第三十三節 その小さな光に触れる

 エイリークが立ち去った方向を、レイはしばらく無言で眺めていた。

 ごめん、と言った彼の表情。泣いていた。いつも何かに悩んで苦しんでいる時でも、自分にはいつも苦し紛れの笑顔なんかを見せていたけれど。その笑顔も作れないほど、あの時の彼は憔悴しきっていた。

 無理もない、と思う。一緒に旅をしていた仲間が目の前で連れ去られた事実すら、相当なダメージだというのに。ましてや餌を目の前に吊らされて、警戒しながらも乗ってみたそれが、実は大きな地雷だったなんて。

 エイリークと出会ってから、まだ少ししか経っていない。それでも彼が優しい性格の持ち主だと分かることは、この場にいる人間に限って言うのならレイの右に出る者はいない。だから、人一倍心配してしまう。また自分のせいでと、彼が塞ぎ込んでしまったんじゃないかと。


「……レイ」


 ソワンの声に振り返る。聞けば、先程から何回も自分のことを呼んでいたという。全く気付けなかったことに詫びを入れれば、大丈夫かと心配された。機械人形オートマチックのことを理解したとき、相当顔色が悪かったそうだ。

 確かにあれは、理解していいものではなかった。今でも正直、あの機械的な表情や目が忘れられない。


「ごめん。もう大丈夫」

「本当?無理はしないでよ?」

「ああ、ありがと」


 ルビィが消え去った後、周りに立っていた機械人形オートマチックたちもいつの間にか、姿を消していたらしい。スグリが数名の部下を連れて、周囲を軽く捜索しているようだ。


「じゃあ、師匠はここにいるんだ……」


 自分で確認するように小さく呟く。何か言ったかとソワンに心配されるが、気にすることでもないと誤魔化した。今日はもう休むようにと釘を刺され、大人しく従うフリをする。

 野営地に張ったテントの中に入り、時間が過ぎるのを待つ。エイリークは、まだ帰ってこない。そっとテントを抜け出し、ヤクがいるテントを探す。大体のテントは灯りが消えていたが、一つだけまだ明るいテントがあった。恐らくその中だろうと推測して、ゆっくり近付く。感じる魔力がヤクのものだと理解できると、安心感を覚えた。


「……師匠。ちょっと、いい?」

「レイ?……入れ」


 ヤクらしい短い返事を聞いて、テントの中に入る。

 ヤクはそこで、地図を広げて何か作戦を練っているようだった。邪魔したことには罪悪感を覚えるが、どうしても聞きたいことがあった。

 ヤクは何も言わないままの、いつもと違う自分の様子に何か思うところがあったのだろうか。広げていた地図をたたみ、近くに置いていた椅子に座るよう声をかけてくれた。大事なことを聞きたい、そんな様子の自分を気を遣ってくれたのだろうか。敵わないな、と安心している自分がいる。

 テント内に設置されたコンロの上に、小さいポットが置いてある。お湯を沸かしていたのだろう、マグに顆粒のコーヒーを入れて注ぐ。自分のためにと、ミルクや砂糖をテーブルに置いてくれた。目の前に置かれた淹れたてのコーヒーに、ミルクと砂糖を3個ずつ入れてかき混ぜる。一口含めば苦みも感じるが、程よい甘さが広がる。身体をほぐしてくれそうな一杯だ。


「……師匠はさ、自分のせいで誰かを失ったりとか、経験ある?」

「お前らしくない質問だな」

「まぁ、ね。……俺さ、旅に出るまで世界は安全だって思ってた。誰かを失ったりとか、そんな経験している人って……きっといるけど少ないのかなって……」


 でも現実は自分が思っていた以上に、酷なものだった。いつも隣にいるはずの誰かが、理不尽な理由でいなくなること。それはいつ自分に降りかかってきても、おかしくなかったこと。

 実際エイリークが、そんな辛い経験をしているということ。何か声をかけてあげたいが、仲間を失ったりした経験がない以上、その発言は無責任なのではないかと。


「あの時俺、追いかけてれば良かったのかどうかって……」

「……」

「俺より色んな経験してるから、きっとこういう時どうするべきか……師匠なら、わかるかなって」


 不安を抑えるように、椅子の上に片膝を立てて抱える。マグの中のコーヒーが暫く波打つ。立ち上っている湯気に視線を落としながら、答えを待つ。


「そうだな……確かに軍人ゆえに、私も多くの同志を失ったことがある。それこそこの間のように、な」


 この間のような。それは初めてカーサのアジトに乗り込んだ、あの時のことを指しているのだろう。石像に変えられてしまった人たちのことを、結局助けることが出来なかった。自分にとって失ったのは、たまたま見知った兵の一人だが。ヤクやスグリにとって、彼らは自分たちの大事な部下たちだったんだ。


