FILE:02/THE REUNION
「――っ痛!!」
記憶の奥底に眠っていた痛みが、急に暴れ出したかのような苦痛で、俺はもがいた。手足は捥ぎ取られ、肉は引き裂かれ、内臓は抉られ、体のありとあらゆる箇所が悲鳴を上げる。そんな感覚。
「悪い夢を見ていたね」
隣で、声が聞こえた。まだ幼い、少年の声。
俺は目を開ける。その声のする方を見る。ボヤけた視界は、徐々に輪郭を取り戻し、色あせた世界を取り戻す。
少年は透き通るような、でも冷たい瞳で俺の顔を覗き込んでいる。ぎりぎり男だとわかるが、かなり中性的な顔立ちだ。10センチほど伸びた猫毛のような細い髪は癖が一切ないストレートだが、無造作に散らかっている。前髪だけ短く、おでこが広い。
そんな少年の顔には、表情がない。まるで彫刻のように、眉も頬も固く動かない。
「俺は小学生をやり直すつもりはないぜ。早く先生を呼んで来い」
俺は激痛に耐えながらも、声を絞り出す。左腕には、輸血点滴の針が刺さっている。
少年は言う。「残念だけど、ここは小学校じゃないし、先生もいない。だから安心して。勉強もしなくていいし、宿題も出さないよ」
「まるで楽園じゃねーか」
俺はイアークを経由して視界に時計を映し出す。参った。あれから丸一日、俺は気を失っていたようだ。残された時間は、あと6日……。
俺は口から漏れ出そうな呻き声をなんとか噛み殺し、上半身を起こす。
「まだ、動かない方がいい」
少年は俺の体を抑えようとするが、
「さわんじゃねー!」
俺は右手で少年を払い除けようとした。しかしその右手は、右腕ごと、今はもうない。その代わり、切断口には何重にも包帯が巻かれていた。それが、何とも言えない屈辱だった。
「ガキに世話を焼かれるほど、落ちぶれちゃいねー!」
「でも無理しない方が――」
「暢気に夢を見ている暇なんて、俺にはねーんだ!」
すると少年は一度、頷いた素振りを見せた後、
「やっぱり」と言った。「やっぱり、悪い夢を見ていたんだね。昔の女の夢とか……」
俺は全身の力が一気に抜ける。そのせいで、せっかく持ち上げた上半身が、再び倒れてしまう。
「女のこともわかりもしねーくせに。生意気な」
「わかるよ」少年は言う。「こう見えても、結構歳をとっているからね」
「くだらねー冗談を」
その言葉の後、少年は不自然な仕草を見せた。俺と会話していたはずなのに、俺とは別の誰かに呼ばれたかのように、辺りを見回した。しかし、ここには俺と少年の二人以外、いない。コンテナを無理やり住居として使っているらしく、錆びた鉄の壁に囲まれた狭い空間に、窓は一つもない。裸電球が天井に一つだけ釣り下がっているだけの頼りない光に照らされた空間には、ガスコンロと輸血点滴と布団くらいしかなく(しかもその布団は、いま俺が使っている)、あまりにも生活感が欠如していた。
しばらく沈黙が続いたが、俺は口を開いた。
「ここはどこだ?」
「僕の家だよ」
「ブランク・グラウンドか?」
「違うよ。ボーダーから近いけど、ギリギリ内側だよ」
「親はいないのか?」
「死んだよ」特に悲しむ様子もなく、少年は言った。「もう、とっくの昔にね」
妙なことを聞いてしまった。こういうとき、謝るべきなんだろうか? だが少年は俺の無神経な問いかけを全く気にせず、会話を続けようとした。まあ、この方が都合がいい。
「ねえ、あんたバンディットでしょ?」
「?!……だとしたら、何だっていうんだ?」
なぜこのガキには、そんなことがわかるんだ? ……確かに、ボーダー付近で傷だらけで倒れていたんだ。そんな奴に、まともなプレゼンテッド・ロールがあるわけがない。あるとすれば、
「連れてって欲しい」少年が言う。
「バカ言うな! 遊びじゃないんだぞ!」急に大声を出したせいで、俺の骨が軋む。
「知ってるよ。十分なくらいにね」
こいつ、マジでクソ生意気なガキだ。この歳で、何を知ってるっていうんだ!
俺は再び上半身を起こす。だが相変わらず、俺の体はそこら中で悲鳴を上げる。
「だから無理だって」
「無理でも、行かなきゃならねーんだよ。じゃねーと、俺は殺されちまうからな」
「じゃあ、仲間が必要だね。それも、とびっきりの凄い奴」
「だから――」俺は寝床から立ち上がり、輸血点滴の針を引き抜く。そして床に転がっていたジャケットを掴む。「だから、そいつを今から探しに行くんだよ」
「探しに行く必要なんてないよ。だって、僕がその力になれるからね」
俺は言葉を返すことすらしなかった。こいつはバンディットに憧れ、しかも根拠もなくその才能があると思い込んでいる、勘違い野郎だ。そういう奴ほど、早く死ぬ。俺はそんな奴を、たくさん見てきた。
俺はジャケットを羽織り、よろける体を気力だけで支えながら、出口に向かう。ボトムアシストのバッテリーだって、残り少ない。
「雨が降ってるよ」少年は言うが、
「調度いいじゃねーか」俺は振り返らずに答える。「ガキは、お利口さんにお留守番できるからな」
カーラ=デ・アンジェリス。
俺の夢を賑わしてくれた女は、そんな名前だった。
とにかくスゲー奴で、「
出会ってから1年半あまり、俺はあいつとバディを組み、未来を盗みまくり、売りまくり、ぼろ儲けしていた。
左の掌に表示されるLTMの数値は日を追うごとに増えまくり、使っても使っても減ることがなかった。
法人向けの高層ビルの最上階を買い、豪華な家具でそこを住居に変え、しかしそこに帰ることはほとんど無く、その代わり毎日豪華な料理と酒が振る舞われるスイートに泊って、泥酔しながらカーラを抱いた。
そして二日酔いと倦怠感を引きずりながら、毎回何億の案件に繰り出す日々。
正直、狂っていた。世界を手に入れたと勘違いするほどに。
俺たちが盗んだ
何だってできる。俺は神だ。
かつて憧れていたBBでさえ、俺の目の前から霞んでいき、いずれ消えていった。
俺はカーラを愛していた。
あいつは
いつの間にか俺は、「クールロデオ」なんていうジャックネームまで手に入れていた。
そりゃ気持ちよかった。
昼も夜も、俺はカーラに溺れていた。
しかしだ。
そんな気持ちのいい“
突然、カーラが消えたからだ。
ある日のこと。目覚めた時、いつも横で寝ているはずのカーラがいなかった。
低血圧で、いつも俺より一時間以上も寝起きが遅いカーラが、いなかったのだ。
小さな頭の形に凹んだ枕が隣にあるだけで、俺はそれに触るも、枕はもう、冷たかった。
まあ、珍しく俺より先に起きただけで、ソファーで朝からワインでも飲んでいるのだろう。そう思い、俺はベッドから起き上がり、例のごとく、二日酔いの重たい頭を首で支え、抜けきらない倦怠感を引きずりながらスイートルームを探し回った。
しかし、カーラはいなかった。
寝室は然り、リビング、シャワールーム、トイレ……どこを探しても、いない。
ちょっと待てよ! この後、昼から大事な案件が控えているっつーのに!
だが仕事には律儀な奴だから、あいつはきっと来る。……いや、ぜってーに来る。
そう信じて、俺は現場に向かった……向かったんだが、あいつは来なかった。
もちろん、結果は散々さ。
取引が成立しないどころか、C◒H-Iが派遣したPMCにボロクソにやられ、数発のビーム弾を食らい、俺がリースしたDAPは全て破壊され、莫大な損失を出した。
俺は命からがらそれから逃げ切り、もう一年以上も帰っていなかった高層ビルの最上階に作った住居に行った。そこで食らったビーム弾の傷口を自分で縫って応急処置を行った。縫うとき、痛さで舌を噛み切らないように、タオルを口の中に入れた。
そして包帯を巻き終わった時には気を失い、また、朝が来た。
だがそこには、やっぱりカーラはいなかった。
俺はその現実を、しばらく受け入れられなかった。
言葉にできない喪失感。いや、あまりにもの喪失感に言葉を失った、と言った方が正しいだろう。
言葉を失っただけではなく、光も失った。
比喩ではなく、ホントに目の前が真っ暗になった。
生きる気力は失われ、生きる意味も失われた。
俺は、何のために、未来を盗んでいるんだ?
