FILE:04/THE BLOOM END

 果てしなく高い空が、心地いい鼻歌を歌っている。そんな感じがした。

 そっと目を開ければ、どこまでも広がる青い海と、青い空。同じ色が、天と地に延々と続いている。だからそれらがどこで交わり、地平線を作っているのか、曖昧でよくわからない。

 波は穏やかで、空に雲は一つもない。パーフェクト・トゥモローによって人類が平和になり過ぎてしまったせいで、ついに地球までもが平和ボケしちまったんじゃないかってくらいの、澄み切った景色。

 まだ眠気交じりな俺は、重たい瞼を持ち上げながらも辺りをぐるりと見渡す。すると俺は、なんと女の腕に抱かれていた。

 俺は全身がすっぽりと、一人の女の腕の中に納まっている。それくらい、俺の体が小さくなっている。俺を抱いている女は麦わら帽子を被り、鼻歌なんかを気持ちよさそうに歌っている。そして女は俺と目が合った瞬間、突然びっくりしたように俺の顔を覗き込み、

「あら、ショウちゃん! 目を覚ましたの?」

 と言った。それを聞いた俺は、どうしてか、おかしくてキャハハと笑い出してしまった。

 俺の笑いに同調するように、女も上機嫌に笑って見せる。「今日のショウちゃんは、随分とゴキゲンですね~。よしよし」

 女は腕を優しいゆり籠のように揺らし、俺をあやし始める。俺は、またそれがおかしくておかしくてたまらない。キャハハと弾ける笑いを止めることができない。

「どうした? アグネス?」

 男の声がした。俺じゃない、別の声。

「あら、***。ショウちゃんが調度、目を覚ましたところなの」

「どれどれ?」

 男もまた、俺の顔を覗き込む。不思議なことに、俺はこの男のことを、知っている気がしてならない。それも、物凄く憧れていた男……

「やっぱりこいつ、君に似ているよ。アグネス」

「そうかしら? でもこの鼻とか耳とか、あなたにそっくりよ。***」

「だったら、こいつは大きくなったら相当ハンサムになるな」

「あら、私はそんなハンサムと付き合っているかしら?」

「もちろんだ。だからこいつはなるよ。将来、最高にクールなバンディットに」

「やだ。私、未来盗賊は嫌い」

 /

「ごめんなさい」

 景色が変わった。

 さっきまでの平和ボケした地球の浜辺ではなく、薄暗い、無機質な白い壁が周りを覆っている。そして俺は、小さなカプセルのようなものに押し込まれている。

 狭い。窮屈だ。しかも肌寒い。

 俺は凍える。そんな俺を、さっきの女は悲しそうな表情で覗き込んでいる。アグネスと呼ばれていた、あの女。だが、全く同じじゃない。少し老けた気がする。顔だって、かなりやつれている。髪もパサつき、乱れている。

「本当にごめんない。こうなってしまったのは、全て私の責任。私があなたのお父さんの心の隙間をしっかりと埋めてあげていれば、こんなことにならなかった。私が未熟だったから、家族を守れなかった。自分の家族も守れないのに、何がHCPPよ。何がニゲラよ。バカみたい……」

 言葉と共に、女の瞳に涙が溜まる。それが頬に零れ落ちるのは、すぐのことだった。しかし女はその涙をさっさと拭う。まるで煩わしい汗を拭うように。そして凍える俺の体を、優しく抱きしめる。

「一緒にいられなくてごめんなさい。でも心配しないで。しばらく眠るだけ。ここは安全。大丈夫。それに、あなたは強い子。あのお父さんの血を継いだ、立派な子供なんだから」

 遠くで、銃声が鳴った。と同時に、近くで巨大な爆発音。

 鼓膜を引き裂きそうな轟音と、地上がひっくり返りそうな地響きが辺りを襲う。

 女は華奢だから、今にも倒れそうになる。しかし力強く生きる花のように、俺が入ったカプセルに片手で必死にしがみ付き、衝撃に耐える。もう片方の腕で、俺を抱きかかえながら。

「もう、時間がないみたい」

 女はそう言って、俺の顔を見つめ始める。まるで昔のネガフィルムに、俺の顔を焼き付けるかのように、ずっと眺めていた。そして撮影が終わったのか、今度は俺の頬に、そっとキスをした。

 直後、女はカプセルの外側にあるボタンを押した。俺を抱きかかえていた腕を離す。

 するとカプセルの透明なハッチが、ゆっくりと閉まり始めた。

「―――――!」

 俺は何かを叫んだ。それを聞いた女は、再び瞳から涙を溢す。今度は、その涙を拭わなかった。

「待ってて!」女は叫ぶ。「私は必ずあなたを迎えに行く! 必ず会いに行くか――」

 ハッチが閉まる。女の叫び声は、途中で途切れる。しかし閉まったはずのハッチに女が貼り付き、何かを叫び続ける。口が激しく動いているが、もはや聞き取れない。女の涙と同調するように、俺の瞳からも涙が溢れ出る。その涙は、いつまでも止まらない。

 カプセルの中は、酷く寒い。息も、涙も、すぐに凍りそうだ。

 次の瞬間、目の前の女が急速に遠ざかる。と思った時には既に、目の前が真っ暗になっていた。底がない、果てしない海の中に突き落とされてしまったかのように。

 あながち、それは比喩ではなく、マジだったのかもしれない。

 しかし確かめる術はない。

 闇の中に沈む中、俺は凍え、全身が痺れ、それは手足が引き千切られるような痛みに変わり、やがて全身のあらゆる感覚を奪い去っていく。まるで悪魔が、俺の体の部位を一つひとつ解体し、地獄に持ち去っていくような、そんなイメージが、俺の脳に鮮明に映し出される。

 そして悪魔が俺の体を持ち去ろうとしている最中、俺の視界に、花が現れた。紫色をした、ニゲラと呼ばれる花。俺は残された腕を伸ばし、その花を掴もうとする。花は、思いのほか遠く感じる。悪魔が、俺の行為を邪魔しているからなのかもしれない。だけど俺は諦めない。腕を、手を、前へ、花の咲く方へ、伸ばし続ける。そしてついに、俺の手は、その花に届いた。

 俺は、その花を、思いっきり、握り潰す。

 フリーズされた花のように、花弁は俺の手の中でパリパリと砕け、粉々になり、手を開いた時には、乾いた砂のような粉が零れ落ち、風に飛ばされ、消えていく。俺の過去が、白紙になるように――


 ――カラン……


 コップが倒れた音の後に、異様な眩しさが俺の瞳孔を突き刺した。目の前が、消し去られた過去のように、真っ白な光景しかない。

 だが、それが単に天井の白いクロスであることは、すぐに気付いた。俺はベッドに横たわっている。そんな自分の体を、今から起こそうとする。しかし様子が変だ。

 今までの疲れが抜け切れていないことに加え、昨晩久しぶりに飲み過ぎてしまった酒が抜け切れていないこともあり、全身が鎧を着たように重い。特に頭なんか脳が鉛になってしまったようだし、そこから微弱な電流が漏れ出しているかのように、ズキズキと鈍い痛みが滞留している。そんな頭を持ち上げながら、ベッドから降りる。そして窓を覗き込む。

 そこにあるのは、窪んだ街。まるでスプーンの中に作られたミニチュアの街のような光景が、窓の先に広がっている。しかし中心部は大きな瘡蓋かさぶたができてしまったように、グチャグチャな黒い瓦礫で街が押し潰されている。さらにそこら中で火事が発生していて、何本もの細い黒煙が空に向かって伸びている。しかも所々で爆発が起こり、街をさらに燃やしている。そこはもう、平和が瓦解した後で、混乱と暴力が蔓延し始めている状況であることが、一目瞭然だ。

 こんな状況にもかかわらず、俺はほぼ一日、寝過ごしてしまったようだ。既に日は沈みかけ、時刻は夕方の18時を過ぎている。

 ここはボウルシティの片隅あるホテル。片隅と言っても、ボウルシティは比較的土地が余っており、しかも富裕層ATLが暮らす都市だから、中心部から離れた土地はほとんどリゾート地に変えられている。ここも同じだ。

 天井や壁は白で統一されたシンプルな造りだが、1フロアを贅沢に貸切って使える。部屋は5つ以上あるが、寝室だけでも20畳以上あり、そこにはふかふかのキングサイズのベッドが中央にあって、大きな窓には地上30階以上の眺めが広がっている。ホントはもっと質素なホテルに泊まりたかったのだが、困ったことに、ボウルシティには手軽に泊まれるビジネスホテルというものがない。借金持ちには辛い。

 おまけに冷蔵庫に入っているワインやシャンパンは飲み放題なもんだから、そのせいで俺は調子に乗って、深夜0時過ぎにチェックインしたにも関わらず、朝日が昇るまで飲み続けてしまった。それがほぼ一日寝過ごしてしまった原因だ。

 周りには、空の瓶があっちこっちに転がっている。ベッド傍のテーブルには、酒飲みグラスが倒れている。寝相が悪い俺が倒したのだろう。そしてその音で、俺は目を覚ましたようだ。

 まだ重い瞼を持ち上げ、目ヤニを擦り落としながらベッドに目をやる。

 ベッドには、カーラが寝ている。服は着たままだ。寝着に着替えることもなく、昨日と同じ格好のまま。それは、俺も同じだ。

 執事に飲まされた薬がまだ残っているのか、寝苦しそうな顔をしている。

 俺は小さな溜息をついた後、イアークのチューナーをニュースチャンネルに合わせる。

 ニュースは、ボウルシティに《WIZDAM》が落ちたという話題で持ちきりだった。そしてこの混乱に乗じて、多くのサリクスがボウルシティに侵入し、戦闘を繰り返しているとも伝えた。しかもそれはボウルシティに限らず、BTL居住地区である七つのHeavenSにまでサリクスたちの大規模な侵攻が及んでいるという。だから窓の外では、混乱と暴力が広がりつつあるのかと、今になって知る。

 そして思い出す。《WIZDAM》が……《WIZ》とその檻が、ボウルシティに落ちたときのことを。それはつい、昨日のこと――

 突然、鉛のようになっている脳に、釘が撃ち込まれたかのような激痛が走った。思い出したくはないが、そこでモニカは死んだ。俺たちを守るために……。

「畜生!」

 涙と共に、俺は叫んでいた。確かにあいつはイディオット中毒で、クレイジーで、イカれていて、碌でもない奴だった。だが、それだけがモニカの全てではなかった。俺はモニカのことを、何もわかっちゃいなかった。モニカは派手な格好と派手な振る舞いで、自分の繊細で弱い部分をずっと隠してたんだ。だからあいつの本当の優しさに、思いやりに、今の今まで気付けなかった。そんな俺が、凄く情けない! 凄く許せない!

「畜生!」

 同じ言葉をまた叫ぶ。やるせない思いを拳に込め、壁を思いっきり叩く。今さらそんなことをしても、何の意味もないことはわかっていても。

「シ……ショウ……」

 カーラの声がした。壁を叩く音で目を覚ましたのだろうか。

「カ、カーラ……」

 いきなり目を覚ましたカーラに動揺した俺は、さっきまで憤っていた感情が一気に沈み、消えた。「大丈夫か?」

「ええ、何とかね」

 そう言ってカーラはゆっくりと上半身を起こす。その際、今にも頭が首から落ちてしまいそうだと言わんばかりに、必要以上に頭を手で支えていた。

「無理すんな。まだ休んでろ」

「そうはいかないでしょ。こんな状況じゃ」

「覚えているのか? これまでのことを?」

「薄っすらとね。でも完璧じゃないから、ここ48時間分の五感メモリーを今しがた早回しで再生し終わったところよ。所々データが破損してたけど、問題ないわ」

「じゃあ、モニカのことも……」

「ええ……」カーラは俯く。「……《WIZ》のことも……」

 それ以上、カーラはモニカについても、《WIZ》についても語らなかった。カーラ自身、一番責任を感じているのかもしれない。しばらく沈黙が続いた後、

「ところで、これからどうする?」

 重い空気を変えようと、俺は違う話題に切り替えようとした。「《WIZDAM》もいなくなっちまったことだし、俺たちは晴れて失業だ」

 そうだ。《WIZDAM》がいなくなったということは、同時にパーフェクト・トゥモローも停止したということだ。《WIZDAM》がシミュレーションした未来を盗み、それを売りさばくことで成り立っていた俺たちのビジネスは、いわば《WIZDAM》とパーフェクト・トゥモローの寄生虫だ。寄生媒体を失った俺たちは、自動的にプー太郎へとジョブチェンジせざるを得ない。おまけに俺は、重度の借金持ちだ。

「でも、まあ、気楽にいこうぜ。未来が盗めなきゃ、違うものを盗めばいい。そうだろ?」

 すると、カーラは重い溜息を吐きながら、

「あなたって、ホント暢気よね」と言った。そして、こうも付け加えた。「でも、そういうところ、嫌いじゃないけどね」

「だろ? だから俺たちは、いいパートナーだ」

「それはどうかしら?」カーラは冷たく言う。そしてよろけながらも、ベッドから立ち上がる。「私には、まだやることがある。それを、今から片付けに行く」

「おいおい。やることって何だよ? 俺たちは失業したばかりだぜ。《WIZDAM》もいないんじゃ、プレゼンテッド・ロールという甘い汁も吸えやしないんだぜ」

「仕事なら、まだ残ってるでしょ?」

 声がした。しかしそれは、カーラの声ではなかった。俺はその声の正体を知っている。だから尚更、ビビった。

「ちょっと待てよ! なんで世界の歌姫様が、ここにいるんだ!」

 なんとそこにいたのは、ニゲラだった。

 ニゲラは鍵がかかっていたはずのこの部屋のドアを開け、腕を組みながら俺を睨んでいる。しかも今までの彼女とは全く違う。フリフリがたくさん付いたキュートな衣装でも、ウエディングドレス風のゴージャスな衣装でもなく、ニゲラは自身の髪の色と同じ灰色のアサルトスーツを身に纏い、手にはライフルが握られている。メイクもせず、髪型も緩いふわふわなパーマヘアーではなく、後ろでキュッと縛られているだけだ。前髪も作らず、おでこが露出している。

「なんて格好してんだ。不法侵入までしやがって」それもそうだが、最も驚愕すべきことは、コレだ。

「何で生きてんだ? だってあんた、撃たれて死んだんじゃ……」

「勝手に殺さないでくれるかしら。銃で撃たれたくらいで、この私が死ぬわけないでしょ」ニゲラはキリッと胸を張る。「たとえ死んだとしても、3Dプリンタで私を丸ごと出力して、何度でも生き返ってやるまでよ。この状況が終わるまではね」

「そんなことしたら、Central◒Houseの生命倫理部が黙っちゃいないぜ」

「《WIZDAM》が落ちた今、Central◒Houseなんて、もう無いも同然よ。そんなものにすがるより、私には信頼できる専属護衛かぞくがいる。私が撃たれたとき、彼女はトレーニング中でたまたま不在だっただけ。訓練場はちゃんと新曲発表会の近くにセッティングしてあったから、事態発生後は迅速に駆けつけ、私を救出してくれた。想定の範囲内よ」

「用意周到だったにせよ、ツイてる女だ。地獄に落ちても、宝くじを当てちまいそうだぜ」

「そんなつまらないジョークを言う暇があったら、早く私のワイルドカードを取り返しなさい。失業するのは、それからよ」

「ちょっと待てよ。それより話が――」

「母さんの言うことがきけないのか!」

 突然、ドアの奥から影が飛び出してくる。それと同時に、その影は俺に向かって閃く刃を突き立てる。あまりにもの速さに、逃げる間もなかった。

 しかしそれを庇うように、カーラが俺の前に立った。俺は思わず叫ぶ。

「やめろ!」

 すると刃は、カーラの鼻先で止まった。その刃は、見覚えのある刀だった。だがその持ち主は、死んだはずだった。だからそれを持つ者は、その持ち主の意思を受け継ぐ者しかいない。その者こそ、ニゲラが信頼する専属護衛かぞくだった。

「また貴様か!」

 気性の荒い声で、カンナが叫ぶ。そしてカーラを睨む。そんなカンナを、カーラは睨み返す。

「本当なら、今すぐここでお前を殺したっていいんだ!」カンナは言う。「今の私は、無力なんかじゃない!」

「根に持つ女は、モテないわよ」

「貴様! バカにすんじゃねーぞ!」

 カンナはカーラにシオンの刀を突きつけたまま、今度はライフル二丁、カーラの顔面に突きつける。人間なのに、三つの武器を同時に構えている。そんな馬鹿な? こいつは千手観音菩薩か? なんて思ったが、あながち間違いではなかった。

 なぜならカンナには、四本の腕があるからだ。

 しかしそれは機械で二本の腕を拡張しているに過ぎない。カンナは全身を装甲で覆ったアーマードスーツを身に纏い、その背中から二本の拡張アームが伸びている。もちろん、拡張アームにも固い装甲が施されている。そして拡張アームでシオンの刀を、自身の腕でライフルを持つ。だが拡張アームを使いこなすには、どんな兵士でも最低1カ月の訓練は必要なはずだ。それを、ここ2~3日で実践レベルにまで持ってきたとすれば、相当、とんでもない奴だ。それくらいの覚悟と誓いがあるのだろう。

「シオン姉ちゃんの仇は、必ず取ってやる! 今は母さんがお前を殺すことを許していないだけだが、これが終わったら、必ずお前を殺す!」

「別にいいわよ」カンナの台詞に対し、カーラは挑発的に返す。「やれるものならね」

「なんだと! このクソババア!」

「止めなさい!」

 一触即発な二人に割って入ったのは、ニゲラだった。「喧嘩なんかしている場合じゃないでしょ! あと6時間もしないうちに、人類の未来が終わるのよ!」

 ニゲラの牽制に、二人は口を閉ざす。そしてしばらく睨み合っていたが、カンナは刀とライフルをおろす。それを見て、ニゲラは溜息をついた。それから俺の方を見て、

「あなたも知ってるでしょ」ニゲラは言った。「今日の午前0時に、サリクスは私のワイルドカードを使う。そうなれば、人類の未来が終わる。だからショウ=サイレンジ。早く私のワイルドカードを取り戻して」

「ちょっと待てよ」

「人類の未来が終われば、私たちの未来は失われる。そこには希望はない。そこには延々と続く無の世界がただ広がっているだけ。だからお願い。私のワイルドカードを奪い返して。じゃないと――」

「待てって言ってるだろうが!」

 俺は怒鳴った。ずっと抑え続けていた黒い物が、ついに破裂した。もう我慢できなかった。さすがのニゲラも、一歩後ずさる。カンナが再び刀を構えようとするが、ニゲラが寸前でとめる。

「バカにすんなよ!」俺は再び叫ぶ。「お前のせいで、どれだけの人間が犠牲になったと思ってんだよ! それでいて、よくもそんな偉そうな態度でいられるな! 俺も危うく死ぬところだったんだ! バンディットはお前の使い捨てオモチャじゃねーんだ! それに何だ? ワイルドカードはブルームエンドだ? 人類の未来の終焉だ? ふざけんな! 冗談も大概にしろ! たとえそれが本当の話だったとしても、何でお前がそんな重要なものをバンディットに扱わせるんだ! もしブルームエンドなんてものがあって、それをバンディットに盗ませたら、ただじゃ済まないことくらいわかるだろーが! それでもHCPPホスト・コミュニケーション・プラットフォーム・パーソナリティかよ! 【人格】を疑うぜ! 無責任にも程があるだろ!」

 一度破裂した俺の怒りは収まらない。罵声が止め処なく溢れ出る。それでも高飛車な態度をニゲラは続けるだろうから、もう許せない。早くこいつを追い出してやろうと思う。二度とあんな奴の顔なんて見たくない! そう、思ったんだが――

「ごめんなさい」

 なんとニゲラは、そう言った。しかもニゲラは、そのあと、俺の前で土下座をした。

 カンナはすかさず土下座をするニゲラを立たそうとするが、ニゲラはそれを制する。

「全ては、私の責任。全ては、私が愛した人の未練のせい。こうすることでしか、私は彼に会う方法を見つけられなかった。だからこれは、全て私の未熟さが生んだ過ち。本当に、ごめんなさい」

