追稿(1)藤井聡太ー初黒星 升田幸三二世?
平成二十九年七月二日、竜王戦決勝トーナメント第二戦で藤井聡太四段はプロ入り初の黒星を喫した。三十戦目での敗北———。
相手は佐々木勇気五段。東のプリンスである。藤井くんが「中学生プロ棋士」になる前に五人目の「中学生プロ棋士」になれるはずだった棋士だ。
勝利インタビューで佐々木はこう言った。
——同年代世代が次々負けていく中で壁になりたかった
佐々木五段と言えば、あの「目力」の鋭さなのだが、生まれがスイスはジュネーブというちょっと変わった経歴の棋士。
藤井くんが勝ち続けるなか、二十八、二十九戦目にはこっそり偵察に来ていたことで有名になったりしていたけど、今となってはそれも「作戦勝ち」と書かれることになる。
さて、戦いの内容だが———
今回は藤井聡太四段の「完敗」だった——と、私も思う。
朝の十時から夜十時過ぎまでずっとニコ生で観戦していたのだが、序盤も中盤も押されっぱなしだった。佐々木勇気五段の用意してきた作戦にハマってしまった、いや誘導されてしまった感じである。将棋用語では「相掛かり」という戦型であった(横歩取りっぽいけど)。序盤の三十手くらいでもうかなり危ない状況だった。なんとか離されまいと「最善手」を指す藤井四段であるが、佐々木五段は緩むことなく的確にポイントを上げてゆきその差は広がるばかり。夕食休憩後少し紛れそうな場面もあったが、この時(いやもっと前かもしれない)にはすでに藤井四段は敗戦を覚悟していたと思う。
いくら指してもよくならないし、指手の幅もどんどん狭くなる。
負けたから言うのではないけど、この日の藤井四段はいつになく元気がないように見えた。疲れている様子だった。
十四歳の中学生が連日メディアの注目を浴び追いかけ回されるのだから疲れてないというのは嘘だろう。見えざるプレッシャーがあったかもしれない。
さりとて、注目されるプロとしてそれも「当たり前」のことであり、それらを乗り越え、屈することのない「技術」があれば勝てたのだから———。
ただ、私はヘボな将棋指しだけれど、その日によって調子の良し悪しは必ずあるのが「将棋」だと思う。昨日ネット将棋で十連勝しても今日は七連敗するって普通にある。まぁー一緒にするなとお叱りを受けるかもしれないけど、体調や対戦相手の技量、クセなどいろんな要素で「負け」ることは必ずあるのだ。
そう言う意味では今まで「勝ちすぎて」いたのかもしれない。確かに強い。普通のぷプロ棋士ではないのは間違いない。
今、私は正直な藤井くんの本音を聞いてみたい———。
負けてホッとしているのか、それとも悔しすぎて死にたいくらいなのか。
たぶん、どっちもあるんじゃないかと思ったりする。親御さんにとっては負けた姿を見るのは心痛むであろうけど、同時にちょっとホッとされているんじゃないかとも思う。
とかく社会というのは「出る杭は打たれる」。強すぎると敵も作り、負けを知らない者はどこかで驕り高ぶっていると見られがちである。
だから、親御さんにとっては此処らで負けてくれてホッとされてるんじゃないないかと——、子を持つ親の気持ちであるが、これまた同じにするなと言われるやもしれませんが………
それでも、デビュー以来「二十九勝、一敗」はとんでもない数字。
改めて仕切りなおし、さらに強くなって今度どこかで佐々木五段を完膚なまでに叩きのめす日が来ることを祈りたい。
それで将棋界が活性されていけば、それが一番なのだから———。
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引退した加藤一二三九段が、藤井くんを称して「升田幸三先生」のような棋士と、なんかのインタビューで答えていた。
「升田幸三」ってどんな棋士なのか——、将棋ファンなら誰しも知っている稀代の「鬼才」で、かの大山十五世名人と一時代を作った棋士である。
升田幸三先生が色紙や扇子に書く言葉に「新手一生」というのがある。
升田名人は「新手」を編み出すことに心血を注ぎ、定石に捉われない新しい発想を持つ棋士であった。
それは古い因習に囚われる「将棋界」に殴り込みをかけた無頼の精神から由来するのだろうか。
戦前、「名人位」は世襲制であった。そう「家元」制度だったのだ。それを初代名人「木村義雄」の代から実力制度になった。その古い制度のために大阪が生んだ鬼才「坂田三吉」は一生名人にはなれなかったのだから(当時は東京に関根名人が家元として君臨していた)
坂田は若き天才の升田にその「夢」を託すことになる。
升田は広島の生まれ。