――俺には過去がない。
かつて10歳のときにコールドスリープさせられていたことが原因で、それより前の記憶がない。その理由はわからない。なぜコールドスリープさせられていたのか、目覚めた時には教えてくれる者なんて誰もいなかった。俺をコールドスリープさせた奴は、とっくの昔に死んだのかもしれない。それくらいの長い時間、俺は眠らされていた。
――だから孤独から目覚めた俺には、未来しかない。
かつてはそうだった。確かにそうだった。だがこのときの俺は、そんな理由よりも、カーラの存在があまりにもデカくなりすぎていて、正直、俺はカーラといるために、未来を盗んでいた。
だから今さら、錆び付いてしまった動機を磨き直して、見やすい場所に置き直すようなことはできなかった。
故に俺は、かすかな希望に縋るように、現場に出続けた。
もしかしたら気が変わったカーラが、
「やっぱ正常位じゃつまらないわ」
なんて言いながら、ひょいと顔を出すんじゃないかと願いながら。
しかしカーラは、俺の目の前に顔を出すことは、二度となかった。
それどころか、カーラの噂すらバンディット業界で聞くことも無くなり、挙句の果てに死んだんじゃないか、とまで言われるようになってしまった。
俺は同業者と会う度に、カーラのことを尋ねられた。
それに対し、俺は黙ったままだった。知りたいのは、こっちの方だ。
それでも俺は諦めきれず、現場に立ち続けた。その度に莫大な損失を出し、気が付けば、一生使いきることがないと思っていたLTMも、底をついていた。
死ぬことも考えた。
かつて理由もわからずにさせられていたコールドスリープではなく、永遠の眠りにつき、失われた過去の記憶と同じように、今の記憶も、この存在も、そしてこれからの未来も、全て葬り去りたいと願った。
その願いは、俺に死を選ばせた。
失敗が続いていたせいで、もはや小規模な案件のオファーすらなくなり始めた頃だ。
これが最後だと臨んだ案件も失敗に終わり、俺の
そのときだった。
俺の体に、鮮明なビジョンが流れ込む。と同時に、俺の体が、勝手に動いた。
俺の思考とは全く関係なく、まるで操り人形になったかのように、死への願望とは相反するように、俺は他者の思考とリンクし、DAP-H2800へと立ち向かっていた。
この感覚を、俺は知っている。そしてこの感覚は、酷く懐かしかった。あまりにもの懐かしさに、俺は思わず、涙を流してしまった。
気が付けば、俺を追い込んでいた七機ものDAP-H2800はスクラップになっていた。取引は失敗したものの、命だけは救われた。
俺はあいつに生かされちまったってわけだ。
言い換えれば、死ぬことも許されなかったってわけだ。
どういうわけかは知らない。
それはあいつの気まぐれなのか、それとも、もっと深くて大切な意味があるのか。
だから俺は、確かめなくちゃならない。あいつともう一度会って、なぜ俺を生かす必要があったのかを。そして、なぜ突然、俺の目の前からいなくなったのかを。
「ねえ、どこに行くの?」
幼いくせして、早くも人生を退屈しているかのような気怠い少年の声が、俺の背中にぶつかる。
俺は無視して歩き続けるも、少年は俺の後を追い続け、あの気怠い声をかけ続ける。
イライラが募る。いい加減、我慢できなくなった俺は、
「っせーな! このクソガキ!」と叫びながら振り返る。
雨の中、少年は生地が伸びきったパーカーのフードを深くかぶっている。その奥で光る瞳は、見たもの全てを凍らせてしまいそうな、冷たい光を宿らせている。その目で見つめられた俺は、全身に走る悪寒に耐えきれず、思わず背を向けてしまった。
「どこだっていいだろ」俺は吐き捨てるように言う。再び歩き出す。「ガキには、関係ねー」
「関係あるよ。だって、あなたの命だけじゃなくて、人類の運命もかかってるんでしょ?」
俺は足を止めた。
――まて、俺はニゲラから委託された案件について、このガキの前で何か喋ったか? 少なくとも、俺の脳みそがまだ正常であれば、喋った記憶などない。
「おい!」俺は再び振り返り、一歩少年に歩み寄る。「あんまり大人をからかい過ぎると、イテー目に遭うぞ!」
俺は少年を睨み飛ばす。しかし、彼はマネキンのように全く表情を変えず、平然としている。こいつ、大人を心底バカにしているのか? それとも、恐怖という感情をドブにでも捨てちまったか?
「からかってないよ」少年は言った。その後、雷が鳴った。少年は続ける。「僕がいないと、あなたは間違いなく死ぬ。そして人類の運命は、完全に閉ざされてしまう。絶対にね」
また雷が鳴った。
「何を……」俺の声は動揺で震える。「何を……知っている……?」
すると少年は、こうとだけ答えた。
「全てだよ」
その言葉の直後、俺の頭の中で、様々な思考がよぎった。そして、最も合理的な説明がつく一つの答えを、俺の脳は弾き出した。それはつまり、こういうことだ。
――この少年は、ニゲラがよこした監視役。
子供を派遣することで俺を油断させ、警戒心をときながら俺を見張ろうって魂胆だ。
そう言えば、ニゲラの護衛の中にもカンナって
しかし残念だが、俺はだまされねーぜ。俺は
俺は地面に転がっていた鉄パイプを拾い、それを少年に向けた。右手がないから、左手でだ。ボーダー付近の廃墟には、鉄パイプなど即席で武器になるゴミがそこら中に転がっている。
「僕を殺しても、どうにもならないよ」
「代わりがいっぱい、いるからか?」
「あなたはこう考えている」鉄パイプで威嚇されていると言うのに、少年の顔色は驚くほど変わらない。「僕がニゲラの派遣した監視役だって」
俺の眉間が引きつる。
少年は続ける。「でも、考えてみてよ。あなたの行動は全て、ライブスキャナと《WIZDAM》によって監視されている。それはあなただけじゃなく、全てのバンディットがね。だからわざわざ、僕なんかを監視役に派遣する必要なんてない。どこにもね」
「これだから、無知なお子さんは困る」俺は呆れて乾いた笑いを漏らしてしまう。今まで妙に強張っていた肩の力が、一気に抜ける。「いいか、ガキ。俺たちバンディットは、イディオットと呼ばれる薬を使うことで、偽の行動信号を発信し、《WIZDAM》の監視を誤魔化している。だから――」
「無知なのは、むしろあなたたちの方だよ」俺が話している途中で、少年は遮った。
「なんだと?」苛立ちと動揺が重なったせいで、俺の鉄パイプを持つ手が少し震えた。
「あなたたちはイディオットでシステムの監視から免れていると思っているかもしれない。でも《WIZDAM》は、予めその行動を予測している。あなたたちがいつイディオットを使い、どんな欺瞞信号を発信するのかを」
「ふざけんな!」
雷が鳴った。それに俺の怒声が重なった。しかし、
「真実だよ」少年は続ける。残酷なほど、酷く冷静な口調で。「あなたたちはイディオットを使おうが、使わなかろうが、既にあなたたちの行動は全て予測され、常に監視されている。あなたたちは未来を盗むことで自由を手にしたと考えているかもしれない。でも残念だけど、それは幻想に過ぎない。あなたたちも所詮、ATLとBTL同様、パーフェクト・トゥモローの中で踊らされているんだよ」
「大人をからかうのは、もうやめろ!」
俺は鉄パイプを振り上げる。しかしそれを振り下ろす寸前で俺は冷静さを取り戻す。
「くだらねー」俺は一度振り上げた鉄パイプを、力なく投げ捨てる。「お前が言っているのは、どうせネットとかに書き込まれている都市伝説だろ。悪いが、俺はお前の友達になってオカルトサークルを作るつもりはない。大人しく帰れ」
「そうか……」少年は肩を落とす。「残念だよ。あなたなら、わかると思ったのに」
「昔から、物分かりが悪いんだよ」
そして俺は少年に背を向けようとしたのだが、
「待ってよ」
少年が呼び止める。何だよ、しつけーな!
すると少年は、パーカーの下に隠していた何かを、俺に向かって投げた。俺はそれを受け止める。受け止めたものを見て、正直、驚いた。
少年が俺にくれたのは、なんと右腕の義手だった。
全身の鳥肌が立つ。「何で、これを?」
「必要でしょ? 今のあなたには」
確かにそうだ。俺の右腕は猫忍者に斬り落とされちまったんだ。だが俺が驚愕しているのは、少年がこのタイミングで、入手が簡単ではない義手を持っていた、という事実だ。入手困難なのは、コンテナを出る前まで俺の左腕に刺さっていた輸血点滴だって、そうだ。
もしかしてこいつは、未来を先読みしているのか?
