第三十節  永遠の愛

 確かそこは、梅雨の季節があって。6の月になると連日、大雨の日が続いた。

 どんよりと重い灰色の空。降り続ける雨は決して優しくなく、冷たく身体を濡らす。この冷たく、というのは身体的に感じる冷たさとは違う。心を凍て付かせるような、そんな心情的な部分が含まれる。

 足元には鮮やかな黄色の花弁が眩しい、オトギリソウの花畑。どうやら奥にも、いくつもの花畑があるようだ。淡く優しく光っているようで、心が落ち着く。


 少しだけと、惹かれるように歩く。花独特の甘い香りは、残念ながら雨で消えてしまっている。灰色の雨は降り続いているのに、花畑は色鮮やかに映えている。

 花畑は全部が美しく咲いているわけではない。枯れている赤薔薇や、折れているオニユリなどもあった。他にも様々な種類の花が咲き乱れていた。季節の花でもないのに、珍しいこともあるのもだ。


 視線を前に移す。目の前に広がるのは、小さな白い花と瑞々しい緑の葉。


 白詰草の広がった花畑に、幼子が一人。とても満足そうな、心から安心しているような寝顔で寝ている。まるで白詰草が、彼を守るように包み込んで咲き乱れているようだ。

 ぱちり、幼子が目を開けてから、にこりと笑う。思わず彼の近くにしゃがみこむ。その子は上半身を起こして、こちらを見上げる。


「貴方を待っている、ずっと」


 幼子はこちらに手を伸ばし、花束を抱えるように酷く優しく抱きつく。


「ずっとずっと。永久とこしえに。待っている」


 じわり、何かが服を濡らす。視線を下に向ける。


 赤黒いねっとりとした水溜りが、美しい白詰草の花畑に広がる。白を赤に、黒く、染め上げていく。それに酷く恐怖を感じた。

 逃げ出そう。頭では理解している。だが指一本動かせないどころか声すら出ない。

 赤黒い水溜りが包んでいく。


 ──嫌だ嫌だ嫌だ飲まれたくない落ちたくない穢されたくないお願い助けて見つけて出して気付いて救い出して。

 ──やめて痛い辛い悲しい苦しい怖い恐ろしい。


 縋るように、白骨した大小の手が、いくつも、頭に、首に、足に、胴に。

 クロユリの花冠をつけている同じような白骨した頭が、既にあるはずのない瞳をぐにゃりと歪めて笑ったような気がして。


 気が狂う。喉を掻っ切るようにありったけの叫びをあげる。

 灰色の雨がバケツをひっくり返した。


 ******


「っ……!!」


 がばり、上半身を起こす。

 辺りは雨でも花畑でもなく、寧ろ屋外ではなく、見慣れた自分の仮眠室。酷く静かな空間に、どくどくと脈の音が耳の中で木霊して煩い。はぁ、と止まっていた息を吐いて、手を見る。寝ている間に強く握りしめていたのか、白く変色していた。


「夢……?」


 自問自答をするようにぽつり、と呟いた言葉は空間に虚しく消える。

 何故あんな夢を見たのだろう。少なくとも今まで仕事で世界を渡っても、あんな花畑は見たことがない。そして何よりも、白詰草の花畑で寝ていた幼子。

 あれは紛れもなく──。


(この感覚……久しく忘れていたのに……。何故、今になってこんな夢……)


 現実だと理解して、じっとりと濡れてしまった衣服や身体に不快感を覚える。軍艦には一応、共同のシャワールームがある。そこで汗を流してしまおう。目もすっかり覚めてしまい、二度寝する気にもなれなかった。時刻は早朝というにはまだ少しばかり早い、午前の3時。


 部下の調査報告をまとめていて、少しだけ休もうと思って仮眠室で寝た。まさかこんな不気味な夢を見てしまうとは。

 よく部下にも同僚にも、自分は仕事人だと言われている。働きすぎでしっかり休んでほしいと、彼らから苦言を呈されることも少なくはない。無理をしているつもりはないと思っていたが、身体は前から悲鳴をあげていたのだろうか。