幼少期「香車を引いて名人に勝つ」と志して、広島市内に出てその後、大阪の木見金治郎九段の弟子になる(弟弟子にはかの大山十五世名人がいる)
香車を引く——というのは、香車を落として名人に勝つというハンデ戦のことで後に本当に大山名人相手に香車落ちで勝っている。後にも先にも名人相手に香車落ちで勝ったのは升田幸三だけだ。
やがて、東京の木村、大阪の升田という図式が当時の「将棋界」の格好の対戦カードとなった。
華やかさはな無いが、着実な手、定石に根ざした手で有利に指し進める木村に対して升田がくり出す手は斬新で奇抜なものが多かった。
こうして升田の戦いは戦後の「将棋界」で様々なドラマと騒動を生み出したのだ(陣屋騒動、高野山の決戦など)。
以下、升田先生の人となりを示すエピソードをウィキペディアからの引用で紹介する。
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【魅せる将棋】
「魅せる将棋」を大切にし、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。振り飛車・居飛車共に数々の新手を指し、「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。
【ゴミにたかるハエ】
全日本選手権戦(後の十段戦→竜王戦)で対戦した木村名人に対して「名人など所詮はゴミのようなもの」と発言した。それに対し、ムッとした木村は「じゃあ君は一体なんだ?」と反論したところ「ゴミにたかるハエだな」と言うなど、毒舌ながらユーモアもあった。しかし、木村に「では名人に挑戦くらいしてはどうかね?」とやりこめられた。
【小池重明との一戦】
引退後1982年2月27日に羽澤ガーデンにおいて、当時プロに匹敵する実力を持つと言われていた真剣師・小池重明と角落ちで対局し完勝している(大山は角落ちで敗れ、当時の名人中原誠とは角落ちで1勝1敗)。この将棋は記録が残っている升田の最後の対局で、引退して3年ほど経っていた升田に春秋に富む気鋭の小池が挑んだものである。対戦前は小池優勢と見られており、事実途中まで小池は優勢に進めていた。升田は飛車の上に玉を乗せる飛頭の玉という奇手(‘棒玉’と呼ばれている新手の嵌め手)で対抗した。小池が50手目に指した8五歩において小池は作戦勝ちを確信したという。小池は升田が9四金と逃げるとばかり思っていたというが、升田はあっさりと8五同金と金歩の交換に応じ、その瞬間に小池の勝ちは無くなった。局後升田は小池に「8五歩と打ったのはやはり素人だな。君は私がプロだということを忘れとったろう」と言ってのけ、小池は負けずに「将棋が弱くなっておられると思っていました」と返している。このように、升田は最後の最後まで新手を出現させた人生であった。
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かような無頼の棋士「升田幸三」に似ていると言われる藤井聡太四段であるが、その片鱗が藤井四段の「角」の使い方の上手さにもあるかもしれない。升田は「角」の使い手であった。連勝新記録を達成した増田四段戦では二枚の角を絶妙の位置に配して勝っている。
羽生三冠は指してみたい棋士として「升田幸三」の名を上げている。アマだけではなくプロ棋士の間でも「升田幸三」は愛された男であった。
今、将棋界には「升田幸三賞」というその年に生まれた「新手」「新戦型」に対する「賞」が設定されている。
升田=「新手」なのだ。
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遂に黒星を喫した藤井聡太四段であるが、この先どんどん強くなって、我々に「新しい将棋」「魅せる将棋」を見せてもらいたいと念ずる。
あぁー、升田幸三先生が生きておられたら、藤井くんをなんと評したであろうか……、なんとも興味深い話ではないか。
案外、こう言われるかもしれない———
『小僧、まだ尻が青いわっ! もっと精進しろ。
俺に香車落ちで勝てるまで、勉強してこいっ!』——とか、なんとか、おっしゃるならロマンじゃないか。
将棋ファンが増え、日本の伝統文化がまた注目を集め見直されることを期してこの追稿を了とする。
一将棋ファン:千葉 七星
ちなみに、私は升田幸三先生の「眼手」の扇子を買い持っています。無頼派が好きなんだな、私は—————。
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