そんな考えが、俺の頭をよぎる。だとしたら、こいつは一体、何者なんだ?
「未来を盗むのは簡単だ」少年は言う。「でも未来を盗むということは、覚悟が必要だ」
「当たり前だ。俺だって、命がけでやってる」実際、この案件が失敗すれば、俺は死ぬ。
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ、何だ?」
「未来を盗めば盗むほど、人類の繁栄の未来が短くなってしまう、ということだよ」
「は? またネットの都市伝説か?」
「事実だよ。それも科学的なね。この
「……妄想だ。何が……科学的だ」
「現代人はみんなそう言う。でもいずれ、この事実を証明する科学者が現れる。と言っても、ずっとずっと先の話だけどね」
返す言葉が見つからない俺は、しばらく黙り込んでしまう。その間に、雨は強くなる。
「今は信じることができなくても、いずれ信じるときがやってくる」沈黙を破って、少年は言った。「でも、信じたときには、もう遅い。全てが、手遅れだ」
強い雷が鳴った。白い閃光が瞳を貫く。その激しい眩しさのせいで、俺は一瞬だけ目を閉じてしまった。そして目を開けた時、唖然とした。
なぜなら、さっきまで目の前にいた少年が、消えていたからだ。
雨は、さらに強くなった。
結局、あの少年は何者だったのか? わからないまま、俺は猫忍者を追う。
しかしワイルドカードに仕込んであった発信機の信号は、もう出ていない。きっとバレちまったのだろう。だから猫忍者からワイルドカードを奪い取るためには、
俺が知る限り、あの猫忍者に立ち向かえそうなのは、カーラしかいない。
しかしカーラが俺の前から姿を消してから、もう五年になる。
だからと言って、完全に手がかりゼロ、というわけじゃない。
――モニカ=サンチェス。
カーラには昔、彼女がいて、その彼女が、そういう名前だった。まあ、バイセクシャルってやつだよ。しかしその彼女ってのがヤバい奴で……というか、相当ヤバい奴で、できればあんな奴の力なんて借りたくない。
とは言え、ルックスは完璧だった。
長身でスレンダーな体格と、長い手足。胸なんか手榴弾を詰め込めるだけ詰め込んだような爆乳で、その爆乳を揺らしながらガトリングガンやバズーカ、ロケットランチャーみたいな火力の高い武器を、とにかく使いまくる
おまけに
バンディット業界でも注目株だったわけだから、同業の連中でもモニカを狙っている奴はごまんといた。
ここまで聞くと、サイコーな女に聞こえるが、実態は違う。
モニカはイディオット中毒で、いつも情緒不安定だ。ハイで上機嫌な時もあれば、気性が荒い時もある。機嫌がいいときに会えればラッキーくじを引いたようなもんだが、俺の場合、そのくじの結果はいつもバッドだ。100%外れくじを引かざるを得ない。
なぜなら、カーラと付き合っていた俺は、モニカからすれば恋敵だったからだ。
だからカーラと付き合い始めた頃は、俺はモニカに何度も命を狙われた。
だが幸いなことに、カーラが「
そしてカーラのスキルを一番理解しているモニカは、カーラに敵わないと悟ったのか、一年経ってやっと、過激なストーカーを止めた。
そのおかげで俺の首は今もこうして繋がっているわけだが、もしかしたら今日、その首は降り注ぐ爆薬とビーム弾の嵐で、首だけでなく、手も足も内臓も、跡形もなくバラバラに引き裂かれるかもしれない。
なぜなら、今から俺は、モニカに会いに行くからだ。
残念だが、俺の知る限り、カーラのことを知っていそうな奴は、モニカ以外いない。もしかしたら、俺の前から姿を消した後、一度はモニカに会っているかもしれない。
いや、会っていない可能性だってある。
むしろ、会っていない可能性の方が高いんじゃないかと思う。
でも、そんな僅かな希望に藁を掴むような思いで縋(すが)らなければならないほど、俺は追い込まれている。このままだと、俺の命はあと6日だ。
俺はフロントガラスが破損した愛車のジャガーで3rd Heaven_Tokyoを北上する。
都心部を抜けた辺りでハイウェイを降り、地上路を進む。そして一時間くらい車を走らせれば、どれも同じデザインで無個性なマンションが立ち並ぶ。20~30階建てのクリーム色の建物で、小さな窓と小さなベランダが、同じように配置されている。そこにはプレゼンテッド・ロールと一緒に、住む部屋まで自動で割り当てられたBTLたちが住んでいる。視界にはエリア区分を示す3-3-0という番号がイアーク経由で表示されている。
そんなマンションタウンである3-3-0エリアを抜け、さらに10分ほど車を走らせた所だ。そこに、廃墟を思わせるような異質なビルがあった。
5階建ての古いビル。外壁は
俺は、鉄柵のゲートの前に車を停め、下車する。
鉄柵のゲートの向こうには、舗装されていないが、車が10台は停められそうなスペースがある。そのスペースを抜ければ、玄関だ。
俺は鉄柵のゲートの横にあるインターホンを押す。すると、
「何しにきやがった!」
まるで獰猛な野獣のような叫び声が聞こえた。しかもそれは、インターホンのスピーカーからではなく、剥き出しになったビルの最上階のフロアからだった。
見上げれば、そこにロケットランチャーを俺に向けて構えている女の姿があった。
さっきも言ったが、俺は100%外れくじを引く男だ。
久しぶりに見るダイナマイトなルックス。髪は相変わらずピンクと白のグラデーションが入ったショートヘアで、正面から見て左側の前髪だけ顎まで伸ばしている。服装はスウェットのブラトップで、そこから伸びた二本のサスペンダーが太もも丸見えのショーツを支えている。靴はミリタリー仕様のサイハイブーツ。外に出るのが恥ずかしくないか?ってくらい、肌の露出が多い。
イアークでズームし、顔を確認する。シャープな顎で、昔からアイラインを濃く書いているのは変わっていない。そこにいるのは、間違いなく、モニカだ。
「ここに美人が住んでるって噂があったから、覗いてみただけだよ」
俺がモニカに向かってそう叫んだ。その時だった。
いきなり、モニカが構えるロケットランチャーが火を噴く。しかもその閃光は、真っ直ぐ俺に向かってくる。
俺はここに来るまでに充電を済ませたボトムアシストの動力を借りて、咄嗟に横跳びし、伏せる。
と同時に、轟音が全身を揺さぶり、熱が俺を包む。
さすがにヤバい。ニゲラが与えた猶予期間を満了する前に、俺はここで死んじまうじゃねーか!
だが、俺は生きていた。肢体は燃えることなく、まだ俺の体にちゃんと付いている。
どうやら、ロケットランチャーの弾道は俺を外したようだ。だが振り返れば、鉄柵のゲートの前に停めてあった愛車のジャガーが、鉄柵と共に派手に炎上していた。
「ヘイヘイ! 照れ隠しにも程があるだろ! それが客をもてなす態度か!」
「一発20万LTMのロケット弾を食らわしてやったんだ! 上等だろ!」
モニカはそう言った後、二本のイディオットの注射器を首に刺した。どうやら、イディオット中毒はまだ直っていないらしい。
「ありがとよ! おかげで1000万LTMもした愛車が台無しだ!」
「だったら、あと49発食らわしてやるよ! それでお相子だろ!」
そういう問題じゃねーよ!
