第二十九節 泉のほとりで

 静かな空間。ふわりと頬を撫でる風が心地よい。

 閉じていた目を開くと、淡い光が目に入る。木々の間から覗き込んだ光が、目の前にある泉に反射して優しく輝いている。なんて澄んだ泉なのだろう。敵意らしい敵意を全く感じないことをいいことに、そこまで近付く。

 泉のほとりには、生命力を感じさせる太い木の根が生えていた。根は幹に、そして樹となり枝となり。樹齢はどのくらいだろう、とても古い樹だということはわかる。枝の先に生えていた新緑の葉から、泉へと雫が滴り落ちる。


 なんて落ち着く空間なのだろう。安心感は勿論、何処か懐かしさを感じる。この泉を、いつかどこかで見たことがあると。そこまで感じて、違和感も浮かぶ。

 確か自分は、軍艦の甲板でエイリークやソワンと談話を楽しんでいたはず。その時に聞いた水の音に、意識を傾けたことまでは覚えている。そして目を覚ましたら、見知らぬこの空間。いつものように夢を見てしまっているのだろうか。はて、と首を傾げたところで湖に気配を感じ、そちらへ顔を向けた。


 泉の中心に、女性が浮いている。泉の中にではなく、水面上にだ。普段ならば訝しむが、今は何故かその光景がさも当然かのように思えた。その泉が女性の住処だと言わんばかりに、とても良く風景に馴染んでいる。こちらへの敵意を一切感じない、けれど何処か異質な雰囲気だと思った。

 女性はただ真っ直ぐこちらを見つめ、優しくふわり、と花のように笑う。


「待っていました、貴方を。私たちの光の子」


 思わず聞き入ってしまうほど、綺麗な声だ。耳に心地良く響いて、ひどく澄んでいる。この声を、何処かで聞いたことがあるような気がした。


「待っていた……?」

「はい」

「俺のこと、知っているのか?」

「はい、貴方は私たちの光の子。見守っていましたから」


 見守っていた、と言われても混乱する。目の前の女性とは初対面だ。何処かで擦れ違ったとしても、こんな異質な雰囲気を纏っているなら気にも留める。そんな体験が今までなかったということは、彼女は何処から自分を見守っていたというのだろう。混乱するばかりのレイに、女性は静かに告げる。


「夢で、私たちは貴方に語りました。待っている、と」

「夢……」


 夢という言葉で、疑問のピースが全て噛み合った。

 この空間は、いつか見た夢の中と全く同じ空間だということ。確かにいつぞやの夢で、この泉で待っていると言われていたこと。夢の中で自分に語り掛けていた、女性の声。その声の主は、目の前の女性であること。


「ここに来る前に聞いた水の音……あれは、本当に俺のことを呼んでいたんだな」

「私たちの呼びかけに、貴方は答えてくれました。ですからこうして、貴方の深層心理に私たちを送っているのです」

「送っている……?」

「私たちは、私たちに深く同調している人物に、自信の思念を送ることが出来ます。貴方はとりわけ、私たちとの波長が合っていた……」


 上手く理解はできなかったが、つまりはシンクロしやすいことなのか。無茶苦茶な理論だが、自分の中にそう答えを落とし込める。

 ……目の前の女性は、自分の疑問に答えてくれるだろうか。


「……この場所、俺は知らないはずなのに。なんでだろうな、とても懐かしいんだ」

「それはこの泉が、私たち……そして貴方の居場所だからです」

「俺の居場所?なんでそんなことがわかるんだ?」

「それが、私たちの運命だから」


 運命。

 口に中で呟く。しっくりくる言葉のはずなのに、上手く呑み込めない。


 ぽたり、ぽたり、雫が泉に落ちる。


「俺の見ている夢は、お前たちが見せているのか?」

「厳密には違います。……あれは、私たちから貴方を通して伝えてほしい、世界への警告です」

「なんでそんなのを俺に見せるんだ」

「貴方が、私たちの力を受け継ぐものだから」


 受け継ぐと言われても。自分が受け継いでいるのは、師匠から教わっている魔術や学園で習ったことだけ。その他のものなんて、何もないはずだ。ましてや、あんなおぞましい夢を見て何かを語るなんて。そんなのは──。


「そんなのはユグドラシル教団の巫女ヴォルヴァの役目だろ?俺にはそんな力も才能もない。それに俺は巫女ヴォルヴァなんかじゃない、ただの半人前の魔法使いだ」


 お役目違いにも程がある。

 女性が悲しそうに目を伏せる。そんな表情をされても、自分には何もわからないのだ。目を伏せた女性は、語り部のように、静かに言葉を紡ぐ。


「……トネリコの樹が立っているのを私たちは知っている。それはユグドラシルと呼ばれる高い樹で、輝く土壌で濡れている。そこから露が垂れ、谷に流れ落ちる。それは永遠に緑で聳えるウールズの泉の上に……」


 その言葉を聞いて、レイは驚愕する。

 それは以前、ノーアトゥンにあるユグドラシル教会でレイ自身が読めた言葉だ。教会に飾られていた壁画に掘られた、古代文字。確かあの時、司祭はその文字を女神の予言と言っていた。そして、それを読み解けるのは女神の巫女ヴォルヴァだけだと。