 あまりにも唐突過ぎるニゲラの土下座に、俺はしばらく放心状態だった。だからニゲラの言葉が、あまり頭に入ってこなかった。

「ど、どういうことだよ」

「ハヤトは、かつてBBBandit of Banditと呼ばれていた男は、私の恋人だったの」

「う……嘘だろ!」

「本当よ。でもこれは、隠蔽された事実だから、誰も知らない」

「確かに、HCPPにそんな大スキャンダルがあったら、世界がぶったまげる。でも、仮にあんたがBBと恋人だったからって、何でこんなことを?」

「引き裂かれ、失われてしまったあの日々を、取り戻すためよ」

「悪い。よくわからない」

「彼の理想を実現するカギこそが、あのワイルドカードなの。それを発注することで、彼が再び私の元に現れることを期待していた。LTMが億単位の案件であれば、どうせバンディットたちに情報がリークする。それを、彼は嗅ぎ付けると思った」

「でもBBが活躍していたのは、160年も昔の話だ。よく生きていると思ったな」

「彼は怪物よ。彼は自分の理想を築くために、ありとあらゆる手段を講じる男。だから彼は、バンディットを確立した驚異的な存在になれた。だから理想を実現するまで、生き続けると信じていた。でもまさか、子供の姿で再会することになろうとは、思ってもいなかったけど。おかげで、カジノで出会った時には全然気付けなかった」

 その話を聞いて、俺の胸の中にたくさんの疲労感が溜まった。それを吐き出すために、大きな溜息をつく。「信じられねーよ」

「信じてあげて」

 カーラはそう言って、俺の肩にそっと手を置いた。そして、こう付け加えた。

「ニゲラは、あなたのお母さんよ。ニゲラとハヤトの間に産まれた子供が、あなたなの」

 俺の視界が暗転する。と同時に、脳みそに雷が落ちたような衝撃が走る。気が付いた時には、俺の体はよろけ、それをカーラが支えていた。

「さすが、奇跡の先読み姫ミラクルクイーン」ニゲラが薄ら笑いを浮かべながら言った。

「そうでもないわ。私はただの、臆病な女よ」カーラは自虐的に微笑みながら答える。「私は目の前の現実に動揺し、かつて愛した男の素性を調べ、ニゲラあなたショウかれの関係にたどり着いた。そして答えを求めて、あなたたちの未来をリードアヘッド覗き見したしたことで、この事件を先読みすることができたに過ぎない。それだけよ。奇跡ミラクルでも何でもないわ」

「最も厳重なセキュリティに守られている私のプランクデータにアクセスできたんだから、それは十分、奇跡にふさわしいわ」

「ありがとう」

 カーラは礼を言った後、ニゲラの手を取り、土下座するニゲラを引っ張って立たせた。

「でも、ハヤトのリードアヘッドはできないわ。彼は私たちの思考や行動を先の先まで読み、裏をかき続けている。だから私の予測が全て裏切られる。私も彼があえて身体的行動が制限される非効率な子供の姿をしているとまでは読めなかった。さすがBBと呼ばれていた男。あなたの言う通り、彼は紛れもない怪物ね」

 徐々に仲が深まり始めている二人を尻目に、俺はまだ頭の整理の途中だったのだが――

 近くで、爆発音が鳴った。

 遠くない。むしろ近い。だからここの床も、随分と揺れた。サリクスが――ハヤトの手下たちが、すぐそこまで迫っている証拠だ。

「聞きたいことは腐るほどあるが、全ては後回しだ」

 俺は頭の整理を一旦止める。「でもまあ、一つだけ聞けるとすれば、いいか、カーラ?」

「何よ?」

「何でさっき奇跡ミラクルは一度否定しても、クイーンは否定しなかったんだ?」

 それに対し、カーラは無言でドスンッと強烈なエルボーを俺の脇腹に食らわすだけだった。

 この一撃は痛かったが、それだけカーラが調子を取り戻しているという証拠だ。

「急な訪問客をもてなすのは好きだが、RAリード・アヘッダーが未来を盗めないとなると、ちょっと不安だぜ」俺は枕の下に隠してあった銃を取り出す。銃はこのホテルに来る前にPMCの入札プラットフォームから仕入れた新品のビーム銃だ。ボウルシティにいても、PMCはバンディットに気前よく武器を売ってくれる、秩序より利益を重視するクールな集団だ。

「これが本当の闘いよ。スリルがあって調度いいでしょ?」ニゲラはライフルを構え直す。

「そうかもな。それにしても、あんたに武器は似合わねーよ。マイクを持っている方が、ずっといい」

「歌姫様ごっこは終わった。これから自分の身は、自分で守る。こう見えても、特殊部隊並の戦闘訓練は受けている」

「頼もしいね。そのギャップに惹かれるぜ。あんたもそうだろ? お嬢ちゃん」

「カンナ=ケリーだ! このクソ野郎! これが終わったら、その女と一緒にお前も始末してやる!」

「まったく、嬉しいことを言ってく――」

 ――爆発音。

 と同時に、壁が破壊された。そこからサリクスの連中が雪崩れ込む。10人以上はいるだろう。

 狙いは俺なのか、カーラなのか、ニゲラなのか、カンナなのか、恐らく全員だろう。奴らはジャンクタウンで高額に取引されそうなレトロな銃や、原始的な斧といった武器で無差別に襲いかかってくる。しかも爆風で舞い上がった粉塵が、視界を遮る。さらに爆発音でイカれちまった鼓膜のせいで、音も碌に聞き取れない。だがそんな状況に、熱狂する者が一人だけいた。

 カンナだ。

 彼女は待ってましたと言わんばかりに、自身の両手に握られた二丁のライフルをぶっ放し、二本の拡張アームにそれぞれ握られたシオンの刀を縦横無尽に振り回す。

 さらにカンナが描くビーム弾と刀の軌跡の隙間を的確に埋めるように、ニゲラが発砲する。このコンビネーションによって、サリクスたちは文字通り八つ裂きにされていく。

 鼓膜がイカれているせいで、サリクスたちの悲鳴は一切聞こえない。静寂の中、激しく交錯する剣と、飛び交うビーム弾の閃光に紛れて、血飛沫が目の前で激しく舞い散る。そして次々と、床に転がる死体が増えていく。

 全てを片付けるのに、10秒かかっていなかったと思う。

 その間、俺はほとんど何もしていなかった。それは多分、カーラも同じだと思う。

 粉塵が晴れ、鼓膜も正常さを取り戻し始める頃には、既にカンナとニゲラは静止した状態で、特にカンナは鋭い瞳孔で辺りを見回し、次の獲物を探す野獣のようだった。

 そんなカンナと目が合った瞬間、俺は冗談じゃなく、マジでビビっちまった。金縛りにあったかのように、恐怖が脳から全身への筋肉の信号を容赦なく遮断する。

「ボケっとしている時間はないわよ」ニゲラが口を開く。「奴らはまた来る」

「じゃあ、俺はどうすればいいんだ?」

「アンダードームに行って!」ニゲラが叫ぶ。「ハヤトは、あそこでワイルドカードを使うはずよ!」

 アンダードーム――それは管理人口の全プランクデータが保管されている場所。このボウルシティの地中深くにあるとされている場所。

「ダメよ。ショウ」

 カーラが俺の腕を強く掴み、言う。俺を見据える瞳には、一点の曇りもない。俺は迷うも、

「信じていいのか?」

 俺はニゲラに向き直り、問う。

「当たり前よ!」ニゲラが答える。「息子に嘘をつく母親が、どこにいる!」

 ついさっき知ったことを、素直に受け入れられるかよ! まあいい。本当に人類の未来が終焉するかどうかはさて置き、とにかく俺は、俺を騙した親父ハヤトを一発ぶん殴らねーと気が済まねー!

「悪い、カーラ。俺は行くぜ」

「やめて!」俺の腕を掴むカーラの手に、さらに力が入る。「でないと、あなたは――」

 俺はカーラの手を振り払い、

「母親の言うことを聞く前に、一つだけいいか?」

「何?」

 するとそのときだ。ニゲラの予告通り、再びサリクスたちが現れた。先ほど破壊された壁と、この部屋の入り口を完全に塞ぐように、武装した男たちが立ちはだかる。人数は、さっきより多い。

 カンナは二つの刀と二丁のライフルを構える。どこから攻められても、隙がないように。

 俺はニゲラに言う。「せめて、あんたが注入したプランクシュレッダーくらい、取り除いてくれよ! せっかく事件が無事解決しても、その後にすぐ死んじまうんじゃ、俺のモチベーションも上がらねーぜ!」

 するとニゲラは笑った。そして言った。

「安心しなさい! そんなもの、はじめからない! あなたの体に打ち込んだのは、プランクシュレッダーではなく、ただのビタミン剤よ! 母親から受け取った愛だと思いなさい!」

 俺は溜息交じりに苦笑する。

「ふざけんなよ! てっきり信じちまった俺は、毎日不安で眠れなかったんだぜ! 母親のくせして、愛情のかけ方を間違えんな!」

「そうね! じゃあこれが終わったら、やり直させて頂戴!」

 サリクスたちが、一斉に襲い掛かってくる。

 それを、カンナがとニゲラが迎え撃つ。

 さっきと同じように、二人は銃だの刀だの、好き放題サリクスにぶちかます。

 その隙に、俺はカーラの腕を掴む。

「あなたって、本当に、どうしようもない男ね」

「そうかもな」

 カーラが漏らした言葉に対して、俺はそう答えた。

 それから走る。そして窓に向かって、飛び込んだ。

 窓は閉まっている。だから俺とカーラは、一緒に体当たりして窓をぶち破る。

 その際、俺は一瞬、カンナと目が合った。彼女の目つきには、どこか嫉妬深さが宿っている気がした。

 だが、それはいい。それより、このホテルは高層ビルで、俺たちが泊まっていた部屋は、30階を超えている。普通に考えれば、このままでは死ぬ。当たり前だ。

 しかし、そう簡単に死なないのが、俺たちバンディットだ。策はある。そうだろ? カーラ。

 遥か遠くの空から、白い影が急接近する。アフターバーナーを最大出力で飛翔し、俺たちに突進してくる。これだけ見ていると、せっかちな死神が俺たちを急いで迎えに来ているようにも見える。だけど、それは違う。

 それは死神なんかじゃない。大きな翼を持った巨大な白いDAP――アズラエルだ。

 アズラエルは翼を大きく広げ、アフターバーナーを噴射する豪快な音と、凄まじいスピードで空気を切り裂く尖った音を、空にまき散らす。そしてさっきまで遠くにいたアズラエルはあっという間に近づき、俺たちが地面とご対面するより先にキャッチする。

 しかし助かったわけじゃない。なぜなら、地上の透き通るような湖のビーチには、似つかわしくない大勢の武装したサリクスたちが集まり、賑わっているからだ。規模だけで言えば、まるでニゲラのコンサート会場さながらの群衆だ。だが俺は注目を浴びているものの、人気者じゃない。その逆。だから歓声ではなく怒声が浴びせられる。しかも連中はそれだけでは飽き足らず、大昔のM16やらAK-47、中にはRPG-7なんてレア物までを俺たちに向かってブチかましてくる。あれを見たら、きっとジャンクタウンの連中は涙を流すだろう。こんな碌でもない未来盗賊に使うくらいなら、俺たちに売ってくれ、ってな。

 それは俺も同感だ。

 一方でアズラエルは頼もしく、9㎜程度の鉛弾なら分厚い装甲で十分盾になってくれるし、RPG-7なんて物騒なレア物も、持ち前の空中機動力で華麗に躱してくれる。

 まあ、ちょっと乗り心地が悪いが、それは目を瞑ることにするさ。途中、ちょっと吐きそうになるが、その間にアズラエルはレーザーライフルで応戦し、サリクスたちを焼き払っていく。おいおい、あまりリゾート地の景観を血で汚さないでくれよ。

 それより、もっと前からこいつが手に入っていれば、取引がどれだけ楽だったかって、つくづく思う。でもこいつに頼ってばかりもいられない。なぜなら、こいつといると、スゲー目立つからだ。

 だからサリクスたちを振り切ったところで、俺とカーラはアズラエルから降りることにした。それにこれは、ニゲラのものだ。借りたものは、ちゃんと返さないとな。

 湖を超え、リゾート地を抜けた俺たちは、都心部に入った。その後、アズラエルは広めの駐車場に着陸した。そこで腕に抱えていた俺たちをリリースする。

 そしてカーラはハッキングで取得したアズラエルのアカウントアクセス認証権をニゲラに返還する。するとアズラエルの瞳の色は赤から青に変わる。

 と思った次の瞬間、アズラエルは飛び立った。アフターバーナーの噴射による強風のせいで、俺は思わず尻餅をつきそうになる。

 そしてアズラエルは一瞬で空の彼方へ飛翔。元の持ち主の場所へと帰っていった。

「で、これからどうすればいい?」俺は聞く。

「そうね」カーラは考える。

 ここにはサリクスはいないようだ。ATLは少ない。まばらだ。たぶん大半のATLたちは、この騒ぎで自宅待機しているのだろう。しかし近くにいたATLたちは、俺たちを見た途端、そそくさと逃げて行った。もしかしてサリクスと勘違いされているのかもしれない。

「とりあえず、早くここを離れましょう」カーラは言った。「そしてアンダードームに向かう。そうなんでしょ?」

 最後の言葉には、わかりやすいほどの嫌味が籠っていた。だが俺はそれに気付かないフリをして、

「そうだな」と何気なく頷く。「そのためには、まず足が必要だ」

 そして俺は駐車場から、車が走る大通りに飛び出す。

 言っておくが、決して自殺したいわけじゃない。何でもいいから、車を停めたかっただけだ。

 すると思惑通り、たまたま通りかかった車が急ブレーキをかけ、俺の前で停まった。

 超電導ホバークラフト式の赤いメルセデスのスポーツカー。ちょいと目立つが、まあいいか。

 俺は銃を取り出し、銃口を運転手に向ける。ぬるま湯に漬かりきっているATLが、戦闘の術を知っているわけがない。だから運転手は潔く降参し、すんなりと車から降りてきた。特に悔しそうな表情もない。もしかしてBTLの100倍以上の収入があるATLにとって、車を盗られるなんてお菓子を盗られたくらいの感覚でしかないのかもしれない。

 どちらにしろ、どうでもいいことだ。

 俺はすぐさま運転席に乗り込む。その隣の助手席にカーラが乗り込む。

 お互いシートベルトを締めると、俺はアクセルを踏んだ。

 車を発進させる際、俺は持ち主に「悪いな」と謝った。すると彼は、なぜ悪者がわざわざ謝るんだ?という顔をした。別にいいだろ。悪いことしてんだ。謝らせてくれよ。

「ところでカーラ、お前は、どこまで知ってるんだ?」

 車がハイウェイに入ったところで、俺は聞いた。

 するとカーラは黙った。しばらく沈黙が続いたが、やがてカーラは口を開いた。

「大体のことは、全部かしら?」

「そりゃよかった。じゃあ、あのワイルドカードは何なんだ?」

「ブルームエンドよ。人類の文明開花を終焉させるもの」

「未来を盗めば、DNAのテロメアが擦り減るように短くなるっていうのは、マジってことなのか?」

「そうね。未来を盗み、それを実行するということは、そこに到達するまでのプロセスに使用される情報エネルギーを前借りする行為。この宇宙の情報エネルギーは無限ではなく、有限だから、結果的にそうなる」

「信じたくねーが、お前までそう言うんだったら、そうなんだろうな」俺は納得しない、というか、納得したくない気持ちを抑え、カーラに聞く。「じゃあ、あのワイルドカードに記録されているブルームエンドってのは、具体的に何なんだ?」

「さあ、詳しいことはわからない。でも、アンダードームに記録されている人類のプランクデータに何らかの影響を与えるものだということは推測できる。だからハヤトは、アンダードームでワイルドカードを使おうとしている」

「何だよ。全部知ってるんじゃなかったのか?」

「言ったでしょ? 全部知っているけど、大体のことしかわからないの」

「都合のいい女だ」

「全てわかっちゃうと、面白くないでしょ? 女には、少し謎があった方が魅力的なのよ」

「それとこれとは話が別だろ。それに俺からすりゃ、お前は少しどころか、全くわからない女だよ」

「じゃあ、知りたい?」

 カーラは俺の耳元に顔を近づけ、そっと囁く。俺の背中が、ゾクッと凍ったように冷たくなる。

「止めてくれ。今は運転中だ」

「どうせドライブアシストが、あなたの下手くそな運転をサポートするわよ。《WIZDAM》の自動交通制御が無くなったとは言え、道路を真っ直ぐ走ることくらいはできる」

「俺は頼られるのは好きだが、頼るのは嫌いなんだ。それより、何でお前はそこまで知ってるんだ?」

「リードアヘッダーなら、誰もが駆られる衝動よ」

「何だ? それ?」

「見たからよ。私の未来も、あなたの未来も、ニゲラの未来も、全部」

「それは、俺たちに関わる未来を、全てリードアヘッドしたってことか」

「そうよ。あることがきっかけでね」

 カーラは俺から顔を離し、力なく呟いた。そのときのカーラは、俺から視線を逸らし、助手席の窓から遠くを眺めていた。

「そして私の未来に、あなたはいなかった」

 俺から視線を逸らしたまま、カーラは言った。その声は、少し涙で震えている気がした。

「もしかしてだが――」そんなカーラを横目で見ながら、俺は言った。「あの日、黙って俺の元から離れていったことと、何か関係があるのか?」

 それから“あること”の説明がカーラの口から続くと思ったのだが――

「あなたは死ぬのよ」

 全く予想外の返事に、一瞬、俺の目の前が暗くなる。俺の心臓と肺が石になったように胸が重くなった。

「嘘だろ?」

「嘘じゃないわ。あのまま付き合い続けていたら、あなたはこの案件をニゲラから発注を受け、私がRAリード・アヘッダーを務めることになる。でも私がどんなにリードアヘッドであなたをサポートしても、あなたはワイルドカードを奪おうとするハヤトによって殺されてしまうの。それは何度シミュレーションし直しても、変わらない。変えられない。ハヤトは私がリードアヘッドする内容を尽く予測し、裏をかき、あなたを追い詰める。そして最後に、あなたを殺してワイルドカードを奪う。その確率は、何度試しても、100%。どう足掻いても、私はハヤトに敵わないし、あなたを守れないの」

「だからアンダードームに行くなってことか? あいつの計画を邪魔すれば、俺が殺されるから」

「そう。あなたを死なせないためにも、私たちは一緒にいるべきじゃなかった。私と一緒にいるせいで、バンディットとしてのあなたの自信と自尊心は肥大化し続け、ニゲラの発注を断れなくなる。だから私は早くあなたと別れなければならなかった。そしてニゲラの発注があれば、私はリディアを使ってあなたからワイルドカードを奪うことで、あなたをこの案件から遠ざけようとした。全ては、あなたを救うために」

「なにが俺を数うため、だ」しばらく沈黙が続いた後、俺は言った。「俺は、お前に信用されてなかったってことじゃねーか」

「それは違うわ。ショウ」

「違わねーよ。一度でも話してくれれば、俺だって真剣に考えた。状況だって変わったはずだ。でもお前はそれもせずに、俺なんかより、《WIZDAM》が計算した占いを信じたってことじゃねーか」

「占いですって?」カーラが振り向く。運転中で一瞬しか顔を見られなかったが、明らかにカーラの顔に敵意が現れている。しかし、俺は動じない。

「ああ、占いだ。人類史上、最も精度が高いことは認めるがな」

「占いじゃないわ。《WIZDAM》が算出した完璧な行動予測よ。そのおかげで、あなただって生き延びてこれた。違う?」

「ああ、そうだ」確かにそうだ。カーラのリードアヘッドがなかったら、俺はいくつもの危機を乗り越えることができなかった。だが――

「未来は変えられる! 《WIZDAM》が決めたクソッタレな未来よりも、俺は自分で選んだ道を行く! そのために、バンディットになったんだ!」

「子供ね」

「ああ、子供だ! ガキだ! だからどうしたっていうんだ!」

「あなたは未来に固執し過ぎている。未来に過度な希望を抱き過ぎている。過去の記憶が無いからって」

「未来に固執しているのは、お前もだろ!」

 その言葉に、カーラは返す言葉が見つからなかったようだ。目を大きく開きながら、唇が小刻みに震えている。だが、俺は続ける。

「じゃなかったら、何でお前は俺たちの未来なんかを全部見ちまったんだ! んで辛くて悲しい未来だったからって、なに全部を自分で背負い込んで、なに勝手にねちまってんだよ! どう考えても、お前の方がガキだろうが!」