 軍艦の見回りで起きていた部下と廊下で擦れ違う。表情を変えずに彼らに接する。自分は表情には乏しい方だ、それは理解している。つい先日自分の部下を犠牲にしてしまったというのに、感情が表に出ることがなかった。

 他人から見れば、冷血に見えるだろう。そんな自分にそれでも変わらず、信頼してくれていることに、幾分の申し訳なさと嬉しさを感じる。大事な部下たちだ。先日のカーサとの戦闘のせいで、彼らは自分たちの同僚を失ったというのに。自分に明るく接してくれている。まだまだ己には精進が足りない。一言二言言葉を交わし、彼らを見送った。


 シャワールームには幸い誰もいなかった。真水の保有量が、まだ少しばかりの余裕があることを確認する。脱衣所で濡れて冷えてしまっていたインナーを脱ぎ、洗濯機に入れる。自分は髪が長く、乾かすのに時間を要する。その間に洗ってしまおうと思った。洗うものを入れて、洗濯機を稼働させる。

 シャワールームに入って、適当な場所で浴びる。人より体温が低い自分には、41度のお湯は酷く熱く感じる。それでも今は構わなかった。あの不気味な夢や自分の悩み事を、洗い流せるのならばと。

 とはいえ現実はそう単純に出来ていない。浴びれば浴びるほど、それは深く濃く浮彫になっていく。汗は流れているのに、心には膿が溜まっていくようで。

 ……疲れが残っているのだろうか。


「……いかんな。こんな調子では休めと言われても仕方ない、か」


 自嘲する。部下たちや同僚にまた苦言を呈される前に、時間を見つけて休みを取ろう。そう考えながら、長い髪や身体を洗った。……近くにある駐屯基地で、水を補給せねばならないな。


 一通り身体を洗った後、身体を拭くために脱衣所に戻る。バスタオルを使っている最中に、しまったと気付いた。どうせバスタオルも洗うのならば、その時にインナーも一緒に洗えばよかったと。

 ついうっかりしていた。本来ならば水の節約等を考えるのに、どうもそのことが頭から抜けていた。そろそろ本格的に同僚から小言を言われそうだ、とため息を吐く。ちらりと脱衣所にある時計を見れば、時刻は午前の4時近く。まだ仕事を始めるには早いか。

 身体を拭いて、持ってきていたインナーを着る。肌に密着するこのインナーは軍の仕様であり、伸縮性に長けている。戦闘の時も、このインナーのお陰で摩擦が少なくて済むし、身軽に動ける。七分丈のそれに腕を通すとき、いつも気持ちを切り替えることが出来る。日常から戦闘時へ、神経を研ぎ澄ます。


 着替え終わって、洗濯機のタイマー表示を見る。自分が先に洗っていた洗濯機のそれは、残り9分と表している。まぁ約10分で自分のこの長髪を乾かし切れるかと問われれば、否なのだが。自分の使ったバスタオルやら残っている洗濯物を、空いている方の洗濯機に入れて洗剤を入れる。先程と同じように稼働させて、髪を乾かそうと鏡面台に向かった。

 鏡面台に設置されているドライヤーも勿論使うが、マナを少し操って温風のヴェールを編み出し、髪に纏わせる。少しでも髪を早く乾かしたい、仕事をしたいという考えから編み出した技術だ。それならば髪を切ればいいのにと、昔弟子にはよく言われたものだ。

 ……そういえば、自分はどうして髪を伸ばしているのだろうか。


 鏡に映った自分を見て、ふと思い返す。確かに切れば簡単だ。でもそうしない、したくない理由。なんだったかと考えて、ある言葉を思い出した。


『綺麗な空色。自由で縛られない、気持ちの良いこの空と同じ色だ』


 遠い昔、誰かから貰った言葉。それが無意識下で残っていて、髪を切るという選択肢が思い浮かばなかったのだと結論付ける。誰に言われたか思い出そうとするが、靄がかかる。それでも必死に思い出そうとして、洗濯機から終わったと呼ばれて意識が現実に戻された。髪もほぼ乾いている。これならあとは自然乾燥でも大丈夫だろう。