「お前……なんで、その言葉……」

「貴方の中から、私たちもあの壁画を見ていました。貴方もご存知の通り、これは世界への警告足りうる女神の予言の、その一端」


 自分は彼女と同調しやすい、だから読めたのだろう、と。古代文字が読めることも、古代文字を使うことが出来るもの、そのためだろうと。

 なるほど自分がその力を使えるのは、そういった理由からなのかと理解はできた。とはいえ納得できるかと言われれば、それは多少難しい。そもそも彼女の正体は、いったい何なのだろうか。肝心な部分を聞いていない。


「お前はいったい……何者なんだ?」

「私たちに名前はありません。ですが……のことはエダ、と」

「そういうことじゃなくて、俺が聞きたいのは──」


 ぐにゃり、空間が歪む。

 いや違う、歪んでいるのではない。自分が安定していないのだと、透けた自分の手を見て悟る。何故急にと動揺する自分に、エダが静かに告げてきた。


「……貴方が覚めるのでしょう」

「俺が覚める?やっぱりこれ、夢なのか?」

「いいえ、夢ではありません。ですが夢に近い、おぼろげなものです」

「なら、約束する。また絶対にお前に遇いに来るからな、エダ」


 それを聞いた女性──エダが、初めて虚を突かれたような表情に変わる。

 最後に彼女が、また優しく笑う。


「約束、ですね……。どうか元気で、清き御霊の子レイ・アルマ……」


 彼女の最後の言葉は、途切れ途切れで全部を聞き取ることは出来なかった。


 ******


「……き、ろ。……イ……レイ、起き──……レイ!」

「ん……」


 声が聞こえて、目を覚ます。そこにいたのは、自分の師匠のヤクだ。彼の手は自分の肩に置かれていて、揺さぶられていたのかと知覚する。ヤクの後ろには、心配そうにこちらを見るエイリークがいた。


「ししょ……えいり、く……?」

「レイ!良かった……何処も怪我してない?」


 エイリークが心配そうに、こちらの様子を窺う。二度、三度と瞬きをしてから起き上がってみた。と言うのも、自分はどうやら横になっていたらしい。身体を伸ばし、痛みを感じないこと、マナも滞りなく流れていることを伝える。

 それで安堵したのだろう、はぁ、と息を吐いて良かったと繰り返すエイリーク。ヤクも全く、と小言を零すが安堵してくれているのだろう。それ以上は何も言ってこなかった。


 キョロキョロと辺りを見回す。辺りは早朝で気温も低いせいか、湖からは蒸気霧が出ている。どうやらここは、何処かの湖のようだ。そのほとりにある太い幹を枕にして、自分は横になっていたのか。


「ここって、どこ……?」

「ここはイーアルンウィーズの森の南西にある、ミミルの泉だ。何故ここに来たか、覚えているか?」


 尋ねられるが、自分自身もどうしてここに来たのかがわからない。

 ヤクとスグリから説教を受けたあと、エイリークとソワンと共に甲板に出たこと。そこで水の音を聞いたこと。それに意識を傾けてからここに移動するまでの記憶は、まるで靄がかかったかのようで、ハッキリと思い出せないこと。それらを順を追って説明した。


「それ、本当に大丈夫?念のためにソワンさんに診てもらった方が……」

「大丈夫だよ。本当に何ともないし、それに……多分、あの女の人は敵じゃない」

「誰かと会ったのか」

「会ったっていうか……夢に出てきたというか……。ただその人、確か……俺を通じて世界に警告して欲しい、とかなんとか……?」


 よく覚えてはいない、と付け加える。その言葉を聞いたヤクの表情が、一瞬強張ったのに気付く。しまった、と思ったが後の祭りだ。

 夢に関しての話は、ヤクは信じてくれようとしないうえ、むしろ嫌っている。それをわかっていたはずなのに、つい口にしてしまっていた。怒られると身構える。しかし返ってきた言葉は意外なものだった。


「……そうか」

(あれっ……?)


 予想外の反応に呆気にとられる。いつもなら、また夢の話かと一蹴されるだけなのに。


「とにかく、無事ならそれでいい。さっきも言ったが、あまり勝手な行動はするな」

「うん……ごめんなさい」

「わかったのならばいい。戻るぞ」


 慌てて立ち上がり、エイリークと共にヤクの後ろを追いかける。歩きながら彼に、自分は水の音を聞いたあとどうなったのかを尋ねた。


 彼が言うには、何かぽつりと呟いたあと、光に包まれたのだと。やがて光が収まったと思い目の前を見てみれば、そこにいたはずの自分はいなかった。さらに連動するように行き先でもあったヨートゥンの近くにある森──これはイーアルンウィーズの森のことを指す──の一部が淡く光ったという。

 慌ててソワンと共に、ヤクとスグリに状況を報告。レイが森の中の光にいると推測し、魔力を感知できるヤクと、戦力としてエイリークがこの森に捜索に来たのだという。すれ違いを防止するため、スグリとソワンは軍艦に残ったとのこと。

 森の中にあるミミルの泉に目をつけ、そこから探そうと向かえば、ほとりの端に生えている大樹の幹の部分で寝ている自分を見つけたのだと説明してくれた。


「寝てたのか、俺」

「うん。しかも幹に反応するように身体は光ってたし。俺がレイのこと揺さぶっても光は収まらないし、レイは寝たままだったけど……。ヤクさんがレイの肩に手をかけたら光が消えたし、こうしてレイが起きたってわけ」

「その、ごめん。心配かけて」

「大丈夫、こうして戻ってきたんだからさ」


 ありがとう、と返事をして無事に軍艦に戻った。

 ぴちゃん、と雫が一滴泉に落ちたことには、気付けないまま。

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