だが俺はその言葉を飲み込み、食道にせり上がってくる怒りも噛み殺した。
「ここじゃ話しにくい! 俺はオペラ歌手じゃないんだ! あんたもそうだろ?」
「お前と話すことなんか何もない!」モニカは空の注射器を投げ捨てる。「用があるとすれば、お前の体をズタズタに引き裂くことくらいだ!」
「あいにく、俺はマゾじゃないんだ! おしおきは御免こうむりたいね!」
「だったら帰れ! じゃねーと、もう一発こいつを食らわしてやってもいいんだぜ!」
モニカはロケット弾を装填し始める。
「ちょっと待てよ! 早まんな! 俺は人を探してるだけなんだ!」
「だったら探偵事務所でも行きな!」モニカは再びロケットランチャーを構え直す。「あいにく、人探しは苦手でね!」
「カーラなんだ!」
俺がそう言った途端、モニカが硬直した。まるで時間が止まったみたいに。俺は続ける。
「カーラを探してるんだ! もしお前があいつの居場所を知っていたら、教えて欲しい!」
するとモニカはロケットランチャーをおろす。しかしそのとき、モニカは俺を強烈に睨んだ。俺は蛇に睨まれた蛙のように、動けなかった。それからモニカがどう思ったのか、彼女は奥に消えた。
その真意はわからないが、とにかく、俺は胸を撫で下ろす。張っていた糸が突然切れたように、俺の緊張も緩む。
鉄柵のゲートは、さっきモニカがロケットランチャーでぶっ壊したから、敷地に入ることができる。壊れたゲートを抜けて、舗装されてない広場の先にある玄関の扉へと向かう。
扉は荒廃した廃墟な建物とは不釣り合いな、シルバーの光沢を放つ筒状にせり出した自動ドアだった。廃車寸前の古い車に、ドアだけ新品に差し替えたような違和感だ。
そんな自動ドアだが、自動で開くことはなく、ましてやドアノブも無い。どうやって入ればいいかわからず、徐に佇んでいると、突然、ドアが開いた。
中心部が二つに割れ、ゆっくりと、静かにドアがスライドする。
その先に現れた光景に、俺は思わず絶句してしまう。
なぜならそこに、俺が探していた人物がいたからだ。
「か……カーラ」
そう。そこには、カーラがいた。それもオールドスクールなファッションに身を包んだ、昔と全く変わらない格好で。
「よかった。本当に……よかった」俺は少し、涙が出そうになった。「もう、二度と会えないかと思ってたから……」
しかし声を震わせ、気持ちの制御ができない俺とは対照的に、カーラは冷静そのものだった。と言うか、感情すら無いように思える。
「おい、どうしちまったんだよ。久々の再会に、ハグも無しか?」
俺はそう言って、カーラに歩み寄る。するとカーラは、俺の手を掴んだ。
何だよ、ハグじゃなくて、握手か? と思った次の瞬間だった。俺の体は、宙に掘り出されていた。
そして地面に叩きつけられる。背中から落ちたせいで、背骨が特に痛い。
「ちょ……ちょっと待てよ……」俺は背中を抑えながら、何とか立ち上がる。「俺はマゾじゃないって……さっき言ったばかりだろ……」
だが次に目にした光景に、俺は我を疑う。
カーラは、一人じゃなかった。
それも十数人はいるだろう。玄関から現れたカーラ以外に、何人ものカーラが屋上で横一列に並んでいる。燃えるような太陽に照らされた彼女たちは、実に神々しく見える。
そして屋上にいたカーラたちは、一斉に飛び降りる。普通の人間であれば自殺行為だが、彼女たちはドシンッ!と、重量感のある音を立てながら難なく着地を果たす。
OK――要するに、こいつらはアンドロイドってわけだ。カーラそっくりのな。
「そうとわかれば、可愛がってやらねーとな。存分に」
カーラ型アンドロイドたちは一斉に俺に襲い掛かってくる。
それに対し、俺はボトムアシストの動力を借りて、ブレイクダンスを踊るように足払いをする。数人のカーラ型アンドロイドたちは足払いに巻き込まれ、蹴り飛ばされる。
さらに足払いが届かなかったカーラ型アンドロイドに対しては、銃で応戦する。
ブレイクダンスを踊りながら、少年からもらった義手でハンドガンを握り、イアークの照準アシストを借りて狙い撃つ。地面スレスレの所からの不意打ちに対処できないカーラ型アンドロイドたちは、次々にビーム弾の餌食になっていく。
それで半数以上のカーラ型アンドロイドを片付けることができた。しかしそれを言い換えれば、まだ半分近くのカーラ型アンドロイドたちが残っている、ということだ。
残った彼女たちは、容赦なく俺に襲い掛かってくる。
さて、どうしようか? 一度使った技は、二度と使えない。最近のアンドロイドのAIは下手なPMC兵より頭がいいから、どうせ見破られる。ブレイクダンス以外の戦術が思いつかない俺は、一旦、避難を試みる。ボトムアシストを使って、5階部分にある、あの剥き出しのフロアに向かってジャンプする。
そして着地。俺は地上に残されたカーラ型アンドロイドたちに向かって、ハンドガンの照準を定める。しかし――
突然、視界がホワイトアウトした。
と同時に、後頭部に凄まじい衝撃が走った。ホワイトアウトがとけても、脳震盪でフラフラだ。ついに体を支えきれなくなった俺は、倒れてしまう。
そんな俺を、後ろから拘束する者がいた。カーラ型アンドロイドだ。畜生、一人隠れてやがったか!
それから地上にいたカーラ型アンドロイドたちも、ジャンプで5階のフロアに侵入し、俺を完全に包囲する。俺はこの状況を何て言うか知ってるぜ。万事休すってやつだ。
「悪くない死に方だろ? ショウ=サイレンジ」
奥から、モニカの声がした。そしてコツコツとブーツの音を立てながら、崩れ落ちた天井から差し込む太陽の光に照らされ、モニカは姿を現した。露出した彼女の肌が太陽の光を鏡のように反射して、凄く眩しい。まるでもう一つ太陽が産まれてきたかのようだ。こいつに「
「昔の恋人に殺されるんだ。男として、これ以上の幸せはないはずだ」
「それは女の誤解だぜ。男は、女をいじめる方が好きなんだ」
「そうか――」モニカは銃口を俺に突きつける。今度はロケットランチャーじゃなくて、ショットガンだ。「だったら、私がこれでお前の頭を吹き飛ばしてやるよ」
トリガーにかかるモニカの指に、力が入る気配を感じた。さすがに、俺はチビリそうになる。いや、もしかしたらチビっちまったかもしれない。だとしたら、せめて俺の死様は後世に伝えないでくれと、モニカに頼んでおくべきだった。そんな下らない後悔をしたときだ。
――カンッ!
乾いた音が、俺の耳元で鳴った。何事だと思い、音がした方を見る。
モニカが持っていたショットガンが、宙に舞っている。何者かが、モニカのショットガンを銃弾か何かで吹っ飛ばしたってのか?