 ドライヤーを元の位置に戻し、洗濯機から洗い終わったインナーを取り出して、乾燥機に入れて乾かす。そうしているうちに、もう片方の洗濯機も終わったと鳴く。


 それらを乾燥機に入れている時に、訪問者が来た。訪問者は、まさか自分がここにいるとなんて想像していなかったのだろう。最敬礼をして畏まる。その様子から、この訪問者は軍人の中でも新参者だとわかる。


「ノーチェまじち、まじゅちぇ、まじっ、魔術長!こ、こんなところでっそのっ大変失礼を!!」

「落ち着け。私はまだ何も言っていないだろう」

「そ、それは大変ご無礼を!申し訳ございません!!」

「わかったから落ち着け。深呼吸をしてみるんだ」


 とにかく落ち着かせよう。指示された訪問者の男性は、言われた通りにゆっくりと深呼吸を始めた。その様子を観察する。

 少なくとも彼を、実践訓練で見たことはない。この世界巡礼には自分や同僚の部下が数人いるが、他の部隊からも数名、生活班として同行している。そのうちの一人なのだろう。


「お前は……そうか、今回の世界巡礼が初の任務なのか?」

「はい。自分、この世界巡礼が初任務となりまして。ああそのっ!自分、新参者で不束者で、なんのお手伝いも出来ないですがそのっ」

「何を言う。お前たちの支えがなければ、実戦部隊の士気はとっくに落ちている。その様子が見られないということは、お前たちがしっかりと私たちの基盤を支えてくれているということ。それを無暗に下げてくれるな」

「は……はっ!勿体ないお言葉でございます!」


 敬礼をした部下の表情が、明るくなっている。どうやら落ち着けたのだろう。そして何故こんな早朝に、こんなところに来たのか尋ねてみた。

 聞けば昨日、クリーニング中にうっかりタオルを焦がしてしまい、班長にこっ酷く叱られてしまったらしい。自分が初任務で右も左もわからないことを、その班長は知っていた。何か分からないことがあれば聞けばいいと指示を受けていたらしいが、放っておいてしまったが故にミスを起こしてしまったと。

 それが原因であること、自分が悪いことは十分わかっている。しかしその班長からは叱られた後に、逆に謝られてしまったらしい。自分の指導の足りなさで、自分にそんな失敗を起こさせてしまったのは自分の責任だと。そんなことないのに、自分の傲慢が引き起こしたのにと、昨晩はそれはもう自己嫌悪に苛まれたそうだ。

 せめて足を引っ張らないように、自主練習をしようと先程決めたのだと。善は急げとここに向かい、今の状況だという。


「まさか一睡もしていないのか」

「はい。失敗をしたのに休むなんて、新人なのにそんなの許されないと思って」

「だとするならばお前は、私やベンダバル騎士団長のことを鬼だと言うのだな?」


 その言葉に、真っ青な顔をして否定をする彼。この世の終わりみたいな表情をしている。


「少なくとも私もベンダバル騎士団長も、生活班の人員に対して休むなとは一言も言っていない。また各班の班長にも、人員の休息はしっかりと取らせるようにと指示を出している。新人だろうがベテランだろうが、そんなことは関係なく、だ」

「それは、その……」

「お前は自分の行いを反省した。そこまではいいだろう。だがその先が間違っている。お前が真にやらねばならんことは、一人抜け出してここに来ることではない。分からんことをそのままにするのではなく、1から教えを乞うことだ」


 勿論、叱られることもあるかもしれないがと付け足す。そして最後に一言、


「……だが、反省して行動するという真っ直ぐな性格、私は嫌いではない。それに、お前のような部下がいるのなら、心強いことこの上ない」


 そうやって肯定してやれば、萎れていた向日葵のようだった彼に、笑顔が戻る。申し訳ありませんでした、と素直に謝罪される。そのことに満足して、分ったなら休むように進言した。渋る彼に、班長には伝えておくと言えば安心したらしい。身体から緊張が亡くなった様子が見て取れた。

 答えが聞けて満足したらしい新人は最後に深々と礼をして、部屋を出た。それを見送って、小さく笑う。


 ちょうど乾燥機も鳴いた。

 あと少しでもう片方も鳴くだろう。

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