第四十七節 おやすみを、もう一度

 フヴェルゲルミルの泉はノルズリに流るる全ての流水の根源である。其れに触れられるのは、女神に認められた継承者たちのみ。もし悪しき者、穢れた者が触れようものならば泉が怒りを叫ぶ。それは忽ちに沸き立ち、全てを飲み込む災厄となるだろう。

 残るのは癒しの泉ではなく、毒が蔓延る死の泉。災厄はそれだけに非ず。泉の奥に住まう黒き翼の龍が毒を啜り、禁忌を破りし者に裁きを下す。咆哮と共に銀の毛を持つ獣が、人々の前に現れる。彼らは、世界が終末を迎えるその時まで決してその爪を止めることはない──。


 ******


 湧き上がる泉と、恐怖に慄く村人たち。彼らを冷たく見下ろすスクーズ。彼女は眉をピクリとも動かさず、表情からは全ての感情が抜け落ちている。透き通っていたフヴェルゲルミルの泉が、酷く濁って異臭を放ち始めた。空気も淀んでしまっている。


「スクーズさん!!」

「スクーズっ!!」


 エイリークやソワンの呼びかけにも、視線すら寄越さない。今の彼女は、誰の干渉も受け付けないようだった。やがて泉の揺らぎは収まり、そこに大きな影が見える。


 森の木々を薙ぎ倒すような咆哮。白い景色に一層映える、黒い体躯と翼。黄金の瞳に映るのは憤怒か、遺恨か。現れたのは、黒いドラゴンだった。

 そのドラゴンを前に、エイリークたちも動けないでいた。ドラゴンがいたことに驚愕しているというよりも、泉の中にこんな巨大なドラゴンがいたことに驚いていた。先程まで気配は一切感じられなかったのに。


「……ニドゥヘグ」


 ポツリとスクーズが呟く。応えるようにドラゴンが鳴いたところを見ると、恐らくそれが名前だろう。どう動くか警戒していた自分やソワンと違い、村人たちは恐怖に震えるだけ。スクーズがその方向へ指差して、指示を出した。すると巨体とは思えないスピードで、ニドゥヘグが動く。

 その動きに気付いた頃には、村人の一人の上半身が消滅していた。消滅というより、噛み千切られたと表現した方が正しいか。腰から下の部位が支えを失い、その場に崩れる。

 残りの半分の居場所は上から降り注いでくる咀嚼音で、理解してしまった。骨がひしゃげる音に、ぼたぼたと落ちる肉片と血液。そして極めつけの、嚥下音。人間を文字通り、咀嚼したのだ。


 戦慄が走る。村長をはじめとした村人たちは、あまりの光景に声すら上げられない様子だ。寒さからではなく、身に余る恐怖でガチガチと歯が鳴っているのか。

 さらに問題が起きる。いつからいたのだろうか、銀の毛を持つ狼が辺りを取り囲むように滞在していた。牙をむき出して唸り声を上げている。明らかに威嚇していた。それでも表情を変えないスクーズが、静かに言葉を紡ぐ。


「……まずは腹拵えから、始めましょうか。ニドゥヘグ、ウルフ」


 彼女の声で、ニドゥヘグと狼たちが一斉に動き出す。身構えていたが、彼らの目的は村人たちだけらしい。エイリークやソワンには目もくれず、一斉に怯えるだけの彼らに襲いかかった。いつの間にかリエレンは木の上に退避している。


「どう、して……」

「……!あれだよ、フヴェルゲルミルの泉の言い伝え……!!」


 ソワンの言葉でエイリークも思い出す。彼女が語ってくれた言い伝えのことを。目の前にいるドラゴンと狼たちたちは、まさしく言い伝えにあったそれらと同じだ。しかし疑問が出てくる。

 泉に触れたスクーズは、力は弱いとはいえ巫女ヴォルヴァだ。巫女ヴォルヴァとはマナに干渉し、未来予知を行う者。女神の残した意志を観測する者。つまり女神に認められた継承者の一人と考えて、間違いはないはず。この仮説が正しいとするなら、悪しき者、穢れた者とは村人たちのことを指すのではないか。そして禁忌を破りし者とは、同じく村人たちのことを示しているではないか。

 実際に、身体を狼の凶暴な爪に切り裂かれたり、ニドゥヘグにいいように捕食されるのは村人たちだけだ。次々と殺されていき、残る村人は村長ただ一人に。


 両親が殺されたと知ってしまった少女が、正気を失うのも致し方のないことだ。復讐したいという思いも、わからないでもない。


「だけど……」


 複雑な思いだったが、これ以上スクーズに罪を重ねてほしくない。正しくあろうとした彼女が、これ以上堕ちていくのを見てはいられなかった。止めるために駆け出す。


「これで一先ずは、最後です。貴方は、優しく殺しなんてしません……」


 村長が逃げないようにと、狼が彼の背後を取り囲む。ドラゴンがまず、その右足を噛み千切った。村長が苦痛と恐怖が混じった悲鳴を上げる。ヒィヒィと肩で息をしながら、それでも許しを懇願する姿が見えた。

 対するスクーズはそれを無視して、指を指しニドゥヘグに指示を送ったようだ。左腕、そして左足を噛み千切ろうとしたところで、彼女の前に立ちはだかった。ニドゥヘグは開いた口を閉じてから、スクーズの後ろに控える。