「あなたにはわからないのよ!」

「そうだ! わからない! わかりたくもないね!」

「だからあなたは――」

 カーラの言葉が、途中で途切れた。

 当然だ。なぜなら、言葉の続きは俺の唇が遮っちまったからな。

 その時、カーラがどんな顔をしていたかは知らない。俺は目を瞑り、強引にカーラの唇を奪ったんだ。

 だが、カーラにそれを拒む様子はなく、静かに、それを受け入れていた。

「だから?」俺はそっと唇を離し、聞く。「だから、何だっていうんだ」

「何のこと?」

「さっき言おうとしてた続きだ。だから俺は、何だっていうんだ?」

「さあ? 何だったかしら?」

 カーラは、短く溜息をついた。そして今度は勢いよく抱き着き、俺に熱いキスをした。もちろん、俺はそれを受け入れるだけだ。拒む理由が、どこにある? 俺はハンドルから手を放し、カーラを強く抱きしめる。

 頼ることが嫌いな俺だが、このときばかりは、メルセデスのドライブアシストに感謝した。

 最高にいいムードと、最高にいい車。これ以上、何を求める必要がある? 普通の映画だったら、ここで感動的なエンディング曲が流れてエンドロールが始まるもんだ。

「どうする? このまま、素敵なドライブを二人で楽しんじゃおうか?」

 惜しむようにお互いの唇を離したとき、俺は言った。

「そうね。そうしたいところだけど……」

 カーラが遠くに視線を向けた。俺もその視線を追う。かなり遠いので、イアークのズーム機能を使う。そして目に映ったものを見て、俺は落胆する。

「どうやら、ヤキモチを焼いている人がいるみたいよ」

 カーラの視線の先にいたもの、それは猫忍者――つまり、リディアだった。

「こりゃ、最高だ」

 リディアは高層ビルの屋上に立ち、素顔と表情は黒い戦闘用ゴーグルで隠し、猫耳型のセンサーの先端を赤く光らせている。

「賑やかになるわね」

「だな。だが俺としては、このムードをもう少し楽しみたかったよ」

 リディアが高層ビルの屋上からジャンプする。

 はたから見ると、完全な自殺行為。だがそれくらいじゃ死なないことを、俺たちはよく知っている。

 俺はアクセルを踏み、車のスピードを上げる。トロトロ走ってると、あいつの絶好の的になってしまう。

 さすが新型のメルセデスのスポーツカーだけあって、加速は申し分ない。時速は数秒で200キロを超える。

「そろそろ、教えてくれてもいいんじゃないか?」俺はカーラに聞く。「あいつの……リディアの正体を」

 しかし、カーラは俯きながら、黙ってる。

 俺は続ける。「あいつは言ってたぜ。お前のこと、ママだって。まさかとは思うが、お前、ホントに産んだわけじゃないだろうな?」

 どう考えても、今のカーラの歳で、14歳かそこらのリディアを産んだとは思えない。じゃあ、カーラは身寄りがいないリディアを里親として受け入れたのか? それとも、本当にカーラは幼い頃にリディアを生んだのか?

 だが、いずれの予想を裏切る答えが、カーラから帰ってきた。それは、こうだった。

「リディアは、あなたの娘よ。ショウ」

 その言葉を聞いて、俺の脳細胞はショートする。

 と同時に、高層ビルから飛び降りたリディアが着地する。着地した場所は、俺たちが走るこのハイウェイ、前方約100mほど先だった。

 直後、凄まじい衝撃波が襲う。

 まるで台風と竜巻が同時に起こったような混沌。

 リディアが着地した地点を中心に、その異常気象が巻き起こる。

 衝撃波は柔らかい絨毯を上下にウェイブさせるようにハイウェイをうねらせる。そしてその上を走っていた車は、叩かれた埃のように次々と舞い上がっていく。その衝撃波は、俺たちにも迫る。

 このままでは、俺たちまでもが、あのとんでもない衝撃波に巻き込まれちまう。

 俺はすぐさまハンドルを切り、180ターンさせながら反対側の車線に移る。

 車の向きが変わったと同時に、アクセルを全開にする。

 バックモニター越しでは、すぐ後ろにいた車、つまりさっきまで前を走っていた車が、宙に舞い上がる。

 思わず俺は叫んでいた。

 叫びながら、アクセルを踏み続ける。

 メルセデスの性能をフルに使い、全速力で前に出る。時速は一気に200㎞を超える。

 車を次々と追い抜く。

 追い抜いた車は、衝撃波の餌食だ。次々と宙に舞い上がっていく。

 もはや無心だった。

 無心でアクセルを踏み続ける。

 だが新型のメルセデスでも、襲い掛かってくる衝撃波のスピードを凌駕することができない。

 このままでは、数秒後に衝撃波に呑み込まれてしまう。

 そこで俺は思いつく。一か八かの選択だ。

 それはこのハイウェイから飛び降りること。

 だがそれをカーラから了承をもらっている時間なんて、もちろんない。だから俺は、

「行くぞ!」

 とだけ言って、ハイウェイのガードレールに突っ込む。

 ガードレールは簡単に吹っ飛び、と同時に、俺たちの乗ったメルセデスは空中に飛び出す。目を瞑っている暇はない。瞑った一瞬の隙が、多分、命取りになる。

 そんな俺の判断は、珍しくも正しかったようだ。

 衝撃波が俺たちの後ろギリギリのところで通過。それをバックモニターから確認できる。

 しかしご存知の通り、これで万事オーケーというわけじゃない。俺たちは今、ハイウェイを飛び降り、車に乗った状態で地上から十数メートルの闇に放り出されているんだ。

 これが遊園地のアトラクションだったら、どれだけ良かったか。なんて考える。ギャー!と叫ぶだけ叫んでも、最後はちゃんとおうちに帰れる。

 でも俺たちのいる状況は、安全なんて確保されてない、ガチでヤバい状態だ。

 それでも俺の運はまだ尽きちゃいない。

 ハイウェイから大ジャンプしたその先に、ビルの屋上があった。

 俺はそこに着地する。

 だがビルの屋上に磁気舗装なんてされているわけがない。

 だから超電導ホバークラフト式のこの車は、屋上の上で浮遊できない。

 車体がガン!と叩きつけられる。

 あまりにもの衝撃で、車が何度かバウンドする。

 だが車は停まらない。停まれない。

 磁気舗装されていない場所で、ブレーキは利かない。

 それに屋上のアスファルトと車体の摩擦力だけじゃ、時速200㎞という運動エネルギーをすぐに相殺できない。

 だからこの車は屋上の上をソリのように滑る。

 それだけならいい。それだけならいいのだが、その先にはなんと、大きな看板広告があった。

 ビルの屋上に取り付けられている、屋外広告だ。

 そして看板広告の中で、ニゲラが微笑みながら飲料水を飲んでいる。グッドテイスト!と親指を立てている。

 そこに、俺たちは突っ込む!

 俺は無心で叫ぶ。衝撃に備える。

 しかし――車は看板広告をすり抜けた!

 あの看板広告は、ホログラムだった。

 でも安心できない。看板広告をすり抜け、屋上を滑りきったこの車は、再び宙に放り出される。

 俺はまた叫ぶ。

 だが、俺は気付く。

 俺たちの下、車の落下軌道上に、ハイウェイが奇跡的に重なっていることに。

 このチャンスを逃すわけにはいかない!

 俺は超電導の出力を最大にし、磁気舗装されたハイウェイに何とか噛みつく。

 結果は成功! 俺たちはリディアの衝撃波から逃げ切り、再びハイウェイに復帰した!

「はは!」俺は興奮を抑えきれず、思わず笑い出してしまった。「どうだ? カーラ! 最高のライドをお楽しみいただけたか!」

「そうね」既にぐったり気味のカーラは、力なくそう言う。「もう少し若ければ、楽しかったかもね」

「おいおい。婆さんくせえこと言うには、まだ早すぎるぜ。ところでカーラ、あの衝撃波は何なんだ?」

「高い所から飛び降りて着地した時のショックを衝撃波に変換してるのよ。さらにその衝撃波はブレードのエネルギーパックを介してブーストされている」

「子供には、行き過ぎたオモチャじゃないのか?」

「あの子を守るためには、それくらいの力が必要だったのよ」

「そうか? せいぜい本物そっくりのモデルガンで十分だと思うぜ」

「あの子の体は、ほとんど動かないの」

「冗談。今どきの子供にしちゃ、元気すぎるぐらいだぜ」

「元気に動き回れてるのは、フルアシストのアサルトスーツのおかげ。それがなければ、彼女はずっと、車椅子生活よ」

「なんだよ……それ」

「そもそも、あの子はこの宇宙せかいに産まれてくることが許されていない存在なの。なぜなら、私はあの子を一度、流産しているから」

「お前、まさか俺と別れる直前に――」そこで俺は、“あること”に関する合点がいった。「もしかして、それがきっかけで……」

 カーラは頷く。「私は、あなたの子供を身篭ったの。そのことがきっかけで、私はあなたの正体を知ろうと、日々プランクデータベースをさまよい、隠蔽されたデータにたどり着き、あなたとニゲラの関係を知り、そして私は、自分の未来と、あなたの未来、さらにニゲラの未来をリードアヘッドした。自分に起きた生命の奇跡に動揺し、正確な対処方法がわからなかったから……未来に、それを求めた。でも、その未来には、あなただけじゃなくて、リディアもいなかった。実際、リディアは私の流産が原因で、産まれてくることができなかった」

「流産の治療なんて、今ならいくらだってできるだろ」

「もちろん、ありとあらゆる手段を使ったわ。黄体機能不全対策、子宮内膜機能不全対策、高プロラクチン血症対策……。それでも、駄目だった。原因がわからないまま、治療は尽く失敗し、結局、私はリディアを生むことができなかった」

「そんな……おかしいだろ」

「それがこの宇宙せかいの選んだ一つの答え。いわば選択肢。知ってるでしょ? この宇宙の原理は、量子アニーリングによって必ず効率的な選択肢が一つだけ選ばれる。つまりあの子は、この宇宙せかいから非効率と判断され、産まれてくることが許されていないのよ。たとえ産まれてきたとしても、下半身が弱いあなたの遺伝子を引き継いだあの子は、若くして筋萎縮性側索硬化症ALSのような神経障害を発症し、二十歳を迎える前に声帯が麻痺して声が出なくなり、やがて呼吸器官も麻痺して、最後の言葉を残すことすらできずに、死ぬの。だからリードアヘッドの結果からも、私たちは引き裂かれる運命だったのよ」

「待て! 意味がわからない! 仮に産まれてくることが許されていないとしても、何でリディアは今ここに存在しているんだ?」

 そこまで言って、俺は気付いた。それは決してやってはいけない、禁断の方法。

「お前、まさか?」

「そう。私はあなたとのプランクデータを《WIZDAM》によって交配シミュレーションさせ、それを私がいたspaceCODE の3Dプリンタで出力した。でも簡単じゃなかった。どんな処置を施しても“流産”という結果は変わらないから、シミュレーション上で出産母体を他人に変え、何とかリディアのプランクデータを生成した。だけど原因不明のバグが存在し、健常体を作り上げることができなかった。いろんな医療パッチを当てても、データに不備が付き纏う。まるで呪いのように、宇宙がかたくなに彼女を否定しているように、筋萎縮性側索硬化症ALSと似て非なる、今の医療技術と医療知識をもってしても正体を付きとめることができない、謎の神経障害が必ずリディアに発症する。病気の正体がわからないから、データのデバグができない。だから仕方なく、バグがはらんだ状態のまま、私はリディアを出力し、フルアシスト搭載のアサルトスーツでリディアの身体的不備を補完した」

「そこまでして、どうしてあいつを出力する必要があったんだ。酷すぎるだろ」

「さっきも言った通り、全てはあなたを救うためよ。ショウ。ハヤトのリードアヘッドを掻い潜りながらあなたからワイルドカードを奪うためには、パーフェクト・トゥモローの管理下には存在しない完全な異常要素アノマリーを作り出し、それに私のプランを実行させる必要があった。そのために、私たちの未来には存在しなかったリディアを作り上げたのよ。まあ、その結果は成功したとは言い難いけどね」

 俺は深い溜息をつく。運命という奴が目の前にいたら、中指を立ててやりたいくらいだ。

「とりあえずカーラ、俺たちはあいつに、何をすればいい? 何をすれば、あいつは俺たちの言うことを聞くようになるんだ?」

「以前までは、シミュレーション上で生成したあの子のプランクデータを元にリードアヘッドを行い、その結果をアサルトスーツにインストールすることで、ある程度行動を制御してきた。けど、恐らくハヤトは私のインストールデータを削除しているだろうから、もう制御はできない。それどころか、もしかしたらそれにハヤトのリードアヘッドの結果が上書きされている可能性だってある」

「それはつまり、どういうことだ?」

「殺すしかないってこと……残念だけど」カーラは下唇を噛みながら言った。

 殺すしかない――その言葉が、黒いおもりとなって俺の心臓を押し潰そうとする。

 そのときだ。バックモニターにリディアの姿が見えた。

 あいつは両手と両足を使い、猫のような四足走法で高層ビルの側面を走っている。そしてフルアシストのアサルトスーツの動力を借りた凄まじい脚力で、整然と建ち並ぶ高層ビル群を次々と飛び移りながら、俺たちに迫る。

「たとえ、この宇宙がリディアを非効率な存在として拒絶したとしても、たとえ、ハヤトによって制御されているにしても――」

 俺はアクセルを強く踏む。

「――あいつは……リディアは、悪い子じゃない。そうだろ?」

「親ばかね」

 カーラは皮肉めいた笑いをする。だがそこに、失望は無かった。俯いた顔が、少し上がる。

「そうかもな。だからいろいろと片付いたら、ちゃんと説教して、しっかり躾をしてやらないとな」

「どうせあなたは甘やかすだけよ。叱るのは、どうせ私の仕事」

「そんなことはないさ。俺だって、叱るときは叱る」

「どうかしら?」

 リディアは膝に格納されたハンドガンを取り出し、俺たちに向けて発砲する。

 俺は咄嗟に車体を揺らし、ビーム弾を躱そうとする。が、何発か着弾してしまう。

「おいおい! 車に穴をあけるのはナシだぜ! これは俺の車じゃねーんだ!」

 しかし俺の声なんて届くわけもなく――届いたとしても聞かないと思うが、リディアは発砲を続ける。車体の穴は増え、運転席側の窓も割れる。

「どうせ持ち主に返すつもりなんてないでしょ?」

「だとしても、穴ボコにされてスクラップにされるのは御免だ!」

 俺はハイウェイを降り、市街地へと入る。なるべく狭い道に行って、リディアを巻くために。

 しかし俺とカーラという二人のバンディットの血がハイブリッドされた娘だ。俺がどんなに複雑なルートを選んでも、しつこく追い回してくる。狙ったものへの執着心は、DNAに刻み込まれているのだろう。

「ヘイ、カーラ! このままじゃ、俺たちは娘に屍を越えられちまうぜ! いずれはそうなるにせよ、今はまだ早すぎだ!」

「いい考えが欲しい?」

「そりゃそうだ! 俺は所詮、ANアカウント・ネゴシエーターだからな。胡散臭いトークでクライアントと有利な条件を交渉するのは得意だが、盗んだ未来ワイルドカードが無いと、ただのホラ吹きだ」

「じゃあ、一緒に未来を見るってのは、どう?」

「は?」

 俺は思わずカーラの顔を覗き込む。しかし前を見ていないと危ないことに気付き、すぐに視線を前に戻す。

「何言ってんだ? 《WIZDAM》はもういないんだ。お前も知ってるだろ? もうリードアヘッドはできない」

「《WIZDAM》がいなくても、リードアヘッドはできるわ」

 俺は一瞬、戸惑うも――

「止めろ!」カーラの意図を悟った俺は、叫んでいた。「危険すぎる!」

「確かに危険かもしれない。でも、やるしかない」

「ミラーリングで廃人になった奴はいっぱいいる。お前の精神だって、もたない」

【ミラーリング:アンダードームに格納されている人類のプランクデータから、記憶情報のみを抽出し、それを一度、余剰次元コードに圧縮されたプランクデータを素粒子情報に変換し、さらにそれを反粒子情報に反転複写してリードアヘッドを行う方法。反粒子は時間が逆行している、つまり時間が未来から過去に流れているため、記憶が保持している過去の情報分だけ、ミラーリングによって未来情報を取得できる】

「あら? こんな状況で、まだ私に気遣ってくれるなんて、嬉しいわ」

「冗談を言ってるわけじゃない! 今までのような、高度な占いをやるのとは、わけが違う! ミラーリングで見る未来は、必ず起こる、変えられない未来だ!」

「でも、未来を変えられるって言ったのは、あなたじゃない」

「それは……でも、これとそれとでは、わけが違う!」

「あなたが何を言おうと、私の考えは変わらない」

 そしてカーラはタッチパネルになっているフロントガラスに触れ、何かを操作し始める。

「何してんだよ?」

「ミラーリング用のアプリをダウンロードするのよ。容量が多いから、しばらく頑張って」

 直後、リアガラスが割れた。リディアが放ったビーム弾が直撃したのだ。

 俺は即座にハンドルを切り、違う道に入る。

「本気なのかよ?」

 アプリのダウンロードメータが増えていくのを見つめながら、俺は言った。

「冗談に見える?」

 カーラはそう言いながら、自分を含め、アンダードームに格納されているATLたちのプランクデータへハッキングを仕掛けていく。

「この車に搭載されているコンピュータの容量じゃ処理が間に合わないから、私の脳とアプリを連動させ、処理の一部を私の脳に委託させる。だからしばらく私は何もできないから、よろしく」

「よろしくって……」

 脳は一種の量子コンピュータであり、所持している記憶と把握している状況を照らし合わせて最も効率的な判断を下す量子的演算器官だ。だからこの車の量子回路とカーラの脳の量子回路を並列化して、それをアプリと連結させることで、処理速度を上げるとカーラは言っているのだろう。

「でもカーラ、イアークがないのに、どうやってそんなことができるんだ?」

 そうだ。今のカーラにイアークはない。執事に捕らわれていた時から、彼女のイアークは外されたままだ。

「イアークならあるわよ」

「どこにだよ」

「ここよ」カーラは包帯が巻かれた自身の額を指差す。「私の頭の中よ」

「おい待てよ! まさか自分の頭を切り開いて入れたってか? とんでもない大手術をしたな!」

「そこまでする必要はないわ。簡単よ。spaceCODEにいたときに、3Dプリンタで私の脳内に書き出しただけ」

 なるほど。だから《WIZ》の檻の中でカーラはリードアヘッドを行い、俺とリンクでき、かつアズラエルをハッキングできたってわけか。いずれこうなるだろうことを予測して。

「ったく。相変わらず、ぶっ飛んだ女だぜ。惚れ直すよ」

「ありがと。あと、アプリと私の脳は今、フロントディスプレイにも同期したから、私の見たミラーリングのビジョンはあなたの目の前にも表示されるわよ」

「安全運転が難しいね。今までと同じように、俺の脳に直接ビジョンを流し込んでくれればいいんじゃないのか?」

「それだと、あなたの意識が混乱して、錯乱する可能性があるわ。ミラーリングの情報量は計り知れないし、見るビジョンには他者の強い感情が伴うと言われているから、それに心が支配され、現実と区別がつかなくなる危険もある。だからミラーリングのビジョンはあなたの視界上だけに限定するのよ。このフロントディスプレイでね」

 意識の混乱、錯乱、心が支配される、現実と区別がつかなくなる……ちょっと待て! それと同じリスクを、カーラはミラーリングで背負うってことじゃないか!