答えもわからないまま、状況はまた変化する。モニカの傍にいた、ほぼ全裸のカーラ型アンドロイド、彼女はなんと、いきなりモニカを背負い投げしたのだ。
状況が、全く理解できない。さらに俺の傍に、一つの缶が転がってきた。何だよ、こんな時にジュースの差し入れか? なんて暢気なことを言ってる場合じゃない。それはジュースの缶なんかじゃない。その缶は、閃光弾だ。
わかったときには、既に閃光弾は破裂していた。
直後、轟音と共に、突然床が抜けた。
閃光弾のせいで視界は失われている。だが、落下していることくらいわかる。まさに奈落の底に突き落とされている気分だ。
そして奈落の底は、水だった。
ドブン!と俺の体は着水する。重いボトムアシストを付けた俺の体は、水の中では沈む一方だ。しかし俺の体は沈むことは無かった。沈むほどの深さが無かったのだ。
俺は水面から顔を出し、辺りを見回す。
そこは、浴室だった。俺は水が張られたバスタブに、突き落とされただけだった。
しかも瓦礫に紛れて、さっきまで俺を包囲していたカーラ型アンドロイドたちもいる。しかし彼女たちは、AIがハッキングされているのか、痙攣して動かない。
「少しはさっぱりしたかい?」
頭上で、声がした。聞き覚えのある、幼い声。俺は声のする方を向く。
すると破壊された天井の先に、つまりさっきまで俺がいた場所に、少年の姿があった。俺に義手をくれた、あの少年だ。しかも彼は、モニカを四つん這いにさせ、彼女のコメカミに銃を突きつけることで、モニカを制している。
「ま……マジかよ……」
俺は信じられないでいる。誰も殺さずに状況を終息させるよう、完全に計算され尽くした爆薬の配置と的確な武器選定。こんな真似ができるのは、
少年に銃を向けられているモニカは、辱めを受けているような、羞恥に満ちた表情をしている。そんなモニカに対し、
「気にすることじゃないさ」と少年は言った。「僕はあなたの倍以上の人生を生きている」
「ガキが、ふざけたことを……」四つん這いのモニカは少年を見上げる。すると何かを悟ったように、モニカは短い笑いを吐き捨てた後、こう言った。
「かわいい……ご老人だこと……」
「理想の老後じゃないけど、仕方ないんだ。この世界を変えるためにはね」
それから少年は俺を見下ろし、
「この女は何も知らないよ」と言った。
「何だと?」
「残念だけど、彼女はカーラの居場所を知らない。これ以上、問い詰めても無駄だ」
そして少年は銃をしまい、歩き出した。なぜか、モニカは反撃を仕掛けない。魂が抜けきったように、四つん這いのまま、項垂れている。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
俺はバスタブから這い出ようとする。しかしうまくいかず、俺は床に転げ落ちてしまう。当然だが、俺は全身びしょ濡れだ。おかげで、俺がチビっちまったかどうかはわからない。だが、もしそれもあの少年の計算に入っているとしたら、出来過ぎだ。
「カーラはここにいない。でも、僕は彼女がどこにいるか、知っている」
「な……何を言っている?」
俺は軽い錯乱状態になる。俺は少年の前でカーラの話をしたこともなければ、カーラを探していると言ったこともないのだから。
「大丈夫だよ」少年はそう言って5階から浴室に降り立つ。「ここまでは、僕のシナリオ通りだ」
そして少年はモニカの方を見上げながら、
「あなたは、どうする?」と問いかけた。
しかしモニカは何かを考えている様子で、無言のままだった。
モニカを置いて、俺と少年はモニカの自宅を出た。それから少年は俺の前を歩く。まるで俺を先導するかのように。行く宛もない俺は、少年の後に続くしかない。
「おい、いいか?」俺は少年に尋ねる。
「何?」少年は歩きながら振り返る。
「お前は一体、何者だ?」
「そうだな~?」少年はわざとらしく考えた素振りを見せた後、「今は子供だよ。ただの子供」
「ただの子供にしては、リードアヘッドのスキルが高すぎる」
「理想を実現するためには、これくらいのスキルは必要だ。それに、僕にはあなたを守る義務がある。まあ、あくまで〝理想を実現するまでの間だけ〟の話だけどね」
「ガキに守られる義理なんてねーぞ!」
「あるんだよ」少年は意地悪にはにかんで見せる。「そのうちわかる。それに、どの道あなたは僕が必要だ。違う?」
俺は奥歯を噛みしめる。
確かに、こいつの持っている
「俺と組むのであれば、条件がある」
「何?」
「その格好だ」
そう。少年の着ている服は、あまりにもみすぼらしすぎる。ボロボロのパーカーとハーフパンツ、履き潰れたスニーカー。
「俺たちの仕事は、未来という無形の商材を扱う。だから第一印象が大事だ。第一印象が悪けりゃ、たとえ何億の価値があるワイルドカードでも、売ることはできない。俺たちの売っているものは、“夢”でもあるからな」
「夢、ね」少年は空を見上げる。夕日がかった空は、薄いオレンジの絵の具を注いだ色のように、淡く美しい。「夢だったら、まだいい。僕たちのいるこの
「中二病みたいなこと言いやがって、ガキが」
「ねえ、僕も一つだけ条件を出していいかな?」
「何だ? 生意気な」
「僕のことをガキって言うのは止めてくれないかな。言葉づかいも、良い第一印象を築くための重要なツールだよ」
俺は再び奥歯を噛みしめる。こいつ! 大人の揚げ足を取りやがって!
「じゃあ、お前のことは何て呼べばいいんだ?」
「ハヤトでいいよ。よろしく」
そう言って、ハヤトと名乗った少年は、俺に握手の手を差し出してきた。俺は後頭部をポリポリと掻きながらも、右の義手で、その手を強く握った。
ハヤトの話によれば、カーラはspaceCODEという企業にいると言う。
spaceCODEと言えば、3Dプリンタの世界最大手であり、その技術をもってすれば何でも出力することができる。例えばトイレットペーパーやキッチン用品といったものはもちろん、ミルクやパンといった食料品から、銃やミサイル、DAPといった兵器、さらには人間の臓器や手足といったものまで、データコードさえあれば出力できる。その気になれば、人間まるごと3Dプリンタから出力することだって可能だ。だが倫理上の問題から、無許可で3Dプリンタで人間そのものを出力することは、Central◒Houseの
いずれにせよ、世の中に流通している
体制批判はここまでにしておいて、spaceCODEは3rdHeaven_Tokyoの1-0-0エリアにある。かつてはマルノウチなんて呼ばれていた、一流企業が集うオフィス街だ。俺は最近来ていなかったが、バンディットの
そんな混沌とした中でも、spaceCODEのビルは格別な存在感を放っていた。三回目の東京オリンピックで建設された巨大スタジアムを買い取り、スタジアムは複合商業施設に、さらにその傍に200階をも超えるとてつもない高さのビルを建てやがったからだ。地上から見上げても、屋上が見えないくらいだ。
「では、ここに訪問先の社員の名前を仰ってください」
spaceCODEを訪れた俺とハヤトは、受付の小顔のポニーテイルの女性にそう言われた。女性と言っても、AI搭載のアンドロイドだ。
「カーラ=デ・アンジェリス」
俺は、俺が探している女の名前を言った。間違いなく、そう言った。しかし――
「申し訳ございませんが、そのような社員は弊社にはおりません」
そんな回答が、受付アンドロイドから返ってきた。
「ちょっと待てよ!」俺は怒りを何とか苦笑いで隠すことができたが、思わず受付台を叩いてしまった。「ちゃんと調べてくれ。カーラ=デ・アンジェリスだ。ここにいるはずだ」
しかし受付アンドロイドは再度、社員データベースを検索するが、該当データがないとしか答えない。まさかとは思うが、俺との面会を拒絶するよう、予めプログラムされているというのだろうか?
俺たちは一旦、受付を離れ、
「おいガキ」と声を潜めながら隣にいるハヤトに問い詰める。
今のハヤトはシャツとネクタイ、ベストとスラックスパンツ、本革の靴という正装だ。衣装は全て俺が買ってやった。どれも一流ブランドで買い揃えたから、全部で50万LTM。また借金が増えた。しかしハヤトはネクタイを緩め、首元のボタンも二つ以上開け、シャツもパンツの中には入れず、ルーズな着こなししかしない。注意しても、直らない。
「ガキじゃない。ハヤトだよ」
「どっちでもいい。お前、リードアヘッドもハッキングも得意だろ? 何とかならないのか?」
「その必要はないよ。どうせ、状況はすぐに動き出す」
「は?」
するとハヤトは、ある一点を見つめる。俺はその視線を追う。
そこで、俺の時間は一瞬止まった。
一人の女が、オフィスゲートを抜ける。
見覚えのある、金色の細い髪。白衣からすらりと伸びる、長い手足。
「カーラ!」
気が付いた時には、俺は叫んでいた。止まっていた俺の時間も動き出す。
しかしカーラは俺に気付かず、オフィスエリアに進んでいく。
俺は猛ダッシュでカーラを追う。
そして腰くらいの高さまであるオフィスゲートを飛び越える。
ボトムアシストの動力を借りれば、大したことじゃない。
だが突然出現した招かざる客に対して、待機していた警備ロボットが捕獲にかかる。
それを俺はバスケットボール選手のピポットターンのようにすり抜ける。
カーラは人が密集するエレベータホールの中に入っていく。俺もその中に突っ込む。そして人ごみを掻き分けながら進む。
それから一階に到着したエレベータのドアが開く。それに向かって一斉に人が流れ出す。カーラも同じだ。
俺もその流れの力を借りながら、エレベータに向かう。だがエレベータの中はすぐにいっぱいになり、カーラは何とかそれに乗り込もうとする。
俺はそれを阻止すべく、「カーラ!」と叫びながら、彼女の肩を掴む。しかし既に彼女はエレベータに乗り込んだ後だった。俺はと言うと、ギリギリのところでエレベータに乗り損ねている。エレベータに乗り込んだ人々は、俺を不憫な目つきで睨み始める中、俺に肩を掴まれたカーラも振り返り、俺を睨む。
そのとき、俺に衝撃に等しい落胆が走った。
振り向いた女は、カーラではなかった。もう何年も会っていないが、その顔のつくりから、カーラ本人でないことくらい、わかる。そんな……まさかここにきて、人違いかよ。
刹那、爆音が鳴り響いた。
受付のあるエントランスホールからだ。
俺はイアークのズーム機能を使って、その様子を見る。
最悪だ。
そこにいたのは、大型のアサルトライフルを二丁、両手で構えながら立つモニカの姿だった。奴は大型のアサルトライフル以外にも、様々な武器を背中に担いでいる。そんな奴の両脇を、これまた数体のカーラ型アンドロイドが固めている。
モニカの奴、あいつもカーラのことが忘れられず、結局、俺たちの後をつけて来たってわけか?