「……ごめんなさい」

「もう過ぎてしまったことだ。反省しているのなら、彼らも報われる」

「うん……」


 そうだと、いいな。

 何にも出来なかったけど、忘れないことが手向けになるのなら。ずっと、覚えている。忘れない。

 コーヒーを見つめる。水面は揺れていない。


「……他にも昔、大きな失敗を犯し仲間たちを無駄死にさせてしまったことがある。自分を責めずにはいられんかった……後悔ばかりしていた」

「そんなことが……?」

「自分の失態のせいで、大切な仲間を傷付けた。そのことに誰よりも自分自身が許せなく、周りの制止を省みないで自分を追い込んだ。慰められてもそれが、苦しく感じてしまうほどにな」


 それはヤクに弟子入りする前の、随分昔のこと。当事レイは孤児院で保護されていた。ヤクとスグリは忙しいなかで時々訪ねてきてくれては、遊び相手になってくれていた。

 そんなヤクが、数日間来てくれなかった日々が続いたような気がする。そういえばスグリに、投げ飛ばされるようにして孤児院に来たんだっけ。そこまではなんとなく覚えていた。


「……昔、師匠が孤児院に来てくれなかった時のこと?」

「覚えていたのか」

「全部は覚えてない。ただ玄関のドアが開いたら、師匠がスグリに放り込まれたことだけ、なんとなく」


 でも何故、その時の事の話になるのだろうか。ヤクの真意が見えない。不思議そうに彼を見れば、久し振りに笑顔を見せる。この旅の中でもしかすると、ヤクの笑顔を初めて見たのかもしれない。


「お前は覚えていないようだが……。あの時の私の事情も何も知らないお前が、笑っておかえりと言ってくれた時、私は毒気を抜かれた気分になった。あまりにもお前が無邪気すぎてな、自分のしていたことを忘れそうになるくらいだった」

「全然覚えてない……」

「お前もまだ幼かったからな。……私はな、レイ。お前が捻くれることなく、お前のまま育ったことには評価している。ミズガルーズの路地裏で捨てられていたのにも関わらず、他人を憎むことなく育ってくれた」


 急に気恥ずかしいことを、言われているような気がする。気を紛らわすためにコーヒーを飲んだ。溶け切れてなかった砂糖の甘みがきた。


「他人の苦しみを、無理にわかろうとする必要はない。それは傲慢だ。だからな、レイ。お前はお前のまま、隣に寄り添ってやればいい。何を言うでもない、何を聞くでもない。ただ隣にいる、それだけで案外、救われたりするものだ」


 私のようにな、とヤクはレイの頭に手を乗せた。自分よりの少し大きくて、安心する手だ。いつも手袋越しに感じる温度が、心地よい。


「……そんなので、いいのかな」

「元々頭を使うことは苦手だろう、お前は。無理に考えて行動しても失敗するだろうに」

「ねぇそれ俺のこと貶してない?」

「事実を述べたままだが?」

「ひでぇ」


 がっくりと項垂れる。コーヒーは空になっていた。

 身体が温まると自然と、その考えでいいのかもしれないと思えてくるから不思議だ。確かにいつも何かを考えるよりも、行動することを優先してしまう。それで、いいのか。

 小さく笑って、立ち上がる。師匠と話せてよかった。


「ありがとう師匠」

「探しに行くのか?」

「うん。今の俺にできること、師匠が教えてくれたから」

「……そうか」

「行ってくるよ」

「ああ」


 ヤクに見送られて、レイはテントから出た。



 野営地に選んだ林の中を駆ける。風が少し冷たい。手にはテントから拝借した簡易的なコンロと、マグカップが二つ入っている籠。ベルトの腰ポケットに、コーヒーの顆粒が入った小瓶を入れて。テントでコーヒーを飲んで温まったが、林の中の空気が冷たいせいで、身体が冷えてしまいそうだ。

 エイリークを探す。戻ってくる、と彼は言っていた。そう遠くまでは行ってないはず。

 しかし簡単に見つからない。何処にいるんだろう、足を止めて息を整えながら辺りを見回す。視界の一角に、妙な形でひび割れた木が一本映る。吸い込まれるようにその木に近付いた。

 少しだけ、焦げた匂いがした。さらにこれは、人の手で割られたのだとわかった。何故だか、エイリークがやったのだと思えた。


「風……?」


 今まで向かい風だったものが、追い風に変わっている。耳を澄ます。


「水の音……」


 遠くに水の音が聞こえる。風も背中を押してくれている。ゆっくり音のする方へ歩いていけば、そこには川が流れていた。そして──。


(いた……)


 まるで親とはぐれてしまった子供のような背中の、エイリークがそこにいた。

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