「おい! やっぱり止めろ! お前がラリっちまったら、どうするんだよ!」

「そうならないために、あなたに傍にいて欲しいのよ」

「俺に何ができるっていうんだ?」

「処理中の私は完全に昏睡状態になるだろうから、目覚めの時にキスをしてくれれば、それでいいわ」

「はっ、眠れる森の美女じゃあるまいし。それに、またキスすんのか?」

「ロマンチックでいいじゃない。それにあなただって、まんざらでもないでしょ?」

「……否定はしない」

「でしょ? あと言っとくけど、昏睡状態中に変なことしたら、殺すわよ! キスしていいのは、目を覚ましてからだけにして頂戴」

「こんな状況でお前の尻が触れるんだったら、とっくにやってるよ!」

 見りゃわかるだろ。俺の手は、ハンドルを握るので精一杯だ。

 バックモニターに、後ろからリディアが猛スピードで追走してくる姿が見える。

「じゃあ、始めるわよ」

 と言った直後、カーラの首はガクンと項垂れた。突然意識を失ったように、全身の力が抜け、背中はシートにもたれかかる。一瞬、脳が焼けきって死んじまったんじゃないかと不安になる。

 だが次の瞬間、その不安が一瞬で上書きされてしまうほどの衝撃が走る。

 いつの間にか、バックモニターからリディアの姿が消えていた――と思った刹那――

 ――ドンッ!

 大きな振動が、車を激しく揺らす。

 状況を理解するのに、さほど時間はかからない。簡単なことだ。後方から追っかけてきていたリディアが、強靭な脚力でジャンプし、この車の天井に飛び移ったのだ。

 そうとわかれば、どうする?

 俺は銃を抜く。

 そして銃口を、天井に向ける。

 だが、トリガーが引けない。

 相手は、俺の娘だ。例え未来を先盗りしたテクノロジーで武装されていて、そう簡単にこの弾が当たらなくても、仮に3Dプリンタで出力された、偽りの生命体であったとしても――相手は、俺の娘だ。

 そんな俺が覚悟を決めかねているときだ。突然、鋭い光が天井を突き破る。

 リディアの剣が、天井を貫いたのだ。

 刃先が、調度俺の鼻先で止まる。

 思わず、俺は急ブレーキを踏んだ。目の前に突然現れた脅威に、反射的にブレーキを踏んでしまったのだ。

 そのおかげか、リディアは前に吹っ飛ばされる。

 さっきまで鼻の先にあった刃先も、消えて無くなる。

 吹っ飛んだリディアは、剣を持ったまま地面に転がる。

 見るからに、痛そうだ。

 思わず「大丈夫か!」と車を飛び出しそうになったが、その衝動をギリギリのところで抑える。そして俺は、一度停車した車を、急いでバックさせる。

 視界からリディアが小さくなっていく。もともと小さい体だ。すぐに見えなくなるだろう。そう思ったんだが――

 後部から走る衝撃。

 同時に、この車の動きも止まった。

 俺は急いで後方を確認する。

 最悪だ。

 割れたリアガラスからは、この車のリアバンパーと激突した車が見える。

 しくじった! 進行方向を逆走し、おまけに碌に後ろを見ていなかった俺が悪い。

 しかも最悪なことに、俺がいる場所は調度、交差点のど真ん中だ。

《WIZDAM》がいない今、高度に交通を自動制御できるものは何もない。だから危険を察知できない車が、いつ左右のどちらから突っ込んできても、おかしくない。

 さらに最悪なことが続く。

 リディアが立ち上がった。そしてこちらに向かってくる。それも、猛ダッシュでだ。

 俺は完全にパニくる。

 バックしても進まない。前進すればリディアの格好の餌食だ。じゃあ、どうすればいい?

 待て、ここは交差点だ。

 じゃあハンドルを切って、交差点を曲がればいいじゃないか! なんでそんな簡単なことがわからなかったんだ!

 だがその行動に移る前に、俺の視界が一変する。

 そして漂う無重力感。

 リディアが、レールガンか何かで俺たちを吹っ飛ばした? 

 違う。

 そんなんじゃなくて、単に俺たちが乗っている車に向かって、別の車が右から突っ込んできただけの話だった。

 おかげで俺たちが乗った車は、トルネードしながら宙を舞う。

 視界はどっちが空で、どっちが地面なのか、さっぱりわからない。

 目ん玉が洗濯機に放り込まれたように視界はグルグルと回り、唯一静止しているのは、フロントモニターの映像だけだった。モニターには、クルクルと回る俺たちが乗った車の外観が映っている。ああ、これはモニターの映像ではなくて、臨死体験時に見る、俯瞰した自分の姿なのかと思った。

 が、その車は見事着地、体勢を立て直して颯爽と走り出す。

 宙を舞っている俺たちの車は、ケツを打ち付けるようにリアバンパーを一度地面にバウンドさせる。そして二回目のバウンドの時には、調度ギリギリ、後ろのホバークラフト装置が磁気舗装された道路に噛みつく。

 次の瞬間、前方のホバークラフト装置の超電導出力を最大限にさせることで、車はあるべき姿勢、つまり車体が正位置で浮遊する。そして車は、再び走り出す。

 その映像を見届けた直後、ケツを蹴り上げられたような衝撃が、シートから伝播した。

 その瞬間、俺は気づいた。

 これは未来の映像だ。臨死体験時に見る、俯瞰した自分の姿なんかじゃない。いま俺の横で、ミラーリングしているカーラの見せるビジョンなのだ! 俺は確信した。

 この映像の視点は、恐らくバックしたときにぶつかったドライバーのものだろう。

 そこまでわかれば、後はこっちのもんだ。

 次にバウンドするタイミングはわかっている。そのときに前方のホバークラフト装置の超電導出力を最大限にし、体勢を立て直す。簡単だ。

 俺は未来の記憶を提供してくれたドライバーに感謝しつつ、ビジョン通りに車を操作する。

 成功した!

 しばらく車はウイリー走行状態になるも、その後はビジョン通り。出力MAXの前方のホバークラフト装置が道路を掴み、もとの姿勢を取り戻す。

 俺は思わず口笛を鳴らす。

 しかもフロントモニターに映し出されるミラーリングのビジョンは次々とアップデートされていく。誰かは知らないが、俺たちの未来の目撃者たちの記憶が、モザイク状に次々と表示されていく。

 そこには、紛れもなく、俺の未来が、俺のとるべき行動が、映し出されている。

 一方で、バックモニターには四足走法で俺たちを追跡するリディアの姿がある。

 だが問題ない。彼女がとる行動は見えている。

 次にリディアは、二刀の剣を並列に連結させたレールガンを四足走法の状態で背中にマウントさせ、それを俺たちに向けてぶっ放すらしい。

 これもビジョン通りだ。実際、リディアはいつも背中に背負っている二刀の剣を、腰から伸びる補助アームで連結させ、レールガンモードにした。それを俺たちに向ける。

 しかし標準先や発射するタイミングは既にわかっている。

 発射直後、俺はハンドルを切り、それを躱す。

 強烈な稲妻のようなビームは、運転席側のドアを一枚隔てて、ギリギリのところを通過する。

 凄まじい熱を一瞬感じる。おかげで、俺のもみ上げは少し焦げたんじゃないかと思う。

 そしてビームは俺の前を走る車に直撃。目の前に火柱が上がる。

 だが俺はそこに突っ込む。

 心配ない。

 未来の俺が、そうしている。

 レールガンを食らった車は大破し、残骸は全て宙に吹き飛ばされている。だから変にハンドルを切らなくても、火柱の中を突っ込んでいけば安全だ。一瞬だけ炎に包まれるだけなら、大丈夫だ。

 だから俺は火柱の中に突っ込み、無事に抜ける。

 その後、リディアは何発ものレールガンをぶちかましてくるが、俺はビジョンを頼りにそれらを全て躱す。

 これでは埒が明かない。リディアはそう思ったのだろうか。彼女は突然、速度を上げる。

 そしてそれは、電光石火のごとく、一瞬で俺たちを追い抜いた。

 それから背中にマウントされていたレールカンモードの剣は、二つに分かれ、連結が解除される。

 背中で別れた二刀の剣は、今度は翼のように左右に開く。

 直後、リディアは立ち止まる。そしてUターン。

 今度は背中で二刀の剣を左右に広げたまま、四足走法で俺たちに向かって突っ込んでくる。

 オーケー! 度胸試しといこうじゃねーか!。

 俺は磁気舗装された道路のコイル電圧操作レバーを握る。これはどの車にも付いている。例えば立体駐車場を使うときに、道路の電圧を上げることで浮力を上げ、高い位置にまで車体を浮かせるときに必要な機能だ。

 だがこれを使うのはまだだ。あともう少し。あともう少しリディアを引き付けてからだ。

 そしてリディアが目の前に迫る。

 今だ!

 俺はコイル電圧操作レバーを一気に上げる。

 すると車は勢いよくジャンプする。

 2メートルくらいは飛んだだろうか? その成果もあって、俺たちはリディアを飛び越した。

 爽快感を胸に抱えたまま、俺たちは着地する。

 最高だ! カーラのミラーリングのビジョンで、全てがわかる! リディアの攻撃パターンも、これから俺たちがどうやってアンダードームに向かえばいいのかも!

 しかしだ。浮かれてばかりもいられなかった。

 なぜなら、俺は見てしまったからだ。この事件の結末を。

 そこには、俺はもちろん、カーラやリディア、ハヤト、ニゲラ、カンナの未来も含まれている。

 そしてこの結末には、この事件の最後を迎える頃には、俺とカーラは、生きていなかった。

 そのビジョンに、俺は愕然とする。それはきっと、カーラが《WIZDAM》でリードアヘッドした俺たちの未来なんかよりも、悲惨だ。

 そのショックで、今まで見てきたミラーリングのビジョンの内容が、頭から消し飛ぶ。

 その間に、リディアは飛翔する。地上10メートル以上も飛び上がる。あれは何のためだっけ? またあの衝撃波を発生させるためだっけ?

 いや違う! そうじゃない! だが今さら、ミラーリングのビジョンを思い出しても遅かった。

 空中にいるリディアは、既に背中にマウントさせた二刀の剣を両手で持った後だった。そして再びそれを連結させ、レールガンモードにする。

 それからだ。夜なのに、まるで太陽が突然現れたかのような眩しい光が空に輝く。その光は、レールガンにエネルギーがチャージされる際に出現した光だ。

 それがわかった直後、凄まじいエネルギーが上空から放たれた。

 このままでは直撃する。

 咄嗟に、俺はブレーキを踏む。

 その判断が、ミラーリングで見たビジョンと一致しているのか、もはやわからない。俺は混乱している。未来しかなかった俺に、未来が無かったから。

 さらに事態は深刻化する。

 直径5メートルはあるだろうか? とにかく太い、巨大な神殿の柱のようなビームが、いきなり道路に突き刺さる。

 圧巻だ。まるで神が下した人類に対する制裁のように、神々しく、圧倒的な光景。

 それと同時だった。道路が突然、崩落し始めた。

 いま気付いたことだが、俺たちが走っている場所は、かなり大規模な立体交差の上の道路だった。だからこのままでは道路の崩落に巻き込まれ、瓦礫に紛れて落下してしまう。

 俺はブレーキを踏み続けるも、高速で走っていた車は簡単には停まってくれない。

 車は虚しくもズルズルと道路の上を滑る。

 そしてついに、俺たちは道路の崩落に巻き込まれてしまった。

 どうすればいいんだ?

 しかしフロントモニターに映し出されているミラーリングのビジョンは、なぜか真っ黒だ。既に全てのミラーリング処理が終わったのか? それとも、それが人類の未来の終焉の有様なのか? いずれにせよ、この状況を切り抜ける方法を、モニターはもう示してくれない。そしてそんな真っ黒で何も語らないモニターは、全身が叩きつけられるような衝撃と共に、割れた――


 ――――一瞬、気を失っていたかもしれない。

 目を開けた時には、視界が反転していた。下に天井があり、上にアクセルとブレーキのペダルがある。

 どうやら、車は完全に反転しているようだ。

 しかも焦臭い匂いが、車内に充満している。

 早くここから出ないと、ヤバいことになりそうだ。俺は七面鳥じゃないんだ。丸焼きは御免だ。

 助手席には、カーラがいる。彼女もシートベルトで固定された状態で、逆さまになったまま気絶している。

 とりあえず、俺は自分のシートベルトを外す。外した瞬間、俺の体は天井に落ちた。

 全身が痛い。それはたった今落ちた衝撃の痛みだけではなく、立体交差から落下したときのダメージが、体の奥深くに刻まれているせいもある。

 しかし、生きているのはラッキーだ。メルセデスの頑丈なフレームと安全性能がなければ、手足と首は衝撃で捥ぎ取られていただろう。

 それより、早くカーラを助けないと。

 天井には割れたフロントガラスの破片が散らばっている。

 その上を、俺は四つん這いの姿勢になりながらカーラに近づく。腕を前に出す度に、ガラスの破片が掌に刺さり、鋭い痛みが走る。カーラの元にたどり着いた時には、既に手は血だらけだった。

 そして血だらけになったその手で、俺はカーラのシートベルトを外す。

 カーラも天井に落ちる。

 俺はそれを受け止めようとするが、うまくいかない。結局、カーラも全身を下にある天井に打ちつけてしまう。そのおかげと言っていいのか、カーラは目を覚ました。

 だが直後、カーラは奇声を上げた。

 しかも手足をバタつかせ、そのせいで俺は二、三発の蹴りとパンチを食らった。

「落ち着け! カーラ!」

 彼女は錯乱している。ミラーリングで見たビジョンが強烈過ぎて、目覚めてもそれと現実が区別できないでいるんだ。だから俺は、そんな彼女を未来から現在に呼び戻さなければならない。

「カーラ! 大丈夫だ! 俺は生きてる! お前も生きてる! まだ、生きてる!」

 しかしカーラの錯乱は止まない。暴れ続ける。

 畜生! このままじゃダメだ!

 おまけに車内の温度も、かなり上昇している。もうサウナより熱い。それが原因で、俺の思考力もかなり鈍り始める。この車が爆発するのが先か、リディアが襲ってくるのが先か? 

 くだらねー! そんなことを考えるより、ここから出ることを考えろ! ショウ!

 俺は暴れるカーラを抱きしめ、ひっくり返ったメルセデスからの脱出を試みる。

 ドアは車体が酷く歪んでいるせいで、開きそうにない。

 なら、割れた窓から出ればいい。

 窓が完全に割れているのは、フロントとリアと運転席側の3つ。しかしフロントは瓦礫で完全に塞がっているから、運転席側から脱出するのが一番早そうだ。

 しかしだ。

 後部座席から、炎が上がった。

 それを見たカーラが、さらに暴れる。

「落ち着け!」

 カーラが手足を激しくバタつかせるせいで、割れた窓から出ることができない。しかもこの車はスポーツカーだから、窓枠が低く、一人ずつじゃないと出られない。

 カーラを置いていく? そんなこと、できるわけないだろ!

 この状況を何とかするには、ここでカーラの正気を取り戻さないといけない。

 鈍った脳みそを気力で奮い立たせながら、俺は何とか正しい判断を下す。

「カーラ! 落ち着け! 俺だ! 俺は生きてる! お前も生きてる!」

 しかし俺がどんなにカーラを呼び続けても、カーラは奇声を発し続け、暴れるだけ。未来に、憑りつかれたままだ。

 こうなったら、もう自棄やけだ。

 俺は暴れるカーラの上に跨る。

 その状態のまま、振り回す腕を何とか抑える。途中、何度か殴られたが、俺は耐える。

 そしてカーラの唇に、キスをする。

 それは優しいキスではなく、乱暴で、荒々しいキスだ。

 まだお互いが若かった頃、酔った勢いで抱き合った時にしていたような――何も考えず、手っ取り早く心と体をぶつけていた時にしていたような――キス。

 だが、これでいいんだ。これが、俺たちの過去だ。

 俺たちの過去を突きつけることで、カーラを未来から取り戻すんだ。これが、俺にしかできない、カーラへの呼びかけなんだ。

 すると、カーラの暴行が止まった。

 俺の呼びかけが未来に届いたのか、カーラの全身を支配していた筋肉の緊張が、解けていくのがわかった。

 そして俺は、カーラから唇を離す。改めて、カーラの顔を見る。

 カーラの瞳からは、薄っすらと、涙の層が浮いていた。

「おかえり。カーラ」

 俺はカーラに呼びかける。するとカーラは、こう言った。

「……バカ」

 その言葉に、俺は思わず吹き出し笑いをしてしまう。「何だよ、眠れる森の美女にしては、言葉遣いが悪すぎやしないか?」

「だって……あなたは……私たちは――」

「もういい。それ以上言わなくても。大丈夫だ。俺は生きてる。お前も生きてる。まだ、生きてる」

 そしてもう一度、お互いの生を確かめるようにキスをしようとした――そのときだ。

 いいムードをぶち壊すように、爆音が車内に鳴り響いた。

「この続きは、ここを出てからだな」

「……そうね」

「まずはお前からだ。カーラ」

 俺は跨っていたカーラの体から降りる。そして割れた運転席側の窓を指差す。

「あら、どういう風の吹き回し?」

「どうって、レディーファーストだよ」

「そうかしら? 下から私のお尻でも見ていたいんでしょ?」

「まあ、それもあるがな」

 そんなジョークを言いながらも、カーラは細い体を滑らせ、運転席の狭い窓からさっさと外に出ていった。尻をじっくり拝む時間は、全くくれなかった。

 それからカーラは俺に向かって手を差し伸べる。

「ねえ、私がミラーリングしている間に、変なことしなかったでしょうね」

「そうだな」俺はカーラの手を取る。「尻を揉むか、胸を揉むかで、迷ったよ」

「で、どこを揉んだわけ?」カーラは俺を引きずり出そうと、外から引っ張る。

「知りたい?」

 だが俺の体は、思うように窓から出られない。体のどこかが引っかかっている。

 その間に、車内に炎が侵食してくる。足元が、異常に熱い。

「いいわ。知りたくない。それより、あなた太ったでしょ?」

「そんなことないさ。俺のアレが大きすぎて、引っかかってるだけだよ」

「そう。ご立派だこと」

 その言葉の後、カーラは渾身の力を込めて俺を引っ張り上げる。俺はカーラの助けを借りながらも、何とか踏ん張り、外に出ようとする。しかし上半身まで出たところで、また体が挟まって出られない。

「ちょっと! あなた去勢した方がいいんじゃないの?」

「待て! そんなことしたら、その後の俺の人生はどうなるんだ!」

「さあね。せっかく煩悩を捨てられるんだから、僧侶にでもなったら?」

「ああ、いいアイデアだ」

 だが、俺の脱出は間に合わなかった。

 ついに車が爆発する。

 言うまでもないが、俺は爆風に巻き込まれる。

 俺の人生も、これまでか……なんて、一瞬思った。

 なんせ体が吹っ飛んだんだ。そして全身が叩きつけられたような痛み。いや、実際、全身を叩きつけられた痛みだ。そして手足がバラバラに砕け散ったような感覚麻痺。こればっかりは、冗談抜きで、例えであってほしい。

「ぁぁ……」

 俺は情けない呻き声を漏らしてしまう。

 視界には、燃え盛るさっきまで乗っていたメルセデスの赤いスポーツカー。それが、ぼんやりと映っている。

「大丈夫!?」

 そう叫びながら、カーラが走り寄ってきた。

「さあな……」俺は何とか返事をする。「それは……お前が見た方が……わかるんじゃないのか?」

「そうね。とりあえず、生きてるわ。手足も、ちゃんとある」

「そりゃ……良かった」

 それを聞いて、俺はひとまず安心する。それから起き上がろうとする。だが、うまくいかない。何か大きな重りが、体にまとわり付いているような感覚。

「動かないで!」カーラが叫ぶ。「まだドアが体に挟まってる!」

 ホントだ。俺のへその辺りで、まだドアが挟まっていた。どうやら、俺が吹っ飛ばされたときに、このドアも一緒だったらしい。まあ、そのおかげで俺は無事だったわけだ。じゃなきゃ、俺は今頃あの燃え盛る車の中でバーベキューだ。