モニカはさっきまで俺とお喋りをしていた受付アンドロイドの頭部を吹き飛ばし、止めに入ってきた警備ロボットもあっさりとハチの巣にしていく。
そんなモニカは、かなりのハイテンションだ。不気味な笑い声を吐き散らしながら銃をぶっ放す。どうせイディオットの打ち過ぎで、また狂っちまっているのだろう。こうなっていると、モニカは俺だけじゃなくて、カーラがいる(であろう)このspaceCODEもまた、「カーラを奪った敵だ」という白昼夢に憑りつかれ、破滅しかねない。
「逃げろ!」
悲鳴が木霊する中、そう叫ぶ者がいた。それに従うように、エレベータに向かってどっと人が雪崩れ込む。おかげで俺も乗り損ねたエレベータに乗り込むことができた。しかしこのままだと、定員オーバーでエレベータが出発できなくなる。
「エレベータを閉じろ!」
俺は叫ぶ。するとエレベータのスイッチの前に立っていた男が、ボタンを連打する。
だが開いた扉から、さらに人が押し寄せてくる。
それを阻止しようと、エレベータの中にいる連中は、入ってこようとする人々を「来るな!」と叫びながら蹴り飛ばしていく。
まるでゾンビから逃げる人間を描いた、映画さながらの光景だ。
生命の危機や恐怖を目の当たりにした人間は、道徳という
そして多くの人間を見捨てた後、エレベータの扉が閉まった。
と同時に、エレベータは急上昇する。それに合わせて、押し競まんじゅう状態のエレベータ内の温度も一気に上がる。そのせいで、汗が首元を伝う。
俺の目の前には、さっきまでカーラと勘違いしていた女がいる。彼女は相変わらず俺を睨んでいる。俺が対応に困っていると、
「悪いけど、私には子供がいるの」と女は言った。
「そうか」俺はわざとらしく微笑んでみせる。「それは残念だ。出会うのが、少し遅すぎた」
それから女は数秒、俺を睨んだ挙句、二度と見たくないといった風に体を背けた。
長く生きているが、ここまで人から嫌悪されたことは、そうない。
まあいい。それよりも、この状況を何とかする方法を考える方が重要だ。まず、この閉鎖的な空間に閉じ込められていること自体が危険なわけで――
いきなり、天井からドンッ!という異音がした。何者かがこのエレベータの天井に飛び乗った気配。
どうやら、俺に十分なシンキングタイムを与えてくれる思いやりはないらしい。
嫌な予感は的中。天井に設置されている非常用脱出口の蓋が、いきなり開く。そしてそこからカーラの顔が現れ、無表情で中を覗き込む。
悲鳴がエレベータ内で轟く。
気付いた時には、俺はビーム銃でカーラの額を撃ち抜いていた。
貫いたカーラの額から、血ではないが、ぬるっとした茶色のオイルが滴り落ちる。
だが安心はできない。
カーラ型アンドロイドは、一体だけではない。
非常用脱出口で動かなくなったそれは、闇に引っ張られるように、視界から消える。そして同じ顔が、再び現れる。
俺はさっきと同様に、その顔に向かって銃を構える。が――
それを許す間を与えず、カーラ型アンドロイドはこの押し競まんじゅう状態のエレベータ内に飛び降りる。
また悲鳴。さらに恐怖と混乱。暴れる群衆。そのせいで、俺は十分な視界を確保できない。混沌とした人の渦が見えるだけだ。
その渦の中から、突然カーラの顔が現れた。次の瞬間、俺の息が詰まる。
それは緊張などによって心理的に引き起こされる症状ではない。物理的な意味で、本当に俺の息は詰まったのだ。
「――っく!……」
カーラ型アンドロイドは、両手で俺の首を掴み、締め付けている。
俺はその手を離そうとするが、その指も腕も、全く動かない。まるで彫刻でできた手首のように。
そのとき、ベル音と共にエレベータの扉が開いた。
新鮮な空気と入れ替えに、人々はここから一斉に逃げ出す。
俺もそれに続きたいが、無理だ。カーラ型アンドロイドは強靭な腕力で俺の首を掴んだまま、離さない。おまけに首を掴んだ状態で俺を持ち上げる。俺の脚は宙ぶらりんだ。
クソ! ……ふざけやがって!
怒りが込み上げる。その怒りに任せて、俺は宙ぶらりんになったこの脚で、蹴りを食らわそうとする。ボトムアシストの動力を借りれば、こんなラブドールを無理やり強化したアンドロイドなんて目じゃない。だが――
――っ?
脚が、動かない。
何度やっても、脚が動かない。まるで釣り糸が切れてしまった人形のように、俺の脚は空虚にぶら下がったままだ。
――そうか――と、俺は気づく。
俺の首を掴んでいるカーラ型アンドロイドの手が、ジャミングノイズを発生させ、脊髄からボトムアシストへ送られる信号を遮断してやがるのか!
――畜生! 俺の弱点を突いたってわけかよ!
怒りが無念さに変わる。それと同じくして、俺の意識が遠のき始めた。視界の輪郭は徐々に失われ、色も散り、四隅から白だけが侵食し始める。酸欠で脳が限界に達している。
――俺は、もう、助からないのか?
そう思った時、脳裏にハヤトの顔が浮かんだ。
――そう言えばあのガキ、どこに行っちまったんだ? 確かにあいつを置いて突っ走っちまったのは俺だが、まさかビビって逃げちまったわけじゃねーだろうな? ったく、あの腰抜け野郎! パートナーがピンチだってーのによ!
すると直後、今まで全くビクともしなかった両手が、俺の首から外れた。
それと同時に、俺の体は床に落下。そのまま倒れ込む。
俺は咳き込む。だが必死で、空気を肺に送り込む。
その横で、カーラ型アンドロイドもこと切れたかのように、ドサッと倒れる。
――おい! 助けに来るのが、遅すぎるんじぇねーか? このクソガキ!
だが、俺の危機を救ってくれたのは、ハヤトではなかった。
徐々に視界の正常さを取り戻していった俺は、見上げる。するとそこには、少し凹んだ消火器を持った女が立っていた。
彼女は、俺がカーラと勘違いした、あの女だった。
どうやらあの女は、消火器でカーラ型アンドロイドの後頭部をぶん殴り、大容量ハードディスクを破壊させて強制終了させたのだろう。
「すまない……」俺は咳き込みながらも、何とか言葉を吐き出す。「助かったよ」
「勘違いしないでよね」だが女は、軽蔑した眼差しを俺に向けながら、冷たい口調で言葉を吐き捨てた。「これは、ただの、さっきの、お礼」
それだけを言い残し、女は持っていた消火器を無造作に投げ捨て、走り去っていった。
「何でもいいが、ありがとよ」
俺は立ち上がる。何はともあれ、俺は人生のリセットボタンを押さずに済んだってわけだ。To Be Continued.
それもそうだが、ここはどこだろうか? 到着したエレベータホールの壁には、200という文字盤がかかっている。随分と、天国に近づいちまったんじゃないかと思う。神様は、何階にいらっしゃるのかね。
地上1階で起こった
ここは展望台になっていて、エレベータを降りるとすぐに遥か遠くの地平線が見渡せる。しかも受付さえすれば、社員以外のBTLも入場可能なフードコートもある。もちろん、暢気にメシにありついている奴は、今は一人もいない。警備ロボットの誘導に従い、みな避難通路に移動している最中だ。ここだって、いつ戦場になるかわからない。
俺はPMCの入札プラットフォームを視界上に開く。そこで必要なものをとにかく発注する。特急料金を吹っかけられても、流暢に値引き交渉している暇はない。
そしてPMCとオンライン契約処理をしている最中だ。
ベルの到着音とともに、エレベータの扉が開く。そこから、次々とカーラ型アンドロイドが現れる。狙いは、俺のようだ。
それを証明するかのように、奴らは何の躊躇いもなく俺に向かって発砲する。
俺はとにかく逃げる。だが逃げ場所なんてない。BTLと一緒に非常口への列に並ぶわけにもいかない。
だから俺は、すぐに追い込まれてしまう。展望台の窓を背にした状態で、前方はカーラ型アンドロイドに包囲されてしまう。彼女たちは一斉に俺に銃を向ける。さて、どうする?
