第七十四節 意馬心猿に囚われて
地下牢というのは陽の光がなく、どうも時間感覚が狂う。獣が目の前で昂っているが、自分はどうも上の空。いったいこれが始まってから、何日が経ったのだろう。そんなことを考えている。
あの時と同じように体を揺さぶられ、弄られ、中に異物を注がれる。
何回も経験したことだ。獣が理性を取り戻すまで、我慢すればいい。あのときもそうだった。
嗚呼、でも。
少し、疲れた。
「オラ休んでんじゃねぇぞノーチェ!」
「ァあっ……!」
まただ。またこの獣は、自分を壊そうと躍起になっている。あの頃から全く変わらない。己の欲求のためだけに、いたずらに人形遊びを繰り返す愚者。
……殺してしまおうか。
成長した今なら、簡単に殺せるのだから。
心が冷えていく一方だったが、突如獣たちが一斉に自分から離れた。威勢が消えたように感じる。消えたというよりは、恐怖に感情が塗り替えられたようだ。理由はすぐに理解できた。
目の前に、獣たちの王がいる。感じるのは軽蔑の感情。
「何をしているのですか?」
「あの、いえ、その……」
「彼は私が相手をすると、そう告げたはずです。それなのに何故、凌辱なんて愚かしい行為をしているのです?」
獣たちにとって、この王は畏れる存在だ。どうやら完全に委縮しているらしい。自分に対して高圧的だった時とは、まるで大違いだ。
まぁこれが獣の本質であり、言ってしまえば小心者。全くもってくだらない。
そんなこと、自分にはどうでもいいことなのだが。
ふと、天井と手枷を繋いでいた鎖が壊される。
支えがなくなり、湿気と白い池で濡れた石畳に倒れこんだ。
逃げなければならないという意識はあったが、鉛のように手足が重い。なにより、それまでの行為の影響で疲労感が一気に押し寄せる。
冷えた石畳が囁いてきたように思える。
疲れたでしょう、と。眠らないの、と。
ああ……休んで、いいのか。
声なき声に許された気がした。
そのことへの安堵からか、そのまま意識を手放した。
******
おはようと声をかけられ、目が覚める。
ここは、いつか見た花畑だ。天気は相変わらず雨模様。遠くまでは見渡せない。
起き上がる。
足元の赤い薔薇は枯れている。
こっちだよと、幼子に手を引かれる。
顔は見えない。
誰だろう。見覚えがあるはずなのに、思い出せない。
ああそうだと、彼は橙色のユリをこちらの胸に刺した。これでお揃いだ、似合っていると笑う。楽しそうに、満足そうに。
花畑は移り変わる。沢山の花が咲き乱れ、自然と顔が綻ぶ。こんなに多くの花を見る機会なんて、滅多にないかもしれない。
淡紫のアザミは、怖がり屋。
小ぶりで綺麗な花なのに、いつも何かに怯えている。
黄色のマリーゴールドは、寂しがり屋。
沢山咲いているのに、いつも一人だって嘆いている。
真っ黒なクロユリは、多弁症。
ぶつぶつ呟いているが、何を言っているかはわからない。
真っ白なシロツメクサは、着飾り屋。
珍しい緑を探しているものの、飽き性なのか王冠や首飾りを作っている。
ああ、綺麗だ。
雨のせいで花の匂いはわからないのに、ふと鼻孔を甘い香りが擽る。一面に咲く、花弁の先をほんのり桃色で染めているチューベローズ。甘いものは苦手なはずなのに、何故かとても心地良い。花を愛でるのは嫌いではない。そっと手を差し伸べようとして、邪魔をしてきたのは桔梗だった。
邪魔をしないでほしい。そう思うのに、視界が桔梗色に染まっていく。振り払っても振り払っても、消えていくのは乳白色のチューベローズばかり。
嫌だやめてとらないで。
手を伸ばす。桔梗色に溺れていく。
なんでどうして。
質問に答える声は聞こえなかった。
******
目を覚ます。今の夢は何だったのだろう。とても落ち着く夢のような気がした。