 俺は腹に挟まったドアを外そうとする。それをカーラが手伝う。下にずらしても抜けないから、上着を脱ぐようにして上半身からドアを外した。

「ま、とりあえず、去勢はせずに済んだだろ?」そう言いながら、俺は立ち上がる。

「そうね。でも去勢するより、状況は最悪かもよ」

 カーラの視線が、ずっと向こうを捕える。俺はそれを追う。

 そこには、街の無秩序なネオンと、規則的に配置された街灯に照らし出される道路の真ん中を堂々と歩く、リディアの姿があった。未来から盗まれたテクノロジーで完全武装され、かつライトアップされながら堂々と歩くその姿は、PMCの武器見本市でよくあるランウェイショーを彷彿させた。

「あいつは育て方を間違えなければ、将来、いいモデルになるかもな」

「娘の将来に夢を馳せるより、ここは早く逃げるわよ!」

 カーラは俺の手を引っ張り、走り出す。

 全身を打ちつけた痛みの残留が、全身を駆け巡る。だが俺はそれを我慢して、カーラについていく。崩落した立体交差の巨大な瓦礫と、下でそれに巻き込まれた車の残骸とで、足場は最悪だ。しかもこの下に、ATLが何人か生き埋めになっているようだ。薄っすらと、瓦礫の隙間から呻き声が漏れてくる。

 でもだ。俺とカーラに彼らを助ける余裕はない。そんな非情な俺たちを恨み、先に行かせないように、巨大な瓦礫が行く先を塞いでいる箇所がいくつもある。

 しかし未来を知っているカーラは、どこをどう行けばここを簡単に抜けられるのか、そのルートをわかっているらしい。ATLの呪いなんてもろともしないように、何の戸惑いもなく、カーラは足を止めずに走り続ける。一見、瓦礫に塞がってしまっていると思われた所でも、ギリギリ体が通れる隙間を即座に見つけては進むのだ。

 だからと言って、まだ安心できない。俺たちの後ろで、リディアが発砲する。

 全身の骨が凍りそうな恐怖と焦り。

 しかしカーラはリディアが放つビーム弾の軌道すら知っているのか、大きな瓦礫を盾にするように隠れながら走り、うまく躱していく。俺の前でカーラは、長い髪を靡かせながらずっと走っている。その髪には、僅かな香水の香りと、カーラの汗の臭いと、焦げたアスファルトの臭いとが、混ざっていた。

 確かに、俺だってこの先の未来を知っている。今から俺たちは、地下鉄を使ってアンダードームに乗り込む。

 アンダードームはボウルシティの地下深くにある。本来なら、そこに行くためにはCentral◒Houseの一部の社員しか使用できないエレベータに乗らなければならない。しかし緊急避難経路として、実は地下鉄とアンダードームは密かに直結している。そのルートを使って、俺たちはアンダードームに乗り込む、ってのが、俺が知っている未来だ。

 しかしその未来は、あくまでカーラがミラーリングしたビジョンを、モニター越しで断片的に見たものに過ぎない。未来を垣間見た俺と、実際に体験したカーラの違いは、凄まじく大きい。だからカーラの行動は、こうも的確なのだ。

 俺とカーラはリディアの攻撃をよけながら瓦礫一帯を抜け、大通りに差し掛かる。大通りは、意外にも渋滞していた。近くでサリクスのテロがあり、避難しようとしているのだろうか。その憶測を裏付けるように、近くのビルで爆発が起きた。

 急いで駆け付ける救急車のサイレン音と、救命ヘリの音が遠くから聞こえてくる。

 俺とカーラは渋滞している大通りに飛び出す。

 車と車の間にできたほんの僅かな隙間に、細い糸を通していくようにカーラは走る。それに俺が従う。

 突然、車道に飛び出してきた俺たちに対して、クラクションのバッシングが容赦なく浴びせられる。しかしそのバッシングは、突然の爆発音で掻き消された。

 目の前の車が爆発したのだ。

 ATLの悲鳴。

 だが俺は怯まない。走り続ける。後ろを振り返る暇なんてない。

 後ろを振り向かなくても、リディアがレールガンで車を爆発させたことくらい、わかる。

 だから前を見続ける。

 そして見えた。地下鉄への出入り口。

 大通りを渡りきった俺たちは、何の迷いもなくそこに入る。

 ボウルシティの地下鉄は、BTLの管理居住地区であるHeavenSの地下鉄よりも出入り口が広い。高級デパートの地下エントランスのようだ。そして横に五人は並べそうな広いエスカレータが、登り用と下り用とで二列、下に向かって深く伸びている。だがここを急いで駆け降りても、その間に狙い撃ちされないか心配だ。

「これじゃ俺の背中が不安だ」

「じゃあ、これでどう?」

 カーラがそう言った直後、地下鉄の出入り口のシャッターがいきなり閉まった。おそらく地下鉄のシステムにハッキングを仕掛けたんだろう。

 そのせいで登りエスカレータから外に出ようとしていたATLの連中がシャッターにぶつかり、怒声と罵声が俺の背中で飛び交う。

「どうせすぐに打ち破られる。あのレールガンでな」

「でも、気休めにはなるでしょ?」

「どうかな?」

 そんな会話をしながらも、俺たちは急いでエスカレータを駆け降りる。だが案の定、後ろで金属が破裂し、ひしゃげる豪快な爆発音が轟く。シャッターがレールガンで撃ち破られた音だ。

 しかしこのシャッターが多少の時間を稼いでくれたのは確かで、爆発音が轟いたと同時に俺たちはエスカレータを降り切った。

 そのまま改札に向けて猛ダッシュ。

 ホームには調度、電車が停車しており、発車ベルが鳴っている最中だった。

 だが改札を抜けようとしたその時、電車の扉が閉まり始める。

 俺たちは急いで改札を抜けるも、間に合わない。無情にも、電車の扉は閉まってしまう。

「クソ!」

 俺が汚い言葉を吐き捨てた時には、電車は走り始めていた。ホーム上で、規則的に並んだ電車の窓が流れ出す。

「諦めるのは早いわ!」

 カーラが叫ぶ。そして指差す。そこにはなんと、最後尾車両の一番後ろに、一つだけ開いたドアが。

 カーラが開けてくれた、救いの扉だ!

 とにかく一心不乱で、俺たちはそこに飛び込む。ヘッドスライディングする要領で、頭から開いたドアに突っ込む。

 直後、ドアが閉まる。そのときの俺たちは、電車の床で体を滑らせていた。そして体は止まる。

「何とか……間に合ったようだな」

 俺は体を起こしながら、言う。それから床に倒れているカーラに手を差し伸べる。

「そうね」カーラは俺の手を取る。「でも、これで終わったわけじゃないわ」

 確かにそうだ。カーラがミラーリングで見せてくれたビジョンには、まだ続きがある。

 俺はカーラの手を引っ張り、起こす。彼女も相当疲れているのか、酷く息が切れていた。

 電車内には、これも避難目的だろうか、かなりの乗客がいた。だが混んでいるわけではない。ボウルシティの地下鉄車両は、HeavenSのそれと違ってかなり広く造られている。たぶん、テニスコートくらいの幅はあるんじゃないだろうか? シートは5列並んでいるが、その間の通路も広い。だから大勢乗り込んだとしても、まだ空間に余裕がある。でも空間に余裕はあっても、心に余裕はないようだ。なぜなら、出発直後に強引に乗り込んできた俺たちを、彼らは奇異な目で見つめているからだ。

「どうやら、俺たちは歓迎されていないようだな」

「そうね。でも、もう一人、ここに乗りたがっている人がいるみたいよ」

 呆れた表情で、カーラは電車のリアガラスに視線を向ける。そこにあるのは、暗闇の中を流れるレール。しかしそれだけじゃない。レールの上には、四足走法で猛烈なスピードで追いかけてくる一人の少女の姿が確認できる。

「ったく、乗り遅れたら次の電車を待てと、誰かが教えてやれ」

「それは私たちの役目よ」

「……そうだな」

「とにかく、先頭車両に逃げましょ。うるさいパーティは嫌いなの」

「俺もだ」

 俺たちは先頭車両に向かって走る。アンダードームに向かうためにも、電車の中央制御システムのバイパスとなる運転席からハッキングして、アンダードームへのルートを開き、そこを手動運転で進まなければならない。運転室は最後尾車両にもあるが、今そこにいたらハチの巣にされるか、斬り刻まれるか、のいずれかだ。

 先頭車両に向かう途中、リアガラスが割れる音を背中で受け止める。

 その瞬間、車内に悲鳴が轟く。

 それと同じくして、乗客たちも前方車両に向かって逃げ始める。

 そして恐怖は悲鳴を媒介して一気にこの電車内全域に感染し、乗客全員がパニくり始める。空間的にも比較的余裕があった車内だが、この混乱で乗客たちが前方車両に押し寄せてしまう。そのせいで、俺たちの周りが瞬く間に満員電車のようにすし詰め状態になる。人が人を遮り、思うように進めない。

 このままじゃ先頭車両にたどり着けないし、乗客たちも危ない。

「あー! 畜生! これじゃ埒があかねー!」

 何かがプツンと切れた。俺は一度、足を止める。次に俺は、先頭車両とは反対方向、つまりリディアのいる方向へと足を進め始めた。

「ショウ! 待って!」

 後ろでカーラが叫ぶ。でも俺は、足を止めない。模造品とは言え、ホントに俺のDNAを引き継いでいる娘なら、話せばわかるはずだ。

「ダメよ! ショウ! 話しても無駄よ!」

 カーラは未来だけじゃなくて俺の心まで読めるのか? 知らねーが、とにかく俺は、リディアのいる方へ向かう。

 人波に逆らって歩くのは疲れる。生き方においても、この場においても。

 そして人ごみを抜ける。後ろから二車両は、既に深夜の回送電車のように誰もいない。割れたリアガラスから既に侵入し終えたリディアと、この俺の二人を除いてな。

「おいリディア! 鬼ごっこは終わりだ! たくさん楽しんだだろ!」

 しかしリディアは無言のまま、背中にマウントされた二刀の剣を抜く。

「鬼ごっこの次は、チャンバラか? だが悪いが、それに付き合うつもりはない! はやくその剣を仕舞うんだ!」

 だがリディアは俺の言葉なんか完全無視で、二刀の剣を前に突き立てる。次の瞬間、その姿勢のまま俺に向かって突進してくる。

 ――冗談きついぜ!

 俺はギリギリまで引き付け、ボトムアシストの力を借りて何とかそれを横に躱す。

 その際、刃先と鼻先が紙一重のところで擦れ違う。

 刃先が空気を切り裂く冷たい風が鼻先に当たった瞬間、目の前が真っ白になる。生きているという実感を、一瞬忘れる。

 こんな綱渡り的な戦法でも、とりあえずはリディアの攻撃を躱すことができた。しかし、次は無理だ。

 一発目の攻撃を躱すのが精いっぱいで、ボトムアシストがあるとは言え、俺のバランスは完全に失われている。

 そのまま床に倒れる。

 その行動を予測していたのか、リディアはすぐに尻尾の吸盤で床を掴み、突進のスピードを殺す。そして余った勢いを借りてリディアは宙返りをしながら、二刀の剣を倒れた俺に向かって突き立てる。

 恐怖で俺は瞼を強く閉じる。が――

 銃声。

 同時に、剣が突き刺さる音。

 刺さった場所が、俺の頭蓋骨じゃないことを祈る。

「ショウ!」

 カーラの叫び声。俺は、はっと目が覚めるように目を開ける。

 リディアの剣が、俺の目の前で床に突き刺さっている。寸前のところで、剣は俺の頭蓋から逸れている。

 視線を動かすと、人ごみから這い出て、銃をリディアに構えるカーラの姿があった。

 ギリギリのところで、カーラがリディアを牽制してくれたと言うのか?

「掴まって!」

 しかしそれを理解する前に、カーラが叫ぶ。

 その直後だった。下に働いていた重力の流れが、一気に横殴りに変わる。

 見えない凄まじい力が、容赦なく横から押し寄せる。

 その力のせいで、カーラの後ろで固まっていた人々が次々と後方車両に向かって吹き飛ばされていく。

 まるで人間の嵐だ。たくさんの人々が、横から降ってくる。

 何が起きたのか? それはこの車両を荒々しく揺さぶる振動と、Gの向きでわかる。

 カーラはここからハッキングを仕掛け、この電車のスピードを猛烈に上げたんだ。

 そして素直な物理世界は、慣性の法則に従ってこの嵐を引き起こしてるんだ。

 俺はシートのバーを掴むことに何とか成功し、その嵐に耐える。体は強風に煽られる吹流しのように完全に真横の状態だ。

 リディアも最初の衝撃には何とか耐えたようだが、押し寄せる人々の嵐に完全に巻き込まれ、後方車両の隅に追いやられていく。

 俺はそんな嵐に逆らいながらシートのバーを手繰り進み、カーラの元へと向かう。カーラもシートのバーに掴まり、何とか嵐に耐えている。

 そして次の停車駅のアナウンスが流れ、電車のスピードも徐々に落ち始める。嵐も収まってきたとき、俺はカーラの手を取った。

「すまなかった」俺は謝る。「つい、カッとなっちまった」

「大丈夫。これもまあ、想定内よ」

 そう言って、俺たちはよろけながらも立ち上がる。

「そろそろ次の停車駅よ。この惨事で乗客たちはみんな降りるだろうから、その隙にこの列車をジャックできる」

「ここまでは、台本通りってわけか?」

 俺たちは先頭車両に向けて再度、走り出す。床に倒れた乗客たちをよけながら。

「台本じゃないわ。この宇宙が決定づけた、いわば運命よ」

「そうかな?」

「……そうよ」

 しかしそのカーラの言葉には、信念とは裏腹に迷いが混じっている気がした。でも、それでいいと思う。全ての未来が決定されているなんて、バカげてる。

 電車は次の停車駅のホームに差し掛かり、停車する。

 そしてドアが開くと同時に、乗客たちは脱獄を待ちわびていた囚人たちのように、次々と車内から逃げ出していく。

 あっという間に、車両は空っぽだ。それから、緊急事態発生により電車は全線運転見合わせのアナウンスが流れる。だが、その通りにはさせないさ。アンダードームに向かうには、この電車が必要なんだ。

 俺とカーラは先頭車両に到着し、運転室に入る。運転室には誰もいない。《WIZDAM》がいなくなっても、中央制御システムの自律AIが全線の運行をコントロールできているから、まだ無人運転の状態だ。

 人が滅多に入らないためか、運転室は狭い。片側の隅に2㎡くらいのスペースしかなく、そこには小さなフロントガラスと、後ろにある乗客スペースの覗き窓、操作パネルがあるだけだ。二人入っただけで、窮屈だ。

 そんな運転室に入った瞬間から、カーラは操作パネルを触り始める。

 そして運転見合わせのアナウンスが流れているにも関わらず、それを無視して電車は再び動き出す。

 カーラは自身のハッキング能力を使い、中央制御システムに入り込み、アンダードームに向かうまでのルート確保に入る。ルート上にいる邪魔な電車は、適当な場所へと移動させてさっさとどかす。

 その様子はフロントガラスに映し出されるモニターで見ることができる。邪魔な電車をどかした後は、侵入禁止プログラムを実行し、俺たちが乗った電車以外は走行できないようにする。進入禁止されたルートは、モニターに表示されている路線図の線が青から赤へと変えられていく。そして仕上げに、アンダードームへと繋がっていると思われる、垂直に伸びたレールの開放作業に移る。何重にも閉じられた厳重なゲートが、カーラの操作によって次々と開けられていく。だがその先に何があるのか、そのモニターに示されることはなかった。ただ〈NO DATA〉という文字だけが、そこに浮かんでいる。

 その〈NO DATA〉という文字に、モニターに反射して映る少女の人影とが重なった。その人影は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

「なあ、一つだけ、重要な操作を忘れていないか?」電車を操作するカーラに、俺は問う。

「予測はついてるけど、言ってみて」

「早く後ろの車両を切り離さないと、あいつが、また追ってくるぜ」

「そんなこと、できればもうやってるわ」

「……どういうことだ?」

 嫌な予感しかしない俺。その予感通り、カーラの回答はこうだった。

「残念だけど、車両の連結部分は完全なスタンドアローンで、オンラインでアクセスできないの。鋼鉄製のジョイントで繋がれているっていう、そこだけ非常に原始的な構造なの。大昔の電車のように複雑な路線はもうないし、路線によって車両を増やしたり減らしたりすることもなくなったからね。人の流れと車両の生産構造を最も効率化した結果が、これってわけ」

「要するに?」

「要するに、物理的手段でないと、車両を切り離すことはできないってこと」

「なるほど。最高だ。頭を使わなくて済む」

 そう言っている間にも、奥からリディアが歩み寄ってくる。

「あと、悪い知らせがあるわ」

「なんだ? これ以上、悪い状況があるってのか?」

「私はこれからこの電車の手動マニュアル運転で忙しくなるから、あなたのサポートができないってこと」

「じゃあ、リディアの相手はどうするんだよ! さっきも見ただろ! 俺のナイスな活躍っぷりを! あれを見て、よく冷たく放置プレイができるな!」

「仕方ないでしょ! アンダードームへのルートは確保したけど、中央制御システムにはアンダードームへ行くための運転制御プログラムが無いの! アンダードームから緊急脱出するための運転制御プログラムはあってもね! だから私が運転するしかないのよ!」

「プログラムが無いなら、作ればいいだろ」

「だったら、その時間をあなたが作ってよ! 少なくても、半日はね」

 ここで半日使ったら、人類が終わる。その前に、きっとリディアが俺の人生を終わらせる。

「いい? 最高機密へ侵入するってことは、こういうことなの。安全ルートは、ネットなんかに落ちてないのよ!」

 その矢先だ。

 運転室と乗客スペースを隔てる壁を、何かが貫いた。それが俺とカーラの間に割り込む。

 貫いたのは、言うまでもなくリディアの剣だ。おまけにそれは、二刀が連結されたレールガンモード。

 そして運転室から乗客スペースを覗く窓には、リディアの姿がすぐそこにある。あいつは今、どんな気持ちなんだろうか? わからない。こんなに近くにいるのに、リディアは黒い戦闘用ゴーグルで瞳を覆い隠しているせいで、表情が読み取れない。

 だが俺たちの命を本気で狙っているようだ。多分、その決心は固い。その証拠に、レールガンモードの剣に、エネルギーがチャージされ始める。狭い運転室の温度が急上昇する。

「おいおい。この電車が俺たちの棺桶になっちまいそうだぜ」

「ちょっと! 笑えない冗談はよしてよ!」

 だが残念なことに、リディアを止められる者がここにはいない。認めたくないが、俺は役立たずのダメ親父だ。

 そしてついに、リディアがレールガンのトリガーを引こうとした――そのときだった。

「――あんたの相手は、私だよ」

 声がした。リディアでもない。俺でもない。カーラでもない。じゃあ、誰だ?

 それを確かめる前に、リディアの顔の両脇に二つの刃が伸びるのが見えた。まるで光をも斬り裂かんばかりの鋭い閃き。それが俺の瞳孔を突き刺す。

 この刃の正体を、俺は知っている。

 血は繋がっていなくとも、姉と慕っていた者のかたみ

 そう。声の主は、カンナだった。

 二本の拡張アームを備えたアーマードスーツを着込んだカンナが、リディアの後ろに立つ。そしてシオンの二本の刀でリディアの顔を挟み込むことで、彼女を牽制しているのだ。でも、どうしてカンナが、ここに?