「決まってるだろ。お前たちとはお別れだ」
俺はカーラ型アンドロイドたちに背を向け、窓に向かって発砲する。防弾処理が施されていない窓は、簡単に罅が入る。さらにボトムアシストの動力を借りて、窓を蹴り破る。
俺は深呼吸をする間もなく、意を決して割れた窓からダイブする。
念のため言っておくが、ここは地上200階目のフロアだ。
当然、俺は落下する。そんな俺を、カーラ型アンドロイドたちのAIは何て認識するだろうか? ただのバカ? そうだろうな。でもな、死ぬために飛び降りたわけじゃないぜ!
ドンッ!という音と共に、俺の足の裏に衝撃が走る。
間に合った!
俺は着地に成功した。俺は飛び降り自殺をしたわけじゃない。さっき特急で発注した自律飛行型輸送ヘリに飛び移ったんだ!
そしてヘリは上昇。視界に割れた窓にたむろするカーラ型アンドロイドたちを捕える。そこに向かって、同乗していたDAP-H3000がアサルトライフルですかさず発砲する。
しかし、数が多すぎた。撃っても撃っても数が減らない。スクラップになった数の分だけ、また奥からカーラ型アンドロイドが現れる。ったく、モニカは有り金全部はたいてこいつらを発注したってわけか?
おまけに、その中からロケットランチャーを持ったカーラ型アンドロイドが現れる。俺はそいつに銃口を向けるが、間に合わない。俺がトリガーを引く前に、そいつはロケットランチャーをぶっ放した。
危険を察知したヘリのAIは、緊急回避するため、急旋回と急上昇を同時に行う。だが高度な追跡機能を搭載したロケットランチャーからは逃げられない――
ヘリは被弾。
爆音が耳を突き破る。ヘリはコントロールを失う。AIでは、もう機体を制御できない。俺だって、ヘリの操縦はできない。このままでは、ヘリはビルに突っ込んでしまう。
俺は脱出用のロープランチャーを手に取る。それをビルめがけて放つ。
これだけデカいビルだ。外すわけがない。ロープ先のアンカーはビルに突き刺さる。問題は、それがしっかり固定されているかどうかだ。でもそんなの、確かめている余裕なんてない!
俺はロープを握りしめ、再び空中に飛び出す。
数秒間の空中飛行。その末、俺はビルのガラスに激突。全身に痺れに近い痛みが走る。しかし俺は悲鳴を喉奥で噛み殺す。あとはこのガラスをビーム弾とボトムアシストの動力で突き破れば――
直後、ヘリはビルに激突。機体がビルに食い込む。その衝撃で、固定されていたロープのアンカーが外れた。
――浮遊感。
俺の体は落ちる。
このままでは、俺の体は地上に落ちて、人間だったかどうかも判別できないほど、粉々になってしまう。そうなる前に、俺はロープアンカーを回収し、もう一度ロープランチャーを放つ必要がある。問題は、それが間に合うかどうかだが――
誰かが、俺の手を掴んだ。
何だ? 死神が迎えに来るには、まだ早すぎるぜ。
俺は上を仰ぎ見る。するとそこにいたのは、死神ではなく、女だった。
しかも信じられないことに、その女はビルの窓の上に垂直に立っている。まるで重力に逆らっているかのように。
それを見て、俺は痺れた。それはあり得ない状況で俺を助けてくれたからだけじゃない。
あの頃とは随分と印象が変わってしまったが、わかる。長く伸びた金色の髪、小顔でシャープな顎。昔は睫毛を盛れるだけ盛っていたが、今では落ち着いたメイクのクールで知的な瞳。間違いない。この女は、俺が探していた――
「ストーカーをするにも、ほどがあるでしょ!」
直後、女の足元に雷が走った、と思った次の瞬間、ガラスが割れた。そして割れたガラスと一緒に、女はビルの中に落下する。
女に手を掴まれていた俺は、一緒に落下する。
その後、女は垂直に立つ柱に着地。俺はと言うと、当たり前だが、床に転げ落ちた。
どうなってんだ? いつからこいつは重力を操る魔法使いになったんだ?
「何だよ……」俺はよろけながらも床に立ち上がり、言った。
「未来盗賊から、魔法使いに転職か? カーラ」
そうだ。ビルから落下した俺を助けてくれたのは、カーラだったのだ。
するとカーラは柱から床に降り立つ。久しぶりに再会したカーラは白衣姿で、強力な電磁波で吸着するゴツいフットロックシューズをはいている。高層ビルの整備や窓清掃の時に使う、アレだ。それを見て、俺は魔法の正体を理解する。フットロックシューズは出力を上げれば上げるほど、質量の多い物体との吸着力が増す。今回はその原理を利用したものだろう。おかげで出力を上げ過ぎたフットロックシューズは壊れ、黒焦げだ。
「あなたといると、いつも危ない目に遭う」
「それが嫌で、俺の前から消えたのか?」
「まさか。つまらない日常を壊すには、絶好の相手だったけど」
「じゃあ、何で――」
「見つけたわよ!」
突然の叫び声。それが俺の言葉を途中で掻き消す。声の正体は、モニカだった。モニカは相変わらず、イディオットでハイな状態だ。
俺はカーラの前に出ようとするが、カーラはそれを制した。
「これは、私の問題なの」
するとカーラは白衣の下から銃を取り出し、モニカに向ける。明らかな拒絶の意思。
それを目にしたモニカは、奇声を上げる。
「何でなの?! 何でなの?! カーラ?!」
錯乱しているのか? 過剰に投与されたイディオットが、その錯乱をさらに増幅させる。モニカは頭を抱えながら、自身の頭を大きく揺らす。そして奇声が止んだと思った矢先だ。
「だったら死ね!」
モニカはカーラに向かってグレネードランチャーをぶっ放す。
咄嗟に、俺はカーラを庇う。
その代償だ。俺はグレネードランチャーを食らった。体が吹っ飛ぶ。
「ショウ!」
カーラが俺の名前を叫ぶ。大丈夫だ。生きてる。問題は、俺が相当な重傷を負っちまったってことくらいだ。
そう。俺は右膝から下を、失っていた。
だが俺は冷静さを保つ。最近、右腕を失ったばかりだ。こういうのには、もう慣れた。いや嘘だ。ホントは泣きたいくらい痛いし、切断部分から溢れ出る血を見るのは怖い。
「大丈夫。私が助けるから」
カーラはそう言って俺に肩を貸す。そこに、乾いた笑い声を上げるモニカが近づいてくる。カーラは白衣の下から閃光弾を取り出す。そして口でピンを引き抜く――かと思ったが、そうはせず、なんとそのままモニカに向かって投げた。
それじゃ意味がないだろ!
