第八十五節 ばいばい氷花

 ……これは、夢だ。それがはっきりと理解出来るくらいに、自分は眼前の光景に対して傍観者だ。全体が俯瞰して見えている。


 暖炉の炎が照明代わりらしい。部屋の灯りは点いていない。薄暗い部屋の中に、ずらりと並べられた乳児たち。ある子は泡を吹き、ある子は血を吐いている。無事でいる乳児も、いることにはいた。そんな乳児たちを取り囲んでいる村人たちと、品定めをしているような人たち。表情は様々で、怒りに震えている人や卑しい笑顔を隠そうともしない人がいる。眺めているうちに、あれ、と一つの予感が頭を掠める。

 それはヘルヘームから氷の都ニールヘームへ向かう途中、立ち寄った洞窟内でのこと。そこでエイリークから聞いた事柄に、この光景はよく似ている。


 ──ヘルヘームで行われていた人身売買。


 話を聞いていただけだったが、まさか夢の中でその光景を見ることになろうとは。ということは、これは過去の映像なのか?しかし自分がいつも見ている夢は、これから起こるであろうの出来事。過去を見ることなんて、これが初めてだ。それにこれが過去だとして、いったい誰の過去なのか。

 レイの考えを他所に、品定めは続く。


「……では、今回の人柱はこの子ですな」


 世界保護施設の研究員だろうか、じっくりと乳児たちを見定めていた人物が、やがて無事に息をしている乳児たちのうち、一人の頭を撫でる。その乳児の親らしき女性は、研究員にこう尋ねた。


「これと隣のこれは双子にございます。それなのに、質に違いがあるのですか?」

「ありますとも。双子だからといって、必ずしも両方の子供が恵まれるという訳でもありません。もう片割れも、この中においてはマナを蓄積する能力はありましょう。ですが、この子においては突出しているのですよ」


 その言葉にどよめく村人たち。そのうち研究員の一人が、その女性に大金を渡す。誰にも渡すまいと、女性は両腕にそれを抱え込んだ。それを皮切りに、人身売買が始まった。見ていてとても胸の辺りがムカムカしてくる。これが、こんなことが行われていたなんて。


 景色が変わる。それは滝のように一気に流れていく。思わず手を伸ばすが、足元から崩れ落ちるという感覚はなかった。どうやら自分を中心として、景色だけが移り変わっているようだ。


 景色が漸く落ち着く。見えるのは一面の白い壁。その部屋は病院の手術室に酷似していた。手術台の上には一人の男の子が四肢を拘束されている。空色の髪に、深い青の瞳だ。そんな子供を、複数人の研究者が取り囲んでいた。誰も男の子を助けようとはしていない。一人の研究員が、何か液体が入っている注射器を取り出す。震える男の子に構わず、針を彼の腕に刺した。

 耳をつんざくような、泣き声にも聞こえる悲鳴が木霊する。男の子の助けを求める悲鳴は、研究員たちには届かないようだ。彼らは容赦なく、二本目の注射を男の子に刺す。しばらく男の子への虐待は続いた。


 やがて力なく項垂れた男の子の首根っこを掴み、研究員はとある部屋まで歩いていく。扉を開くと、そこには男の子と同じような年齢の幼子たちがいた。体を震わせて、部屋の隅で固まっている。やがて研究員が男の子をモノのように、部屋に放り投げた。どさりと横たわる男の子。そんな彼を、不快感をたっぷりと含めた表情で見下ろし、無言のまま立ち去った研究員。

 固まっていた子供たちの中から、放り投げられた男の子と見た目が瓜二つな子供が駆け寄る。二人は双子、なのだろう。よくよく観察すると、先程見た乳児の数とこの部屋にいる子供の数が、同じだ。ということは、彼らはニールヘームで人身売買の被害に遭った、あの乳児たちなのか。

 駆け寄った子供は横たわる男の子に寄り添い、声をかけた。


「ジーヴル、いたい、いたい……?」

「ぅ……」


 横たわる男の子が、ゆっくりと手を動かす。駆け寄ってきた男の子の白い服を、弱弱しく掴む。泣けるほどの力もないが、体を摺り寄せようと必死に動く。その姿が、痛々しい。先に声をかけた男の子が、よしよしと頭を撫でる。


「ぼくが、ジーヴルのこと、守るよ」

「だ、め……そんなことし、たら……」

「ぼく、やだよ。ジーヴルばかりいたいの、やだ」


 横たわる男の子を、短い腕で精一杯抱く男の子。


「……ぼくだって、やだよ……」


 それに応えようとして、腕を伸ばす横たわった男の子。


 ──「ヤク……」


「えっ……?」


 思わず声が漏れた。

 横たわっていた男の子は、確実に目の前の男の子を"ヤク"と呼んだ。それは、自分の師匠の名前だ。確かに目の前の幼子を見た時、彼に似ていると思った。まさか、そんなことないと感じたが。