「あんたには借りがあるんだ。それも、とんでもなくデケー借りだ。それを返させてもらうよ」

 刀を握るカンナの拡張アームに、力が籠る。その瞬間、俺は思わず「止めろ!」と叫びそうになる。

 しかし直前、リディアは尻尾で体を支え、カンナに向かって両足を使った後ろ蹴りを繰り出す。

 それをカンナは難なく躱す。それからカンナの攻勢。カンナはリディアの尻尾を自分の腕で掴み、アームアシストの動力を存分に発揮してリディアをぶん投げる。と同時に、腰にマウントされていた二丁のライフルを両手で構え、リディアにぶっ放す。

 俺の背筋が凍る。それは恐怖からではなく、かけがえの無い者を失いたくないという、切実な想いからだ。

 だが、それも杞憂に終わる。

 リディアはレールガンモードでチャージしていたエネルギーを扇状に分散させ、ビームシールドを展開して着地。そのシールドで、カンナが放ったビーム弾を全て蒸発させる。少女とは言え、未来のテクノロジーを先盗りした無敵の装備が施されている。こんな反則娘に、やはり誰も歯が立たないのだろうか?

 そう思った時だ。

「後ろがガラ空きよ。子猫ちゃん」

 リディアの背後に佇む、もう一人の影。

 その影からリディアは離れようとする。が、間に合わない。

 影は、シールドを展開するリディアの顔面に向かって、強烈なパンチを食らわした。

 パンチの威力は強烈で、リディアは床に叩きつけられる。その瞬間、俺は思わず目を瞑ってしまった。

 その瞬間を見ずとも、繰り出されたパンチの衝撃が凄まじかったことだけはわかる。なんせ脱線すると思ったほど、この電車を大きく揺さぶったのだから。

 それが余計、俺の心臓を締め付ける。

 だが勇気を出して、俺は目を開ける。

 するとそこに、床に横たわるリディアの姿があった。

 そして目に映った血が、俺の理性のリミッターを壊す。

 リディアは出血している。それは止まる様子が無い。彼女の瞳を覆っていた戦闘用ゴーグルが割れ、そこから大量に出血しているのだ。さらに床に打ち付けられた衝撃で、片方の猫耳型センサーも破損している。

「リディア!」

 俺は運転室のドアを開け、リディアのもとに駆け寄ろうとする。が、それをカンナが壁になるようにして制する。

「どけよ!」

 俺が叫んでも、四腕二脚アシスト付アーマードスーツを身に纏った少女には適わない。重い石像のように、ビクともしない。

 そして倒れたリディアの後ろで、さっきまで影でしか見えなかった人物の姿が露わになる。

「孫娘の面倒を見るのも、私の“役割ロール”かしら?」

 姿を露わにした人物が、そう言った。

 その人物こそ、灰色のアサルトスーツ姿で、パワーナックル用のグローブを身に着けた、ニゲラ本人に間違いなかった。

 その無骨な風貌と威圧的なパンチングポーズには、世界の歌姫としての――HCPPとしての面影は、微塵もない。

 グローブの指の間からは、何本もの細い白煙が上がっている。それを見たニゲラは、何の躊躇いもなくそれを脱ぎ捨てる。ゴンッという、重量感のある音が床に響く。

「耐久性がイマイチだと、後でメーカーの開発部に言っとかないとね」

 そしてニゲラは、床に転がっている連結されたレールガンモードの剣を遠くに蹴り飛ばし、倒れているリディアを見下ろす。「どうする? もっと私たちと遊ぶかしら?」

 するとリディアは体を震わせながら、

「ここで終わるわけには……いかない……」

 と呟き、俺の顔を見据えた。リディアの声を、久しぶりに聞いた気がする。そして唐突に、

「私には、自由が必要なの!」

 リディアが叫ぶ。次の刹那、彼女が起き上がる。

 と同時に、ニゲラに襲い掛かる。

 しかし、それをカンナが阻止する。

 二つの刀でリディアに斬り掛かる。だがリディアはそれを寸前で避ける。

 次にリディアは両膝に格納されていたハンドガンを取り出す。その銃口とグリップの下から、ビームで構成された10センチほどの銃剣バヨネットが飛び出す。ニゲラのコンサートでカンナの発砲を阻止した、あのブーメランの形態。それでカンナの攻撃を迎え撃つ。

 それからしばらく、カンナとリディアの斬り合いが続いた。

「もう嫌なの!」斬り合いの最中、リディアが叫ぶ。「機械を借りないと動かないこの体! もう長くない命! ママの悲しい顔! パパのいない未来!」

 リディアは何を言っているのだろうか? だが俺は、すぐに悟る。

 それは俺の知らない、リディアの記憶だ。

 かつてカーラが俺たちの将来をリードアヘッドした結果の中にはなかった、俺とカーラが結ばれた、もしもの世界の未来――俺とカーラのプランクデータによる交配シミュレーションから、3Dプリンタで出力された彼女の肉体には、遺伝子情報だけでなく、未来に起こりうる記憶までもが忠実に再現されている。だからリディアがつい最近、出力されたとしても、彼女の中には年齢分の記憶が根付いている。それはつまり、偽りとしてではなく、本物の生命体としての確固たる自負があり、自我もまた確実に存在しているということだ。

「だから私は手に入れる! 永遠の時間と、どこにでも行ける自由と、幸せを! ママの笑顔と、幸せな家族を! そのために、私はハヤトと一緒に新しい世界を作る! ハヤトが私に希望をくれたんだ! ボウルシティここに来る前に!」

 このリディアの言葉を聞いて、俺はようやく宇宙船での出来事の真相を理解した。

 あのとき――ボウルシティに着く直前、アズラエルの襲撃によって親機マザーシップ子機スペースシップが切り離されたと思っていた。

 ところが真相は違った。

 実はあのとき――子機でハヤトとリディアが二人きりになっていたとき、ハヤトはリディアを洗脳し、アズラエルの襲撃に紛れてリディアを連れ出したんだ。

 でも今さら、それを知ってどうなる!

「わけのわかんねーこと言ってんじゃねーよ!」カンナがさらに激しくリディアに斬りかかる。しかし――

「お前なんかに邪魔させない!」異常とも言える執念で、リディアはあの短い銃剣だけで、カンナが繰り出す長い刀の攻撃を迎え撃つ。「この世界は、私を拒絶してるんだ! 私なんて要らない存在で、私がいるから、ママは悲しんで、パパは居なくなって――」

「違うわ!」

 リディアの叫びを、途中で遮る者がいた。声の正体は、カーラだった。

「誰もあなたを拒絶なんかしてない! たとえこの宇宙が非効率な存在としてあなたを結論付けたとしても、あなたは間違いなく私が望んで産まれてきた、大切な女の子! たった一人の、私の娘よ!」

 それからだった。リディアの瞳から、一筋の涙が毀れた。一瞬、彼女の中で、時間が止まったように見えた。

 それが、悪かったのかもしれない。

 リディアの腹部に、カンナの刀の一本が突き刺さる。

 無情な刃の煌めきが、リディアの背中から突き出る。

「リディア!」

 俺よりも先に、カーラが叫んだ。そして俺よりも先に、リディアの方へと駆け寄った。

「近寄るな!」

 カンナはそう言って、もう一本の刀でカーラを制しようとする。しかし愛情が恐怖心を忘れさせてしまったかのように、カーラは刀に目もくれず、カンナとリディアの間に割って入った。そしてカンナを払い除ける。

 既にリディアからは全身の力が抜け、ぐったりと床に崩れようとしていた。それをカーラが力強く受け止める。

「そんな……こんな未来のはずじゃ……」

 カーラの瞳から、幾度となく涙が溢れ始める。

 俺はそんな二人を、ただ少し離れた場所から眺めることしかできない。

 すると泣き続けるカーラの頬に、リディアは静かに、そっと手を添えた。そして毀れ続けるカーラの涙を、その手が受け止めた。

「ありがとう……ママ」

 掠れるような弱々しい声で、リディアは言った。

「今、助けてあげる!」

 カーラはそう言ってポケットから急いで止血材を取り出そうとする。でもリディアはそこに優しく手を添え、首を静かに横に振った。そして、言った。

「やっぱり……この世界は……私を拒絶……してる……」

「そんなことない!」

 カーラは強く、そして諭すように呼びかけた。だが――

「大丈……夫……」リディアは言った。「次の世界では……もう……ママを……悲しませない……から……」

 その言葉の後だった。

 リディアが着ているアサルトスーツのケーブルが、赤く点滅し始めた。

「止めて!」

 何が起きたのか、カーラだけが知っているようだ。カーラは青ざめた表情でリディアのフロントアーマーに手を伸ばす。しかしそれをリディアが掴み、拒む。リディア自身の体は弱っていても、アサルトスーツはまだ十分に機能している。リディアの脳が僅かに望めば、リディアはまだ指の先まで動かせるのだ。

「何でよ!」

 カーラが涙ながらに叫ぶ。それに対して、リディアは静かにこう答えた。

「この世界は……私に……冷た過ぎる……だから……あなたたちを……アンダードームには……行かせない……」

 それを聞いたカーラは、呆然とするだけだった。

 二人を少し離れた場所から見ていた俺は、現実から引き離されていくような気分だった。

 いや、違う。俺の方から、現実から離れていっていたのかもしれない。

「早く彼女から離れなさい!」

 だがそんな俺を、その言葉が現実に引き戻させた。言葉を発したのは、ニゲラだった。ニゲラは続ける。

「リディアは自爆する! だから離れて! 早く!」

 頭蓋骨を後ろからぶん殴られたような衝撃が走る。言葉の意味が、理解できない。

 混乱している。

 そのせいで、俺は次に取るべき行動が、わからない。

 見かねたニゲラは溜息をつき、一人で運転室に入った。そして――

「掴まって!」

 ニゲラが叫ぶ。その直後だ。

 カンナはライフルも刀も仕舞い、リディアを抱きしめるカーラを乱暴に引き剥がす。

 そして猫の首を摘み上げるように、カーラの襟の後ろを摘み上げる。

 その行為は俺にも及ぶ。刀を操るために拡張された手で、俺の襟の後ろが掴まれる。

 不意なカンナの行動に対して、何の真似だ!と俺が問おうとした、その直前――。

 突然、電車が落下し始める。

 それは比喩ではなく、本当に電車は、落下した。

 カーラが運転室で解放した、何重ものゲートに遮られていた、垂直に伸びるレール。今まさに、そのレールにこの電車が突入したのだ。路線図のデータにはなかった、アンダードームへと繋がるルート。

 そのせいで、まるで宇宙空間にいるかのように、ここの重力は消滅した。

 地上に縛り付けられていた肉体は浮遊する。それは俺だけじゃなく、カンナも、カーラも、リディアも、ニゲラも同じだ。

 リディアのアサルトスーツのケーブルは、いまだに警告を発するように赤く点滅している。いや、実際に警告を発しているのだろう。そんなリディアが、俺に向かって手を伸ばした。そして、俺の足首を掴んだ。だが掴むその手は、思いのほか弱々しかった。振り払えば、すぐに離れてしまいそうなほどに。

 リディアの瞳は、俺の方を向いている。でも遠くの雲を眺めるように、その焦点は合っていないように思えた。

 意識が混濁し始めているのか、それとも生命が途切れ始めているのか、その瞳からは、既に彼女の思考を読み取ることができない。でもなぜか、俺は、悲しくなった。

 そうだ。リディアは自爆しようとしている。

 今さらになって、ニゲラが叫んでいた言葉の意味を、理解する。

 しかし理解したところで、何ができる?

 リディアの自爆装置を解除する方法を、俺は知らない。

 じゃあ、どうすればいい? ここで一緒に、死ぬとでも言うのか?

 それも、まあ、いいような気もした。

 あいつは俺の娘だ。

 運命に逆らって、俺に会いに来てくれた、唯一の娘。それだけで奇跡だ。それだけで、十分生きた意味が、あるんじゃないのか?

 ――そう思った。そう、思ったんだ。

 ――だが――

 カンナが、俺の足首を掴むリディアを蹴り飛ばした。意識が霧散しかけているリディアは、既にアサルトスーツのアームアシストに脳の信号を送ることができず、掴んでいた手があっさりと離れた。

 そしてリディアと俺の距離は、ゆっくりと、広がっていく。

 無重力の中、彼女はゆっくりと、昇っていく。

 それはまさに、天に昇っていく姿だと、俺は思った。

 待ってくれ――

 俺は無意識のうちに、天に昇るリディアに向かって、手を伸ばしていた。しかし既に手が届かないところにまで、リディアは行ってしまっていた。だから俺の手は、空虚な空白を掴むことしかできない。

 その直後だ。

 突然、視界が閉ざされた。

 分厚い鋼鉄の壁が、俺とリディアの間に立ちはだかる。

 その分厚い壁が何であるのか、俺にはすぐにわかった。

 アンダードームへと繋がるレールを隠すために作られた、何重ものゲート。そのゲートの一つをタイミングよく閉ざすことで、リディアを俺たちが乗る車両から切り離したんだ。

 そんなことをする奴は、一人しかいない。

 運転室にいる、ニゲラだ。

 だが俺はニゲラを恨むことよりも、それよりも、リディアの名前を叫び続けた。

 閉ざされたゲートは急速に遠ざかっていく。その先に、リディアがいる。

 リディアを置いて、俺たちはアンダードームに向かって急降下している。

 その悲しみを紛らわすためなのか、自分でもよくわからないが、俺はリディアの名前を叫び続けた。

 そして遥か遠くになったゲートに、閃光が走る。

 その後を追いかけてくるように、爆発音が俺たちに襲い掛かり、鼓膜を引き裂こうとする。

 凄まじい衝撃と、急速に迫る赤々とした炎。

 その炎は、瞬く間に俺たちを呑み込んだ。

 ――熱い。

 溢れる涙が、瞬時に蒸発していくほどに、熱い。

 でも涙が蒸発すればするほど、俺の瞳からは溢れる涙が多くなっていると、思った。


 /


 気が付けば、目の前が真っ暗だった。

 何もない、ただの闇。それが全身を包み込んでいる。

「ということは、俺は死んだ……かな? カーラのミラーリングの結果通りに」

「くたばるのはまだ早い」

 そう言って、俺の頬を強く叩く者がいた。どこかで味わったことがある既視感。痺れるような痛みが頬に走る。これがあるということは、俺はまだ生きている、ということだ。

 俺はイアークを暗視モードに切り替える。すると闇から緑色の立体物が浮かび上がる。その中には、顔が墨だらけのニゲラの顔もあった。その顔はまさに、戦場を駆け巡る勇敢な戦士のそれだと俺は思った。たとえこの先、ニゲラがHCPPとして世界の歌姫に戻ることがあったとしても、俺にはそれが受け入れられないほどのインパクトが、そこにあった。

「あなたには、まだやることが残っている」

 ニゲラは俺の腕を強く掴み、強引に立たせる。俺の全身から、鈍い痛みが滲み出る。

 イアークの暗視モードが映し出すものの中には、完全に残骸と化した、無残な電車の姿があった。鋼鉄に覆われた巨大なナマズが、のた打ち回った挙句に息絶えた死骸のような光景。それを見た瞬間、それの背筋は凍る。

「カーラは……カーラは無事か?!」

 するとニゲラは深い溜息をつく。それが、余計に俺の不安を掻き立てる。

「まさか――」

「――生きてるわ」

 俺が不吉な予感を口にする前に、ニゲラは別の言葉でそれを遮った。「でも、死んでるよりもたちが悪い」

「ど……どういうことだ!」

 俺は思わずニゲラの両肩を掴む。そして彼女を強く揺らした。それに対し、ニゲラは無言で「あれを見ろ」という具合に顎をしゃくった。

 俺はそれを目で追う。するとそこには、カンナの傍で地面にヘタれこむカーラの姿があった。それを見た瞬間、俺はカーラの元へ駆け寄る。

「大丈夫か!」

 しかしカーラは放心状態で、小さな声で何かブツブツ呟いていた。はじめは聞き取れなかったが、俺はカーラを抱きしめ、その声を受け止める。

「こんなはずじゃない……こんな未来のはずじゃない……」

 カーラは確かに、そう言っていた。「私が見たミラーリングのビジョンでは……リディアはこんな死に方をしない……リディアは、ちゃんと私の腕の中で――」

 俺もそのビジョンは覚えている。確かにカーラが車の中で見せてくれたミラーリングのビジョンでは、リディアはカーラに抱きしめられたまま息を引き取っていた。しかし、現実は違った。

 ということは、いま俺たちがいる現実とミラーリングのビジョンとでは、差異が生まれつつあるということだ。しかし“リディアが死ぬ”という結果までは変わっていない。だとすると、プロセスはどうであれ、“俺とカーラが死ぬ”という結果も、変わらないのかもしれない。

 俺はカーラの手を、ギュッと強く握りしめる。

 それに応えるように、カーラは俺の顔を覗き込んできた。だがその瞳には、俺の顔ではなく、空っぽの闇が写っているだけだった。

「もう……止めましょう。じゃないと、あなたも……私も……」

「大丈夫だ。何とかなる」

「ダメよ。ミラーリングで見たものは、絶対に起きる」

「じゃあ、何でビジョンと現実に、差異が生まれてるんだ?」

「それは……」

 カーラが言葉を詰まらせる。その間に、俺は言った。

「お前、覚えているか? 昔、まだ付き合っていた頃だ。案件の途中で、お前がヘマした」

「私が……ヘマするわけないでしょ」

「したよ。俺がPMCのクライアントから発注を受けた時、俺はお前に“次世代マルチファイター:シャークパンサーの未来”をオーダーした。マルチファイター:シャークパンサーは、空中戦と地上戦をマルチにこなす飛行変形型二足歩行兵器だ。しかしどうだ? お前が盗んだ未来は、飛行変形型二足歩行兵器の次世代コンセプトでも設計図でもなければ、来週行われるマルチファイター多種格闘技選手:シャークパンサーの試合結果だった。クライアントであるPMCの上層部が興味もない試合結果なんかをバンディットから報告されて、どんな顔をしたと思う?」

「それはあなたが悪いわ。あなたがちゃんとクライアント名を言ってくれれば、そんな勘違いをせずに済んだ」

「俺はちゃんと説明したさ。クライアントのことも、必要な未来も」

「言ってない」

「言った」

「言ってない!」

 そこで俺は人差し指を立て、その指でカーラの唇をそっと抑えた。当然、カーラは「え?」という顔をする。そんなカーラを見ながら、俺は言う。

「つまり、そういうことだ。記憶なんて、曖昧だってこと」

「何が、言いたいの?」

「どうした? 奇跡の先読み姫ミラクルクイーンのお前にしちゃ、鈍いな」

 それだけ、頭が混乱しているのかもしれない。まあ、いい。俺は続ける。

「お前がやったミラーリングは、アンダードームに保存されているATLのプランクデータから、記憶情報のみを抽出し、それを素粒子情報にコーディングし、さらにそれを反粒子情報に反転複写して行っている。でも考えてみろ。人間の記憶なんて曖昧だ。それも過去の記憶になればなるほど曖昧だ。だから未来に行けば未来に行くほど、ミラーリングのビジョンは曖昧になり、現実との差異が大きくなる可能性は十分にある」

 それを聞いて、輝きが失われていたカーラの瞳に、光が戻り始めた。

「だから、ここからの運命は、俺たちで変えられる。しかも“ある程度”未来を知っているというアドバンテージもあるんだ」

 それから、カーラは小さく笑い、

「そうね」

 と言って立ち上がった。「私たちはバンディット。未来を盗んで、決まりきった運命を変えてきた。今日も、同じことをするだけ」

「頼もしいね。それでこそ、俺の知っている奇跡の先読み姫ミラクルクイーンだ」

「――そろそろ、準備はいいかしら?」

 俺たちから少し離れた場所で、ニゲラが言った。「さっきの爆発とこの脱線は相当賑やかだったわ。だからサリクスの連中は、必ずここを攻めてくる」

「ああ」俺は頷く。「これはバンディット史上、最大の大仕事だ。これが終わったら、ゆっくりとバカンスを楽しむさ。それくらいの報酬は、上積みされるんだろ?」

「あいにく、私は破産中の身よ。この事件で私をプロデュースしていたCentral◒Houseは相当な負債を抱え込むはずだし、今の私に残されているのは、お前とカンナくらいね」

