出来ない弱い存在なのか。

 そう思い知って──。


「え……?」


 何かが自分の肩にもたれかかる。手の上を、何か熱くてぬめりとした感触が伝う。それにどうしたことか、刺されたはずなのに、痛みが全くない。

 閉じていた瞳を恐る恐る開く。肩にもたれかかっていた何かを、視界に入れる。


 見覚えのある、艶のある美しい黒髪が、やたらと近い。

 それはあの時の翡翠の少年と同じ髪で、成長して青年となった彼と同じ。


 思考が遅刻してやってくる。

 刺されたのは、自分じゃなくて。


「あ……」


 一番愛している彼──スグリの腹部に、自分が突き出した小刀が深く、突き刺さっていた。


「……やっぱり、こうするしか……なかったな……」


 ぽたぽたと地面に広がる血の池の出元は、スグリの腹部からで。どうして、と漏れ出た言葉が震える。


「……大馬鹿野郎……。俺が、お前を殺せるわけ……ないだろ……」


 ずるり、とスグリが崩れ落ちる。

 混乱しつつも咄嗟に彼を抱えたのは、本能からか。それとも。


 小刀は彼の腹部に深々と突き刺さっている。

 理解不能だった。スグリは確実に自分を始末できたはずだ。どんな要因を考えても、あの時の彼が自分に劣るものなんてなにもなかった。


「……手を、抜いたのか…………?」

「いや……手なんか、抜いてなかった。けど俺は……お前を斬るなんて、できない……」


 どうしてそんな、やりきったみたいな顔が出来るのか。どうしてそんな、清々しいまでの言葉が吐けるのか。


「……ずっと、お前に謝りたかった。十二年前、守ると……言ったのに……。……俺はお前から逃げた……お前の孤独も、苦しみも、分け与える機会すら……お前から、奪ってしまった……」


 それは神に懺悔をするように。

 ただ一人、自分のためだけに向けられた祈りのような言葉で。


「……手を、伸ばしていたのに……俺は、それを見て見ぬ、フリ……した……。助けを求めてた、お前の……泣き声も……」


 血が止まらない。

 一言一言喋るたびに、彼の命を奪い取っていくように。真っ白な軍服が、真っ赤に染め上げられていく。


「そんな、絶望に落ちたお前に……殺されるなら……本望だ。それで、お前の怒りを……受け止め、られるなら……」

「ぁ……」


 この、男は。

 全部、分かっていたのいうのか。自分が抱えてた闇を、孤独を。

 いや、それでも──。


「……女神の力……なぜ、使わなかった?」


 最大限の疑問が残る。

 スグリが先程自ら言っていた。彼の女神の力は、力。限定的な未来予知だと。

 その力を使えば、彼が助かる可能性だってあったはずなのに。


「ああ……視えたさ……。でも俺は、その未来を……選ばな、かった……。いや……選びたく、なかった……」

「どう、して……。それに、何故あんな……挑発までして、私に殺させるように……」

「だって、ああでも……し、ないと……。お前、絶対に本音を……言わないだろ……?そうじゃ、ないと意味が……ない……」


 翡翠の輝きが消えていく。


「ヤク……いや、ジーヴル……。お前に、伝言だ……」


 自分の濡れている頬に、手が添えられる。


 "運命を呪わないで。ジーヴルの未来はジーヴルだけのものだから"

 "僕のことを忘れて。幸せに前を向いて生きて欲しい。それが僕の願いだから"

 "僕はジーヴルを守れて幸せだよ"

 "だから僕の分まで生きてね、ヤク"


 そんな伝言を言えるのは、ただ一人。遠い昔に確かにいた、自分の双子の兄弟。ニールヘームから帰還したソワンから受けた報告書に記されていたため、覚えがあった。

 目を見開く。自分の本名を誰かに言われたのは何十年振りか。


「なぁ……ヤク……。お前は、認めたく……ないかも、だけどな……。運命、なんて……決まってなんか、ないんだ……。自らの手で……なんだって……でき、る……」


 翡翠が消える。手の温もりが遠ざかる。

 それにただ、恐怖を感じて。


 嫌だ、いなくならないで。

 だってそんなの、狡いじゃないか。自分だけ言いたいことだけ言って、目の前から消えようとして。まだ何も、言えてないのに。


 何も、伝えられてないのに──。


「スグリ……」


 ──確かに俺はお前から逃げた。お前が苦しんでいるとわかっていても、お前自身なら乗り越えてくれるだろうと甘えてしまった。それは俺の落ち度だ。でもな、だからこそもう逃げないと決めたし、過去は振り返らないと誓った。受け入れて前へ進まなきゃ、成長しないんだよ。


 彼は自身の過ちを認めていた。その上で、闇を抱えているヤクを受け入れ、前を見据えて生きようとした。

 そして、女神の巫女ヴォルヴァであることを受け入れた。運命の女神に勝手に人生を定められたからと、自分のように憎まずに。そんな運命を自らの手で切り開くためにと、諦めずに未来へと進もうとして。


 それなのに自分は。


 ──否定ばかりしたって、何も変わらない。過去の自分が救われたいからって、そればかり見つめて必死に守ろうとして。そんな生き方俺はまっぴらだし、そんなのは生きているんじゃない。ただ生かされているだけだ。


 誰が憎いとか、誰に怒るとか、誰を恨むとか、そればかりで。

 未来から現実から逃げて、過去の可能性ばかり羨んで。周りのせいばかりにして、何もしようとしないことから目を背けて。


「いや、だ……」


 弱くて臆病で卑怯な自分。

 力を持たないただの人間でいることを、拒んでいた自分。

 それでもそんな自分を受け入れようとしてくれた、たった一人の幼馴染。


 大切だった人を。恋人だった人を。


 よりにもよって、自分が。

 殺してしまった。


 心を覆っていた厚い氷を砕くように、感情の濁流を押し流す。

 その腕に、スグリを搔き抱いて。

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