意識が覚醒していくとともに、状況が呑み込めるようになる。自分はどうやら、寝台の上に寝かされている。相変わらず、己の中のマナを上手く結合できない。手枷も外れていない。ただ、頭上で固定されているわけではないようだ。
何より違和感を覚えたのは、己の姿だ。あの地下牢で、纏っていた衣服は切り裂かれた。なのに今、自分は黒い服を身に纏っている。いったい誰がと考える前に、声をかけられた。
「ようやく目が覚めましたか」
聞き覚えのある声。視線を声に向ければ、そこにいるのは長身の男。右目を眼帯で隠したその人物は、ヴァダース・ダクター。彼の顔を見た瞬間、一気に記憶が甦る。
地下牢で凌辱されていた時、急にこの男が現れたのだ。気を失う直前、この男に抱えられたような気がしていたが。いったいこの男、何がしたいのか。手枷を外そうとするが、マナが集束しない。悔しさに歯ぎしりする。
「無駄ですよ。その黄金の指輪は呪いの指輪。そう簡単な術で破壊できるものではありません。それこそ、未知なる力以外には……ね」
「……何が言いたい」
「おや、貴方になら破壊できるのではないかと思ったのですよ」
「未知の力など、あるわけがないだろう」
「はぐらかしても無駄ですよ」
ヴァダースに馬乗りされ、見下ろされる。愉快そうに笑う満月が、恐ろしい。
「貴方もまた、女神の
その言葉に、全身が金縛りに陥った感覚に苛まれる。とはいえ、動揺を悟られてはいけない。あくまでも冷静に言葉を返す。
「……私が女神の
「いいえ、貴方は女神の
何故、ここまでのことを知っている。そのことは、誰にも言った覚えはないはず。
じわり、焦りが滲む。するりと、手首を掴まれる。
「な、にを……」
「その力に翻弄され、苛まれてきた。だからその力とその元凶を憎み、恨んで、疎んだ。そうでないと自分はまるで、ただの操り人形でしかないと思えてしまうから」
「ち、ちが……」
「貴方は己の人生が、女神が勝手に敷いたレールの上を歩かされているだけなのではと、感じたのではないですか?"自分"なんて何一つない、と」
「黙れ……!」
違う、そんなことないと、反論をしたい。しかし出来なかった。
全て本当のことに、変わりなかったから。言葉を続けるヴァダース。
「力を持ったばっかりに、周りの人間は自分をいいようにいたぶった。散々な実験を繰り返し、体を凌辱し尽くし、次第に貴方の憎悪の対象は、人間に変わった」
「黙れ!!」
ヴァダースの声をかき消すように叫ぶ。体が震える。
それでも彼はやめなかった。
「人間が憎い、恐ろしい、近付かないでほしい。だから力をつけて、彼らの上に立てばいい。彼らより優位な者に成れば、逆に彼らを利用できる」
「っ……!」
「貴方に興味が湧いたので、個人的に調べたんですよ」
するり、と頬を優しく撫でられる。ただし感じるのは恐怖だった。自分の全てを見透かすような上弦の月。それから逃げ出したかった。
「それにしても、面白い自己矛盾ですね。人間が怖くて近付きたくないのに、自ら力を求め、得ることで彼らを支配しようだなんて」
「なに……?」
「純粋に力を得たいのなら、ミズガルーズの国家防衛軍に入隊する以外にも、多くの選択肢があったでしょうに。自分は普通の人間とは違う。人間よりも優位な、魔術師だ。貴方の根底には、そんな意識がある」
「っ!」
「だから敢えて
にこりと笑うヴァダース。
「ヤク・ノーチェ。貴方はどの人間よりも人間的で、愚かしいほどに愛おしい」
いつもは自分が氷の術を使い敵を凍結させるが、今だけは自分がその術にかかったように、指一本動かせない。
「そんな貴方だからこそ、私は貴方を愛おしく思うのです。一つ、貴方に提案があるのですが……。聞くだけ、聞いてみませんか?」
それはどんな言葉よりも、悪魔的な囁きだった。
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