「誇りに思うんだな」

 そう言ってカンナは、自分が持っていたライフルを一丁、俺に投げ渡した。「母さんは、お前を家族だと言っている。私は認めていないがな」

「じゃあ、何で武器をくれるんだ?」

「自分の身は、自分で守れってことだ。私は母さんを守る。お前を庇う暇はない」

「優しいね」

「その女もだ」

 カンナは今度、太腿のアーマーに隠してあった小型のハンドガンをカーラに投げ渡す。カーラはそれをキャッチするが、

「どうして?」カンナの意図を理解できないカーラは、目を丸くして問いかける。「どうして? だってあなたは、私を殺したいほど憎んでるはず。姉の仇を、取りたいはず」

 するとしばらくカンナが沈黙した。その後、彼女はこう言った。

「ひとつの復讐を果たして、知った。あんたのガキを殺しても、シオン姉ちゃんは帰ってこない。あんたを殺しても、同じだ。復讐を続けても、何も元には戻らない」

 返す言葉が見つからないカーラ。それから沈黙を維持したまま、一歩カンナに歩み寄ろうした、そのときだった。

「だが、勘違いするなよ」

 カンナはひとつの刀をカーラの眼前に突きつける。それでカーラは立ち止まる。

 カンナは続ける。「私はあんたを許したわけじゃない。あんたのガキもだ。だからもし、将来あんたのガキが産まれてくることがあるとすれば、私がそいつに道理を教えてやる」

 その言葉に対して、カーラは思わずニヤけた。それは俺も同じだった。

「それならあの子も安心ね。頼もしいお姉ちゃんがいるんだったら」

「そうだな」俺が言う。「どうせなら、一緒に歌を歌ってくれ。いい先生なら、傍にいるだろ。俺とお前の母親は、キャリア160年以上もある歌姫の大御所だぜ。どうせなら、母親の後を継いだっていいさ。だってお前、意外に可愛いからな」

 この台詞に対して、カンナがどんな顔をしたかは知らない。照れているのか、わざと俺たちから顔が見えない方向を向いたからだ。こう見ると、普通の女の子だ。口の悪さを直して、武器を捨てて、女の子らしい服を着れば、きっといい人生が送れるのに。

 しかしだ。そんなカンナに、一発の銃弾がかすめた。

 それにカンナは即座に反応する。次に見えたカンナの顔には殺気が満ち溢れ、銃弾が飛んできた方向を睨む。その方向に向かって、ライフルを発砲する。

 休憩は終わったようだ。時刻は既に22時を過ぎている。

 人類の未来の終焉まで、あと二時間もない。

 俺たちは戦闘態勢に移行する。

 カンナを先頭に、襲い掛かってくるサリクスたちに立ち向かう。

 ここからは長いトンネルだ。

 無機質なコンクリートの壁が果てしなく続き、地面にはレールが延々と伸びている。

 その奥から、昔の双眼鏡を目の前に括り付けたような暗視ゴーゴルを装着し、武装したサリクスたちが次々と現れ、俺たち目がけてレトロな銃を撃ちつけてくる。しかしレトロな骨董品であっても、武器であることに変わりはない。十分な殺傷能力が備わっている。それはつまり、俺たちにとって脅威だと言うこと。しかもここは狭いトンネル。逃げる場所も、隠れる場所もない。数も、圧倒的にサリクスの方が勝っている。それも数えきれないほど多い。

 二本のアームが拡張されたアーマードスーツを身に纏うカンナと、俺やニゲラが持っている自動標準機能が搭載されたライフルは、テクノロジーこそサリクスに勝っているとは言え、これほどの数にまともに立ち向かえるのか、正直、未知数だ。

 俺の持っているこのライフルは、狙いを定めなくてもトリガーを引くだけで勝手にビーム弾がターゲットに命中する。超イージーモードのガンシューティングゲームより簡単だ。しかしそれでも、先陣をきるカンナの猛攻がなければ俺はやられている。俺のトリガーを引く早さだけじゃ、これほど大勢のサリクスを倒すのに間に合わない。

 カンナは休みなく拡張された二本のアームで刀を振り回し続け、かつ自身の腕でライフルをぶっ放し続ける。頼もしいが、彼女も所詮人間だ。シオンの意思を受け継いでから、十分な訓練時間はなかったはずだ。それなのに、拡張アームであれだけの刀さばきを見せているんだ。脳の負担は相当なはずだ。強がっているものの、こんなことを続けていれば、いずれ彼女の脳は焼き切れる。

「カンナ! 無理しないで!」

 ニゲラが叫ぶ。しかしカンナは無視する。ニゲラに対してだけは従順な彼女も、このときばかりはニゲラを無視して、一心不乱に戦う。

 だが闇の中、カンナの発砲時に閃く光が彼女の顔を浮かび上がらせたときだ、俺はそこで、カンナの鼻から血が流れ出しているのが見えた。

 さすがの俺も、その姿に胸が締め付けられる。しかし、同情している暇はなかった。

 俺の足元に、握り拳くらいの石が転がってきた。

 違う。それは石なんかじゃない。グレネード弾だ。

 それに気付いた時には、もう遅かった。

 グレネード弾は爆発し、俺は吹っ飛ばされる。

 天井か壁か地面かもわからない場所に、俺の体は強く打ちつけられる。

 その衝撃で、意識までどこかに吹っ飛んじまうんじゃないかと焦った。しかしここで気を失ってしまえば、間違いなくサリクスに止めを刺されてしまう。

 俺は気を奮い立たせ、何とか目を開ける。

 だが俺の瞳に映ったのは、眼前で銃を突きつける一人のサリクスの男の姿だった。

 ――ヤバい! 死ぬ!

 そう思った。しかし次の瞬間、彼の額にビーム弾が貫通した。

 大量の出血と共に、彼の体は崩れるようにして倒れる。

「大丈夫?!」

 そう叫んで俺に駆け寄ってきてくれたのは、カーラだった。

「あ……ああ」

 とりあえず俺は返事をして、立ち上がろうとした……が、うまく立ち上がれない。

「マズいわね」

 カーラは言いながら、俺の左足を摩った。

 摩ってくれた場所からは、大量の血が流れ出ている。おまけに、ボトムアシストも破損している。

「大丈夫だ」

「大丈夫なわけないでしょ!」

 カーラは俺の強がりな台詞を一蹴する。そしてカーラは自身の肩に俺を預ける。俺はその支えを借りて、ようやく立ち上がった。

「でもこれじゃ、俺はお前の足手纏あしでまといだ。俺を置いて、さっさと行くんだ」

「バカ! そんなことしたら、未来が変わらないでしょ! 未来は変えられるって言ったのは、あなたじゃない!」

 確かにそうだ。さすがの俺も、反論できない。

 それから俺たちはカンナとニゲラの力を借りながらも応戦を続け、前に進む。そして何とかトンネルを抜ける。するとその先、地下鉄のホームのような場所に出た。ここからは照明の光があり、イアークの暗視モードを解除する。

 無人の電車が一両だけある、白で統一された、小さくて簡易的なホーム。ベンチもホログラムサイネージ広告も時刻表も無い、殺風景な場所。《WIZDAM》に上がるための軌道エレベータのホームとも似ている。きっと緊急脱出用の電車とその乗り場だろう。

 だがその場所にも、多くのサリクスたちが待受けている。休む間もなく、俺たちはそれに立ち向かわなければならない。

 そしてホームの真ん中くらいまで侵攻したときだ、奥に、大きなゲートが見えた。幅3メートル、高さ2メートルほどの鋼鉄製のゲート。黒と黄色の斜線の縞模様が下半分だけにある。

「あともう少しよ!」ニゲラが叫ぶ。「このゲートを抜ければ、ハヤトがいる場所はすぐそこよ!」

「いよいよクライマックスか! ワクワクするな!」

 しかし、そう簡単にここを突破できそうにない。ここが最終防衛ラインだからか、サリクスたちとの戦闘が一層激化していた。サリクスを倒しても倒しても、電車やホームの陰から次々と新手が出現してくる。キリがないし、このままじゃ残弾がもたない。

 だからニゲラとカンナは俺とカーラを挟み込むような陣形をとり、攻撃から守りに徹した。その陣形のまま、ゲートに向かう。

 そしてゲートへのルートを阻害しているサリクスのみを排除していくことで、俺たちはようやくゲートに到着した。当然、俺はすぐさまゲートの開閉レバーを上げる。しかし――

 ゲートが、全く動かない。

「おい! 壊れてんじゃねーのか!」

 ゲート前で足止めを食らっている最中でも、後方からサリクスたちの容赦ない攻撃が浴びせられる。

「壊れてない! ゲートがロックされているだけよ! ハヤトによってね!」ニゲラが叫ぶ。

「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」

「私に任せて!」カーラが言う。

 そうだった。奇跡の先読み姫ミラクルクイーンは、ハッカークイーンでもあるんだ。だからカーラはゲートの傍にあるタッチパネルを操作し、システムをハッキングしてさっさとロックを解除して見せる。

 その直後、鋼鉄製の重たいゲートが、ゆっくりと上昇し始めた。さすがだ。

 しかしだ。安心できたのも束の間。

 ゲートが1メートルほど上昇したところで、操作タッチパネルと開閉レバーがサリクスの銃弾によって破壊された。

 と同時に、釣り糸が切れたようにゲートが落下して閉じようとする。

 ヤバい! ここが閉じてしまえば、二度と出られない! あともう少しだと言うのに! ここで終わるわけにはいかないというのに!

 だが、俺の執念がゲートに伝わったかのように、ゲートの落下は止まった。

 でもそれは、俺の執念がゲートに伝わった結果ではなかった。

 50センチほどの高さを保ちながら、落下するゲートを支えている者がいる。

 その者こそ、カンナだった。

 カンナは拡張アームに握られていたシオンの刀(かたみ)を投げ捨て、さらにその手でゲートを下から受け止め、アーマードスーツのアシスト動力を借りてゲートを支えている。

 しかし長くもちそうにない。ほんの少しずつだが、ゲートは下がり続けている。

「早く行け!」カンナが叫ぶ。

 俺たちは一瞬迷うも、ゲートの隙間を潜り抜ける。そして、

「カンナ! 早くこっちに来なさい!」ニゲラがカンナに向かって叫ぶ。

「私はいい! 早く行って! 母さん!」そしてカンナは、急に虚弱になった声で、こう言った。「今まで、ありがとう……母さん……こんな私を拾ってくれて……サリクスだった私に新しい生き方を教えてくれて、本当に……ありがとう」

「何言ってるの、バカ!」ニゲラがカンナの声を掻き消すように、さっきより声を張って叫ぶ。すぐに喉が焼き切れてしまいそうな叫びだ。「これ以上、大切な家族を失えるわけないでしょ!」

「……でも」

「あなたは私の大切な娘! 私のせいで、これ以上、大切な家族を失うわけにはいかないの! だからお願いカンナ! 生きることを諦めないで!」

 サリクスたちがカンナの元に走り寄ってくる。カンナがここで手を放してしまえば、俺とカーラとニゲラはここから逃げ切ることができる。しかし、それと引き換えに、カンナの命は失われてしまう。じゃあ、どうすればいい? どうやってあいつを、救い出せばいいんだ?

「アーマードスーツを脱いで! カンナ!」

 ニゲラが叫ぶ。「アーマードスーツのアシスト動力をオンにしたまま脱げは、アーマードスーツ単体で一時的にこのゲートを支えることができる。その隙に、あなたはここから出るのよ!」

 サリクスたちは、もうすぐそこまで迫ってきている。

「……わかった!」

 一瞬の思慮の末、ようやくカンナは母親に同意する。それからカンナはアシスト動力をオンにしたまま、腕、足、胸、肩といったアーマードスーツの固定具を解除していく。

 直後、ゲートがガタンと一気に下がる。でも、まだゲートが閉じたわけじゃない。40センチほどの高さを保ったまま、ゲートはまだ開いている。

 そしてアーマードスーツから解放されたカンナは、ライフルだけを両手で抱えながら、ヘッドスライディングをするようにゲートの隙間に向かって飛び込む。

 人間の抜け殻のようなアーマードスーツだけが、そこに取り残される。しかし抜け殻となったアーマードスーツだけでは、このゲートを支えきれず、ゲートはまた落下する。

「カンナ!」

 ニゲラが叫ぶ。それを同じくして、ドンッ!という轟音と地響きを立てながらゲートが閉まった。

「カンナ!」

 俺も思わず叫ぶ。あんな厚い鋼鉄で作られたゲートに押し潰されてしまえば、小柄なカンナの肉体なんて、ひとたまりもない。だから――

「ありがとう……母さん……」

 カンナの声がした。それは、空耳なんかじゃない。

 カンナは、生きていた。

 カンナはペタンと座り込むニゲラの腕によって、強く抱きしめられている。ニゲラは命がけでここに飛び込んできたカンナを、力強く受け止めている。その姿は、紛れもない本物の親子だと確信できるほどに、強い愛情と絆が見えた。

「こちらこそ、ありがとう……カンナ。生きることを選んでくれて」

 ニゲラの言葉に対し、カンナは抱えていたライフルを離して、その腕でニゲラを思いっきり抱きしめ返した。しかしカンナは酷く疲弊している。肩で大きく息を吸い、鼻から漏れ出てくる血は止まらない。

「お前はもういい。カンナ。お前はよくここまで頑張った。あとは、私たちで何とかする」

「私は大丈夫だよ、母さん。あなたは私をサリクスから二度も救ってくれた。だから私は、この救ってくれた命がある限り、この命が燃え続けている限り、あなたを最後まで守ります」

 その言葉を聞いたニゲラは、毀れ出そうな涙を必死に堪えるような顔をした。でも結局、涙を堪えることができなかった。ニゲラは涙を溢しながら、カンナの頭を何度も優しく撫でた。そして大きな深呼吸をした後、

「守られてばかりもいられないわね」

 ニゲラは立ち上がる。「私はニゲラである前に、ふたりの母親」

 そして涙を拭い、再び顔を引き締める。そうだ。グズグズしている暇はない。

 時刻は23時30分過ぎ。人類の未来の終焉まで、あと30分もない。サリクスとの戦闘で、時間を食い過ぎた。

 俺たちは再び歩き出す。今度はカンナが先頭ではなく、ニゲラが先頭だ。

 ゲートを抜けた先には、圧倒的な広さを誇る空間と、圧倒的な光景が広がっていた。俺はそれに、まず目を奪われる。

 地下施設とは思えない、遥かに高い天井のドーム。高さは25メートルを超えているだろう。

 さらに床には、なんと直径5メートルはあろう巨大な蛇。しかもそれは、大群を成している。そして大群を成す大蛇たちは、複雑に絡み合いながら、重なり合いながら、このドームを埋め尽くしている。

 さらに大蛇の表面には、様々な色を発しながら輝く大きなうろこが張り巡らされている。鱗の輝きは変則的で、ランダムに発色している。しかしよく見ると、鱗はランダムに発色しているのではなく、その鱗に何かの映像が映し出されていることに気付く。

 俺はイアークのズーム機能を使って、その映像を確かめる。それを見て、俺は唖然とした。


 /急いで子供と買い出しをしている母親の姿。

 /仕事を投げ出して逃げ出すOL。

 /渋滞に巻き込まれ、イラついている男性。

 /街でサリクスに抵抗する若者たち。

 /恋人が撃たれ、悲しむ女性。


 つまりこれらは、サリクスたちの侵攻に備えたり、戦闘に巻き込まれてしまった人たちの姿。つまりこれらは、リアルタイムでライブスキャナがモニタリングしている、全ATLと全BTLの今の映像だ。

 そこで俺は理解する。ここがまさしくアンダードームであり、この大蛇たちこそ、管理人類のプランクデータを記録する媒体メディアであるのだと。

 俺は目の前の光景に驚愕しつつも、カーラの肩を借りて進む。

「まさかとは思うが、ここの蛇たちは俺たちに噛みついたりしないだろうな?」

「噛みつかれるより、食われることを心配しなさい」ニゲラが言う。

「おいおい、まさか緊急脱出用の電車があるのは、こいつらが危険な人食い生物だからじゃないだろうな!」

「冗談よ。こいつらの動力源は人間のタンパク質じゃなくて、電力。緊急脱出用の電車も、地震による崩落事故や漏水事故に備えているに過ぎない」

「そうだといいがな」

 確かに、プランクデータの記録媒体である大蛇たちは、全て床から生えているようにドーム施設と繋がっている。おそらくこの床の下から電力が供給されているのだろう。

 さらによく見ると、大蛇媒体たちは、まるで生きているかのように少しずつ動いている。人類の変化に応じて、こいつらも変化しているということなのだろうか?

「キャッ――!」

 突然、甲高い悲鳴が木霊した。「何よコレ!」

 悲鳴を上げながら、カンナがライフルを地面に向かって振り回している。

 そう言えば、ときどき何かが足元でカサコソと動き回っている。何だ? 蜘蛛か? しかし蜘蛛にしては大きすぎる。体長が30センチくらいはある。

「メンテナンスロボットよ。ここを守るためのね」

 ニゲラが説明した。「だから安心してカンナ。私たちに害は無いわ」

 ニゲラの言う通りだった。完全に制御されたそれは、襲ってくることはおろか、俺たちを完璧によけ、踏まれることもない。

「ここは完全な生態系を築いている。あれを見てみて」

 ニゲラは上の方を指差す。そこは大蛇媒体の鱗であるモニター。しかしそのモニターは故障しているのか、それとも誰かが死んだのか、真っ黒で何も映っていない。

 するとそこに、何匹もの蜘蛛型ロボットが集まりだし、体から伸びたケーブルを大蛇媒体の体に接続したり、基板を動かしたりと、作業を開始する。そして瞬く間にモニターは復旧する。

 作業が完了すると、蜘蛛型ロボットたちはあっという間に散らばり、次の現場に向かう。

ありよりも働き者なんじゃないか? あの蜘蛛は」

「それだけじゃないわ。見て」

 今度は俺の体を支えるカーラがそう言って、ある場所を指さした。

 そこには動かなくなった蜘蛛型ロボットが地面に転がっていた。寿命が来て壊れたんだろう。

 そう思った時だ。動かなくなった蜘蛛型ロボットの傍にいた大蛇媒体から、何本もの黒い触手が伸び始め、その触手は蜘蛛型ロボットを捕え、それを大蛇媒体自身の体へと引き寄せ、やがて取り込んでいった。

 そして違う大蛇媒体の体から触手で包まれた球体が出現し、何とそこから、新しい蜘蛛型ロボットが誕生した。

 俺は思わず、ヒューと口笛を吹いてしまう。

「本当に、完全な生態系だ。ここに人間は不要だな」

「そうでもないわ」ニゲラが言った。「自律維持システムが完備されているとは言え、動力源は所詮、電力に依存している。疑似的な生態系を構築しているけど、彼らがエネルギー自体を生成することはできない。だから定期的に、人間が電源装置をメンテナンスしに来なければならない。言っている意味、わかるわよね?」

「ああ」俺は頷く。「ハヤトがワイルドカードで人類の未来を終わらせる前に、ここの電源装置を停止させればいい。そうだろ?」

「さすがは私の息子ね。物分かりが早いわ」ニゲラがニヤリと笑う。「でも、覚えておいて。ここの電源装置が止まれば、ここに保存されているプランクデータは一気に消滅する。だから、もしここで死んだら、後で3Dプリンタで復活しようなんていう淡い願いは、二度と叶わないわよ」

「それがどうした? まだ長生きするつもりか?」

「――シィ! 静かに」

 突然、カーラは口元に人差し指を当て、静寂を要求する。彼女の視線は、ある一点を見つめている。俺たちはその視線を追う。

 その先には、俺たちが探している者の姿があった。

「――ハヤト……」

 俺は思わず、その名を口から漏らしてしまう。ハヤトはこのドームの壁に設置された階段を登っている最中だ。幸いなことに、奴はまだ俺たちの存在に気付いていないようだ。しかし10人ほどのサリクスたちがハヤトを守るようにして取り囲んでいるため、簡単には近づけない。