 混乱をよそに、再び景色が滝のように急激に流れて、変わる。


 先程と同じ、手術室のような部屋。灯りが点いていないせいか、暗い部屋だ。そこには先程横たわっていた男の子、ジーヴルが眠っていた。いや、眠っていたというと語弊がある。ある種の、昏睡状態に陥っていた。体に対して、必要以上のマナを注入されたのだ。それに耐えきれずに、意識を失っていた。腕に残っている注射痕が、その悲惨さを物語っている。そんな暗い部屋に、一人の訪問者が来た。

 ヤクと呼ばれた、もう一人の男の子。彼はジーヴル以外に人がいないことを確認し、彼に近付く。手術台をよじ登り、昏睡しているジーヴルの頬に、ひたりと手を当てる。


「ジーヴル……ぼく、ここでいじめられてたらね、真似っこが、できるようになったよ。やっとね、守ってあげられる、よ」


 いそいそと、自身の服を脱ぐヤク。ジーヴルが着ていた服も脱がせて、それを自身が身に纏った。彼らの衣服にはそれぞれ刺繍がしてある。名前ではなく、実験番号のそれだが。そして最初に自分が着ていた服を、ジーヴルに着せる。次にジーヴルの手を握ると、祈るように自分の額に当てた。うっすらとオーラが二人を包む。すると、ジーヴルの腕にあった注射痕が、ヤクの腕にも現れる。さらに祈る。するとジーヴルに纏わりついていた大量のマナが、半分ほどヤクに流れ込んだ。


「ごめん、ね。でも、これでジーヴルは……だいじょ、ぶだから……!」


 ジーヴルが身じろぎする。やがてうっすらと、目を開ける。


「……やく……?」

「……これから、は。ジーヴルがヤクだよ。ジーヴルはさよならする……ヤクに生きてほしい、から……。ナイショだよ……?」


 そういうと、一生懸命にヤクはジーヴルを手術台から引きずり下ろす。ずてん、と転びながらも近くの、布が収納されていた箱に彼を入れた。すぐにばれないよう、布を何枚も何枚も、彼の上に被せて。落ちた衝撃で、ジーヴルは再び意識が混濁したらしい。


「……あのね、読めって言われた本に、ぼくとジーヴルのかみの色のこと、書いてあったんだ……。わからない文字、たくさんだったけど。おぼえたの……」


 ヤクはジーヴルの頭を、そっと撫でる。


「きれいな空色。じゆうでしばられない、気持ちの良いこの空と同じ色だ」


 それだけ告げると、ヤクは布を完全にジーヴルの上に被せた。

 そして、ゆっくりと手術台に近付く。


 ……駄目だ、そんなことしちゃ駄目だ。


 ゆっくりよじ登り、今しがたジーヴルが横たえられていた場所に座るヤク。


「ばいばい、ジーヴル。ぼくの……たった一人の、きょうだい」


 ヤクが横になる。一度満足そうに微笑んでから、瞳を閉じる。


 駄目だ、そんな救われない方法なんて。そんなの、二人とも悲しいだけじゃないか。二人とも苦しくなるだけじゃないか。そんなことは駄目だ、やめるんだ。


 部屋が明るくなる。扉が開き、ぞろぞろと研究員たちが入ってくる。手術台の上に眠っているヤクを見て、頷き合う。用意していた棺桶のようなものに、ヤクを移し替える。棺桶が運ばれる。二人が引き裂かれる。


 やめろ、その手を放せ。行かせるか。


 研究員たちが出ていく。棺桶を持って、部屋にジーヴルを置き去りにして。ヤクを殺しに、彼らが行ってしまう。


 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。


「──駄目だ!!」


 ありったけの声で叫んだ。


「あ、れ……?」


 我に返る。目の前の光景は、最早見慣れた軍艦の一室の天井。隣にエイリークとソワンがいて、不安そうに自分を見ている。

 起き上がって、思い出す。そうだ、今自分が見ていたこれは、夢だったのだと。


 でも──。


「レイ……?」


 自然と涙があふれる。抑えが効かなくて、ぼろぼろと零れる。急に起き上がり、さらに泣くのだから、部屋にいた二人は困惑の色を強くした。


「どうしたの!?え、どこか痛いとか!?」

「もしかして、怪我してた……!?」

「ち、ちが……違うんだ……」


 嗚咽を漏らしながら、二人の質問にどうにかこうにか返す。


 あれは、自分の見た夢は、ただの夢なんかではなく。

 実際に過去に起きていた、だ。


 証拠はほとんどない。それでも確信していた。あれは今という未来に繋がる、過去の現実だったのだと。思い返せば、自分がニールヘームで見た子供の亡骸は、明らかに彼だ。あの子を見ただけでは、意味が分からなかった。でも今ならわかる。理解してしまった。それだけに、哀しい。


「っ……約束、するよ……。俺は、そばに、いるって……」


 零れ落ちた言葉は、彼に向けて。

 落ち着くまで、仲間に慰められながらレイは泣いた。

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