と思った矢先だ。カーラは閃光弾を銃で撃ち抜く。と同時に、激しい光が辺り一帯を埋め尽くす。なるほど、そういうことか。
その隙に俺とカーラは逃げる。
「よく、ここまで来れたわね」
モニカから逃れ、研究室と思しき場所に逃げ込んだときだ、カーラはそう言った。それに、俺はこう答える。
「執念って……やつだよ」
だが俺の傷口からは血が流れ続けている。このままじゃ出血多量で死ぬ。だからカーラは、着ている白衣を手で引き千切り、その布で俺に止血処置を施してくれた。
この研究室の中心部には、大量の配線に繋がれている直径2メートルほどのリングがあり、それが垂直に立てられている。シルバー塗装が施されたその神秘的なリングは、人間が作った物というより、宇宙人が残していった遺産のようだと、俺は思った。
「これは、お前が創ったのか? カーラ」
「今はここで働いているのよ。でも、それも今日までね。あなたに見つかったこともあるけど、ここでの目的も果たしたわけだし」
「どういうことだよ? カーラ」
するとカーラは俺に顔を迫らせ、言った。「カーラという女は、もういない。Central◒Houseが管理している私のプロフィールは全て上書きた。それも過去千年、18代に渡る系統データもダミーに差し替えた。だからショウ。かつてのカーラ=デ・アンジェリスは、もういないの。完全にね」
「過去を捨てたか」だが俺は、カーラの胸元で光っている物を見過ごさなかった。「じゃあ、何でまだそんなものを付けているんだ?」
カーラは胸元で光っているものを手で隠した。それはかつて、俺がカーラにプレゼントしたネックレスだ。あげた時は、「何これ? ダサい」と言っておきながら笑って喜んでいたくせに。そのときのカーラの屈託のない笑顔が、俺の脳裏に蘇る。
そして俺がカーラの言葉を待っていると――
ドンッ!という、ここのドアをこじ開けようとする音。
しくじった! ここに来る途中、俺の失った足の欠損口からは血が絶えず漏れ出ていた。それは床に血痕を残してしまい、それを辿ってきたモニカは、俺たちの居場所を見つけたんだ。
「急がなきゃ!」
カーラはそう言って、リングの傍にあるパネルを操作し始める。それと同時に、シルバーのリングが、青白く光る。
それからカーラはリングの中心部に椅子を持っていき、そこに俺を座らせた。
「どうせなら、右腕も治した方がいいでしょ?」
カーラは俺の右腕の義手を外す。すると直後、無くなっていたはずの俺の右腕と右脚が生えてきたかのように、ホログラムが投影される。おそらく全管理人口のプランクデータベースがあるアンダードームから、俺の欠損した肉体のプランクデータを呼び出しているのだろう。
プランクデータを呼び出すには、余剰次元コードと呼ばれるもので圧縮されたデータを解凍しなければならない。通常、物体のプランクデータを保存するには、その物体と同体積の空間が必要になる。なぜなら、宇宙の最小単位にまで還元されてしまった物体の情報は、その体積分存在し、それを記録するにも、それと同じ体積が必要になるからだ。それでは、メモリーだけで土地不足になってしまう。しかしプランク単位(10のマイナス105乗㎥)での空間の振動は、余剰次元の形状によって決まるとされている。しかも余剰次元はプランク単位よりも大きく、密度も小さい。だからプランクデータを余剰次元の形状パターンと配置パターンに置き換えることで、データ量を劇的に軽減できるというわけだ。
そうやってカーラは俺のプランクデータを余剰次元コードによって呼び出し、解凍し、それをホログラムで映し出す。そのホログラムの形状をもとに、重力派センサーが余剰次元をスキャン。さらに重力派の出力を上げた重力派レーザーが余剰次元の形状を変形させることで、プランク単位で空間を振動させ、エネルギーを発生させ、空間に物質を生成し、その生成された物質で俺の右腕と右脚を書き出していく。そのスピードは、結構早い。ここまで見て、ようやく俺は、このリングが最新の3Dプリンタであることを理解できた。
だが書き出しの途中で、ここのドアがこじ開けられた。現れたのは、当然、モニカだ。
モニカは俺の顔を見た瞬間、嬉々とした笑みを浮かべ、俺に向かってグレネードランチャーを構えた。そして撃つ。
イカれた奴に、交渉の余地はない。
俺は椅子から転げ落ちるようにそこから逃げる。驚いたことに、ボトムアシストが無くても、再生された右脚は動いた。右腕も元通りだ。しかし感動している暇はない。
グレネード弾を食らった3Dプリンタは爆音と共に大破する。
俺はすぐさま立ち上がり、カーラを庇うようにモニカの前に立つ。だが、それだけだった。ここの出口は一つだけ。それを塞ぐように、モニカが立っている。このままでは、俺はカーラを助けられない――
「ジ・エンドだ! ショウ! カーラ!」
モニカのグレネードランチャーが再び火を噴く。また同じことの繰り返しか?
しかしだ。そのグレネード弾が俺にブチ当たることはなかった。グレネード弾は、信じられないことに、俺の目の前で静止していた。そしてどういうわけか、静止したグレネード弾は、空間の中に溶解していくように、徐々に消えていった。直後、
「ジャーン!」
そんなチープな参上音を自分で言いながら、消えたグレネード弾の場所から、突然、何とハヤトが現れた。何もない空間から、突然ワープしてきたかのように。
そしてすかさず、ハヤトはスタン銃を取り出し、それをモニカに向かって撃った。
スタン弾はモニカに命中。全身に青白いスパークが走り、全身が痙攣。
その後、全ての骨が溶けてしまったかのように、モニカはフニャリと倒れ込む。そのまま気絶する。
――静寂……
「お……おい、ハヤト」
「何?」
「今のは、何だ?」
「未来からの贈り物だよ」
そう言って、ハヤトは何やらマントのようなものを俺に見せつける。どうやら、光学迷彩の上に、触れた物体の情報をプランク単位で破壊するアンチプランクシールドが施されたものだろう。だからこれを被っていたハヤトは俺たちに見えなかったし、それに触れたグレネード弾は空中で溶解した。ちなみに、未来からの贈り物と言っているが、未来からの盗品の間違いだ。リードアヘッドで盗んだPMCの開発データを、どうせさっきまでここにあった3Dプリンタで予め出力していたのだろう。
「……くっ……」
スタン弾を食らったモニカが、目を覚ます。そしてイディオットが入った注射器を3本取り出し、それを自分の首に打ち込もうとする。高揚感のあるイディオットの副作用で、麻痺した体を何とか立て直そうと考えているらしい。
しかしカーラはそんなモニカの方へ歩み寄り、イディオットの注射器を取り上げた。そんなカーラを、モニカはまるで哀れな捨て犬のような目つきで、
「私を……見捨てないで……」
と、掠れる声で呟いた。それに対し、カーラは無言だった。無言であることが、返事だったのかもしれない。
「止(とど)めを刺さなくていいのか? どうせまた俺たちを襲いに来る」
「そうね」俺の言葉に、カーラが答える。「でもいいの。彼女は少し、愛し方を間違えているだけだから」
「少しじゃなくて、大きく間違えていると思うぜ」
「じゃあ、あなたが止めを刺せばいい」
「止めとく。祟られそうだからな」
そして俺は深呼吸をした後、カーラにこう告げた。
「力を、貸してほしい」
しかしカーラは首を静かに横に振るだけだった。
「なぜだ?」
「あなたは、未来に憑りつかれ過ぎているのよ」
「違う! 人には運命を変える力がある! 俺はそれを信じているだけだ!」
「下らない」カーラは吐き捨てる。「未来は既に、全て決まっているのよ」
「じゃあ、なんでお前はバンディットに――」
そのとき、異変が起きた。なんと突然、この研究室の中心に黒い球体が出現したのだ。
直径1.5メートルほどの黒い球体が、床から50センチくらいの所で浮遊している。しかもそれは、今は横たわっている3Dプリンタのリングの上で形成されている。リングには強固な防弾塗装が施されていたのだろうか? 破壊されたと思っていた3Dプリンタは、まだ生きていた。
もしかして、こうなることをリードアヘッドで予測していたカーラは、事前に3Dプリンタに防弾対策をしていたのかもしれない。
そしてその黒い球体に向かって、カーラは歩き始めた。
「あなたがどこに行こうと、僕はあなたの行先を知っているよ」ハヤトはカーラに向かって、そう言った。「そして、あなたの未来も、リディアの未来もね」
するとカーラは足を止めた。動揺を隠しきれず、眉間が痙攣している。そしてしばらくハヤトを無言で睨んでいたが、また歩き出した。
「また会おう」
ハヤトはそう言ってカーラに手を振った。だがカーラは無視し、黒い球体に体を沈ませた。俺は恐怖で脚が震えていたが、頬を両手でパチパチと叩く。そして覚悟を決め、黒い球体に向かって走り出す。
しかしカーラの体が黒い球体に沈みきった直後、黒い球体は消えた。それも一瞬で縮小し、見えなくなった。そんな何も無くなってしまった空間に、俺は飛び込んでしまう。
言うまでもないことだが、俺は横たわる3Dプリンタの上に倒れ込むだけだ。
「畜生!」俺は悔しさを抑えきれず、シルバーのリングを思いっきり叩く。「何なんだよ! アレは!」
「ただのワームホールだよ」ハヤトは言う。
なんだ、ただのワームホールか……って、ワームホールを3Dプリンタで出力したってのか?! 何て奴だ! ブッ飛び過ぎてるだろ! つくづく、カーラの凄さには驚かされる。
「でも大丈夫。ワームホールの出口は、もうわかっているからね。どうする? そこに行くかい?」
俺はしばらく考えたが「止めとく」と答えた。
「フラれた女のケツを追いかけるのが、目的じゃない。目的はあくまで、ワイルドカードの奪取だ」
「そうだね。でもどの道、結果は同じところに帰結するよ」
ハヤトはそんな意味のわからないことを言いながら、俺に向かってスワイプの仕草をした。そしてイアークを経由して視界に現れたのは、地図だった。地図には赤いポイントマークが点滅している。これが何であるのか、大体の想像はついていたが、俺は念のため、ハヤトに聞くことにした。
「何だよ? これは?」
「決まってるじゃないか。猫の居場所だよ」
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