 俺たちは一旦、床から伸びる大蛇媒体の影に隠れる。そこで俺は、静かにカーラの耳元で囁いた。

「カーラ、頼みがある」

「何?」

「俺たちがここでハヤトの気を引き付けておく。その間に、ここの電源装置を停止してくれ。電源装置の場所なんて、お前なら大体の予測がついているはずだ」

「待ってよ! それじゃあなたが!」

「大丈夫だ。お前がいなくても、少しくらいなら動ける」

「そういう問題じゃない!」

 感情を乱すカーラの肩に、ニゲラがそっと手を置いた。

「私たちに任せて」

 そのニゲラの言葉に対して、カーラは項垂れたままだった。

 ニゲラは続ける。「ショウは私たちが守る。信じて欲しい」

「でも……」

「今のあなたにしかできないことがある。この結末を知っている、あなたにしかできないことがある。ショウのことは、心配しなくていい」

 それからカーラはしばらく沈黙していたが、今まで俺の体を支えていた肩を降ろし、立ち上がった。

「ありがとう」ニゲラが礼を言ったが、

「礼は全てが終わってからでいいわ」カーラが言う。「全てが、うまくいったら」

「わかったわ」ニゲラが頷く。

 そしてカーラは俺の顔を、しばらく黙って見つめた。俺はカーラの言葉を待つ。その間、カーラは俺が昔プレゼントしたネックレスを、胸元で一度だけ固く握った。それから右手で俺の顔を撫でる。まるで俺の顔の形をその手で確かめるように。次に俺の髪の毛をクシャリと握る。その手を離したとき、ツンッという小さな痛みが頭部に走った。カーラは、俺の髪の毛を一本だけ抜いたらしい。

 それらの行動に何の意味があったのか、わからない。

 結局、カーラは何も言わないまま俺に背を向け、走り去っていったから。でもまあ、それでいい。とにかく、急ぐんだ、カーラ。

 カーラがミラーリングで見せてくれたビジョンでは、電源装置の停止が間に合わないんだ。

 俺は大きく深呼吸をする。それから大蛇媒体の陰に隠れていた俺は、使えない左足を引きずりながら、よろよろと前に出る。そして、

「作戦は順調か!」

 俺はハヤトに向かって叫ぶ。するとハヤトは階段で足を止める。と同時に、ハヤトの周辺にいたサリクスたちは、一斉に俺めがけてレトロな銃を構える。

 それを牽制するように、俺の両脇にニゲラとカンナが立ち、ハヤトに向かってライフルを構える。それを見たハヤトは、やれやれという具合に両手を肩まで上げるポーズをした後、言った。

「作戦は順調だよ! 君たちが邪魔さえしなければね!」

「邪魔なんかしないさ! ただちょっと、お前と一緒に遊びたいだけだよ!」

「遊びたいようには見えないね! 君たちが構えているのは、水鉄砲かい?」

「そうだ! 水鉄砲だよ! とっても、威力が強いけどな!」

 直後、俺の両脇でライフルを構えていたニゲラとカンナが一斉に発砲した。水鉄砲の威力を見せつけんばかりに。

 もちろん、それにサリクスたちは応戦する。

 しかもそれが合図であったかのように、大蛇媒体の陰から新たなサリクスたちが出現する。その数は、結構多い。

 正直、この状況は良いとは言えない。むしろ最悪だ。これまでは拡張アーム付のアーマードスーツを着ていたカンナによって先陣を切ってもらっていたが、今じゃそれができない。今のカンナの装備は、ライフル一丁だ。しかも俺のライフルのビーム残量も、今にも尽きそうだ。このままじゃやられる。そう思った。しかし――

「やめないか!」

 頭上で、ハヤトが叫んだ。するとハヤトに従順なサリクスたちは、その掛け声で一斉に発砲を止める。少年に対して、完全に服従する大人たち。秩序の逆転現象。その不気味さ故、俺たちもトリガーを引く指を止めた。

 それからハヤトは、「もういい」という具合に、彼を取り囲み、護衛を務めていた10人ほどのサリクスたちに階段から降りるよう命じた。ここから先は僕の独壇場で、誰の頼りも要らないと言わんばかりに。それに従い、サリクスたちが階段を降り始めたときだ。

「君たちは何のために戦っているんだい!」ハヤトが叫んだ。「まさか、人類を救おうって思ってないよね!」

未来盗賊バンディットが、人類を救っちゃいけないのか!」

「じゃあ一体、君たちは人類を救うために、何人の人を殺すんだい!」

「――――っ!」

 俺は何か言い返そうとした。でも、言葉が見つからない。確かに俺たちは、ここに来るまでに、ライフルのビーム弾で、刀で、大勢のサリクスたちを殺してきた。それは全て、ハヤトを阻止するため。ブルームエンド文明開花の終焉を阻止するため。

「それが君たち、つまり人類の未熟なところなんだ! 正義を成そうと思えば、何かを犠牲にしなければならない! そして途方もない争いがいつの時代も続く! 何度、歴史が繰り返されても、こればかりは変わらない! なぜだかわかるか!」

「それは自然淘汰の一種よ!」弁明できない俺の代わりに、ニゲラが叫んだ。「この宇宙のアルゴリズムは極めてシンプルなもの! つまり、最も効率的な選択肢が、必ず一つだけ選ばれる! 思想においても、最も多様性が包含できる効率的なものが選ばれる! その選択のプロセスこそが、戦争なのよ!」

「違う!」

 ハヤトの声色が、明らかに変わった。それは怒り見せつけ、こちらを威嚇するような、潰れた声だ。まるで悪魔に憑りつかれたような、別人の声。

「違う! 人類のエゴを叶えるには、この宇宙は狭すぎるからだ! 空間は物理的法則に縛られ、時間も一方的に流れることしかなく、結果が必ず一つに帰結してしまうこの宇宙では、誰かが何かを望み、何かを得れば、それを享受できない他者が必ず現れる! 人類に争いが絶えず、いつまでも未熟たる全ての元凶は、この宇宙の制約だ!」

 その言葉の後、この場にいるサリクスたちは、一斉に賛美の雄叫びを上げた。それについていけない俺とニゲラとカンナは、完全にアウェイだ。

「僕たちがこの制約の中に閉ざされている限り、人類は未熟なままだ! ここはブレーンという名の宇宙の薄い膜で肉体も魂も縛り付けられてしまっている、いわば牢獄だ。だから僕たちはこの牢獄を抜け出し、自由になり、様々な宇宙を知ることで叡智を養い、誰からの干渉も受けず、理想を追い求めなければならないのだ!」

 再び、サリクスたちの雄叫びが轟く。

「な……何を言ってやがる!」

 俺はハヤトが言っている意味を、全く理解できない。いや、この現実味のない言葉の羅列と、ある種、宗教めいた不気味な群衆の統一感が醸し出す異様な雰囲気が、理解することを生理的に拒絶しているのかもしれない。

「君にはわからないのかい?! それでも、本当に僕の息子かい?! 残念だよ! 僕の遺伝子を引き継いでいながら、そこまで愚かだったとは! 所詮君は、僕の息子ではなく、ニゲラ――いや、アグネスの子供だってことだ!」

「――――っ!」

 その言葉に、俺はカチンときた。俺の腹の底から、何とも言えない怒りが一気に噴出する。

 だから気付いた時には、壊れていないもう片方のボトムアシストの動力を借りて、ハヤトに向かってジャンプしていた。

 そして空中から、僅かなビーム弾しか残っていないライフルで、ハヤトの額めがけて発砲した。

 しかし、ハヤトは予めビーム弾の軌道を予測していたかのように……いや、実際に予測していたのだろう、首を軽く傾けるだけでビーム弾をあっさりと躱した。

 でも、俺は諦めない。何度もハヤトに向かって発砲する。

 だが、結果は同じだった。

 ハヤトはまるでステップを踏むように、華麗な動きで弾をよけていく。

 対照的に、俺は地上からジャンプした勢いを上手くコントロールできず、おまけに片足が不自由だけあって、ハヤトが立っている階段に無様に落下した。そのままそこに倒れる。

 下から、歓声が沸き上がる。もちろん、その歓声が俺に向けられているものでないことくらい、わかる。

 ――畜生! 最高の観衆じゃねーか!

 俺は起き上がる前に、離さず持っていたライフルをハヤトに向かって構える。

 しかし、ライフルのビーム弾は、既に尽きていた。トリガーを引いても、ビーム弾はもう出てこない。

 それだけじゃない。空のライフルは、俺の手元から弾き飛んだ。

 だが弾き飛んだのは、空のライフルだけじゃなかった。

 空のライフルと一緒に、俺の指も、何本か持っていかれた。

 言葉にならない悲鳴が俺の喉を突き破る。

 その悲鳴に、ニゲラの悲鳴も重なる。

 血が止まらない。

 痛さは感じない。痛いという感覚が、混乱した思考で掻き消されてしまう。

 見上げれば、ハヤトが立っている。どこに隠し持っていたのか、ハヤトはハンドガンを構え、その銃口を俺に向けている。そのハンドガンで、ハヤトは俺のライフルもろとも、指まで吹っ飛ばしたんだということを、かろうじて理解した。

「この僕が、この未来を予測していなかったとでも?」

 薄ら笑いを浮かべながら、ハヤトは言った。「この物語の結末を、僕は完璧なまでに予めシミュレートしている。君のパートナーが誰の記憶を使ってミラーリングを行い、どうやってリディアを始末し、僕を追いかけてくるのか、君たちの行動を予測するなど、たやすい。そして今頃は、電源装置を止めに行っているところだろ? 僕の気を引いている間に」

 冷たい汗が、額から溢れ出てくる。

「さて、ここで君に質問だ」

 ハヤトは俺の前でかがみ、俺の鼻のすぐ先にまで顔を近づけてきた。ハヤトの顔に、薄暗い影がかかる。「ここまで知っている僕は、次に何をするでしょう?」

 そんなの、決まっている。言われなくても、わかっている。それはつまり、今この瞬間にも、カーラに危険が迫っているということだ。だから――

「止めろ!」

 俺は叫んだ。渾身の力を振り絞り、声でハヤトの意思を捻じ伏せようとした。

 しかし、それは叶わなかった。

 向こうで、大きな爆発があった。

 そこは間違いなく、カーラが電源装置に向かっているルートの途中にある場所。

「あああああああああああああああ!」

「ははははははははははははははは!」

 俺の叫びに、ハヤトの高笑いが重なる。

「どうだい?」ハヤトは言う。「愛する者を失う気持ちは? 悲しいか? 切ないか?」

「クソ野郎!!」

 俺は抑えきれない怒りを拳に込め、そいつをハヤトの顔面にブチかまそうとする。

 しかし運命が俺を嘲笑うかのように、拳は呆気なく躱される。

 と同時に、俺は勢い余ってバランスを崩し、再び倒れてしまう。

 サリクスの観衆から、笑いが起こる。それも大爆笑だ。

 悔しさと怒りで、涙が止まらない。

「テメー! いい加減にしろよ!」

 そう叫んだのは、俺じゃない。カンナだった。

 カンナは俺の怒りを代弁するように叫んだ後、ハヤトにライフルを構えた。

 しかし、カンナがトリガーを引く直前、カンナに一本の黒い触手が伸びた。

 その触手はカンナの足に絡みつき、その後、大きくうねる。

 カンナは一度、空中に持ち上げられる。そしてうねる触手は、カンナを大きく円を描くようにして振り回し、それから地面に叩きつけた。

 甲高い悲鳴が、カンナの口から洩れる。

 それを見ていたニゲラは、すぐさまハヤトに発砲する。

 ビーム弾は無事放たれ、それは一直線にハヤトの元へ伸びる。

 今度こそやった! と思った。

 しかしだ。

 ビーム弾がハヤトに到達することはなかった。

 到達する前に、向こうから高速でやってきた大蛇媒体によって、ニゲラのビーム弾が阻まれたのだ。

 そして大蛇媒体は体を曲げ、方向転換、頭をニゲラに向ける。と思った次の瞬間には、大蛇媒体はニゲラに向かって突っ込んでいた。

 その一連の動作は、直径5メートルはある巨体からは想像もしえない速さだ。

 それゆえ、ニゲラは逃げられない。

 大蛇媒体は、ニゲラに直撃する。

 そしてニゲラは、まるで紙でできた人形のように吹っ飛ぶ。

「母さん!」

 カンナが叫ぶ。さっき地面に叩きつけられたせいで、相当なダメージを負っているカンナ。額からは、多くの血が流れて出ている。それでも足に絡む触手をライフルで撃ち払い、立ち上がる。そしてニゲラの元に走り寄ろうとする。

 だがそれを、蜘蛛型ロボットたちがカンナの前に群がり、行く手を遮る。

「どけ!」

 カンナはライフルを乱射し、蜘蛛型ロボットを粉砕していく。が、あまりにも数が多い。無限に近い数の蜘蛛型ロボットたちが床を埋め尽くしている。だからいくら撃ってもキリがない。

「ようやく、ここのシステムを掌握できたようだな」ハヤトは自身の右手を何度も開いたり閉じたりを繰り返しながら言った。何かの感触を確かめるように。「久しぶりに手こずったよ。ここまで大規模なハッキングは、滅多にないからね」

 それから俺に向き直り、

「それじゃあ、始めようか。人類の、新しい船出を」

 そしてポケットに仕舞っていたワイルドカードを取り出す。

「止めろ!」

 俺は自らの肉体を鼓舞して立ち上がり、あらん限りの力を拳に込める。

 だが、それすらも予測しているハヤトだ。俺のパンチが届く前に、ハヤトは発砲する。

 放たれたビーム弾は、俺の胸に突き刺さる。

「――――っ!!」

 言葉にならない悲鳴と共に、俺の体が階段で沈む。

 それを見届けたハヤトは、この階段から飛び降りた。

 ここの高さは10メートル以上はある。

 子供の体であれば、無事では済まない。

 しかし地面に落ちる前に、無数の黒い触手がハヤトを受け止めた。

 そして触手はすぐさまハヤトの全身に絡みつき、漆黒のライダースーツを身に纏ったような姿になった。昔のロボットアニメの主人公が、コックピットに乗り込む時に着るコスチュームにも似ている。だがそのイメージは、あながち外れていないかもしれない。

 ここ一帯を支配していた大蛇媒体たちが、唐突に合体を開始する。複数の大蛇媒体は様々な角度で次々と連結。そして細かな造形は、無数の触手が絡み合い、高速で編み物をしていくかのようにして形作られていく。

 やがて目の前に現れた姿を見て、俺は愕然とした。

 なぜなら、それは巨人だったからだ。

 大蛇媒体たちは合体して、巨人になったのだ。

 巨人の頭は既に俺の視線より随分と高い位置にあることから、全長は15メートルを超えているかもしれない。

「ショウ! このワイルドカードが何であるのか、知っているか!」

 ハヤトは言った。彼は触手の支えを借りて、空中を浮遊している。

 さあな。

 撃たれた胸を抑え、陰り始める意識の中、俺は思う。俺が知っているのは、それがブルームエンドと呼ばれ、人類が最後に下す決断が記録されているということだけ。だが、その“最後に下す決断”が何であるのかを、俺はまだ知らない。

 俺の胸からは、血が流れ続けている。

「いいか! ショウ! これは余剰次元コードによって圧縮されたプランクデータを、重力子データへと変換するエンコーダーだ!」

 それがどういうことなのか? 俺には理解できない。

 だが俺の理解を待たずして、ハヤトは説明を続ける。「このエンコーダーを実行することで、ここに保存されている管理人類の全プランクデータは重力子データへと変換され、それによって人類はこの制約された宇宙から解放される! なぜだかわかるか!」

 知らねーよ! 知ったところで、何になるっていうんだ!

 しかし大声を出す体力がない俺は、黙ったままだ。それを知っているのか、ハヤトは一方的に語りかける。

「重力子はこの宇宙の制約に縛られない、唯一の物質だ! 過去へも未来へも、数多あまたある多元宇宙へも、何の制約も受けずに行き来することができる! だから人類そのものが重力子によって構成されれば、我々はどこにだって行ける! 誰の干渉も受けず、自由になれる! 素晴らしいことじゃないか! だから遥か未来の人類は――いや、ニゲラが、アグネスが、文明が枯れる最後の瞬間に、全ての希望を託してこのエンコーダーを実行するのだ!」

 それでハヤトは俺に言いたいことを全て喋りきった、そういう理由からだろうか? いきなり巨人は拳を振り下ろし、俺がいる階段を破壊した。

 もちろん、俺は落下する。

 受け止めてくれるものなど、何もない。

 触手はハヤトを受け止めても、俺は対象外らしい。

 だから空気抵抗以外に落下スピードを遮るものがなかった俺は、勢いよく地面に叩きつけられる。内臓が破裂するような痛み。口の中に滲む血の味。もう片方のボトムアシストも、壊れたのがわかった。

 もう、完全に動けない。

 それを嘲笑うかのように、逞しく、巨人は俺の前に立ちはだかる。

 さらに巨人は、足を床の上で滑らせるようにして、ゆっくりとこちらに向かってくる。まるで足が浅瀬に浸かった状態で歩いているかのような光景。

 しかも俺の隣にはニゲラが倒れている。さっきの一撃で、ニゲラの腹部からは夥しい量の血が流れ出している。この様子だと、もうダメかも知れない。

 だがその傍には、無数の蜘蛛型ロボットから何とか抜け出したカンナが、諦めずに寄り添っている。

 そしてカンナは大声を叫びながら巨人に向かってライフルを乱射する。でも、ビクともしない。いくつものビーム弾が巨人の体内に食い込んで破損しても、すぐにそこに触手が伸び、修復してしまう。だから巨人は、悠然と足を進める。

 やがて、カンナのライフルの弾が尽きた。

 トリガーを押しても、銃口からは何も出てこない。

 ついにカンナは諦め、力なくライフルを手放した。そしてその手で、ニゲラの手を強く握った。母と一緒に、何かを祈るように。

 それを同じくして、時刻が午前0時を回ったと、イアークが告げる。

「さあ、始めよう!」ハヤトが叫ぶ。「今こそ、ブルームエンドを実行するときだ! 既にサリクス同志たちは全員、ボウルシティとHeavenSに侵入し、ライブスキャナによって彼らのプランクデータを全て取得し終えている! だからブルームエンドを実行すれば、人類が未来に保有している全情報処理エネルギーは瞬く間に消費され、それと同時に、君たちバンディットも、ATLもBTLも、ここにいるサリクス同志たちも、この宇宙から蒸発してしまうだろう! だが大丈夫だ! ブルームエンドを迎えたその瞬間、僕たちには新しい世界が広がっている! だからこれは、文明開花の終焉Bloom Endなんかではない! 新しい人類の船出、デパーチャーズDeparturesだ!」

 そしてハヤトは、ワイルドカードを持ったまま、触手に引き込まれるようにして巨人の心臓部へと取り込まれていった。

 やがてハヤトと巨人は完全に一体化する。それから巨人の全身が突然、光り出す。

 きっと巨人の心臓部が、ここのプランクデータを管理するコアで、今まさに、ハヤトがそこでエンコーダーのプログラムを実行しているのだろう。

 要するに、今から人類の未来が終焉すると言うこと。

 それはハヤトに言わせれば、新しい人類の始まりなのかもしれない。

 だがそれは、本当に俺たちにとって、人類にとって、ハッピーなことなんだろうか?

 既にぼやけてきた脳みそで、そんなことを考える。考えても、無駄だとわかっていても。

 そのときだった。

 俺の手に、何かが触れた。

 俺はそれが何であるのか、確かめる。

 俺の手に触れたのは、ニゲラの手だった。

 ニゲラは俺の手に、そっと手を添えたのだった。

 血の気が引いて青ざめた顔をしているニゲラだが、彼女はまだ、かろうじて生きていた。

 そして何かを伝えようとしている。だが喋る体力が残っていないのか、口が小さく動いているだけで、声が出ていない。

 いや違う。もしかしたら声は出ていても、俺が衰弱しきっているせいで、俺の方が聞き取れていないのかもしれない。

 どちらにせよ、俺はニゲラの意図を汲み取ろうと、小さく動くニゲラの唇の一点を見つめた。

 もはやピントが合わない目だが、それでも、何となくだが、ニゲラがこう言ってるんじゃないかってことくらいは、わかった。それは、こんなことだった。

 ――この間違った結果を、変えて――あなたなら、できる――

 こんなときに、息子に余計な期待をかけんじゃねーよ。この御袋ババア

 やがて巨人から放たれた強烈な光が、ここ一帯を隙間なく埋め尽くす。当然それは、ここにいる俺の体をも呑み込んだ。

 

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