「……何故、邪魔をするのですか」

「もう、やめましょう!?これ以上手を汚しちゃダメだ!!」


 大剣を構えつつも、こちらからの攻撃はしないようにと注意する。自分の言葉が届いているかどうか、わからない。でも言わずにはいられなかった。逡巡したように見えたが、顔を上げたスクーズの表情は変わらなかった。


「これで、一先ずは終わりですから……。それを殺さないと、私は父様と母様に報告出来ません。顔向けもできない……お願い、邪魔しないでください」

「それは出来ない……。復讐したい気持ちも許せない気持ちも、わからくないです。俺もそう思ってた時期もあったから!」

「だったら……!」

「でも!だからと言ってその対象と同じレベルに落ちちゃ、ダメなんですよ!!」

「わかってます。でも、本当に私には父様と母様しかいなかったんです。太陽のように輝くあの橋しか、なかったんです……!」


 だから、と初めて彼女が表情を変えた。


「殺しなさい、ニドゥヘグ!!」


 改めて指示を出す。今度は躊躇いなく、ニドゥヘグが巨大な口を開けてエイリークと村長に襲い掛かろうとした。攻撃をしないで、防御の態勢を取ろうとした時。



 「エオロー」



 聞き覚えのある、聞き間違うはずのない声。それが凛と響き、周囲に拡がる。

 襲い掛かろうとしたニドゥヘグは、エイリークの目の前で止まっている。正確に言えば、自分の前に一文字の古代文字が浮かんでいた。優しく光るそれが、盾のようにそこに在った。

 感じるマナは、知っているそれだった。しかしどこか気高さや、荘厳さも知覚できた。言ってしまえば、よそよそしくなってしまったような雰囲気。泉の奥から近付いてくる気配に、まるで時間が止まったかのようにその場が静寂に包まれる。

 流石にスクーズも無視できなかったのか、ゆっくりと振り返る。そこに立っていた人物、それは。


「レイ……!!」


 そこには確かに、さも当たり前のように、泉の上にレイが立っていた。光のオーラを纏っている姿は、いつか港街ノーアトゥンのユグドラシル教会で見た時と同じ。その時と違うところといえば、今度は自分の意識がしっかりとあるみたいだ。瞳は虚ろではなく、光が確かに宿っている。

 その姿を見たスクーズが、ポツリと言葉を漏らした。


「女神の、巫女ヴォルヴァ……?」

「分かっちゃったか。……そうだよ、女神の巫女ヴォルヴァだ」


 ハッキリと告げたレイ。スクーズにゆっくりと近付くと、優しく笑う。


「……もうこの泉を、返してくれるか?俺は貴女と会うのは初めてだけど、貴女のことはよく知ってる」

「っ……」

「視えたよ。毎日あの祠の前で、犠牲になってた子供たちを弔っていたことも。たった一人で、泣かないようにしてたことも」


 彼はゆっくりと杖を持っている手と反対の手を上げ、彼女の頭の上に置く。よしよしと頭を撫でるその動作は、親が幼子を褒める時のそれだ。

 不思議なことに、そうされているスクーズから覇気や怒気が消えていくのがわかった。緊張が解け、ようやく元の彼女に戻ったようだ。いや、元に戻るという表現には語弊があるかもしれない。彼女が自分で作り上げていた全ての殻が壊れて、本当の一人の少女になったみたいで。嗚咽を漏らして、その場にへたり込む。

 レイは、彼女に視線を合わせるようにしゃがむ。相変わらず優しい頬笑みで、慈愛さえ感じる。


「もう、泣いてもいいよ。ずっと独りで、寂しかったな」


 レイのその言葉で、今まで溜め込んでいたスクーズの何かが決壊したようだ。大声を上げながら泣いて、彼に縋る。そんな彼女を抱きとめて、ぽんぽんと背中を叩くレイ。しばらくスクーズをあやしていたが、ニドゥヘグとウルフに眼差しを送る。


「もうこの子は大丈夫。だから、泉を返してくれないか?お前たちも、本当はそれを望んでいるんじゃないのか?」


 その言葉の意味を理解したかのように、ニドゥヘグもウルフも一度、こうべを垂れる。やがてゆっくりと、ニドゥヘグは泉に沈みウルフは雪景色に溶けていった。

 ありがとう、そう呟いたレイは杖を泉に構える。


「ダエグ、ベルカナ」


 発せられた言葉の意味はわからない。きっと古代魔法なのだろう。泉の上に二文字の古代文字が浮かび上がる。さらさらと、それらは淡雪のように光の粒子になり、泉の中へと溶けていく。

 するとつい今しがたまで異臭を放ち、濁り果てていた泉に変化が生じた。濁りが消滅し、異臭も消え去っていく。ものの数分で、そこは神聖なフヴェルゲルミルの泉に戻っていた。

 エイリークはただただ圧倒されていた。勿論目の前の事象に対してもだが、何よりも驚愕した事実。それは目の前で術を展開して、泉を元に戻せるだけの力があるということ。そんな魔術をレイが使ったということ。顔つきは確かに、レイなんだ。レイのはずなんだ。だけどどこか、大きい部分が変わってしまったような。寂しさのようなものを朧げに、感じてしまったのだった。

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